学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

アリスの庭

2013-02-28 | 東北にて
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2013年 2月28日(木)23時06分59秒

宮城県美術館には「アリスの庭」という一画がありますが、これは良かったですね。
公式サイトでは次のように紹介されています。

-------
本館と佐藤忠良記念館との間には彫刻庭園があります。
佐藤忠良記念館の大きくアーチを描くハーフ・ミラーのガラスに映る風景は、
人を異次元の想像の世界に誘います。
子供やウサギ、ネコなどの動物を題材にした彫刻11点が設置されています。
前庭から北庭に抜ける連絡路にもなっています。


東北地方に来てから様々な場所を訪れましたが、現代建築に限れば、ここが最高の空間ではないかとすら思いました。
宮城県美術館本館は前川國男の最晩年の作品ですが、佐藤忠良記念館とアリスの庭は大宇根弘司氏の設計ですね。

大宇根建築設計事務所

写真の彫刻は1枚目がバリー・フラナガン《野兎と鉄兜》、2枚目は佐藤忠良《ジャコビン》、3枚目の手前がトム・オタネス《蛙とロボット》、奥のハーフミラーに映っているのがフェルナンド・ボテロ《猫》ですね。
《猫》は一匹なのですが、ハーフミラーには何匹もいるように見えます。

※写真

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韓国地裁の仮処分決定

2013-02-28 | 東北にて
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2013年 2月28日(木)21時31分34秒

>筆綾丸さん
対馬で盗まれた仏像の事件、問題の観音像は現在、韓国政府が保管しているんですね。

---------
問題の仏像は長崎県指定の有形文化財で対馬市の観音寺から盗まれた「観世音菩薩坐像」。韓国中部、瑞山にある浮石寺が、同像は14世紀に同寺で作られたと主張。長崎で盗まれた後韓国に密輸された像を発見、保管している韓国政府による移転禁止を求める仮処分申請を同地裁に行っていた。
 同地裁は、観音寺がこの像を正当に取得したことが訴訟で確定するまで、韓国政府は日本政府に引き渡してはならないと判断した。

そして所有者だと称する浮石寺という寺院が、韓国政府を相手に、対象物を日本政府に引き渡すなという占有移転禁止の仮処分を申請し、それが地裁で認められたという経緯ですか。
「観音寺がこの像を正当に取得したことが訴訟で確定するまで」とあるので、浮石寺と観音寺の間でどちらが所有権者かを民事訴訟で争わせ、その裁判が観音寺勝訴で確定したら韓国政府は日本政府へ引き渡していいぞ、という仮処分決定なんですね。
まあ、所有権の帰属が本当に問題になっている事案だったら、地裁の仮処分決定の判断構造自体はおかしくはないですね。
物権法の基礎的な部分なのでおそらく日本と韓国の民法でそれほど違いはないと思いますが、仮に日本の裁判所で争われたら、盗難時まで占有していた観音寺が、入手の詳しい経路は古すぎる話なので承継取得は立証できないとしても、「占有者は、所有の意思をもって、善意で、平穏に、かつ、公然と占有をするものと推定」されるので(民法186条1項)、時効取得していることは簡単に立証できますね。
浮石寺が倭寇がどうたらこうたらと言ったって、裁判所は、そんなことはどうでもいいから法律論を述べてください、いかなる権利に基づき、いかなる法的構成で何を主張されるのか明確化して下さいと素っ気なく対応し、あっという間に観音寺勝訴でしょうね。
その訴訟の手間と費用負担をわざわざ観音寺に求めるのは、普通に考えたら嫌がらせ以外の何物でもないですが、韓国は司法を含め、日本相手となると常識の通じない世界ではありますね。

民法186条

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

The guilty are audacious. 2013/02/28(木) 13:53:25
http://sankei.jp.msn.com/world/news/130228/kor13022813030002-n1.htm
一連の記事を読むと、The guilty are audacious(盗人猛々しい)、という感じですね。日本が憎くて憎くてどうしようもないのでしょうね。せめて裁判所だけはマトモであってほしいのですが。
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佐藤忠良記念館

2013-02-27 | 東北にて
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2013年 2月27日(水)21時35分9秒

今日は所用で東北大学に行ったついでに宮城県美術館に寄ってみました。
本館は一部改修工事のため入れなかったのですが、その埋め合わせなのか、佐藤忠良記念館に無料で入ることができて、もともと佐藤忠良の作品を中心に見たいと思っていた私にはかえってラッキーでした。
平日なので観客は私一人。
じっくり眺めることができました。
「帽子」や「マント」など、どれも良かったですね。
出世作の「群馬の人」も展示されていて、まあ、これは悪くはないと思いますが、そんなにすごいものなのかなという感じがしないでもなかったですね。

宮城県美術館

※写真
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氏家の今宮明神

2013-02-26 | 東北にて
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2013年 2月26日(火)13時13分49秒

『吉田神道の四百年 神と葵の近世史』、先に引用した部分の次に以下の記述があります。

---------
 またこんな願いもあった。寛文十一(一六七一)年、下野国塩谷郡氏家村(栃木県さくら市)の氏神社の神主が上京し、吉田家に次のような願をした。私がお祭りしてます「明神」様に、位階を授けてもらいたいのですが・・・。明神様とは、何明神様だ。いや、わかりません。それでは位は授けられない。一旦帰ってその明神様に捧げている神器の寸法などを詳しく調べ、再度申請しなさい。神主は一旦帰郷し、神器の寸法を調べ、図を描き、社内にあった札などを携えて再上京した。吉田家はこれを見て、当社は今宮明神に間違いない、と判断した。
 祀っている神様がわからないけど、こんな道具を使ってこんな風にお祭りしています。吉田さん、祭神を判断して下さい・・・。神様に位をもらうに当たって、祭神すらわからずに申請する村もあったのだ。
---------

