学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

社会の精神的安定にとって必要なのは「ビリーフ」ではなく「プラクティス」である。

2022-01-16 | 村上重良と「国家神道」
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 1月16日(日)15時40分6秒

「宗教的空白」についてあれこれ考えてみたのは2016年のことで、同年の「新年のご挨拶」で「グローバル神道の夢物語」という妙なシリーズを始めるぞと宣言し、森鴎外の「かのやうに」を出発点に日本人の宗教観を検討してみました。

「新年のご挨拶」(2016年)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/bd7ebd22440a7d381781be52797bfd0a

そして、その一年間の一応の成果は翌2017年1月3日の「古代オリンピックの復活」という記事に、

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神仏分離・廃仏毀釈に悲憤慷慨する松岡正剛氏に対しては、そんなに興奮することもないのになあと同情しつつ、実際に廃仏毀釈に多数の「殉教者」が出たのかを検討してみたところ、「大浜騒動」など浄土真宗関係の「護法一揆」で多少の死者は出ているものの、まあ、実態は酔っ払いの暴動みたいなものが多く、純度100%の「殉教者」は皆無、という暫定的結論を得ました。
また、「真宗王国」の富山藩における廃仏毀釈の経緯が結構面白いことに気づき、これを主導した林太仲と、その養子でパリを拠点に美術商として活躍した林忠正、また富山出身の近代民衆宗教の研究者で、現在でも極めて世評の高い『神々の明治維新』の著者でもある安丸良夫氏等について検討するうちに、安丸氏の「国家神道」論は「ゾンビ浄土真宗」とマルクス主義の「習合」ではなかろうか、などと思うようになりました。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b11b2faf32eea6192d065e73d0231766

などと纏めておいたのですが、結局、同年中は「夢物語」と言えるような話にはなりませんでした。
その後も「宗教的空白」について時々検討しましたが、江戸末期には本当に徹底した「宗教的空白」が存在しており、明治に入ってむしろ、文明国には「宗教」が必要ではないかと考えてキリスト教に入信する人、逆にキリスト教に対抗するために仏教を革新するのだ、といった方向に目覚めた人が増えて、「宗教的空白」の範囲はかなり縮小していますね。
これはもちろん私の発見ではなく、例えば渡辺浩氏の「補論『宗教』とは何だったのか─明治前期の日本人にとって」(『東アジアの王権と思想 増補新装版』、東京大学出版会、2016)には、明治維新前後の頃の「宗教的空白」がいかに徹底したものであったかが具体的に描かれています。

「Religion の不在?」(by 渡辺浩)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/52635c996a4905b98584c8fff72f46e8
「戯言の寄せ集めが彼らの宗教、僧侶は詐欺師、寺は見栄があるから行くだけのところ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4374da95a1226e9bc0ea736416ba2c70

細かいことを言えば渡辺論文には問題が多いのですが、基本的な認識については私も渡辺氏に同意できます。
そして、武士のみならず上層農民レベルでも、近世の相当早い時期に「宗教的空白」の存在が確認できますね。

『河内屋可正旧記』と「後醍醐の天皇」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/32c50e451a30bc8476cb288a49b36481
『東アジアの王権と思想』再読
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3bd3406a87113eb41b992b55eaa44cdf

私は最初は「宗教的空白」が歴史的にどこまで遡れるのか、という観点から調べていたのですが、過去に遡れば遡るほど宗教感情が篤いということではなくて、拡大と縮小の大きな周期があるようです。
もちろんいつの時代にも篤信者と「狂信者」はそれなりの割合で存在しますが、中世まで遡ってみたところ、南北朝期は日本史上「宗教的空白」が特別に拡大した時期ではないかと思われます。

『太平記』に描かれた鎮西探題・赤橋英時の最期(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/744791400c717309a7ad7812b9744b66
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/72be48ea101ce58dfed89bf4991db12e
「からからと打ち笑ひ」つつ首を斬る僧侶について(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/991ec9ad3c8d2402ccd944273dbe413d

南北朝の動乱が終わって以降の「宗教的空白」の変動については未検討ですが、近世に入ると「宗教的空白」は徐々に拡大して、幕末に最も増大する感じですね。
ただ、以上に述べてきた「宗教的空白」とは、磯前順一氏の用語に従えば、「ビリーフ」(概念化された信念体系)が「空白」だということで、「プラクティス」(非言語的な慣習行為)は一貫して、広く薄く継続して来たように思われます。
そして、日本社会に精神的安定をもたらしたのは、少数の「ビリーフ」派ではなく、大多数の「プラクティス」派だろうというのが私の暫定的な結論です。

資本主義は「プラクティス」としての「宗教」か。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1039590e0e95bd9c21a8ee30f8ba03fe
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エマニュエル・トッドの所謂「宗教的空白」こそ日本に埋蔵された原油である。

2022-01-15 | 村上重良と「国家神道」
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 1月15日(土)13時39分36秒

斎藤幸平氏の『人新世の「資本論」』の最大の問題点はその愚劣な内容ではなくて、「終末論」を唱えるこのような本が四十万部以上も売れるという社会現象の方ですね。
ソ連崩壊から三十年以上経って、コミュニズムに対する免疫のない世代が激増した、ということが一つの要因だろうと思いますが、他の先進国や鬱陶しい二つの隣国に比べて経済の不調が延々と続いて、ある種、破れかぶれみたいな心境になっている人も増えているのでしょうか。
ま、貧すれば鈍する、という格言はマルクスの『資本論』以上に人間と社会の真理を衝いていますので、マルクスウイルスのサイトウコウヘイ変異株に感染した貧乏神信者たちが目指す「脱成長コミュニズム」とは正反対の方向で、日本を豊かにする方策をしっかり考えねばなりません。
そこで私は、従来は否定的に捉えられていた日本の「宗教的空白」に着目し、この「宗教的空白」こそが日本に埋蔵された豊かな「原油」であって、これを精製して輸出することにより日本を豊かにしたいと考えるものであります。
そもそも「宗教的空白」とは何か。
これは、直接にはエマニュエル・トッドの表現であって、トッドは『シャルリとは誰か? 人種差別と没落する西欧』(文春新書、2016)の冒頭、2015年10月25日付けの「日本の読者へ」において次のように書いています。(p7以下)

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 宗教的空白と、格差の拡大と、スケープゴート探しというこの問題設定において、日本はどう位置づけられるべきでしょうか。
 もし私の変数から極端に単純化した等式を引き出すなら、宗教的空白+格差の拡大=(つまり)外国人恐怖症(に到る)、となります。これを日本に当て嵌めるならば、等式の左辺〔上〕には一致を、右辺〔下〕には謎を確認することになります。
 等式の左辺は完璧に再現されます。日本の宗教的空白は、ヨーロッパのそれと同じくらいに徹底した空白です。神道は、ローカルな共同体と農耕社会の儀礼に根ざしていましたが、大々的な都市化により組織が深い部分で解体されました。仏教は、戦後の一時期には新たな形の宗教性の発展によって活力を取り戻したものの、ここ二〇年、三〇年の推移を見ると、カトリシズム同様に末期的危機のプロセスに入ったように見えます。葬儀におけるその役割までもがかなり本格的に疑問視されるようになっているのですから。
 日本における格差の拡大は著しい現象です。日本はもはや、国際比較の統計表の中でスカンジナビア諸国と並ぶ平等の極の一つではありません。まだアングロサクソンの国々の格差のレベルには達していませんが、そのレベルに近づいてきています。宗教的空白および格差の拡大(等式の左辺)を見れば、日本はまさに西洋の国です。あるいはむしろ、ヨーロッパの国です。米国には宗教性─これはより適切に定義される必要がありそうです─が存続していますから。
 しかし、右辺については何といえばよいのでしょうか。いうまでもなく日本は、ヨーロッパのあらゆる国がそうであるようにはイスラム恐怖症ではあり得ません。イスラム教徒は日本国内にはほとんどおらず、地理的にも近くもなく、海の向こうの存在です。実のところ日本は、人口の問題があるにもかかわらず、ドイツとは逆に、その問題の解決策としての大量移民の受け入れを、移民がイスラム教徒であるとないとにかかわりなく拒否してきました。では、日本の政治的行動はどうか。イスラム恐怖症に相当するような、内実をともなったどんな外国人恐怖症の擡頭も、私はそこに見出しません。すこぶるリアルな中国の脅威に対しても、日本のリアクションは穏健そのもののように思われます。ヨーロッパに見られるようなロシア恐怖症さえ観察できません。近代日本において日露戦争が占めている中心的な位置を考慮すると、ロシア恐怖症は容易に発生しそうなものですけれども。
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トッドは十代のころにフランス共産党員だった人なので宗教とは相性が悪く、もちろんキリスト教は理解できても、日本の宗教事情には何ともとまどったようですね。
トッドの所謂「宗教的空白」は、実際には何も存在しない真空ではなく、宗教的な何かではあっても狂信を生み出すことのない、例えていえばある種の不活性ガス、空気のようなものです。
ここに書かれたトッドの理解は、それ自体はあまり参考になるものではありませんが、日本の「宗教的空白」は「イスラム恐怖症に相当するような、内実をともなったどんな外国人恐怖症の擡頭」ももたらさず、非常に「穏健」なものであることは重要です。
仮にこうした「宗教的空白」を輸出することができるならば、世界の人びとに精神的安定を提供し、世界平和に資することになるはずです。
しかし、「宗教的空白」を輸出することができるのか。
その具体的方法が、私がこの五年ほどずっと考えてきた思想的課題です。

