学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

2024年の自分のための備忘録(その1)

2023-12-14 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
年内は承久の乱の検討を続けて、来年に入ったら権門体制論批判を再開しようと思っていたのですが、九日に小川剛生氏の発表を聞いて、当面の運営方針について若干迷いました。
結局、やはり承久の乱に一応の決着をつけてから鎌倉後期の歌壇史・政治史に戻ることにしましたが、来年の自分のための備忘録として少し書いておきます。
私は去年の四月、小川氏の「「謡曲「六浦」の源流 称名寺と冷泉為相・阿仏尼」(『金沢文庫研究』347号、2021)を読んで、小川氏が検討された金沢貞顕の書状(僅か三歳の恒明親王から金沢北条氏にとって特別なゆかりのある古今集の写本を贈られたことに関する仲介者への礼状)が亀山院と西園寺公衡の関係を解明する手掛かりになるのではないかと思って、恒明親王の周辺をしつこく探ってみました。

小川剛生氏「謡曲「六浦」の源流─称名寺と冷泉為相・阿仏尼」(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c114810da4f82a93cdff488a3efd2c68

私が解明したいと思っていた課題は、

(1)最晩年の亀山院は何故に恒明親王を皇嗣とすることに固執したのか。
(2)亀山院と敵対していたはずの西園寺公衡は、何故に恒明親王の庇護者となったのか。

の二点です。
西園寺公衡は正応三年(1290)の浅原事件では亀山院が黒幕だと糾弾しながら、嘉元三年(1305)に亀山院が亡くなると、恒明親王の庇護者となって後宇多院と対立します。
この十五年間の落差があまりに大きいので、私としては京極為兼の第一次配流を画策した「傍輩」が公衡ではないか、為兼を嫌った公衡の思惑と、皇位奪還を図る大覚寺統の亀山院の思惑が一致して二人が急速に接近し、嘉元元年(1303)、公衡の妹の昭訓門院が生んだ恒明親王を亀山院が偏愛するに至って、二人の利害が完全に一致したのではないか、などと想像してみました。
京極為兼の二度の配流に関しては小川氏の「京極為兼と公家政権」(『文学』4巻6号、2003)が最重要論考ですが、第一次配流に関しては、小川氏は今谷明氏の南都争乱原因説を否定されたもの、「傍輩」についての独自の見解は示されていません。

三浦周行「両統問題の一波瀾」(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1a9074b3be221a0943c1efa6149f83e9
佐伯智広氏『皇位継承の中世史』(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/83c9b9ab66defa845354140b178df280
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e3847f6428a58345c43d9e1b885719f5

佐伯智広氏は旧来の通説に従って、為兼の第一次配流についても西園寺実兼との対立(「傍輩」=実兼)を想定されていますが、これは井上宗雄氏によって否定されて久しい古い説です。
私は「傍輩」=西園寺公衡の可能性を探ってみて、途中までは何とか行けそうではないか、などと楽観視していました。

「傍輩」=西園寺公衡の可能性(その1)~(その6)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6bf56b0ef3292197797c49a5a6efc042
【中略】
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3acbe0aa724a9c51020020d2f56c87e6

そして、幕府も一枚岩ではなかろうとの見通しから、鎌倉で為兼の味方になりそうな人物を探ってみました。
為兼の鎌倉人脈で、特に重要なのは宇都宮景綱と長井宗秀です。
『伏見院記』によれば、永仁元年(1293)八月二十七日、為兼は前夜に不思議な夢を見たことを伏見天皇に伝えています。
父為教の従兄弟にあたる有力御家人宇都宮景綱が夢中に現われ、天皇の意思に従わぬ者は皆追討しよう、と告げたという夢なのですが、本郷和人氏『中世朝廷訴訟の研究』(東京大学出版会、1995)でこの夢の話を知ったときは、私は本郷氏の推測に納得していました。
「伏見天皇と為兼は、後に後醍醐天皇のもとで急速に肥大する幕府への反感を共有していたのではないか。直接には西園寺実兼の讒言があったのだろうが、その感情のなにほどかを幕府に知られたがゆえに、為兼は流罪に処せられたのではないか」というのが本郷説で、本郷氏は為兼の第一回流罪も西園寺実兼の讒言によるとの立場です。
この点、井上宗雄氏は、『伏見院記』永仁元年八月二十七日条において伏見天皇が最も重視しているのは永仁勅撰の議であり、この夢も永仁勅撰の議に関連したものだろう、とされましたが、私も現在は井上説に賛成で、「叡慮に従わぬ不忠の輩をみな追罰」といっても、別に討幕とかではなく、伏見天皇の撰集方針に従わず、妨害するものは景綱が許さないぞ、程度の話ではないかと考えています。

京極為兼が見た不思議な夢(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c4400085d2a58cf03402f6462dfc85cd
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f5f166069c3293a62feb4fa6891d4d09

また、宇都宮景綱は嘉禎元年(1235)生まれですから、建長六年(1254)生まれの為兼より十九歳も年上です。
そして、景綱は宗尊親王に近侍し、鎌倉歌壇の最盛期を経験していた人なので、為兼と出会う前に既に自分の歌風を確立しており、京極派の影響は特に見られません。
これに対し、長井宗秀は文永二年(1265)生まれで、為兼より十一歳下であり、歌風も為兼の影響を極めて強く受けており、鎌倉での京極派の代表的存在です。

京極為兼と長井宗秀・貞秀父子の関係(その1)~(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f7189df37b63ed5d3821a7689d7bf839
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/886594037a40d49eab659a2a02cd9998
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5697e3ed6a90b97f784f8323bb11fdb3

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順教房寂恵(安倍範元)について(その3)

2023-12-13 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
『吾妻鏡』弘長三年(1263)二月十日条、本当に面白いですね。
赤澤春彦氏のオーソドックスな現代語訳も紹介しておくと、

-------
十日、庚申。朝、雨が降った。千首の合点が行われた後、(北条政村の)常盤の御邸宅でまた披講された。今夜は合点の数で席次が定められた。第一座は弁入道(真観、藤原光俊)、第二は(安倍)範元、第三は亭主(北条政村)、第四は証悟であった。政村は範元の下座になるため、向かい合って着座すると言われたところ、大丞禅門(真観、藤原光俊)が言った。「合点の数によってその座次とすることは、以前に決めていたことです。そうしたところに一列の座としないのは、たいそう残念なことではないでしょうか」。その言葉が終わらないうちに、政村は座を立って、範元の下座に着かれようとした。この時に範元もまた座を立って去ろうとしたところ、(政村は)すぐに人に命じて範元を引き留められた。また合点の数に従って懸物を分けた。真観の分は虎の皮の上に置かれ、範元は熊の皮に、亭主は色皮に(置かれ)、以下これに準じた。合点が無かった者は、その座を縁に設けた。膳が出されたが、箸を付けなかったため、箸なしで食べた。満座で笑わない者はいなかった。範元は、去る正月、上洛のために暇を申していたが、この御会のために内々に引き留められていた。懸物のうち、旅行の用具はすべて(範元が)拝領した。
-------

といった具合ですが(『現代語訳吾妻鏡16 将軍追放』、p18)、ここは『吾妻鏡』には珍しい秀逸なコメディなので、もう少しくだけた感じの方が良いのではないかと思います。
ところで、北条政村は元久二年(1205)生まれで、父は北条義時、母は伊賀の方です。
貞応三年(1224)、義時が急死すると「伊賀氏の変」が起きて、政村も人生最大のピンチを迎えますが、何とか乗り切り、評定衆・引付頭人を経て、建長八年(1256)に五十二歳で連署となります。

北条政村(1205-73)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%94%BF%E6%9D%91

弘長三年(1263)二月の時点で、北条政村は連署となって七年目、五十九歳であり、翌文永元年(1264)には執権となりますから、本当に幕府の最上層、重鎮中の重鎮ですね。
それだけに政村が安倍範元の下座に着いたというのは大変なことであり、政村の洒脱な人柄を窺わせます。
また、範元は当時二十代半ばくらいのようですが、和歌が得意である上、たった一人で披講を担当したとのことなので、非常に社交性に富み、頭の回転が速く、弁舌爽やかで、運動神経も良さそうです。
現代であれば、羽鳥慎一や安住紳一郎、あるいは往年の久米宏といった優れたニュースキャスターにもなれそうなタイプのようです。
ただ、このエピソードは、範元個人にとっては人生最良の思い出の一つでしょうが、あくまで政村の私的な会合であって政治的重要性は全然ありません。
となると、『吾妻鏡』編者は何故にこんなエピソードを採用したのか。
また、情報源は誰なのか。
『吾妻鏡』が編纂されたのは1300年前後と言われており、編纂者の中には金沢貞顕に近い人もいたようですから、嘉元三年(1305)の時点で貞顕と親しく交わっている安倍範元(寂恵)が、自分の人生最良の思い出を『吾妻鏡』に入れるように画策した可能性もありそうですね。
さて、寂恵についての検討は小川氏の論文が発表されるのを待って行いたいと思いますが、とりあえず準備作業として井上宗雄氏の見解を紹介しておきます。(『中世歌壇史の研究 南北朝期 改訂新版』、明治書院、1987、p88以下)

