投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 6月18日(木)10時27分47秒
参照の便宜のために、坂井孝一氏による問題の院宣の読み下しと現代語訳を再掲します。
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院宣を被るに称へらく、故右大臣薨去の後、家人等偏に聖断を仰ぐべきの由、申さしむ。
仍て義時朝臣、奉行の仁たるべきかの由、思し食すのところ、三代将軍の遺跡、管領す
るに人なしと称し、種々申す旨あるの間、勲功の職を優ぜらるるによつて、摂政の子息
に迭へられ畢んぬ。然而、幼齢未識の間、彼の朝臣、性を野心に稟け、権を朝威に借れ
り。これを政道に論ずるに、豈に然るべけんや。仍て自今以後、義時朝臣の奉行を停
止し、併ら叡襟に決すべし。もし、この御定に拘らず、猶反逆の企てあらば、早くそ
の命を殞すべし。殊功の輩においては、褒美を加へらるべき也。宜しくこの旨を存ぜ
しむべし、てへれば、院宣かくの如し。これを悉せ。以て状す。
承久三年五月十五日 按察使光親奉る
内容は次の通りである。
「故右大臣」実朝の死後、御家人たちが「聖断」すなわち天子(この場合「治天の君」後鳥羽)の判断・決定を仰ぎたいというので、後鳥羽は「義時朝臣」を「奉行の仁」、すなわち主君の命令を執行する役にしようかと考えていたところ、「三代将軍」の跡を継ぐ者がいないと訴えてきたため、「摂政の子息」に継がせた。ところが、幼くて分別がないのをいいことに「彼の朝臣」義時は野心を抱き、朝廷の威光を笠に着て振舞い、然るべき政治が行われなくなった。そこで、今より以後は「義時朝臣の奉行」をさしとめ、すべてを「叡襟」(天子のお心)で決する。もしこの決定に従わず、なお反逆を企てたならば命を落とすことになるだろう。格別の功績をあげた者には褒美を与える。以上である。
「奉行の仁」について、坂井氏は「主君の命令を執行する役」と解されていますが、では主君は誰なのか。
坂井著を最初に読んだとき、私は「三代将軍」云々の表現から主君は当然に将軍(鎌倉殿)であって、従って「奉行の仁」とは将軍(鎌倉殿)の命令を執行する役、即ち執権なのだろうなと理解したのですが、後鳥羽の高邁な、もしくは高飛車な見識は幕府側の常識とはかけ離れているようなので、ここは「天子(この場合「治天の君」後鳥羽)」の可能性もありそうですね。
さて、この「奉行」に関する長村氏の見解は、私には些か奇妙に思われます。
長村氏は「第三章 <承久の乱>像の変容─『承久記』の変容と倒幕像の展開─」において、次のように書かれています。(p116)
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すなわち、後鳥羽が院宣を充てた御家人は、有力ゆえに北条義時と競合の可能性があるのみならず、在京して後鳥羽と接点があった者が多いと考えられるのである。
後鳥羽の計画は、院宣によって彼ら有力御家人に義時の幕政「奉行」停止の説得と(その不成立を見越して)殺害を命ずるとともに、彼らを起点として、官宣旨で不特定多数の東国武士を動員して北条義時を追討する、というものだったと考えられる。官宣旨の充所が東国のみならず「五畿内諸国」となっているのは、北条義時の逃亡等に備えて西国にも通達しておくためであろう。
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そして、「奉行」に付された注(14)を見ると、
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(14) 義時の「奉行」とは、例えば承久四年二月二十一日「茂木知基所領譲状写」(茂木家文書。鎌遺五─二九二七)に「壱所 在紀伊国賀太庄/副渡権大夫殿御奉行御下文」と見える下知状発給等の権力行使活動全般を指していよう。
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となっています。
しかし、「彼ら有力御家人に義時の幕政「奉行」停止の説得」を命ずるというのは、いくら何でも変な感じですね。
「自今以後、停止義時朝臣奉行、併可決 叡襟」ということで、後鳥羽の決定により、既に義時の「奉行」は確定的に「停止」されているはずです。
しかし、当該決定にも拘わらず(「不拘此御定」)、なお義時に反逆の企てがあるのであれば(「猶有反逆之企者」)、義時を殺害すべし(「早可殞其命」)と続いているのだと思います。
ちゃんと説得してから殺害してね、という命令は、さっさと殺せ、という命令よりも遥かにブキミですね。
このあたり、特に「奉行」の解釈について、他の研究者の見解も聞いてみたいですね。
古文書に詳しい人には、かなり気になる表現ではないかと思います。
>筆綾丸さん
>「被送摂政子息畢」の送は迭ですね。
修正しました。
ありがとうございます。
>なぜ、こんな下手な比喩表現をするのか、坂井氏の感覚がよくわかりません。
中央公論社としては呉座勇一氏の『応仁の乱』、亀田俊和氏の『観応の擾乱』に続く三匹目のドジョウを狙ったのでしょうが、このあたりの言語感覚が、呉座・亀田氏の著書を愛読するような歴史ファン層とは少しずれているのかもしれないですね。
※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
To be or not to be, that is the question. 2020/06/17(水) 12:55:33
小太郎さん
仰る通り、後鳥羽の論理と幕府の論理が全く噛み合っていない、ということには、あらためて新鮮な驚きを覚えますね。あたかも京都と鎌倉では言語が違うかのように。
瑣末なことですが、「被送摂政子息畢」の送は迭ですね。
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確かに、ぐずぐずしていれば幕府の基盤である武蔵の武士まで離反する恐れがあった。しかし、当初、迎撃戦術を選択しようとした義時らには迷いもあった。命に関わるかもしれない大手術を受けるべきかどうか悩む患者のようなものである。決断するにはセカンドオピニオンが必要であった。それに応えたのが三善康信だったのである。(坂井孝一『承久の乱』165頁)
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読んでいて吹き出したのですが、なぜ、こんな下手な比喩表現をするのか、坂井氏の感覚がよくわかりません。
追記
同書を読み進めると(170頁~)、鎌倉方は、義時をキャプテンとして、強固な結束力と高い総合力を持った「チーム鎌倉」で、京方は、後鳥羽が監督・裏方・キャプテンを兼務する「後鳥羽ワンチーム」であった、というような、マンガチックでバカっぽい記述に遭遇して、野球やサッカーやラグビーの話ではない、と思いました。