日本の宗教的空白(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9c685d9ef8a0773b9b1d90c3465625d5
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5a7c61ab0ad3b0b3e3be33d6adec2dfa
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一番優れた入門書、平山昇『初詣の社会史』(その4)

2019-11-14 | 村上重良と「国家神道」

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年11月14日(木)11時44分25秒

続きです。(p6以下)
章末の注記も加えておきます。

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 近世後期から明治前半の日本は儒学的教養が最も浸透した時期であった(13)。まず近世後期に、当時の知識人の主体であった儒者や武士のなかで思考の脱呪術化と非宗教化が進行し、彼らは宗教的なものを「愚民」向けのものであると見なした(14)。当然、彼らは寺社参詣とは疎遠であった。それゆえ、一八一〇年代に囚われて日本に滞在したゴローヴニンが「寺社なんかに一度も詣ったことはないといったり、宗教上の儀式を嘲笑したりして、それをいくらか自慢にしている」武士階級のことを書き留め、またあるいは、幕末に日本を訪れた英国人が箱館(現、函館)の寺院で「役人とか地位のある男性の姿はめったに見られ」ないことを観察したように、西洋から日本にやってきた人々が日本の知識人層の宗教に対する冷淡な態度について記した事例は枚挙にいとまがない(15)。

(13) 渡辺浩『東アジアの王権と思想』(東京大学出版会、一九九七年)196頁。
(14) 同「「教」と陰謀─「国体」の一起源」(渡辺浩・朴忠錫編『韓国・日本・「西洋」』慶應義塾大学出版会、二〇〇五年)三八九-三九〇頁。
(15) 渡辺京二『逝きし世の面影』(平凡社ライブラリー、二〇〇五年)五二六-五二八頁)
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渡辺浩氏の『東アジアの王権と思想』については当掲示板でもかなりしつこく検討し、批判したのですが、それは些末な問題に関してであって、儒学関係については私に渡辺氏を批判する能力はありません。

渡辺浩氏について
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9c98d53b1b8c239d74840025286625cc
一応のまとめ:二人の東大名誉教授の仕事について
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c72b9e6513f8ed3423832948724b2c3b

渡辺京二氏の『逝きし世の面影』は非常に重要なので、後で関係する部分を全部引用します。

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 さらに維新後になると、旧物を否定する文明開化の風潮、あるいはビリーフを優位視するキリスト教的な「宗教」観にもとづく現世利益信仰批判があいまって(16)、この傾向はますます顕著となった。それゆえ、編集者も読者も知識人主体であった明治前期の新聞では、社寺参詣をする庶民たちがしばしば「旧弊連中」「御幣連」などと嘲笑の対象になった(17)。

(16) 磯前順一「近代における「宗教」概念の形成過程」(『岩波講座 近代日本の文化史3 近代知の成立』岩波書店、二〇〇二年)。同論文も指摘するように(一七四頁)、プロテスタント的な倫理的宗教観とも通じる近世以来の儒教的素養が当時の知識人層に存在していたことが、現世利益信仰批判の基礎となった。
(17) たとえば以下のような記事を参照。「歳ハ新玉〔あらたま〕れども心ハ改まらぬ旧弊連中」(『読売』明治九年一月七日「説話〔はなし〕」)、「恵方参りの御幣連」(『東日』明治二〇年一月四日「新年の概況」)。
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磯前氏の「近代における「宗教」概念の形成過程」は非常に重要な論文ですが、磯前説の紹介は別の論文に即して行う予定です。
以下は注記は省略します。

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 明治の後半になると、近代的な教育制度のもとで高等教育レベルの学歴を獲得した知識人が徐々に活躍の領域を広げていき(18)、明治二〇年前後に生れた人々が最終学歴を修了して社会で活躍するころまでには日本の知識人の主体は学歴エリートたちが占めるようになるが(本項末の[補足]を参照)、この人々もまた社寺参詣とは疎遠な人々であった。もちろん彼らが受けた西洋合理主義を基本とする近代高等教育が彼らの思想形成に与えた影響が大きかったためであろうが(19)、別の理由もある。彼らの多くは故郷を離れて東京をはじめとする主要都市に集まって高等教育を受け、しばしばそのままその都市の「山の手」に定着するというコースをたどった。都市の生活空間においていわば新参者であった彼らは、江戸の伝統を気取る「下町」の人々から「野暮」などと見なされたのに対抗して、洋風のライフスタイルや「教養」で身を固めたうえで、「下町」を「下卑ている」などと貶した(20)。それゆえ、彼ら「山の手」の知識人たちは、「下町」庶民主体の社寺参詣に積極的に参加しようとはしなかったのである。
 このように、近世以来明治末期に至るまで、日本の知識人は時期によってその中身を変化させながらも、おおむね社寺参詣とは疎遠な存在であった。したがって、初詣があらゆる国民階層を取り込んだナショナルな行事へと変容する過程を理解するために、第二部・第三部では庶民の娯楽行事であった初詣がいかにして知識人へと波及していったのか(逆にいえば、知識人はどのような回路を経て初詣に参入することになったのか)という問題を検討していきたい。
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一番優れた入門書、平山昇『初詣の社会史』(その3)

2019-11-13 | 村上重良と「国家神道」

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年11月13日(水)10時28分15秒

実は『初詣の社会史』には「国家神道」そのものに関する言及はそれほどありません。
しかし、「思想や言説のレベルに限定して議論されがちなナショナリズム」という平山氏の指摘は「国家神道」論争にもそのままあてはまります。
そして、平山氏はナショナリズムや「国家神道」に関わる人たちが陥りがちな共通の盲点についても重要な指摘をされています。
それは「序章 「国民的行事」はいかにして誕生し、持続しえたのか」の「二 基本視角」の(2)に出てくるので、以下、丁寧に紹介します。(p5以下)

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(2)「下→(プラクティス)→上→(言説)→下」の回路

 第一部で明らかにするように、初詣は明治期の都市において庶民の娯楽的な参詣行事として形成されたものであり、もともとはナショナリズムに結びついていたわけではない。ところが、初詣はやがて知識人にも波及し、あらゆる国民層を取り込んだナショナルな行事へと変容していく。それはどのようなプロセスを経て可能になったのであろうか。
 近代日本におけるナショナリズムの浸透過程については、あえて単純に図式化していえば、従来は「上→下」の回路が暗黙の前提となってきた。これに対して、民衆は単なる受動的な存在ではないとして、上からの施策を民衆が「とらえ返す」という側面に着目する視角が提起された。しかし、これも「上」を発信者としてのみとらえている点では従来の議論と変わりはない。「下」の文化が「上」へと波及し、それを「上」が「とらえ返す」という逆の回路も考える必要があるのではないだろうか。
 本書の内容を一部先取りしていえば、初詣の展開過程で興味深いのは、もともとはナショナリズムとは別の文脈で庶民の娯楽行事として生まれたプラクティスが、大正期以降に知識人へも波及し、彼らによってナショナリズムの文脈でとらえ返されるようになり、そこで生じた言説が社会全体へと還流して、娯楽とナショナリズムの二面性を内包した「国民」の行事になっていくという「下→(プラクティス)→上→(言説)→下」の回路が見出せるということである。初詣の成立と展開を追うことでこのプロセスを浮かび上がらせることが、本書の重要な課題の一つである。
-------