-------
 次に順教房寂恵であるが、寂恵は俗名安倍範元、陰陽師として弘長・文永の頃、幕府に仕え、歌壇においても甚だ活躍していた。真観の弟子であったらしい。久保田淳氏の「順教房寂恵について」に詳しいが、次いで文永の中頃出家し、寂恵と称し、八年為顕(明覚)に伴われて為家を訪れ、その門に入った。弘安元年続拾遺撰集の時、寂恵上洛して三月末草稿本を見、十か条程の意見を開陳した処、骨子となる集の形態についての事などは採用されず、その他六、七か条は採られたが、多分謙遜してであろうが、自詠と宗尊との贈答歌の入集辞退は認められて、彼は入集しなかった。寂恵が為氏に対して大きな憤懣をもったのはいうまでもない。
 寂恵が為家の晩年に入門したとはいえ、当初は御子左家の仇敵真観の門人であり、しかも為家への入門は、為氏と必ずしも親しくなかった為顕の手引きによるものである。為氏としては初めから寂恵にあまり好感はもっていなかったのではなかろうか。
 弘安二~五年の間、阿仏尼は鎌倉にいたが、その間、寂恵と対面し、自己の蔵する和歌文書の中に定家の未来記五十首があるといってそれを披見せしめたらしい。某が正応二年六月に未来記の奥書として記しているのである。これは冷泉為臣『藤原定家全歌集』に初めて紹介されたもので、後花園院筆花山院家蔵のものを明和五年に冷泉為村が透写せしめたものである。これによって未来記は定家の真作なる事を故冷泉氏は立証しようとしたのである。所が石田吉貞氏は『藤原定家の研究』で、詳細な論を展開し、むしろ未来記は続拾遺に対して激しい憤懣を抱いていた阿仏そのものの偽作ではないか、という説を提出した。既に久保田氏によって明らかにされたように、寂恵が為氏に対して深い憤りを抱いていたのであるが、阿仏尼が未来記を寂恵に見せたのも故なしとしない。而して寂恵もそれを人に書き送ったりしているのである(なお寂恵に門弟のいた事は寂恵本古今の末に、英倫に古今を授けた、とあるのによって知られる)。
 更に寂恵が永仁元年前述の如く為相と関係あるらしい詞花集を写した事は注意されるが、また山岸徳平氏蔵寂恵本拾遺集<書写年次不明>には冷泉家相伝の定家筆本によって異同を示した所があって、寂恵は冷泉家より説を受けたらしいのである(北野克氏『北野本拾遺和歌集解説』)。かくして寂恵はかなり冷泉家と親しかったのである。
-------
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順教房寂恵(安倍範元)について(その2)

2023-12-11 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
出家前の寂恵は『吾妻鏡』弘長三年(1263)二月、北条政村邸で催された和歌会の場面に登場しますが、これはなかなか面白い記事ですね。
小川氏は北条本より吉川史料館本の方が良いとされ、レジュメに両者の異同も記されています。
ただ、北条本でも大幅に文意が損なわれることはなさそうなので、いつものように「歴散加藤塾」サイトの「吾妻鏡入門」を利用させてもらうと、まず、八日条に、

-------
【前略】今日於相州常盤御亭有和歌会。一日千首探題。被置懸物。亭主〔八十首〕。右大弁入道真観〔百八首〕。前皇后宮大進俊嗣〔光俊朝臣息。五十首〕。掃部助範元〔百首〕。証悟法師。良心法師以下作者十七人。辰刻始之。秉燭以前終篇。則披講。範元一人勤其役。


とあります。
『現代語訳吾妻鏡16 将軍追放』(吉川弘文館、2015)の赤澤春彦氏の訳では、

-------
今日、相州(北条政村)の常盤の御邸宅で和歌会が行なわれた。一日千首の探題で、懸物が用意された。亭主(政村)〔八十首〕・右大弁入道真観(藤原光俊)〔百八首〕・前皇后宮大進(藤原)俊嗣〔光俊朝臣の子息。五十首〕・掃部助(安倍)範元〔百首〕・証悟法師・良心法師以下、作者は十七人。辰の刻に始まり、火灯し頃より前に終わった。そこで披講があり、範元一人がその役を勤めた。
-------

とのことです。
北条政村邸で探題(続歌)の和歌会が行なわれて、十七人の作者で、例えば一回百首の続歌を十回繰り返すなどして、合計千首もの歌を一日で詠んだ訳ですね。
歌数の多い方から並べ直すと、

 右大弁入道真観(藤原光俊)〔108首〕
 掃部助(安倍)範元〔100首〕
 亭主(政村)〔80首〕
 前皇后宮大進(藤原)俊嗣〔光俊朝臣の子息。50首〕

ということで、一番多いのは反御子左派の歌僧・真観(藤原光親子息、1203-76)で、安倍範元は二番目です。
上位四人の歌数を合計すると338首で、残りの662首を十三人で詠んだとなると、

 662÷13≒50.9

ですから、残りの人も平均で五十首くらい詠んでいて、真観の子息・藤原俊嗣は四番目に挙がっているものの、特に歌が多い訳ではないですね。
披講とは和歌を(節をつけて)詠み上ることであり、範元一人が担当したのだそうです。
さて、翌九日条には、

-------
昨日千首和歌為合点。被送大掾禅門云云。
-------

とあり、千首の歌を、歌会の指導者である「大掾禅門」(真観)の許へ「合点」のために送ります。
そして、十日条に、

-------
被千首合点之後。於常盤御亭更被披講。今夜以合点数員数被定座次第。一座弁入道。第二範元。第三亭主。第四証悟也。亭主以範元下座之儀。可着対座之由。被称之処。大掾禅門云。以合点員数。可守其座次之由。治定先訖。而非一行座者。頗可為無念歟云云。其詞未終。亭主起座。欲被着于範元之座下。于時範元又起座逐電之処。即令人抑留之給。又任点数分懸物。大掾禅門分被置虎皮上。範元熊皮。亭主色革。以下准之。無点之輩儲其座於縁。雖羞膳。撤箸之間。無箸而食之。満座莫不解頤。掃部助範元者。去正月為上洛雖申暇。依此御会。内々被留之。懸物之中。於旅具者悉以拝領之。
-------

とあります。
この部分、赤澤春彦氏の現代語訳も悪くはないのですが、いささか生真面目過ぎて、陽気な莫迦騒ぎの雰囲気が感じられないので、赤澤訳を参照しつつ、私訳を試みると、

----
千首の合点が行なわれた後、(北条政村の)常盤の御邸宅でまた披講となった。今夜は合点の数で席次が定められた。第一座は弁入道(真観、藤原光俊)、第二は(安倍)範元、第三は亭主(北条政村)、第四は証悟であった。亭主は範元の下座になるのはさすがにまずいと思われ、対座にしようと言われたが、真観は、「合点の数によって座次とすると決めたばかりではございませんか。それなのに一列の座としないのは何とも残念なことでございますなあ」と言った。その言葉を聞くやいなや、亭主は座を立って範元の下座に着かれようとしたが、範元も慌てて立ち上がって、あまりに恐れ多いと逃げ出してしまった。そこで亭主は、範元をつかまえろ、と周囲の者に命じて、範元を元の席に連れ戻した。また、合点の数に従って懸物を分けた。真観の分は虎の皮の上に置かれ、範元のは熊の皮に、亭主のは色皮に置かれ、以下、これにならった。合点が無かった者は、その座が縁に設けられた。膳は出されたものの、罰として箸が付けられなかったので、箸なしで食べることになってしまった。満座の人々は顎が外れるほど大笑いした。範元は、去る正月、上洛のために暇を申していたが、この御会のために内々に引き留められていた。懸物のうち、旅行用具はすべて範元が拝領した。
-------

となります。
政村邸で行われた和歌会は、決して堅苦しいものではなく、むしろ通常の身分秩序を逆転させることすら許される遊興の場であったことが分かります。
そして、範元は代々の陰陽師として幕府に仕えていただけでなく、政村の被官のような存在でもあったようです。
なお、続歌については、ネットでは別府節子氏の「続歌と短冊」(『出光美術館研究紀要』18号、2013)という論文が参考になりますね。

https://idemitsu-museum.or.jp/research/pdf/07.idemitsu-No18_2013.pdf
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順教房寂恵(安倍範元)について(その1)

2023-12-10 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
昨日は早稲田大学戸山キャンパスで行われた歴史学研究会日本中世史部会の12月例会に行ってきました。

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【日 時】2023年12月9日(土)15時~18時(予定)
【会 場】早稲田大学戸山キャンパス33号館132教室
【報告者】小川剛生氏
【題 目】勅撰和歌集と武家政権—撰歌への干渉をめぐって
☆参考文献
井上宗雄『中世歌壇史の研究 南北朝期』(明治書院、1965年〔改訂新版1987年〕)
久保田淳「順教房寂恵」(『中世和歌史の研究』明治書院、1993年、初出1958年)
福田秀一「中世勅撰和歌集の成立過程—主として十三代集について」(『中世和歌史の研究 続篇』岩波出版サービスセンター、2007年、初出1967年)

http://rekiken.jp/seminar/japan_medieval/

私も研究会の類にはすっかり縁のない生活を続けていて、歴史学研究会の例会も、遥か昔、秋山哲雄氏(国士舘大学教授)や清水亮氏(埼玉大学准教授)等が中心となって運営されていた頃に何度か行って以来ですから、数えてみると二十年振りくらいで、殆ど浦島太郎の心境でした。
そんな私が珍しく例会に参加しようと思い立ったのは、小川剛生氏の「謡曲「六浦」の源流 称名寺と冷泉為相・阿仏尼」(『金沢文庫研究』347号、2021)を読んで順教房寂恵という人物に興味を抱いたからです。
寂恵は『和歌文学大辞典』(小林大輔氏執筆)によれば、