いったん、ここで切ります。
「上からの施策を民衆が「とらえ返す」という側面に着目する視角が提起された」に付された注(12)を見ると、これは大門正克氏の『民衆の教育経験』(青木書店、2000)のことですね。
最近、岩波から増補版が出たようです。

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岩波現代文庫
増補版 民衆の教育経験 戦前・戦中の子どもたち

子どもが教育を受容してゆく過程を,国家による統合と,民衆の捉え返しとの間の反復関係としてとらえ直す.
https://www.iwanami.co.jp/book/b473146.html

さて、続きです。

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 ところで、この回路の「上」に相当する層として、本書では主として知識人を想定している。もちろん、「知識人」の中身は超時代的に一定しているわけではなく、時期によって変化するものである。しかしながら、ここで確認しておきたいのは、そのような中身の時代的変遷にもかかわらず、近世から明治期に至るまで、日本の知識人は寺社参詣と距離を置くという点では基本的に一貫していたということである。
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平山氏の「知識人」の定義は若干分かりにくところがあるので、後で少し説明します。
そして、この後の部分は8月4日の投稿で既に一部を引用しているのですが、次の投稿で改めて全部を丁寧に紹介します。

平山昇『初詣の社会史 鉄道が生んだ娯楽とナショナリズム』
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ddcc4ae665a9553914f37dcdc4466a1f

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一番優れた入門書、平山昇『初詣の社会史』(その2)

2019-11-12 | 村上重良と「国家神道」
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年11月12日(火)18時22分10秒

高木博司氏(京都大学人文科学研究所所長、1959生)が初詣という「一見するといかにも"伝統"の如く思われている行事が、実は近代以降の「創られた伝統」であるという説を初めて提示した」(p1)のは「初詣の成立─国民国家形成と神道儀礼の創出」(西川長夫・松宮秀治編『幕末・明治期の国民国家形成と文化変容』新曜社、1995)という論文においてであって、それほど古い話ではありません。

高木博志(1959-)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%9C%A8%E5%8D%9A%E5%BF%97
http://www.zinbun.kyoto-u.ac.jp/zinbun/members/takagi.htm

この論文が収められた高木氏の『近代天皇制の文化史的研究』(校倉書房、1997)を「一万円という痛い出費に泣きそうに」なりつつ購入した平山氏は「その後、東京における初詣の近代史をテーマにして卒論を書きあげ」、「そのコピーを携えて、三鷹の自宅から自転車をこいでパルテノン多摩まで高木先生の講演会を聞きにでかけ」、高木氏に手渡したのだそうです。
「講演終了後に何の面識もない学生からいきなり「読んでください」と卒論を手渡されたにもかかわらず、高木先生は嫌な顔ひとつせずに応対してくださり、しかも、後日詳細なコメントを送ってくださった」のだそうで、なかなか良い話ですね。(「あとがき」、p308)
ま、それはともかく、続きです。(p2以下)

-------
 第二に、「創られた伝統」は、いったん創られてしまえばそのまま自動的に存続していくものなのだろうか。
 たとえば、戦前日本においては、ナショナリズム高揚の節目ごとに建国神話や「忠君愛国」イデオロギーにちなんだ記念行事が数多く創出された。【中略】
 研究者は往々にして戦前日本における天皇制イデオロギー色が濃厚な「祝祭」の盛り上がりを強調して叙述しがちであるが、たとえその瞬間にいくら国民の多くが盛り上がったとしても、その後(とくに敗戦後)雲散霧消してしまったのであれば、近代から現代にまで至る「日本(人)」という一体感の維持に対する持続的な影響力という点では、決して過大評価すべきではないだろう。
 そうすると、「創られた伝統」について、「創られる」プロセスの解明ももちろん重要であるが、「なぜそれが持続しえたのか」という点についても検討する必要があるだろう。従来の「創られた伝統」をめぐる議論にはこの後者の視点が十分にいかされてこなかったと思われる。もっともこれは、「創られた伝統」モデルを提唱したE・ホブズボウムが「〔「創られた伝統」の〕存続の可能性よりは、むしろそうした伝統の発現や確立の方にわれわれの本来の関心がある」と明瞭に示し、このスタンスがその後の日本近代史研究にも影響を与えてきたという要因が大きかったのであろう。
 以上をふまえて、本書では、初詣をナショナリズムの文脈だけに閉じ込めずに、都市化の進展および娯楽とナショナリズムという点に着目しながら、成立期のみならず展開過程にまで視野を広げて、その歴史的過程を明らかにしていくことを課題として設定したい。全体としては、雑多な人々が集住する都市部において、娯楽とナショナリズムが絡み合いながら人々の「自発性」「欲求」が喚起されることによって、初詣が「上から」の強制や動員によらない自発的なプラクティスとして浸透していき、今日にまで至る強固な持続性をもつ「国民」的な正月行事として確立するに至ったという見通しをもっている。このような視角から検討することで、思想や言説のレベルに限定して議論されがちなナショナリズムを、近現代日本を生きた人々の生活と関わった領域からとらえなおすことができるのではないかと考えている。
-------

つい先日、9日に皇居前広場で行われた嵐のコンサート、じゃなくて「天皇陛下の御即位をお祝いする国民祭典」や、翌10日の即位祝賀パレード「祝賀御列の儀」の様子などを思い浮かべると、「娯楽とナショナリズムが絡み合いながら人々の「自発性」「欲求」が喚起される」、「「上から」の強制や動員によらない自発的なプラクティス」といった平山氏の視角は本当に鋭くて、初詣以外にも色々応用ができそうな感じがします。
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一番優れた入門書、平山昇『初詣の社会史』(その1)

2019-11-11 | 村上重良と「国家神道」

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年11月11日(月)11時44分37秒

一昨日、9日(土)は年内に刊行予定らしい東島誠氏の『「幕府」とは何か』(NHK出版)をめぐるツイッター界の第二次東島騒動にちょこっと参加してしまい、昨日はずっと外出していて投稿できませんでした。
スタートでのんびりしてしまいましたが、これから暫く、一日一投稿程度のペースで「国家神道」について論じて行くつもりです。
さて、「国家神道」をめぐる厳しい論争の世界を眺める前の準備体操として、まず第一にお奨めしたいのが平山昇氏(九州産業大学地域共創学部准教授)の『初詣の社会史─鉄道が生んだ娯楽とナショナリズム』(東京大学出版会、2015)です。
同書については、8月4日の投稿で序章からほんの少し引用しました。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ddcc4ae665a9553914f37dcdc4466a1f

同書の目次を東大出版会サイトから引用すると、

-------
序 論 「国民的行事」はいかにして誕生し,継続しえたのか
第一部 初詣の成立
 第一章 明治期東京における初詣の形成過程――鉄道と郊外が生み出した参詣行事
  補論 「初詣」の用法について
 第二章 恵方詣と初詣――東京と大阪
第二部 初詣とナショナリズムの接合
 第三章 二重橋前平癒祈願と明治神宮創建論争――天皇に対する「感情美」の変質
 第四章 知識人の参入――天皇の代替りと明治神宮の創建
  補論 「庶民」についての若干の補足――日雇労働者に注目して
第三部 初詣の展開――都市の娯楽とナショナリズム
 第五章 関西私鉄・国鉄と「聖地」
 第六章 戦間期東京の初詣――現代型初詣の確立
 第七章 初詣をめぐる言説の生成と流通――〈上から〉のとらえ返し
 終章 鉄道が生み出した娯楽行事とナショナリズムの接合

http://www.utp.or.jp/book/b307129.html

となっています。
細かいことですが、冒頭の一行は、正しくは「序論」でなく「序章」、「継続」ではなく「持続」で、僅か一行に二つも誤記がありますね。
ま、それはともかく、「序章 「国民的行事」はいかにして誕生し、持続しえたのか」の構成を見ると、

-------
一 課題の設定
二 基本視角
(1)「鉄道+郊外」
(2)「下→(プラクティス)→上→(言説)→下」の回路
(3)天皇に対する国民の「感情美」
(4)都市の娯楽とナショナリズム─鉄道の集客戦略への注目
(5)「社寺」と「寺」
三 構成と史料
-------

となっています。
冒頭を少し引用してみます。(p1以下)