-------
俗名は安倍範元。順教房と号す。生年未詳。正和三1314年以後没(寂恵法師歌語)。従四位下陰陽允資宣の男(系図纂要)。従五位上掃部助。父祖以来鎌倉幕府に陰陽師として出仕。文永二1265年から同八年の間に出家し、松陰の別所に住む。宗尊親王の和歌近習の一人として関東歌壇で活躍し、晩年の為家とも交渉を持った。『続拾遺集』撰進に際して為氏に助力するも不入集となり、それに対する不満を述べた奏状風の歌論書『寂恵法師文』を著す。『新後撰集』以下の勅撰集に九首入集。『人家和歌集』『拾遺風体和歌集』『柳風和歌抄』にも入る。歌論書『寂恵法師歌語』があり、私撰集『滝山集』を撰したという(散佚)。『古今集』『拾遺集』の寂恵書写本が現存する。
-------

という人物ですが、この人の名前が、小川氏が前掲論文において検討された金沢貞顕の、

-------
 いま宮殿よりの古今
 たまはり候ぬ、民部卿入道の
 後家手にて故殿
 御時さたなと候ける
 御ほんにて候なれは、」
 [   ]□ろ□ひ入候、
 順教か申候し者
 [   ]これにて
 さふらひける、いま宮殿への
 御ふみもまいらせ候、
 おほしめしよりて候
 御こゝろさし猶々
 申つくしかたくよろこひ<○以下欠>
-------

という書状に出てきます。
私は、この書状が亀山院と西園寺公衡の関係を解明する手掛かりになるのではないかと思って、去年、あれこれ考えてみたのですが、結局、当初の目論見が外れてしまって、何となく尻切れトンボで終わってしまいました。

小川剛生氏「謡曲「六浦」の源流─称名寺と冷泉為相・阿仏尼」(その1)~(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c114810da4f82a93cdff488a3efd2c68
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9b529b1034f9df20d6339295cb6f4f83
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0ad54e8c0bebb8b858876e5d68615b37
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1f7efa41e35a18cbef1bb5a4ab3a3f5e
三浦周行「鎌倉時代の朝幕関係 第三章 両統問題」(その1)~(その8)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6e235763b3aded0df6b114f6ce205a2a
【中略】
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b7d42f4671ac8180f4c986faac56b1d1

私は「いま宮殿」が恒明親王だという小川氏の見解に従って、それを前提にあれこれ考えていたので、今回の発表の中で小川氏が、「いま宮殿」を恒明親王に比定して良いか「一抹の不安」がある、と言われたのを聞いてドキッとしました。
そこで、質疑応答の中でどのような意味かをお聞きしてみたのですが、それは寂恵とは関係なく、恒明親王が僅か三歳という、一番基本的な部分への「一抹の不安」とのことでした。
ただ、そうかといって「いま宮殿」に該当するような人物は恒明親王以外になかなか思い浮かびませんし、恒明親王であれば、実際には西園寺公衡が全てを取り仕切っている訳で、特に問題はないように感じました。
発表内容の詳細については、間もなく小川氏がきちんと論文にまとめられるでしょうから、私が断片的に紹介するのは控えますが、いろんな面で勉強になりました。
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坂口太郎氏「両統の融和と遊義門院」(その2)

2022-07-05 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 7月 5日(火)12時17分12秒

続きです。(p208以下)

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 乾元元年(一三〇二)十二月二十三日、遊義門院は、その御所伏見殿において、寿命経と薬師如来を供養し、後深草院六十歳の賀を行った。『吉続記』によれば、この盛挙には亀山・後宇多・伏見らの諸院が参列しており、両統の絆を深める催しとなった。多くの院が居並ぶなかで、遊義門院は銀の杖とともに、長寿を祈る和歌を老父の後深草に贈ったという。

   (後深草)
    法皇六十にみたせ給うけるに、寿命経供養せられけるついでに、しろがねの杖
    たてまつらるとて                       遊義門院
  つく杖にむそぢこえ行くことしより 千とせのさかの末ぞひさしき
                  (『新後撰和歌集』巻第二十 賀・一五九八)

 両統の媒介者として機敏に立ち回る遊義門院の姿には、卓越した政治的センスを感じとれる。彼女はたんなる深窓の佳人ではなく、両統の確執を沈静させようとした女性政治家と評してよいかもしれない。
 ともあれ、乾元年間は、熾烈な権力闘争を繰り広げた鎌倉後期の両統にとって、前後に比類ない融和の時代であった。しかし、それもまた束の間に過ぎず、やがて後深草や亀山ら旧世代の退場とともに、宮廷の空気は再び微妙な変化を遂げることになる。
-------

「乾元年間は、熾烈な権力闘争を繰り広げた鎌倉後期の両統にとって、前後に比類ない融和の時代であった」とありますが、他に融和の時代というと「北山准后九十賀」が行なわれた弘安八年(1285)も連想されます。
そして、この盛儀を描いた『増鏡』には、後宇多天皇(十九歳)と姈子内親王(十六歳)も、

-------
 姫宮、紅の匂ひ十・紅梅の御小袿・もえ黄の御ひとへ・赤色の御唐衣・すずしの御袴奉れる、常よりもことにうつくしうぞ見え給ふ。おはしますらんとおもほす間のとほりに、内の上、常に御目じりただならず、御心づかひして御目とどめ給ふ。

http://web.archive.org/web/20150918073835/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu10-kitayamajugo90noga-1.htm

という具合いに、妙に思わせぶりな感じで登場しますね。
さて、歴史研究者で遊義門院に注目している人は僅少です。
比較的新しい研究としては、伴瀬明美氏の「第三章 中世前期─天皇家の光と影」(服藤早苗編『歴史のなかの皇女たち』所収、小学館、2002)や三好千春氏の「遊義門院姈子内親王の立后意義とその社会的役割」(『日本史研究』541号、2007)という論文があって、当掲示板でも三年前に、これらの論文に即して遊義門院についてあれこれ考えてみたことがありました。

遊義門院再考
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/89f6135364af467d393614e15fd75662
「『盗み出した』ということの真偽も含めて、実際のところ事の真相は不明なのである」(by 伴瀬明美氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1fadd72cad3a95e02f94b4c3226bc95c
「女房姿に身をやつし、わずかな供人のみを連れて詣でた社前で、彼女は何を祈ったのだろう」(by 伴瀬明美氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/23a4bec8713917f5e8f008bee409f16c

「その経歴が、江戸時代末期まで続く長い女院史上の中でも特に異彩を放つもの」(by 三好千春氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f687268c4cbbc96c57a94008f4c1d71f
「亀山の在位中でありながら今出河院宣下を受けて中宮位を降ろされて」(by 三好千春氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/93daf494bf6aefbfc21bacf582ca56ef
「その誕生時からの注目は、異母兄・煕仁(のちの伏見)とは歴然の差があり」(by 三好千春氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3a689d091ebc4c8620526543ca8d3142
「姈子立后の最大の疑問は、なぜ彼女の立后が後宇多朝において挙行されたのか、という点である」(by 三好千春氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6f52826bc2846a089a72afe9ac6c574f
「姈子立后はその前哨戦として位置付けられるのではないだろうか」(by 三好千春氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6193485b684c896e0968dc010084f6f2
「東宮・煕仁とともに時期政権の代表として現政権に打ち込まれたいわば楔であり」(by 三好千春氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/812e359f74fe6d0fb4a995f48a7c9c46
「もう一つ大きな特徴は、後宇多朝から伏見朝になってもなお皇后であり続けたこと」(by 三好千春氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/10ec4258f9ab1736fc5e58b516e1ad3d
「不婚内親王皇后は、もともと院と天皇の二元王権を補完する性格を有し」(by 三好千春氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ff81568ac98d9709ee6dad8107376ed1
「北山准后九十賀」と姈子内親王立后の連続性
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/fcca058f73b52dbddad396df7fd28f3e
「正妻格として出現したのが遊義門院姈子内親王」(by 三好千春氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e0b691ccc5fa57eff6c585a2b8b1ce41
「この婚姻についても、残念ながらその事情を語る同時代の史料は皆無である」(by 三好千春氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cf90a016e1ab969087a1594059f32ae6
「光武帝が微賤の時、南陽の美女である陰麗華を娶らんことを期し……」(by 三好千春氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e4019876559ddfd716a81b3f4e7d26e9
新しい仮説:後宇多院はロミオだったが遊義門院はジュリエットではなかった。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7510e924ed2c4eaf216c6d9643ebffef
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坂口太郎氏「両統の融和と遊義門院」(その1)

2022-07-04 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 7月 4日(月)13時05分41秒

「禅空失脚事件」に関する坂口太郎氏の認識は森幸夫説を踏襲したもので、私も森説に対する若干の疑問を繰り返しただけですが、ちょっとしつこかったですかね。
なお、私も後深草院と伏見天皇の間に父子対立がなかったと考えている訳ではなく、「禅空失脚事件」は父子対立の材料としては使えない、という立場です。
さて、『公武政権の競合と協調』で私にとって画期的と思われたのは遊義門院への言及があったことで、一般向けの通史としてはおそらく初めてではなかろうかと思います。(p207以下)

-------
両統の融和と遊義門院
 先に述べたように、正安二年(一三〇〇)から翌三年にかけて、両統は熾烈な抗争を繰り広げた。ところが、第一次後宇多院政期となると、両統の親密度は逆に深まりをみせる。その早い例は、正安三年十月二十日に、亀山院と伏見院・後伏見院らが西園寺家の北山邸に御幸し、亀山と伏見が対面したことであろう(『実躬卿記』)。両統迭立の趨勢が定まったことで、厳しい対立は緩和へと転じたのである。
 翌正安四年(乾元元年、一三〇二)二月十七日、亀山殿において、亡き後嵯峨院を供養する法華八講が勤修された。この八講には、持明院統の後深草・伏見・後伏見、そして大覚寺統の亀山・後宇多、あわせて五人の院が臨席した。廷臣の三条実躬は、日記に「希代の事か」と評している。総じて、同年は、五人の院が仏事や遊宴で勢揃いする機会が多く、鎌倉後期では稀にみる一年となった(三浦周行 一九〇七)。
 これ以後も、両統の院はいっそう親睦を深め、他統の院御所を訪問することが少なくなかった。興味深いのは、彼らの交流が、芸能を介して行われた点である。とりわけ、若い後伏見院は、蹴鞠について亀山院に弟子入りし、作法の指南を仰ぐほか、歌謡の朗詠についても、亀山に師事した(以上、青柳隆志 一九九三、小川剛生 二〇〇二a)。後伏見が亀山に抱いた親近感は、きわめて強かったようである(『実躬卿記』嘉元三年(一三〇五)七月二十日条)。
 この蜜月ムードが生まれた背景には、治天の君であった大覚寺統の後宇多院が、永仁二年(一二九四)六月に持明院統の遊義門院姈子内親王(後深草院の皇女)と婚姻を結んだことが関係していた。
-------

いったん、ここで切ります。
坂口氏はあっさり「婚姻を結んだ」と書かれていますが、永仁二年(1294)六月に実際に起きた出来事は普通の「婚姻を結んだ」事例とは相当に異なり、なかなかドラマチックですね。
そもそも姈子内親王(1270-1307)は弘安八年(1285)八月十九日、十六歳の時に後宇多天皇(1267-1324)の「皇后宮」となっています。
ごく普通に考えれば、これで二人は「婚姻を結んだ」といえそうですが、しかし、「皇后宮」となった後も姈子内親王は父・後深草院の許で暮らし、正応四年(1291)八月四日、院号宣下により遊義門院となった後も同じ状況が続きます。
そして「皇后宮」となってから九年の月日が流れた後、永仁二年(1294)六月末に遊義門院は後深草院御所から忽然と姿を消し、行方不明になってしまいます。
この点、『増鏡』巻十一「さしぐし」には、永仁六年(1298)の後伏見天皇践祚の記事の後に、

-------
皇后宮もこの頃は遊義門院と申す。法皇の御傍らにおはしましつるを、中院、いかなるたよりにか、ほのかに見奉らせ給ひて、いと忍びがたく思されければ、とかくたばかりて、ぬすみ奉らせ給ひて、冷泉万里小路殿におはします。またなく思ひ聞えさせ給へること限りなし。

http://web.archive.org/web/20150918073142/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu11-fushimitenno-joui.htm

とあります。(井上宗雄氏『増鏡(中)全訳注』、p403)
また、『続史愚抄』の永仁二年(1294)六月二十八日条を見ると、

-------
〇廿八日丁未。今夜、遊義門院<法皇<本院>皇女。御同座。御年廿五。>不知幸所。是新院竊被奉渡于御所<冷泉万里小路。>云。<或作五条院。謬矣。又作三十日。今月小也。無三十日。>後為妃。<〇増鏡、歴代最要、女院伝、続女院伝>
-------

とあり、後宇多院による遊義門院の略取誘拐事件は後宇多院が二十八歳、遊義門院が二十五歳のときに発生したのだそうです。
しかし、不思議なことに略取誘拐の被害者である遊義門院は加害者の後宇多院と一緒に仲良く暮らし始め、二人の婚姻生活は遊義門院が亡くなる徳治二年(1307)まで続きます。
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坂口太郎氏「禅空失脚事件」への若干の疑問(その2)

2022-07-03 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 7月 3日(日)18時06分3秒

前回投稿で、「「平雅行 二〇〇四」は「青蓮院の門跡相論と鎌倉幕府」(河音能平・福田榮次郎編『延暦寺と中世社会』、法蔵館)とのことで、私は未読ですが」などと言ってしまいましたが、私は今から十五年前、2007年7月の投稿で、

-------
非常に唐突で恐縮ですが、森幸夫氏が「平頼綱と公家政権」で検討された禅空について何か新しい知見を加えた論文をご存じの方は教えて下さい。
なお、平雅行氏の「青蓮院の門跡相論と鎌倉幕府」は既に読んでいます。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/bedc83f807702387c5a6940e4b56844a

と書いていました。
うーむ。
記憶力の著しい低下に我ながらちょっとまずいなと思わざるを得ない状況ですが、平雅行氏の論文が何か新しい史料に基づくものではないことは一応確認できたともいえますね。(ポジティブ・シンキング)
ということで、やはり「善空に関わる記事は、ひとり『実躬卿記』のみが伝えるところ」(筧雅博氏)であり、しかも『実躬卿記』でも関連する記述は正応四年(1291)五月二十九日条と六月一日条の二日分のみです。
果たしてこの記事から、坂口太郎氏のように「禅空は、平頼綱の側近」と言うことができるのか。
六月一日条から善空と「長崎新左衛門入道性杲・平七郎左衛門尉」の特別な関係までは言えても、善空と平頼綱が直接結び付くと言えるのか。

善空事件に関する筧雅博説への若干の疑問(その5)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b3a378b3f45cafb7dcd0d576f747f963

正応四年(1291)五月末の「禅空失脚事件」から、同六年(永仁元、1293)四月二十二日の平禅門の乱まで実に二年近いタイムラグがあり、「禅空失脚事件」が平頼綱失脚に直結している訳ではありませんから、善空はあくまで京都で平頼綱という虎の威を借りる狐である「長崎新左衛門入道性杲・平七郎左衛門尉」の仲間であって、頼綱とは間接的な関係、と考えるべきではないですかね。
頼綱からしてみれば、調子に乗ってやりすぎたので「長崎新左衛門入道性杲・平七郎左衛門尉」と一緒にトカゲの尻尾として切り捨てた、程度の存在ではなかろうかと思います。
ただ、「禅空は、平頼綱の側近」ではなく、「長崎新左衛門入道性杲・平七郎左衛門尉」の側近に過ぎなかったとしても、善空が関わる訴訟・人事は実際上アンタッチャブルな特殊案件と化して、誰も怖くて口を挟めなかったのでしょうね。
それは後深草院政下であろうと伏見親政下であろうと変わりはなく、要するに鎌倉の情勢が変わったから伏見天皇は安心して苦情を言えるようになっただけで、「禅空失脚事件」は後深草院・伏見天皇の父子対立とは関係ない、というのが私の考え方です。
さて、坂口氏は「要するに、伏見は、後深草の近臣たちを、その跋扈を許した禅空もろとも処分し、政務の主導権を握ることを考えたわけである」に続けて、次のように主張されます。(p193以下)

-------
 鎌倉幕府の側も、禅空を取り締まる理由は十分にあった。先述したように、持明院統の治世が始まった当初、幕府は七ヵ条の事書において、任官・叙位の厳正や、僧侶・女房の政治への口入を停止することを求めている。禅空の所行は、これらを紊乱するものにほかならない。また、執権北条貞時は、この時期より、権勢を誇る平頼綱を疎ましく思っており、頼綱による朝政介入の窓口であった禅空を排除することで、頼綱の勢力を削ぐことを狙ったようである。
 このように、禅空とその関係者の失脚は、朝廷・幕府ともに、政治の潮目が変わることを示す事件であった。これ以後も、伏見天皇は、政務運営のうえで後深草院の意向を尊重しているが、みずからが政務を主導する状態を、着実に整えていくのである。
-------

うーむ。
「持明院統の治世が始まった当初、幕府は七ヵ条の事書において、任官・叙位の厳正や、僧侶・女房の政治への口入を停止することを求め」たのは弘安十一年(正応元年、1288)正月二十日です。(p185)
この「七ヵ条の事書」が北条貞時の主導で行われたのなら坂口氏の主張ももっともですが、貞時の年齢(十七歳)等を考慮すれば、これはあくまで平頼綱の政策だろうと思われます。
そして、善空の介入は正応四年(1291)五月末を遡ること四・五年から始まるとされているので、「七ヶ条の事書」と時期的にピッタリ重なります。
素直に考えれば、少なくとも平頼綱にとって両者は別に矛盾する訳ではなく、綺麗ごとを並べた「七ヶ条の事書」も、要するに俺の承認を得ずに勝手なことをやるな、程度の意味しかないのではなかろうかと私は考えます。

小川剛生氏「京極為兼と公家政権」(その17)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0f677a5df0af4205493d2884a2f323cc
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坂口太郎氏「禅空失脚事件」への若干の疑問(その1)

2022-07-02 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 7月 2日(土)12時27分48秒

※ 追記があります。

善空(禅空)事件については、私は坂口太郎氏の見解に懐疑的です。(p192以下)