-------
 本書は、明治期の都市化のなかで庶民の娯楽行事として生まれた初詣が、大正期以降知識人へと波及し、娯楽とナショナリズムが絡み合いながら、知識人から庶民まであらゆる「国民」を包摂した正月行事として定着していく過程を明らかにするものである。

 一 課題の設定

 初詣はいうまでもなく日本の代表的な正月行事であり、現在都市部の有名社寺では百万人単位の参拝客を集めるほどの賑わいを見せている。この一見するといかにも"伝統"の如く思われている行事が、実は近代以降の「創られた伝統」であるという説を初めて提示したのは、高木博志であった。高木は、初詣は「官が上から、宮中儀礼と連動させて、正月元日に特別の意味をもたせ」るべく創出したもので、その後庶民が娯楽としてとらえ返していったと説明している。すなわち、初詣はナショナリズムの文脈で「上から」創出されたものであるという説である。この説に対して、二つの疑問が生じる。
 まず第一に、「上から」の意図というものは、そのようにすんなりと一般社会に浸透しうるものなのだろうか。
 たしかに、地方町村レベルでみれば、「氏神=地域社会」という従来の近代天皇制あるいは国家神道をめぐる研究が基本的前提としてきた「上から」の国民教化回路の一環として、高木説が妥当すると思われる事例もないわけではない。だが、問題は都市部である。容易に想像できるように、移動の自由が保障されて各地から雑多な人々が流入して集住するようになった近現代の都市においては、「氏神=地域社会」という枠組みでの統一的な儀礼の実現は容易ではない。このような都市部において「上から」の強制や動員によらない自発的なプラクティスとして初詣が定着するに至った過程を明らかにする必要があろう。
 本書第一部の内容を先取りしていえば、東京や大阪といった都市部の初詣は、明治期に鉄道の展開によって郊外行楽が活性化するなかで近世以来の正月参詣が再編されて成立したものである。したがって、もともとは庶民中心の娯楽という性格が強いものであり、ナショナリズムの文脈で「上から」広められたものではなかったのである。
 しかし、だからといって高木説を否定して事足れりとするわけにもいかない。というのも、その後の歴史のなかで初詣がナショナリズムと深く関わるようになったのもたしかなのである。もともとナショナリズムとは別次元の庶民の娯楽として誕生したはずの初詣が、なぜ、いかにして、ナショナリズムと結びついていくことになったのか、ということについて考える必要がある。
-------

いったん、ここで切ります。

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そろそろまとめに入ります。

2019-11-08 | 村上重良と「国家神道」

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年11月 8日(金)10時23分16秒

8月10日に、

テクストとしての石川健治「精神的観念的基礎のない国家・公共は可能か?─津地鎮祭事件判決」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3c0729c9524b834063705870163f4ea5

という投稿をしてから約三ヵ月、あちこち脱線しながら「国家神道」を検討してきました。
掲示板には反映させることのできなかった文献を含め、「国家神道」論争に参加している宗教学者・歴史学者の書籍・論文にはある程度目を通し、近時の学説の動向は一応把握することができました。
「国家神道」問題は、その出発点に村上重良という(学者としてはともかく)社会運動家としては天才的な存在が位置していて、後続の学者たちも村上に振り回されがちでしたが、村上の『国家神道』(岩波新書、1970)の出版以降、半世紀近い時が流れ、異なる立場の学者たちによる厳しい論争を経て、現在では実証的な研究水準は相当高度になっています。
他方、それだけに宗教学・歴史学の現在の水準と憲法学、そして複数の最高裁判所大法廷判決を含む司法の動向とのズレがますます拡大しているように思われます。
学界では相手にされなくなって久しい古臭い学説が世間ではそのまま流通していることは間々ありますが、村上の「国家神道」論の場合、単にそれが一般人の歴史認識に影響を与えているだけでなく、最高裁判所裁判官を含む多数の法曹の歴史認識を呪縛している点で、かなり特異な状況が続いています。
この状況が一朝一夕に変わるとも思えませんが、私は仕事の関係で法律の世界をある程度知っており、また個人的に歴史の勉強を継続して来たので、司法との関係を踏まえた上でこの問題を解説するのにはそれなりに適した人間だと思います。
そこで、法律専門家ではあるけれども歴史学については特に詳しくない人々を主たる読者と想定して、「国家神道」に関する最新の学説と文献を紹介しつつ、一般人が陥りやすい誤解のポイントを整理してみようと思います。
前提として、「国家神道」に関する判例の動向と憲法学の教科書の記述については京都産業大学法学部教授・須賀博志氏の「4章 戦後憲法学における「国家神道」像の形成」(『史学会シンポジウム叢書 戦後史のなかの「国家神道」』、山川出版社、2018)が詳しいので、それを参照していただきたいのですが、同論文の重要部分はここでも紹介する予定です。

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山口輝臣編『戦後史のなかの「国家神道」』

2019-11-04 | 村上重良と「国家神道」
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年11月 4日(月)11時29分5秒

『大系仏教と日本人10 民衆と社会』(春秋社、1988)の「月報」の村上・島薗対談をパラパラ眺めてみましたが、もともと新興宗教に関心の乏しい私にとっては格別興味を惹かれる記述はありませんでした。
ちょっと珍しかったのは村上の写真が出ていたことで、自著に「著者近影」を載せることを好まなかったらしい村上の晩年、といっても還暦のころの写真は初めて見ました。
さすがに色川大吉が「細い顔に金縁眼鏡が似合うこの学習院出の紳士は、キャリアガールにもてるだろう」と描いた往年の面影はなく、かなり太って年齢相応のおじさん的風貌になっていましたね。
二人の肩書は1948年生まれの島薗進が東京大学助教授なのに対し、二十歳上の村上重良は慶応大学講師で、島薗から「先生」「先生」とおだてられても、村上が島薗同様に「さわやかな気分」で対談を終えたかというと若干の疑問も残ります。
さて、村上が1991年に亡くなってから三十年近く経過し、その「国家神道」論は政教分離関係の裁判闘争を好む運動家たちの間では依然としてバイブル的存在ではあるものの、宗教学の世界では村上の後継者は島薗進くらいであり、何とも寂しい状況ですね。
そして山口輝臣編『戦後史のなかの「国家神道」』(山川出版社、2018)を見ると、村上はもちろん、その後継者である島薗の「国家神道」論もずいぶん冷ややかな扱いを受けています。

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「国家神道」を、戦後日本の政治史・宗教史・社会運動史など幅広い分野から議論し、今後の研究の基盤となる方向性を示す。
2017年史学会大会シンポジウムをもとに編集。充実した附録も収載。

https://www.yamakawa.co.jp/product/52367

まあ、そういう結果となったのは、もともと村上の「国家神道」論が史料と格闘した結果の緻密な実証的研究ではなく、1960年代後半の「反動勢力」による靖国神社国営化推進等の政治的動きに危機感を抱いた村上が、極めて短い期間に演繹的に作り上げた政治闘争のための「理論」だったからだ、ということが現在では明らかになっています。
村上は実証的な観点からの学問的批判に正面から応えたことはおそらく一度もなく、『国家神道』(岩波新書、1970)以後も夥しい分量で出版された著書では、史料的根拠に基づかない独自の見解をひたすら繰り返すだけでした。
村上の政治的立場を支持する側の研究者であっても、村上の学者としての姿勢には疑問を抱く人が多かったでしょうね。
東日本大震災時の原発事故以降、活発な反原発運動で有名となった島薗進も、その行動パターンは村上重良に良く似ていますね。

島薗進(1948-)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E8%96%97%E9%80%B2
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「宗教教団を訪問する時は絶対にすなおに相手を信用してはいけない」(by 村上重良、ただし伝聞)

2019-10-31 | 村上重良と「国家神道」

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年10月31日(木)22時40分57秒

村上重良は1991年2月11日に亡くなっていますが、これは建国記念日ですね。

村上重良(1928-91)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E4%B8%8A%E9%87%8D%E8%89%AF
https://kotobank.jp/word/%E6%9D%91%E4%B8%8A%20%E9%87%8D%E8%89%AF-1656507

果たして偶然なのか。
そして村上を記念する論文集はおろか、雑誌の特集もないし、追悼文も殆ど見当たらないことは以前書きました。
私が国会図書館の検索で見つけた唯一の追悼文は島薗進氏の「村上重良先生をしのぶ」(東京大学文学部宗教学研究室『東京大学宗教学年報.別冊 9巻』、1992)で、これも分量は僅か一頁ちょっとです。

https://iss.ndl.go.jp/books/R000000025-I005822022-00

この文章はPDFで読めますが、参照の便宜のために引用してみます。

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 村上重良先生のご業績は宗教学界でよりも、歴史学界でより高く評価されているかもしれない。『近代民衆宗教史の研究』(1958年、第2版、1963年)が近世近代の宗教運動の研究に与えた影響は大きい。「民衆宗教」の語の用法については、最近さまざまな議論がなされるようになっているが、ここ三十年の国内でのこの語の用法は、村上先生のご著書に従ったものである。ところがこの語は宗教学の世界ではあまり使用さす【ママ】、主に民衆思想史を志す歴史学者によって頻用されてきた。
 かといって、宗教学者が村上先生のお仕事を無視してきたというわけではない。私のように日本の新宗教や近代宗教史の研究を志す者にとっては、いつも村上先生のお仕事が眼前にあった。先生のお仕事の多くは、アカデミックな論文として形を整えられたものではなかった。資料の検討とか、問題意識の追求とかいう点で、目ざましい展開があるというわけではなかった。しかし、多くの場合、信頼してついていくことができる確かさがあった。とにかくよく資料を見ておられ、事実関係について大きな間違いがなかった。比較的新しい現象、しかも宗教運動という扱いにくい対象を相手にして、よくここまで冷静に資料に目を通されたと感服することが多かった。
-------

いったん、ここで切ります。
「村上重良先生のご業績は宗教学界でよりも、歴史学界でより高く評価されているかもしれない」、「先生のお仕事の多くは、アカデミックな論文として形を整えられたものではなかった」ということは、村上が62歳で亡くなるまで大学で専任の職を得られなかった理由なのですかね。
新宗教に関する資料収集や翻刻での貢献はともかく、きちんとした論文に纏めていない以上、アカデミックな業績とは認められなかった、ということでしょうか。

-------
 もっとも國學院大学の阪本是丸さんなどによると、先生の宗教制度史の叙述には問題点が多いという。ただ、この批判は「国家神道」に対して厳しい視点をもち、靖国問題などにも取り組んでこられた先生の政治的立場とも関わっている。明確な政治的立場をもっておられることは先生の強さであったが、敵と味方がはっきり別れてしまう寂しさを、その後ろ姿に感じることがあった。しかし、と私は考え込んでしまう。やや片寄りはあっても、明確な立場をもって、宗教の世界をきちんと切り裁いていく先生のような方が、世論の形成にとってはどうも必要なようだ。村上先生が去られた後、大きな穴ぼこがあいてしまい、宗教を見る世間の目の混乱が深まっているように思えてならない。宗教と政治という点で、立場こそ違え、先生が堂々と立っておられたので、後輩はその後ろに隠れておれたとも思える。
-------

阪本是丸氏や新田均氏など、「国家神道」や靖国問題をめぐって村上とは異なる「明確な政治的立場をもっておられる」研究者以外でも、磯前順一氏や山口輝臣氏、更にはもっと若手の研究者の大半が村上の「宗教制度史の叙述には問題点が多い」、要するに実証的ではないと考えておられるようで、既に学説レベルでは村上の評価は定まっていると言ってよさそうですね。
もっとも、『国家神道と日本人』(岩波新書、2010)で村上の「国家神道」論をアップデートさせたと語る島薗氏の評価は別でしょうが。

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 先生が宗教教団に調査に赴かれるとき、どのような姿勢で臨まれるのかは、私にとって謎だった。あるとき、私たち若い者を前に、次のような主旨のことをおっしゃった。宗教教団を訪問する時は絶対にすなおに相手を信用してはいけない。教団側は事実そのままを知ってもらいたいのではない。資料には必ず裏があると思って目を通さなければならない。それをうかがって私は少し驚いたが、今思えばそのご発言は先生の厳しい自己抑制の姿勢に裏打ちされたものであろう。先生は宗教教団の思想や行動を高く評価されたり、厳しく批判されることがあるが、それはすべて先生の価値評価の基準からずれていない。教団側と情緒的にもたれあったり、感情的に対立したりということがほとんどなかったのであろう。これは容易なことではない。
-------

「宗教教団を訪問する時は絶対にすなおに相手を信用してはいけない」云々について、島薗氏は「先生の厳しい自己抑制の姿勢に裏打ちされたものであろう」と言われますが、普通に考えれば、村上自身が教団調査で何度も騙された苦い経験を重ねたからではないですかね。

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 私にとってもっとも印象的な思い出は、春秋社の『大系仏教と日本人10 民衆と社会』(1988年)の月報で対談をさせていただいたときのことである。論点は主に大正時代以降の新宗教をどのように評価するかという点であった。初めて大先輩に向かって私見を述べる機会を与えられた私は、勢い込んで考えを述べた。先生はその本に収められた私の論文の意図を正確に理解しておられ、それにのっかって述べる私の主張に、いちいち見事に答えられた。「幕末維新期というのは実に自由な空気があったということをつくづく思います」という先生のお言葉がはっきり記憶に残っている。意見は最後まで対立したままだったが、私は大事なことを習ったと思い、さわやかな気分だった。
 村上先生が唯物論者であることは衆目の一致するところである。攻撃的な論陣もたびたび張られたし、裁判闘争には執念のようなものもお持ちだったろう。しかし、私の頭の中では、先生は托鉢僧のようにひょうひょうとしておられるのである。染井墓地をよく散歩されるというお話をうかがったせいかもしれない。ともあれ、そういう像が見える。野原にすっくり一本の木が立っていて目印となっていた。その目印が見えなくなってしまった。
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『大系仏教と日本人10 民衆と社会』は未読なので、後で内容を確認してみたいと思います。

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村上重良の眼に映った「国家神道の本質」(その4)

2019-10-31 | 村上重良と「国家神道」

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年10月31日(木)13時29分27秒

続きです。(p236以下)

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 国家神道は、多元的に発達し併存してきた日本の諸宗教の上に、実体のない近代天皇制国家の理念として君臨した。そのため、この内容のない国教は、教義をもたず、宗教ではないというたてまえで、政治的にはきわめて有効な機能を獲得した。その理念が、民主主義、社会主義等の実体のある思想や政治的観念ではなく、神話に立脚する理論以前の精神であったことは、国家神道そのものの矛盾である反面、かけがえのない強さでもあった。国家権力は、その時々の政治的必要に応じて、その中に恣意的な内容をもりこむことができたからである。
-------

「国家権力は、その時々の政治的必要に応じて、その中に恣意的な内容をもりこむことができた」は、これだけだと分かりにくいですね。
『国家神道』(岩波新書、1970)には村上の眼からみた「国家神道体制」の発展段階の時期区分が述べられていて、おそらくそれに対応する主張と思われます。

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 太平洋戦争の敗戦によって、国家神道は解体し、「日本国憲法」は、政治と宗教の分離によって裏づけられた「信教の自由」(第二十条、第八十九条)を確立した。国家神道は、民間の一宗教、神社神道に変わり、国家的公的性格を喪失した。神社神道の存在は、すでに国民の大多数にとっては、主体的関心の主要な対象ではなくなったといえるが、一九七〇年代の日本社会において、なお潜在的顕在的に国民の生活に広範なかかわりあいを保っている。
 一九七一年の正月三が日の初詣では、前年の一六パーセント増で、全国合計五千二百余万の人々が、各神社に参拝したと推定されている。神社寺院をつうじて全国第一位の熱田神宮の一八五万人をはじめとして、鶴岡八幡宮、伏見稲荷、明治神宮等の有名神社には、いずれも百数十万の参詣者があった。統計数理研究所の国民性調査によると、数年来、結婚する青年男女の約三分の一は、神前結婚式を挙げている。
 一方、反動勢力による神社の復活再編成も、国家神道解体の翌一九四七年、神社関係者によって宗教法人、神社本庁が設立されて以来、着々とすすめられてきた。日本には、一九六九年現在で約八万の神社があるが、そのうち約七万九千社が神社本庁に所属し、神社本庁傘下の神職有資格者は一万七千余人にのぼっている。神社本庁は、国家神道の思想と構造をうけつぎ、神社の民族宗教としての性格を公然と主張し、国家的公的性格をはなれて神社神道はありえないとして、国家神道の復活を要求する反動的宗教勢力の中心をなしている。国民の大多数からは主体的な関心をもたれないまま、実際には国民生活に広く深い影響を及ぼしている神社神道は、一九七〇年代の日本において、一定の政治的役割を担っており、その反動的な影響力を拡大しつつある。一九七一年一月、三たび国会に提出され、国民の広範な反対運動によって廃案となった「靖国神社法案」は、その端的な現われである。靖国神社と天皇との結びつきも、講和成立後の一九五二年以来、公然と復活し、一九六六年には、海上自衛隊の練習艦隊幹部と実習生一六〇名が靖国神社に事実上の公式参拝を行なった。かつて天皇崇拝と日本軍国主義の巨大な支柱であった靖国神社の国営化は、そのまま国家神道の復活を意味する既成事実となるであろうことは疑いない。あらためて言うまでもなく、国家神道は、民主主義の本質と全く相容れない本質をもっている。国家神道の復活を阻止するたたかいは、津地鎮祭訴訟の第二審判決で、偉大な勝利をかちとったが、この複雑困難で曲折に富むたたかいは、日本の民主主義を擁護し、発展させるために不可避のたたかいに他ならないといえよう。
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以上で『津地鎮祭違憲訴訟─精神的自由を守る市民運動の記録』(新教出版社、1972)所収の「Ⅲ論説 1 国家神道の本質」を全て紹介しました。
論文末尾に記された執筆時点での村上の肩書は「龍谷大学講師・宗教学」となっています。
村上は1928年生まれなので、当時、44歳くらいですね。