-------
禅空失脚事件
 持明院統の治世が始まったころから、後深草院に仕える近臣集団が、宮廷で幅をきかせるようになった。彼らは、後深草の信任を笠に着て増長し、政務や任官・叙位に盛んに口出ししたため、おのずと廷臣の不満が募る。やがて、近臣集団の中心にいた伝奏六条康能と神祇伯資緒王は、鎌倉幕府の通告によって、正応元年(一二八八)に失脚したが、伏見親政期になって、再び動きをみせている。そこで、伏見天皇は、彼らの排除をもくろんだ(以下、森幸夫 一九九四、平雅行 二〇〇四)。
 正応四年五月末、京都の貴賤は、大きな混乱に見舞われた。朝廷が、幕府の通告をうけて、ある人物の関与した所領相論の裁許をすべて無効とし、相論の地をことごとく本主に返付したのである。その数は二百ヵ所に及び、あちらこちらで悲喜転変の様相を呈した。
 幕府が問題視した人物とは、禅空(善空とも)という律僧である。禅空は、平頼綱の側近であり、頼綱が朝廷に介入するうえでの窓口として重用されたが、頼綱の権勢を背景に、この四、五年来、朝廷の訴訟裁許や任官に盛んに介入していた。禅空によって敗訴の憂き目をみた者は多く、幕府に寄せられた愁訴の数は、相当なものであったという。そこで、事態を重くみた執権北条貞時は、禅空を譴責したのである。
 この事件は、訴人たちによる働きかけもさることながら、伏見天皇の水面下における政治工作も、大きな契機となったようである。すなわち、伏見は、近臣の京極為兼を勅使として鎌倉に派遣し、禅空の所行を幕府に訴えたという。さらに興味深いのは、禅空の失脚とともに、後深草院の近臣であった六条康能・源資顕・平兼俊らが一斉に解官され、資緒王も出仕を止められたことである。実は、この人々の官位昇進は、いずれも禅空の口入によるものであったらしい(以上、『実躬卿記』正応四年五月二十九日条)。要するに、伏見は、後深草の近臣たちを、その跋扈を許した禅空もろとも処分し、政務の主導権を握ることを考えたわけである。
-------

いったん、ここで切ります。
坂口氏は「後深草院に仕える近臣集団」、「近臣集団の中心にいた伝奏六条康能と神祇伯資緒王」と書かれますが、六条康能は弘安三年(1280)、皇太子時代の伏見天皇(熈仁親王、十六歳)の文芸サークル内で催された「弘安源氏談義」に参加しているので(為兼は不参加)、伏見天皇の近臣でもあります。
六条康能が後深草院と伏見天皇のいずれに近い存在だったのかは分かりませんが、そもそも藤原南家・信西入道の子孫である六条康能など公家社会ではたいした存在ではなく、白川伯王家の資緒王も同様です。
資緒王の弟の源資顕や平兼俊は更に地味な存在で、善空事件の関係者を調べれば調べるほど、何だかショボい事件だな、という感じになってきます。

小川剛生氏「京極為兼と公家政権」(その18)(その19)
善空事件に関する森幸夫説への若干の疑問(その1)

ところで、「参考文献」を見ると「平雅行 二〇〇四」は「青蓮院の門跡相論と鎌倉幕府」(河音能平・福田榮次郎編『延暦寺と中世社会』、法蔵館)とのことで、私は未読ですが、坂口氏の書き方から見て、少なくとも何か新出の史料に基づく議論ではなさそうです。
結局のところ、この事件は『実躬卿記』の正応四年(1291)五月二十九日条と六月一日条以外に判断材料がないと思われます。
そして、正親町三条実躬もこの事件に特別な関心を持って事実関係を調査していた、というようなことは全くなくて、たまたま亀山院の御前に伺候し、そこで事情通らしい人から事件に関する噂話を聞いただけですね。
従って、「ある人物の関与した所領相論」の数が「二百ヵ所に及」んだとしても、その具体例は全く不明で、巨額の収入が見込める大荘園なのか、京都市中の片々たる土地なのかは分かりません。
「あちらこちらで悲喜転変の様相を呈した」などと坂口氏はずいぶん生々しい描写をされますが、そうした具体例が本当にあるなら是非とも教えていただきたいものです。

善空事件に関する筧雅博説への若干の疑問(その5)(その6)

さて、坂口氏の見解で一番変なのは「禅空は、平頼綱の側近」とされている点で、これが本当なら大変な話です。
坂口氏は何を根拠に「禅空は、平頼綱の側近」と判断されたのか。

※追記(2023年12月5日)
「従って、「ある人物の関与した所領相論」の数が「二百ヵ所に及」んだとしても、その具体例は全く不明で、巨額の収入が見込める大荘園なのか、京都市中の片々たる土地なのかは分かりません」などと書いてしまいましたが、これは私の誤解でした。
今は手元に資料がないので、後で修正します。

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坂口太郎氏「京極為兼の失脚」 (『京都の中世史3 公武政権の競合と協調』)

2022-07-02 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 7月 2日(土)09時43分56秒

連日の暑さに負けて少し投稿をサボってしまいましたが、またボチボチと続けて行きたいと思います。
さて、昨日、野口実・長村祥知・坂口太郎氏の『京都の中世史3 公武政権の競合と協調』(吉川弘文館、2022)を入手しました。

-------
武士の世のイメージが強い鎌倉時代。京都に住む天皇・貴族は日陰の存在だったのか。鎌倉の権力闘争にも影響を及ぼした都の動向をつぶさに追い、承久の乱の前夜から両統迭立を経て南北朝時代にいたる京都の歴史を描く。

http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b604393.html

取り急ぎ坂口太郎氏(高野山大学准教授)が担当された、

六 両統の分立とモンゴル襲来
七 両統迭立への道
八 後醍醐天皇と倒幕

の三章を読んでみたところ、直近で私があれこれ書いていた善空事件と京極為兼の配流については、特に新出の史料もなく、学説の進展もあまりなさそうなことが確認できました。
為兼の第一次配流に関連して、私は「白毫寺妙智坊」が静基上人だろうと思っていましたが、坂口氏も同じ結論だったのはちょっと嬉しかったですね。
第七章の「2 伏見親政期の政治と文化」から少し引用してみます。

-------
京極為兼の失脚
 永仁六年(一二九八)正月七日、京都で事件が起きた。伏見天皇の股肱の臣であった京極為兼が、六波羅によって拘引されたのである(以下、小川剛生 二〇〇三、井上宗雄 二〇〇六)。このとき、石清水八幡宮寺執行の聖親法印と、白毫寺の妙智房らも召し捕られたという(『興福寺本 皇年代記(興福寺略年代記)』)。
【中略】
 さて、この事件の性格を考えるうえでは、為兼と同時に召し捕られた、聖親法印と妙智坊らにも注目する必要がある。
【中略】
 次に、妙智房は、法名を静基と称し、東密の小野・広沢両流のみならず、天台寺門の密教をも相承した律僧であった(福島金治 一九五五、『寺門伝法灌頂血脈譜』)。静基が属した白毫寺(院)とは、京都東山にあった速成就院(大和西大寺の末寺)という律院のことであり、「東山太子堂」という異名で知られていた。同院の歴代長老は、いずれも持明院統と密接な関係を有し、伏見天皇の皇子にあたる花園天皇などは、その葬礼まで速成就院に任せたほどである(以上、林幹彌 一九七二・一九八〇、納冨常天 一九八八、苅米一志 一九九一)。
 さらに、永仁年間(一二九三-九九)の静基については、伏見天皇が祇園社に「永代勅願」の「本地・垂迹勤行料所」を寄進した際、その本地方の勤行をつとめたことが確認できる(『社家条々記録』)。おそらく、静基は持明院統に親近した律僧であろう。その関係から、先にみた聖親と同様に、為兼と結んで政道に関与した可能性がある。
-------

聖親法印については『続史愚抄』に「此日。依有座事。自武家執京極前中納言。<為兼。>及石清水執行聖信等幽六波羅」とあったので、これを誰も疑わなかったところ、2003年に今谷明氏が東大寺八幡宮の僧侶だとの新説を提示されました。
しかし、その直後に小川剛生氏が反論して、今谷氏の三日天下は終わった訳です。
ただ、小川氏も「白毫寺妙智坊」を奈良の僧とする今谷説に特に反駁されなかったのですが、つい最近、私があれこれ書いていたように、こちらも京都の白毫寺(院)と考える方が自然ですね。
坂口氏が参照されている文献も私が見たのと殆ど重なります。

小川剛生氏「京極為兼と公家政権」(その14)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/58fe1a0e555b518966af5e016849f79b
「禅意は……極楽寺真言院の住持としてあり、白毫院長老は静基と確認されよう」(by 福島金治氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2e9406623579e59fbe16253b99325f9e
林幹弥氏「金沢貞顕と東山太子堂」(その1)~(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/29518a7286cd072086e35b712e1ef4d9
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a8567dc028ce9643b30a6168c09c80cf
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4c37bf00324fc541756b73902ff1a0ef

『感身学正記』に登場する「右馬権頭為衡入道観證」について(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6780a0676390d1a68cee8c96740984f8
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/13f7dd9e37951e660e1609525bb43362
苅米一志氏「東山太子堂の開山は忍性か」(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/238410188a3e6b237f1bcaf4b4652911
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/46b4536e5ec27e41b009e8446acfb40e
「白毫寺妙智房」の追跡はいったん休みます。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7a535d54336e77f58ad97dda2da7d12b
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小川剛生氏「京極為兼と公家政権」(その22)

2022-06-28 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 6月28日(火)11時38分36秒

前回投稿では『実躬卿記』永仁二年(1294)三月二十七日条を引用しましたが、翌日の二十八日条には、

-------
廿八日、 卯、去夜任人粗伝聞、
参議藤頼藤、弁官次第転任、但権右中弁藤信経・両少弁如元云々、右近中将藤為雄、
即補蔵人頭、右兵衛督藤資藤、即移正階、是関東御挙之故云々、為雄朝臣元右兵衛
督也、此官依御用任中将歟、凡殊勝々々、如所存者哉、此外事不逞委記。
-------