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村上重良の眼に映った「国家神道の本質」(その3)

2019-10-30 | 村上重良と「国家神道」
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年10月30日(水)11時16分14秒

続きです。(p234以下)

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 国家神道は、共同体の祭祀を、国家的規模にそのまま拡大した宗教であったから、仏教、キリスト教、天理教等のように、個人の内面にかかわる契機を全く欠いていた。その意味で国家神道は、内容のない国家宗教であり、教派神道、仏教、キリスト教のいわゆる神仏基三教の上に君臨してこれらを統制支配し、国家神道体制を形成することで、はじめて国家宗教としての実体をつくりだすことができた。国家神道となった神社神道は、もっぱら国家の祭祀を営むことで、近代天皇制国家の宗教的性格を基礎づけたのである。
 このような宗教国家のもとでは、諸宗教は国家神道に従属し、近代天皇制国家への忠誠を表明することによってのみ、その活動を許されていた。国民の基本的権利としての「信教の自由」は、国家神道体制下で存在することは原理的に不可能であった。
-------

仏教・キリスト教と並んで天理教が出てくるので、村上の著作に慣れていない人には些か唐突な印象を与えるかもしれませんが、村上は新興宗教研究のパイオニア的存在で、天理教・大本教・黒住教・金光教などの教典を翻刻しています。
村上より前の世代の宗教研究者は新興宗教など頭からバカにして真面目に取り組まないか、あるいは共産党系の佐木秋夫のように政治的に利用できそうな団体には近づく、というスタンスだったのですが、村上は新興宗教に関する基礎的な文献を翻刻・解説するという地道な作業を行なっており、その点では学界に貢献していますね。
ただ、新興宗教に熱を入れた分、仏教・キリスト教についての業績は貧弱で、バランスの悪さは否めません。
また、「このような宗教国家のもとでは、諸宗教は国家神道に従属し」云々は村上特有の決まり文句ですが、こうした表現を見る度に、「諸宗教」の中でも仏教、特に浄土真宗あたりにはいったいどんな「従属」の実態があったのか、不思議に感じます。
前回の投稿で、コメントは控える、みたいなことを言ったばかりですが、「個人の内面にかかわる契機を全く欠いていた」ものをそもそも宗教と呼べるのだろうかとか、「内容のない国家宗教」が他の宗教の上に「君臨してこれらを統制支配」することが可能なのだろうかとか、次々に疑問が湧いてきて、ついつい余計なことを言いたくなってしまいます。

-------
 国家神道の本質は、日本の民族宗教の特質をたくみに利用して、上からつくりあげた宗教的政治的制度であり、近代天皇制国家の「精神」であったといえよう。民族宗教は、生活と生産のための共同体の、全構成員による祭祀であり、そこでは、宗教集団と社会集団とが一体であったから、宗教集団への参加は自然形成的であるとともに強制的であり、そこにはもとより「個人」は存在せず、「信教の自由」は求むべくもなかった。国家神道体制下の日本においては、日本古来の伝統という擬制に立って、国家神道イデオロギーの無制限の強制が強行された。この強制の成功は、もとより強権による国民の基本的人権の侵害と、民間の諸宗教にたいする統制弾圧に負うところが大きかったが、同時につぎのような日本社会の特殊な諸条件によって、はじめて可能になったと考えられる。第一には、日本においては国土、人種、言語の自然形成的な統一が、歴史上、きわめてはやくから実現していたこと、第二には、近代以前の生産力の発展が不活発であったことを反映して、明治維新にいたるまで政治権力の交替が不徹底であり、重層的に旧権力が温存され、古代いらいの宗教的権威である天皇制がほとんど形骸化したのちも、ともかく存続してきたこと、第三に、日本人の伝統的な宗教的観念の特質、すなわち神と人との断絶がなく、聖と世俗との相互移行が体質化していて、宗教と政治との緊張関係、両者の領域の区分と限界についてのきびしい合理的判断が発達していなかったこと、等の諸条件である。
-------

村上の「民族宗教」の概念は分かりにくいのですが、『国家神道』(岩波新書、1970)には一応の定義と説明があります。
また、「日本社会の特殊な諸条件」も一応理解は可能ですが、「神と人との断絶がなく、聖と世俗との相互移行が体質化」している社会において、「現人神」たる天皇とは何なのだろうか、といった疑問も生じます。
「現人神」なんていうのは単なる美称で、知識層はもちろん庶民であっても、それが単なる「擬制」であることを知っていた、というのなら話は簡単ですが、村上は他の著作では「現人神」を絶対的な存在として描いているので、村上が「日本社会の特殊な諸条件」と「現人神」の関係をどのように整理していたのか、私にはまだ理解できていません。
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村上重良の眼に映った「国家神道の本質」(その2)

2019-10-29 | 村上重良と「国家神道」
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年10月29日(火)09時35分14秒

前回投稿で引用した「原始社会で成立した民族宗教としての性格を、高度に発達した資本主義社会である現代の日本社会において、なお保持している」(p231)といった個所など、現在の神道史研究の水準から見れば相当に問題がありますが、こういう表現に一つ一つコメントしていると読みづらくなりそうですね。
そこで「1 国家神道の本質」については全体の紹介を優先し、コメントは基本的な問題点の指摘程度にとどめようと思います。
ということで、続きです。(p232以下)

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 国家神道の成立により、すべての神社は国家の祭祀としての公的性格を与えられ、天皇の祖先神アマテラスオオミカミを祀る伊勢神宮(皇太神宮、正式には「神宮」)は、全神社の本宗(総本山)とさだめられた。神社は社格を与えられて系列化され、さらに靖国神社、明治神宮をはじめとして国内においても、植民地、占領地においても、続々と新神社が創建され、天皇制イデオロギーを支え、強化する役割を担った。
 国家神道の確立にたいして、他の宗教からは、さまざまな抵抗が行われた。「帝国憲法」第二十八条は「信教ノ自由」をうたっていたが、その本質は、国家神道の枠内での宗教活動の許容にすぎなかった。国家神道は、みずから宗教的機能を切り捨てて、宗教ではない「国家の祭祀」というたてまえを主張することによって、自己の存在を正当化した。こうして国家神道は、近代天皇制国家の理念そのものとして、宗教者、無宗教者の別なく、全国民に強制されることが可能となった。国家神道は、非宗教、超宗教の国家祭祀とされたが、これは国家神道がもっぱら祭祀を中心とする宗教であったことを意味している。国家神道のすべての祭祀は、最高の儀礼執行者であり、生き神(現人神)である天皇の祭祀(宮中祭祀)を基準として組みたてられ、全国民にこれへの参加を強制することで、国民の生活意識に天皇崇拝と神社信仰を徹底化させる役割を果たした。国家神道は、集団の宗教という、原始社会の民族宗教以来の構造原理を、意図的に近代的な国民国家の規模の拡大することによって、国民に対する精神的支配の強力な武器となりえたのである。
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皇室神道(宮中祭祀)を「国家神道」概念の重要な要素とすることは村上理論の特徴の一つですが、昆野伸幸氏の「村上重良「国家神道」論再考」(『史学会シンポジウム叢書 戦後史のなかの「国家神道」』、山川出版社、2018)によれば、「村上が宮中祭祀をも構成要素に含む「国家神道」観を提示するのは、一九六六年九月公表の文章中における「神社神道と宮中祭祀を支柱とする国家神道」という記述がはじめて」(p80)だそうです。

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 国家神道の教義は、「帝国憲法」と「教育勅語」によって、国体の教義としてイデオロギー的に確立した。「教育勅語」は、天皇崇拝と祖先崇拝を結合し、親への孝と祖先崇拝は、神をうやまい天皇を崇拝することと一体であるとしていた。こうして「敬神崇祖」が国家神道の根本精神として強調されることとなり、それは「教育勅語」が命ずる封建的徳目を遵守することに他ならないとされた。
 国体の教義は、結局は、神である天皇が統治する大日本帝国の神聖性の主張に帰着する。その根拠としてもちだされたものは、日本の古代国家がつくりあげた「古事記」「日本書紀」の政治神話であった。一般に近代国家においては、神話は宗教ないし文化遺産の領域の問題であり、直接の政治的機能を担うことは、ほとんど考えられない。しかし、国家神道体制下の日本では、神話がそのまま近代天皇制国家権力の宗教的基礎であり、神話はまさしく政治の次元で生きていた。政府は国家がかかげる正統神話によって、天皇の名による政治支配を正当化し、国民がこれを疑うことを断固として許さなかった。
 国体の教義には、「神国日本」の他民族への絶対の優越性の主張と「八紘一宇」の世界征服思想があり、日本帝国主義の海外侵略を正当化する役割を果たした。天皇の名による戦争は、無条件に「聖戦」として美化され、天皇の名による戦争の戦没者は、「護国の英霊」として、生前の言動にかかわりなく、神として靖国神社に祀られた。東京九段の招魂社にはじまる靖国神社は、別格官幣社という高い社格を与えられ、陸海軍省所管の宗教施設として拡充された。対外侵略の拡大とともに、靖国神社は国家神道の軍事的性格を代表する神社として、その事実上の地方分社である招魂社(のち護国神社)とともに、国体の教義の巨大な支柱となった。
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教育勅語の重視も村上理論の特徴のひとつですね。
このあたりも教育勅語の制定過程に関する実証的研究が進んだ結果、村上理論への批判が多いところですが、島薗進氏による巻き返しもありますね。
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村上重良の眼に映った「国家神道の本質」(その1)

2019-10-27 | 村上重良と「国家神道」
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年10月27日(日)11時17分32秒

さて、村上重良の国家神道論を検討するにあたって、最初に村上自身による村上理論の要約を紹介しておきます。
村上には『国家神道』(岩波新書、1970)という著書がありますが、先に若干の検討を行なった『津地鎮祭違憲訴訟─精神的自由を守る市民運動の記録』(新教出版社、1972)所収の「Ⅲ論説 1 国家神道の本質」が簡明なので、これを引用します。(p231以下)

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 1 国家神道の本質

 明治維新から太平洋戦争の敗戦にいたる約八〇年の間、日本に国家宗教として君臨した国家神道は、原始社会以来のながい神道の歴史において、その一時期に現れた特異な形態であった。
 国家神道成立の前提には、日本の原始社会から幕末にいたる二千数百年の神道の歩みがあった。神道は、日本の民俗宗教として、神社を主体に展開をとげてきた。
 神社神道は、日本社会において多元的に併存する諸宗教のなかでも、他の諸宗教といちじるしく異なる独自の性格を有している。それは、原始社会で成立した民族宗教としての性格を、高度に発達した資本主義社会である現代の日本社会において、なお保持している点にある。神社神道は、民族宗教である原始神道が歴史的に展開した宗教であり、一九世紀なかばの明治維新まで、原始社会以来の生活と生産のための共同体の祭祀、すなわち民族宗教としての特質を基本的に保ってきたが、このような事例は、世界の宗教史上でもほとんど類例がない。
 神社神道は、古代以来、仏教をはじめとする外来の諸宗教の伝来によって、仏教、儒教、道教等とふかく習合し、中世には神仏習合の教義が体系化された。また、はやくから朝鮮、中国等の外来の神々や、習合的な神々を祭神とする神社がつぎつぎとつくられた。幕末には、こういう多種多様の神社、すなわち地縁的血縁的祭祀を営む圧倒的多数の氏神、鎮守、産土等の小神社、現世利益中心のおおく習合的な神を祭神とする神社、特定の人間を神として祀る神社、家族や同族団が祀る私的な社祠等が併存し、習合的祭祀を営んでいた。
 この間、朝廷においては、皇室神道が伝統的にうけつがれてきた。皇室神道は天皇家の宗教であり、古代天皇制国家の成立によって、国家的公的性格をもつにいたり、宮中祭祀とよばれた。
 明治維新によって成立した近代天皇制政府は、歴史的に多面的な展開を重ねてきた神社神道を基盤に、皇室神道を柱として、全神社を中央集権的に再編成し、新しい国家宗教をつくりだした。国家神道は、明治維新における「王政復古、祭政一致」のスローガンを具体化した宗教的政治的制度であり、その原理は二〇世紀なかばの太平洋戦争の敗戦にいたるまで、日本社会の思想と宗教を本質的に規定することとなった。
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いったん、ここで切ります。
村上は「明治維新から太平洋戦争の敗戦にいたる約八〇年の間、日本に国家宗教として君臨した国家神道」と述べますが、果たしてそのような「君臨」の実態があったのだろうか、というのが私の基本的な疑問です。
確かに明治維新においては「王政復古、祭政一致」のスローガンが掲げられますが、言うまでもなく明治国家の基調は「富国強兵」、即ち列強に対抗するための資本主義に適合した近代国家の建設であって、幕府打倒に際しては精神的支柱のひとつであった復古主義的要素は近代国家建設を阻害するものとして忌避されるようになります。
そして、例えば神仏分離を推進した復古的思想の人々は新政府から排除され、宗教政策は混乱しますので、「国家神道」の「君臨」を認めるにしても、それはせいぜい最初の十年程度ですね。
また、昭和に入ると軍国主義が復古的精神運動と結びつき、天皇機関説事件(1935年)あたりを節目として、以後は「国家神道」が「君臨」したと評価できそうですが、それも敗戦までの十年間です。
従って、「国家神道」が八十年間「君臨」したという村上理論は、最初の十年と最後の十年は一応説明できるものの、中間の六十年間を無視した「キセル理論」ではなかろうか、というのが私の見方です。

『津地鎮祭違憲訴訟─精神的自由を守る市民運動の記録』(その1)~(その10)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/06a313b431c646de160e7ee85e440483
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ce777efeb99366cb769986f947a61b32
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/18da1944061a95b5d52dfb3b6c1aa432
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4273236f48b9ae878782d732ed89f0b3
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/70e7801b9995c4d81f65dc718918947c
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ea414cb6a3b15527a00a32f0b4029664
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9a7c72ab4547e208657e716857bafa3d
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/80e958b70cd1f82f83864093255d30ab
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/89e4aecc46b06c7b3a324d3dd4b246c1
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c7a8f8479742eaff0d68ebe569f4f1a5
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村上重良を探して(暫定的、そして残念的結論)

2019-10-25 | 村上重良と「国家神道」
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年10月25日(金)12時05分15秒

暫く歴博に脱線していましたが、掲示板には書かなかったものの、村上重良の情報を得ようとして服部之総を中心とする「日本近代史研究会」の関係者の著作などをあたっていました。
また、共産主義運動の全体像の中での「戦闘的無神論者同盟」の位置づけを考えてみたいと思って、1930年代の共産主義運動の歴史を復習していました。
村上重良の方は全く成果がなくて、昆野伸幸氏の「村上重良「国家神道」論再考」(『史学会シンポジウム叢書 戦後史のなかの「国家神道」』、山川出版社、2018)に追加すべき知見は得られませんでした。
村上は本当に自分語りをせず、また村上の周囲にいた人も村上について語ることが僅かで、何とも不思議ですね。
例えば服部之総の没後三十年に記念シンポジウムが開かれ、その記録に関係者の思い出等を加えた小西四郎・遠山茂樹編『服部之総・人と学問』(日本経済評論社、1988)という本がありますが、「日本近代史研究会」のメンバーの大半が文章を寄せている中で、村上は65人の短文を集めた「思い出"ひとこと"」にすら登場していません。
ちなみに同書口絵の「日本近代史研究会の納涼会」という写真のキャプションには、