とあって、蔵人頭だった葉室頼藤が参議に昇進したこと、二条資藤が従三位に叙せられたこと等が記されていますが、私には「為雄朝臣元右兵衛督也、此官依御用任中将歟、凡殊勝々々、如所存者哉」の意味が分かりません。
何となく底意地の悪そうな書き方なので、為雄は蔵人頭にはなれたものの、それ以外の希望は満たされなくてザマーミロ、みたいなことでしょうか。
ま、それはともかく、二条資藤の昇進は「是関東御挙之故云々」とのことで、実躬は関東の推挙で昇進すること自体は当然と考えていますね。
また、実躬は自身の昇進のために「以内々女房申入仙洞了」(二十七日条)としているので、もちろん女房口入にも肯定的です。
要するに実躬は自身の出世と家格の向上以外には特に関心がなく、「政道」のあり方にも、「政道口入」の是非にも特に見識のない自己中心的な俗物です。
ま、別にそうした生き方が悪いという訳ではなく、大半の公家はそんなものでしょうが、実躬の如き人物の為兼評を、小川氏のようにことさらに重視する必要もないのでは、と私は考えます。
さて、それではいよいよ小川論文の最終節に入ります。(p44)

-------
   七 おわりに

 本稿では為兼の土佐配流につき「正和五年三月四日伏見法皇事書案」を紹介して考察し、永仁の佐渡配流についても私見を述べた。両度の配流の起きた背景には差異はなく、治天の君である伏見院の政務になんらその座を与えられていない為兼の「政道之口入」によってひきおこされたものである。とりわけ正和には鷹司冬平の関白還補が伏見院の失政として問題となって、為兼らがその元凶とみなされたことで、遂に処罰に至ったのであった。
 ただし、持明院統もよくよく近臣に壟断されやすい体質であった。そのことが事態をより深刻にしたといえるが、後伏見院の時になっても近臣や女房の口入は絶えなかった。見かねた重臣の今出川兼季が五ヶ条の意見を奉って、院中の綱紀を粛清するよう献言している。しかし兼季が「一切可被停女房内奏之由」を強調したのに対し、花園院はあながち女房の非とはせず「但付便宜、女房申入事等又古今例也、且内々達天聴、有大切事等、此事強不可被禁歟」と反論したことは、誠に示唆に富んでいよう。
 京極派和歌が閉鎖的な歌壇、すなわち院や女院と少数の近臣・女房からなる、固定的なメンバーによって創作されていたことは、既に常識となっている。そういう濃密な君臣関係こそが和歌史に遺る傑作を生む土壌を培った。『とはずがたり』『中務内侍日記』『竹むきが記』など現存する鎌倉後期の女房日記が、すべて持明院統の女房の手によって書かれている事実も考え合わされよう。しかし、それは一方で為兼の如き近臣をはびこらせる温床となった。幕府はある時期まで、大覚寺統よりも、果断な処置がとれず自己管理能力に乏しい持明院統を危険視していたとさえ思えるのである。
 以上はやや極端に過ぎた見方かもしれない。しかし、もはや治天の君でさえ恣意が許されない時代であった。持明院統の文学に対する高い評価はもちろん当を得ているが、伏見院の治世が為兼を生みだし、そして最終的には為兼を排除しなければならなかった背景についても考察をめぐらし、その意味するところを冷静に観察することも必要であろう。
-------

小川論文はこれで終わりです。
「但付便宜、女房申入事等又古今例也、且内々達天聴、有大切事等、此事強不可被禁歟」に付された注(36)を見ると、これは『花園院宸記』正中二年(1325)十二月十五日条で、後醍醐親政期の話ですね。
また、「『とはずがたり』『中務内侍日記』『竹むきが記』など現存する鎌倉後期の女房日記が、すべて持明院統の女房の手によって書かれている事実も考え合わされよう」に付された注(37)には、

-------
(37)岩佐氏『宮廷女流文学読解考 総論中古編』(笠間書院 平11・3)は「大覚寺統政権下にも又、儒仏の学は栄えても女房日記はあらわれない」(二四頁)との指摘がある。
-------

とあります。
小川論文についてのまとめは次の投稿で行いますが、「おわりに」の書き方を見ると、小川氏が『実躬卿記』などに関して相当に強引な史料操作を行いつつつ持明院統を批判する背景には岩佐美代子批判という隠れた意図もありそうですね。
このあたりの事情は、歴史研究者にはちょっと分かりにくいと思いますが。
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小川剛生氏「京極為兼と公家政権」(その21)

2022-06-27 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 6月27日(月)12時46分7秒

二条為道は京極為兼(1254-1332)のライバルである二条為世(1250-1338)の長男で、少なくとも歌人としては極めて優秀、将来を嘱望されていた人ですね。

二条為道(1271-99)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E7%82%BA%E9%81%93

しかし、実躬(1264生)にとって為道は七歳下の「下臈」ですから、

-------
依何由緒彼朝臣被忠〔抽〕賞、予又依何罪科可被寄〔棄〕捐哉、当時云拝趨云譜代
可謂雲泥、徳政□〔之カ〕最中如此非拠、寔可叶神慮哉、併雖任運於天、当時為兼卿
猶執申、逐日倍増、然者珍事出来之条、無疑歟之間、以内々女房申入仙洞了、且若非
分有恩許ハ、并絶拝趨之思、永可失生涯之由、以誓状之詞申入了、所存切也、此趣以
状示遣前大将許、即申入 禁裏之由返答、且数刻祗候 内裏、能々申入執柄了、
-------

ということで、実躬は、為道を蔵人頭にするという「非分有恩許」が万一あったならば、自分は生涯「拝趨」することはありません(≒出家します)、という殆ど脅迫状のような「誓状之詞」を禁裏に提出します。
こうした、少なくとも実躬個人にとっては非常に切迫した状況の中で、小川氏が引用するところの「徳政之最中、如此非拠、寔可叶神慮哉、併雖任運於天、当時為兼卿猶執申、逐日倍増」という表現が出てくる訳ですね。
実躬は別に客観的・中立的・長期的・俯瞰的な見地から伏見親政下の朝廷における為兼の存在について懸念を表明している訳ではなく、自分の出世と名誉がかかった瀬戸際において、主観的・偏頗的・短期的・微視的な見地から、為兼が「珍事」をやるのではないかと警戒している訳で、小川氏のように、この表現を「廷臣」一般の間の「治世に対する不信感」と評価するのは相当に問題ではないかと私は考えます。
さて、実躬の「誓状之詞」の効果かどうかは分かりませんが、結果的に為道は蔵人頭にはなれませんでした。
では、誰が蔵人頭になったかというと「有若亡」の二条為雄です。

-------
然而為道昇進事無其儀、為雄朝臣補夕郎云々、彼朝臣雖有上首之号、太失面目了、
且資高卿昇進之時、為雄也被超越了、此儀一流端厳之差別也、何限予無勝劣哉、
資高卿ハ非重代也、予累葉也、恩許之次第、依人事異也、当時之為雄朝臣一文不通、
可謂有若亡、忠(抽)賞何事哉。是併為兼卿所為歟、当時政道只有彼卿心中、頗
無益世上也、旁以無由、今生事思切、偏可祈後生菩提事者哉、而父母命又難背、是
即不至道心之故歟、無罪〔述〕所存也、
-------

うーむ。
実躬と為道の争いの結果、ダークホースの為雄が漁夫の利を得たということでしょうか。
ここに登場する二条資高(1265-1304)は正応三年(1290)に蔵人頭に補されているので、この時に二条為雄との間にも何か確執があったのかもしれませんが、ダラダラと続く実躬の愚痴に付き合うのも大変なので、このあたりにしたいと思います。
以上、確かに『実躬卿記』には為兼に対する批判的言辞がありますが、これも仮に実躬が蔵人頭になれていたら、全て消去した後で為兼に対する絶賛が並んでいたかもしれないですね。
その程度の話なのに、小川氏が、

-------
 実際に為兼が政務に容喙すればする程に、廷臣の間に「徳政之最中、如此非拠、寔可叶神慮哉、併雖任運於天、当時為兼卿猶執申、逐日倍増」という、治世に対する不信感を馴致させることを防ぎようもなかった。為兼は早晩淘汰されなければならない存在であった。安東重綱が「政道巨害」として為兼を排除できたのも、幕府が主導した形での鎌倉後期の公家徳政という道筋があったからなのである。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0f677a5df0af4205493d2884a2f323cc

とまで言われるのはどんなものであろうか、さすがに大袈裟ではなかろうか、と私は感じます。

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小川剛生氏「京極為兼と公家政権」(その20)

2022-06-27 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 6月27日(月)10時37分26秒

暫く善空事件を扱って来ましたが、『京都の中世史3 公家政権の競合と協調』(吉川弘文館)で坂口太郎氏の新知見があれば続行することとし、いったん小川論文に戻ります。
さて、(その17)で引用したように、小川氏は第六節の末尾で、

-------
 実際に為兼が政務に容喙すればする程に、廷臣の間に「徳政之最中、如此非拠、寔可叶神慮哉、併雖任運於天、当時為兼卿猶執申、逐日倍増」という、治世に対する不信感を馴致させることを防ぎようもなかった。為兼は早晩淘汰されなければならない存在であった。安東重綱が「政道巨害」として為兼を排除できたのも、幕府が主導した形での鎌倉後期の公家徳政という道筋があったからなのである。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0f677a5df0af4205493d2884a2f323cc

と書かれていますが、「徳政之最中、如此非拠、寔可叶神慮哉、併雖任運於天、当時為兼卿猶執申、逐日倍増」は『実躬卿記』永仁二年(1294)三月二十七日条の表現です。
当時、三十一歳の正親町三条実躬は、弘安六年(1283)に正四位下に叙されて以降、位階は停滞し、官職も同八年(1285)に兼下野権介・転中将、正応四年(1291)に兼美作介とパッとしない状態だったので(『公卿補任』)、蔵人頭になることを切望していました。
井上宗雄氏の『人物叢書 京極為兼』(吉川弘文館、2006)によれば、以下のような状況です。(68以下)

-------
 その三月二十五日三条実躬は参内し、蔵人頭に補せられたいと申し入れを行い、二十六、七日後深草院、関白近衛家基ほかにも希望を申し入れた。競望者は二条家の為道であったが、実躬はその日記に、運を天に任せるが、現在では「為兼卿猶執り申す」と記し、さらに諸方に懇願したのだが、二十七日の結果は意外にも二条家の為雄(為道の叔父)であった。実躬はその日記に、
  当時の為雄朝臣又一文不通、有若亡〔ゆうじゃくぼう〕と謂う可し、忠(抽)賞
  何事哉。是併〔しか〕しながら為兼卿の所為歟。当時政道只彼の卿の心中に有り。
  頗る無益〔むやく〕の世上也。
と記している(「有若亡」は役に立たぬ者、の意)。為兼は「執り申す」すなわち天皇に取り次ぐという行為で人事を掌握しており、為雄の蔵人頭も為兼の計らいと見たわけである。四月二日の条には、実躬は面目を失ったので後深草院仙洞の当番などには出仕しないことにしようと思ったが、父に諫められ、恥を忍んで出仕した。「当時の世間、併しながら為兼卿の計い也。而〔しか〕るに禅林寺殿(亀山院)に奉公を致す輩、皆以て停止〔ちょうじ〕の思いを成すと云々」と記している。為兼の権勢がすこぶる大きかったこと、あるいはそう見られていたことが窺われる。【中略】なお実躬は明らかに亀山院方への差別をみとっている。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3acbe0aa724a9c51020020d2f56c87e6

『実躬卿記』でもう少し詳しく事情を見て行くと、三月二十五日から縣召除目の記事が始まって、実躬は同日参内して蔵人頭所望の由を奏上します。
翌二十六日には、

-------
丑、猶雨下、早旦参 内、即参仙洞、猶申入夕郎事、入夜帰参、著衣冠、頼藤朝臣
可昇進之由聞之、仍所望事重猶申入、且参直盧申執柄了、亥終刻関白令候殿上給、
執筆参 内、直著陣座、少頃参候殿上、端、次関白也、参御前給、執筆同参候、
次筥文公卿、<雨儀也、於中門下取之、昇切妻経簀子参上、>中御門中納言<為方>・
衣笠中納言<冬良>・別当<公顕>・鷹司宰相<宗嗣>、今夜顕官挙也、此宰相書之云々、
依伺候仙洞、
-------

という具合いに、内裏・仙洞(後深草院御所)・関白等、諸所に繰り返し参上し、「夕郎事」(夕郎〔せきろう〕は蔵人の唐名)を申し入れます。
翌二十七日にも実躬は仙洞に重ねて申し入れをしますが、そうこうしている間に、二条為道が蔵人頭を「競望」しているとの噂を聞きます。
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善空事件に関する筧雅博説への若干の疑問(その6)

2022-06-25 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 6月25日(土)14時59分25秒

『実躬卿記』は国文学研究資料館サイトで見ることができて、リンク先のコマ番号に「113」と入れると正応四年(1291)五月二十九日条が出てきます。

http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=KSRM-365101

さて、『勘仲記』正応元年(1288)十月四日条には、

-------
伯二位〔白川〕資緒卿・伝奏兵部卿〔六条〕康能朝臣両人、勅勘被止出仕云々、
春風吹来之故也、不知其由緒、彼朝臣不測涯分、補佐政道、口入叙位除目、於
事有過分之聞歟、果而逢不慮之横災、天責難遁歟、可恐可慎、其外条々事等雖
奏聞、無漏泄之分歟、

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0f677a5df0af4205493d2884a2f323cc

と資緒王・六条康能の二人が登場するだけで、善空上人の名前はありません。
そして『実躬卿記』正応四年(1291)五月二十九日条で善空上人の「口入」があったとされる人々も、その代表である六条康能・資緒王、そして資緒王の弟である源顕資の経歴を見ると、別にそれほど目覚ましい立身出世とも思えません。

小川剛生氏「京極為兼と公家政権」(その18)(その19)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/03370a791c4d0dec8b2a9865cc22c7ef
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0a17e8b4881a9045cf30f728113fbff8

更に「被返付所領及二百所」とはありますが、一部に「貴所御領」を含むとはいえ「乙甲人等家地・所領等」が中心のようなので、市中の片々たる土地の集合のような感じです。
という具合いに、善空事件を調べれば調べるほど何だかショボい話のようにも思えてくるのですが、とにかく首魁らしい善空上人が何者かが分からないので、結局は良く分らない話ですね。
ただ、少なくとも筧氏のように、善空事件への対応を巡って後深草院と伏見天皇の間に父子対立があった、と考えるのは変だろうと思います。
「六波羅を支配する御内人」(『蒙古襲来と徳政令』、p213)として長崎新左衛門入道性杲なる人物が蟠踞し、性杲が「探題の家人(後見役)というよりは、むしろ平頼綱の分身的存在」(p214)であり、善空上人が性杲と親しかったならば、朝廷側にとって善空上人は怖くて逆らえない人ですね。
従って、後深草院が善空上人の意向に沿った人事や所領安堵を行ったとしても、それは当該時点では止むを得ないことであり、伏見天皇だったら別の対応が出来た、という話ではなかろうと思います。
要するに変化したのは朝廷ではなく幕府の側であり、幕府上層部での力関係が平頼綱にとって不利に、北条一門(中心は連署の大仏宣時か)にとって有利に変化し、それが六波羅にも影響して性杲の地位が安泰ではなくなり、結果として朝廷側は、従来から不満を持っていた善空上人の「口入」について鎌倉に訴えても性杲から報復されることはないだろう、との見込みが立ったので京極為兼を鎌倉に派遣した、ということだろうと思います。
その際には伏見天皇は後深草院の面目をつぶさないよう、後深草院にも事前に了解を取っていたでしょうね。
そして、そのような情勢の変化をもたらす契機のひとつとなったのが正応三年(1290)三月の浅原事件だろうと思います。
五年前の霜月騒動で所領を失い、各地を流浪していたらしい浅原為頼の暴発が幕府内で同情を呼ぶことはなかったでしょうが、伏見天皇暗殺未遂事件の真相と責任を追及する過程で「六波羅を支配する御内人」性杲への視線は厳しくなったはずであり、それが翌年の性杲の失脚に結びついた、というのが現時点での私の一応の見通しです。

善空事件に関する森幸夫説への若干の疑問(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d614408ec9caa4bb1bba137d93ec590c

なお、6月27日に刊行が予定されている野口実・長村祥知・坂口太郎氏の共著『京都の中世史3 公家政権の競合と協調』(吉川弘文館)の目次を見たところ、「七 両統迭立への道」「2 伏見親政期の政治と文化」に「禅空失脚事件」があります。
ここは恐らく坂口太郎氏(高野山大学准教授)の担当でしょうが、仏教に詳しい坂口氏であれば善空(禅空)に関する新しい知見があるかもしれないので期待しているところです。
「3 両統迭立」の「両統の融和と遊義門院」についても、かねてから遊義門院に注目してきた私にとっては期待するところが大きいですね。

-------
武士の世のイメージが強い鎌倉時代。京都に住む天皇・貴族は日陰の存在だったのか。鎌倉の権力闘争にも影響を及ぼした都の動向をつぶさに追い、承久の乱の前夜から両統迭立を経て南北朝時代にいたる京都の歴史を描く。
http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b604393.html
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善空事件に関する筧雅博説への若干の疑問(その5)

2022-06-24 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 6月24日(金)12時21分39秒

前回投稿で引用した部分の後、筧氏は浅原事件の概要を説明し、更に私にはあまり納得できない「三条実盛の女」に関する独特の見解を披露されてから、次のように述べます。(p255)

-------
伏見天皇の「徳政」

 正応三年二月、後深草は出家し、伏見天皇の親政がはじまった。浅原為頼父子は、親政開始直後の天皇を襲ったことになる。蓮花王院の修正会や、新日吉の五月会など、天皇家の家長の主催する諸行事は、依然として後深草法皇が一切をとりしきっていたけれども、朝廷人事の決定権は、天皇に移譲され、また職事たちの「奏事」も、法皇から天皇へと、その対象をかえたことであろう。
 翌、正応四年五月から六月にかけて大きな変化があり、後深草が、廷臣たちの所務相論について下した判決、およそ二百件が一気にくつがえされた。所領を回復した側にとって、この措置は、天皇による「徳政令」と映じたに違いない。善空上人の「口入」により昇進した人々も、あるいは解官され、あるいは出仕を止められた。「徳政令」は、亀山法皇が本家として支配する荘園群にも及び、多くの所領が本主(善空の口入によって敗訴した側)の許に返付された、という。以上、善空に関わる記事は、ひとり『実躬卿記』のみが伝えるところであり、持明院統内部の代替わりの状況を具体的に示す好史料なのであるが、最後のくだりは、やや複雑な意味合いがあって、亀山も善空上人を近づけていたのか、それとも治天の君としての後深草の権限が、亀山の荘園群の上にも行使されたのか、判然としない憾〔うら〕みがある。
-------