-------
1952年7月。前列左から高柳光寿・野原四郎・高橋磌一・三笠宮崇仁・大沢米造・飯塚浩二・服部之総、中列北島正元・小西四郎・青村真明・高田栄三・松島栄一、後列藤井松一・村上重良・宮川虎雄・不動健治・川村善二郎
-------

とあり、村上が「日本近代史研究会」で得たであろう人脈は相当なものです。
また、色川大吉によれば、「細い顔に金縁眼鏡が似合うこの学習院出の紳士はキャリアガールにもてるだろう」とのことで、村上は生真面目すぎて周囲から敬遠されるようなタイプでもありません。
それなのに、何故に村上に関する情報が僅少なのか。
ま、これ以上調べても見込みはなさそうなので、いったん村上重良の探求はあきらめて、村上の「国家神道」論の検討に舵を切ろうと思います。

服部之総(1901-56)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%8D%E9%83%A8%E4%B9%8B%E7%B7%8F

また、「戦闘的無神論者同盟」の方は、理論的にはともかく、実践的活動の大半は喜劇的なものであって、共産主義運動の全体の中での重要性は低く、率直に言って情けない運動ですね。
研究者の関心も乏しく、例えば立花隆『日本共産党の研究』(講談社、1978)上下二巻の中で「戦闘的無神論者同盟」に触れているのはただ一箇所です。
しかも、それは凄惨なスパイ査問事件の関係者である木島隆明という人物の経歴紹介の中で、

-------
 木島は長野県の農家に生まれ、高等小学校卒業後、自宅で農業に従事していたが、一九二九年、二十一歳のときに上京して、製本所、印刷所などで、住み込みの職工として働くようになった。そのうち、たまたま手にとった機関誌に興味をひかれて、共産党系の団体、戦闘的無神者同盟に参加するようになった。そこから共産主義運動に接近、三二年七月には全協に加入。やがて『赤旗』の読者となり、三二年十一月に入党して、北部地区第四群の平党員になった。
-------

という具合に(下巻、p340)、「戦闘的無神論者同盟」ではなく「戦闘的無神者同盟」と誤記されていて、立花の関心の乏しさが伺えます。

日本共産党スパイ査問事件
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%85%B1%E7%94%A3%E5%85%9A%E3%82%B9%E3%83%91%E3%82%A4%E6%9F%BB%E5%95%8F%E4%BA%8B%E4%BB%B6

まあ、共産主義運動の中では共産党本体以外で圧倒的に重要なのは労働運動(≒全協)であって、「戦闘的無神論者同盟」は周辺の文化運動の一環であり、その中でも文芸や演劇と比べるとあまりパッとしない分野ですね。
その点、田中真人氏の「日本戦闘的無神論者同盟の活動」(同志社大学人文科学研究所『社会科学』27号、1981)の検討が少し残っているので、簡単に整理した上で、村上の「国家神道」論の検討に移ろうと思います。

緩募(ゆるぼ):村上重良について
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9392b5c49948ed1ea15a270c153c89d1
「細い顔に金縁眼鏡が似合うこの学習院出の紳士」(by 色川大吉)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/84eb8f1926d6a80699fce2e084af732c
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「井上さんはにべもなく有賀さんのプランを断った」(by 網野善彦)

2019-10-21 | 村上重良と「国家神道」
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年10月21日(月)10時51分3秒

網野善彦は「有賀さんは井上さんから歴博の民俗学系の人事のすべてを委ねられたと思い込まれたようです」と書いていますが、何故に有賀喜左衛門がそうした壮大な誤解をしたのかは、ちょっと理解しかねますね。
有賀は農村社会学の大家ではあっても、客観的には民俗学全体を代表するような学者ではありません。
しかし、まあ、主観と客観のズレはよくあることですし、1897年生まれの有賀は井上から相談を受けた時点で八十歳くらいですから、ちょっとボケていたというか、頑固で思い込みが激しい性格になっていたのかもしれないですね。
さて、続きです。(p147以下)

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 たまたまこのころ私は歴博の展示について相談をうけて、石井進さんや福田豊彦さんと話をしており、井上さんと会う機会があったので、河岡さんを推している方々から「井上さんと会った時には、有賀さんはこういう方向で考えているからうまく話をしておいてくれ」と頼まれたことがあります。私はもちろんそれに賛成だったのですが、有賀さんの見通しは甘いのではないかと思っていました。ところが案の定これは、有賀さんの思い込みで、井上さんはにべもなく有賀さんのプランを断ったのですが、あろうことに、その時に井上さんは私の名前を出して、つっぱねたようです。
 つまり、網野は河岡氏と一緒に一生懸命日本常民文化研究所のことをやっているはずなのに、河岡氏はここで民俗部長になろうとしている、こういう人は信用できない、と井上さんはいったらしいのです。もちろん有賀さんはそんなことは全然知らないわけですから、それを聞いて、有賀さんは烈火のごとくおこられたようです。もちろん私は有賀さんとは一、二回会って、お宅にもいったことがあるのですが、私のところに、その直後、突如、きびしい叱責の手紙がきたのです。私にとってはほんとに青天の霹靂ですよね(笑い)。
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このあたりも井上が具体的にどのような表現で、網野の名前をどのように利用して「つっぱねた」のかは分かりませんが、まあ、網野にしてみれば理不尽な展開であることは間違いありません。

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 「私は井上さんとはこの問題についていっさい関係ありません」という簡単なお詫びの手紙を出しておいたのですが……。これ以後、私は井上さんと"絶交状態"、少なくとも歴博関係のことについてはいっさい井上さんとは話はしないという状況になりました。展示に関わる仕事をしていたのですが、もちろん直ちに辞退しまして、それから井上さんが亡くなるまで、私は歴博には一歩も立ち入りませんでした。ただ、この事件のために河岡さんと私が進めていた、研究所を慶応大学に引き取ってもらう話は頓挫してしまいます。その後、この問題について、ようやく有賀さんにも事情がわかり、お怒りがだいたいおさまったので、有賀さんとゆっくり話して、慶応の話をもう一度復活しようといっていた矢先に、有賀さんがお亡くなりになります。一九七九年だったと思います。そのためこれがまた頓挫します。
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念のため色川の『昭和へのレクイエム 自分史最終篇』を見ると、網野の名前は、

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 一九七八年七月、私は熊本、水俣に滞在し、調査や取材活動に集中していた。その留守に井上さんは網野善彦君らもよびだし、中世や古代の展示案作りの会議を精力的にこなしたらしい。
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との記述(p93)の次に、

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 この二月下旬の会議の模様は、私の岩波手帳の昭和五五年日記にこうある。
「二月二八日、午前一〇時から「中世」の部会に出る。永原慶二氏一人しか来ない。網野君はさっさと逃げてしまったようだ。【後略】
-------

と出てきて(p99)、時期的な面で網野の説明と一致します。
網野は非常に速い段階で歴博から「さっさと逃げてしまった」訳ですね。
ところで、「当時、慶応大学の経済学部にいて、学部長にもなるようになった速水融さん」(p146)は日本常民文化研究所月島分室での網野の同僚で、二人の交友関係は以前、この掲示板でも取り上げたことがあります。
慶応大学には速水のように個人的にも借用文書に強い思い入れを持っていた有力者がいたので、慶応大学による常民研の引き取りは相当に実現可能性が高い話であったはずですね。
それが井上の不用意な発言で駄目になってしまった訳ですから、網野が井上と「絶交状態」になったのももっともです。
井上事件がなければ、今ごろは神奈川大学ならぬ「慶応大学日本常民文化研究所」が存在していたかもしれません。

神奈川大学日本常民文化研究所
http://jominken.kanagawa-u.ac.jp/

速水融氏とエマニュエル・トッド
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b239c22e2246c22f0345a734821afb09
『世界の多様性─家族構造と近代性』
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6271d24f2dcd77218d92096340118207
「君がいると、全体がハモらないんだけどなあ」(by 網野善彦)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d2be673d74a15f08068c1f678fd856db
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