筧氏は「善空に関わる記事は、ひとり『実躬卿記』のみが伝えるところ」と書かれていますが、『実躬卿記』でも関連する記述は正応四年(1291)五月二十九日条と六月一日条の二日分のみです。
『大日本古記録 実躬卿記(二)』(岩波書店、1994)から当該部分を引用すると、

-------
<家君御参西郊予同参事>
 廿九日 晴、早旦御参嵯峨殿、予同参、御車、法皇此間野寄〔宮カ〕殿為御所、仍且被申子細之処、可有
 御参之由被仰下、即御参、只々〔今〕御時之様〔程カ〕也、帥・高倉前宰相<〔藤原〕茂通>・前左兵衛督<〔藤原〕宗親>・宗氏・良珍
<善空法師被拠〔処〕罪科事>
 法眼候御前、家君即御参、予又随御目参御前、抑善空聖人、日比以来、成人々訴訟・官位等事口
 入、或貴所御領等拝領、或乙甲人等家地・所領等悉伝領、此事已及四五个年、然而此間訴人多
 以下向関東、訴彼上人一人、右衛門督<為兼>、為公家御使被仰此事之由風聞、若此事為実事歟、其
 比被召下被相尋、一々無陳方歟、仍先日上洛以御使、彼仁口入所皆悉可被返付本主之由、申之
 云々、仍此一両日之間、面々被返付所領及二百所云々、或以彼仁口入令昇進之輩、民部卿<康能>・
 中将<資顕>・左衛門権佐<兼俊>解官、伯二位資緒等被止出仕、不可説々々、非所及言語事也、禅林
 寺殿法皇御領等も多拝領、皆被返付本主云々、及晩自西郊退出、

<善客〔空〕為口入任官輩被解官事>
 一日、晴、昨日明法博士中原職隆・検非違使藤清経〔両脱カ〕人被解官云々、口入彼仁〔善空〕歟、東使此一両日
 下向云々、長崎新左衛門入道性杲・平七郎左衛門尉被召下、   、又下遣使者之由風聞、今日匠作
 〔藤原実時〕許へ行向、鵯合、又有盃酌事、〔藤原〕公兼卿同在此所、入夜帰家、
-------

ということで(p138以下)、五月二十九日、正親町三条実躬は「家君」(父親の公貫)と一緒に嵯峨殿に行ったところ、亀山法皇の御前に「帥」(中御門経任)・高倉茂通・藤原宗親・藤原宗氏・良珍法眼が伺候しており、公貫・実躬父子もその場に加わったところ、善空上人に関する話題となります。
そもそも善空上人は、「人々訴訟・官位等事」に「口入」したり、「貴所御領等」を「拝領」したり、「乙甲人等家地・所領等」を「悉伝領」したりする悪事をここ四五年続けており、被害者の多数の「訴人」が鎌倉に下って「彼上人一人」を訴えていた、そして、「右衛門督」京極為兼が、「公家御使」として関東に行った訳ですね。
正直、私には「右衛門督<為兼>、為公家御使被仰此事之由風聞、若此事為実事歟、其比被召下被相尋、一々無陳方歟」の部分が正確に理解できないのですが、とにかく「公家御使」の為兼が関東で交渉したところ、先日、関東から東使が上洛し、善空が「口入」した「所皆悉可被返付本主之由」を申したので、この一両日の間に「返付」された所領は二百ヵ所に及び、善空が「口入」して昇進させた輩の「民部卿<康能>・ 中将<資顕>・左衛門権佐<兼俊>」は解官、「伯二位資緒等」は出仕を止められることになります。
六月一日の追加情報によると、「明法博士中原職隆・検非違使藤清経」も解官となり、役目を終えた「東使」は関東に戻り、「長崎新左衛門入道性杲・平七郎左衛門尉」が「召下」されたようですが、空白部分もあって、事情は必ずしも明確ではありません。
さて、文中に二箇所「風聞」とありますが、実躬も本当に事情に精通している訳ではなく、特に五月二十九日条はあくまで亀山院側近の事情通からの伝聞ですね。
そして、一番分かりにくいのが「禅林寺殿法皇御領等も多拝領、皆被返付本主云々」で、ここは筧氏が言われるように「亀山も善空上人を近づけていた」ようにも読めます。
その解釈が正しいのであれば、亀山院は被害者ではなく、むしろ善空上人に加担した加害者側になってしまいますね。
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善空事件に関する筧雅博説への若干の疑問(その4)

2022-06-23 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 6月23日(木)11時03分4秒

「上皇は、ある律僧を身辺に近づけ、人々の訴訟や官位昇進の請願を取り次がせた、といわれる」(p215)と、何故か「ある律僧」の名前を出さなかった筧氏は、「第六章 両統迭立の日々」に入ると「3 公家徳政のめざすもの」で善空上人の名前を二度登場させます。
この節は、

-------
「徳政」はじまる
三人の武者、伏見天皇を襲う
三条実盛の女
伏見天皇の「徳政」
-------

と構成されていますが、「「徳政」始まる」の冒頭、筧氏は、

-------
 亀山上皇の周辺の人々は、弘安七、八年のころから、一つの可能性を意識せざるを得なくなった。皇位交代(春宮胤仁親王、のちの後伏見天皇の即位)の可能性である。平安時代半ば以降、在位十年をこえた天皇はすくない。天皇が代わっても、多くの場合、治天の君の地位はゆるがなかったが、今回、春宮は、亀山の兄、後深草上皇の系統である。皇位の交代は、ただちに天皇家の家長の座に波及するであろう。この可能性から、すこしでも遠ざかるための方途が、真剣に求めらなくてはならぬ。
-------

と書かれています。(p247)
しかし、胤仁親王(後伏見天皇)は弘安十一年(正応元、1288)生まれなので、「弘安七、八年のころ」には存在しておらず、ここは熈仁親王(伏見天皇、1265生)の勘違いですね。

後伏見天皇(1288-1336)

さて、「弘安徳政」の内容を説明された後、筧氏は、

-------
 ここでちょっと先回りして「徳政」のゆくえを見ておくことにする。亀山のあとを襲って治天の君となった後深草は、評定衆のメンバーから、名家出身者を排除した。訴訟当事者双方の言い分を聴取する場は、全く消え去ったか、そうでなくとも出現する度合いを大きく減じたであろう。第五章「岐路に立つ鎌倉幕府」で触れたように(二一五頁)、後深草は、側近の律僧、善空上人にもろもろの訴訟を取り次がせ、のちに鎌倉幕府の申し入れによって本主のもとに各々返付された所領は二百ヵ所に達した、という。これは、訴人もしくは論人どちらかの主張を取り上げて判決が下された結果であり、後深草が「奏事」一本槍、しかもかなり恣意的なやり方で、所務相論をはじめとする訴訟に臨んだ可能性を示す。なお、鎌倉幕府の申し入れがなされるに至ったのは、京極為兼が「公家御使」すなわち伏見天皇の使者として鎌倉に下り、善空の排除をはたらきかけたことによるらしい。天皇は、父上皇の下した判決を正すにあたり、関東に訴えて、とくにその介入をもとめたのである。父子の間も、また微妙であった。
-------

とされるのですが(p249以下)、「亀山のあとを襲って治天の君となった後深草は、評定衆のメンバーから、名家出身者を排除した」は、事実認識として誤りではないかと思われます。
本郷和人氏は、『中世朝廷訴訟の研究』(東京大学出版会、1995)において、

-------
 ところが、二君に仕えたからといって、経任一人を責めるのは酷であるようにも思われる。というのは、亀山上皇の他の近臣も、後深草上皇に近侍しているからである。試みに正応二(一二八九)年の評定衆をあげよう。

  近衛家基・堀川基具・源雅言・中御門経任・久我具房・平時継・日野資宣・葉室頼親

翌年の後深草上皇の院司は次の人々である。

  西園寺実兼・源雅言・中御門経任・日野資宣・葉室頼親・吉田経長・中御門為方(経任ノ子)・冷泉経頼・
  坊城俊定・平仲兼・葉室頼藤(頼親ノ子)・日野俊光(資宣ノ子)・平仲親・四条顕家・藤原時経

これをみると、亀山上皇の伝奏はほとんど後深草上皇の院司となっており、何人かは評定衆にも任じられている。経任のごと-に伝奏にはならずとも、上皇の側近くにあったことはまちがいない。父子ともに院司になっている例もあり、兄経任を厳しく非難した経長も、弟経頼ともども上皇に仕えている。


とされており、中御門経任以下、後深草院政下においても名家出身者はけっこう評定衆となっていますね。
ま、それはともかく、伏見天皇が、二百ヵ所にも及ぶ所領の訴訟で「父上皇の下した判決を正すにあたり、関東に訴えて、とくにその介入をもとめた」のであれば、後深草院としては面目丸つぶれも良いところで、「父子の間も、また微妙」どころか、いくら温厚な後深草院といえども激怒して伏見天皇排除のために何かやりそうなものです。
しかし、この時期、後深草院・伏見天皇間で深刻な闘争が勃発したような気配は全くありません。
筧氏の見解は何とも不自然なのですが、それは筧氏の史料解釈の誤りの可能性を示唆しています。
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