ここでまた「氏家 今宮明神」で検索してみると、今宮神社が出てきますね。
同社の公式サイトで「由緒・沿革・概要」を見ると、

---------
今宮神社は、人皇第七十代後冷泉天皇の康平三年(1060)に、素戔嗚尊を祭神として創建せらる。
下野国史に宇都宮朝網の三男公頼始めて此の氏家に城を築きし時に、己が産土神たる宇都宮明神を合祀して、城中の守護神としたとあり、その後人皇第九十三代後伏見天皇の正安二年(1300)城主公宗の崇敬により社殿を改築し、塩谷郡の北は三依、塩原より南は高根沢に至る二十四郷に毎年交営繕せしめしを以て社殿荘厳に崇敬厚かりき、されば明治五年郷社列せられ同三十九年神饌弊帛料供進社として指定せられたり、大正十四年本殿屋根木羽葺を銅葺に改修す。昭和三年御大礼記念で拝殿を改築し、本殿及び社務所等位置を変更移転し、神門の屋根萱葺を銅葺に改修す。昭和二十八年新憲法下宗教法人施行に伴い「宗教法人、今宮神社」となる。昭和五十一年天皇陛下御在位五十年記念として社務所を改築す。昭和五十七年木製灯篭三十九灯建立す。
昭和六十二年神社本庁より「神社振興対策指定神社」に指定される。平成三年御大礼記念で本殿改修、弊殿改築、回廊待合室新築、境内社覆屋移転新築、石玉垣建設、境内整備等平成御大典の大事業を成す。平成十二年遷宮七百年記念に神輿修復、鳥居改築(木製を御影石製)神札所新築、記念祭典行事を盛大に実施した。

http://www.imamiyajinja.com/yuisyo.html
http://www.imamiyajinja.com/index.html

とのことで、これもまた興味深い叙述ですね。
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三宅三所明神

2013-02-26 | 東北にて
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2013年 2月25日(月)22時45分12秒

『吉田神道の四百年 神と葵の近世史』 p121には次の記述があります。

-------
 元禄十五(一七〇二)年閏八月に、氏神への宗源宣旨授与を申請してきた摂津国(大阪府・兵庫県の一部)島下郡三宅号の人々は、うちの氏神様には名前がないので、名前をつけて下さい、と吉田家に頼んでいる。吉田家は、この神社を三宅三所明神と名付け、左は春日、中央は牛頭天王、右は天神と祭神を決定し、願に任せて正一位を授けるとともに、家老が額まで執筆している。
-------

「三宅三所明神」で検索したら、「三宅総鎮守 井於(いお)神社」がいくつかヒットしたのですが、同社公式サイトでの「御由緒」は次のようになっていますね。

------
◆御由緒
 井於神社の創建年代は明らかでありませんが、平安初期、延長五年(西歴927年)に編纂された延喜式神名帳に「ヰノヘノ神社」と記載されていることから、千余年以上の昔に御鎮座されました。
 当社は元々三宅村宇野辺に鎮座し、「井於連」が氏神として崇敬した井の神(水・泉の神)で、三宅郷の田畑の灌漑用水を守らせ給う神として、篤い信仰が捧げられておりました。その昔、雨が降らず干魃になると氏子の若衆が藁で龍を作り、雨乞いの祈願を行なった後、龍を担いで村中を練り歩き、池中に投じることで水の神の恩恵に感謝していたと伝えられています。
 当社が現在の場所(茨木市蔵垣内)に遷座されたのは、享徳年中(1452~1454年)のことであり、永正年中(1504~1520年)に三宅城城主・三宅出羽守国村公により、天児屋根命が勧請され当社の相殿におまつりされたとあります。又、素盞鳴命を祀るようになったのは、織田信長の頃、社が兵火で焼かれるのを免れるために、信長公が崇敬しておりました素盞鳴命をおまつりしたと伝えられ、その後当社の祭神とし、勧請されました。江戸時代には、主祭神、相殿(二座)の三座の大様を合わせて「三所明神」と称されていました。明治5年には郷社に列し、同43年9月28日、宇野辺の八幡神社、鶴野の皇大神社、丑寅の皇大神社が境内に合祀され、今日まで三宅の郷の産土神として、御鎮座されております。また、親しみを込め「三宅神社」と称されることもあり、篤い信仰を集めております。

http://www.hokusetsu.zaq.jp/iojinjya/yuisyo.html
http://www.hokusetsu.zaq.jp/iojinjya/

読み比べると、なかなか興味深いですね。
天児屋根命(あめのこやねのみこと)は中臣=藤原氏の祖先神であり、春日大社に祀られていますし、牛頭天王=素盞鳴命ですから、祭神については一致していますね。
三宅出羽守国村公云々の話はいつごろから出てきたものなのか。

(追記)
「続・竹林の愚人」というブログには「三宅三所明神」と井於神社の関係についての考察があります。

http://bittercup.blog81.fc2.com/blog-entry-1937.html

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『吉田神道の四百年 神と葵の近世史』

2013-02-24 | 東北にて
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2013年 2月24日(日)12時01分40秒

>筆綾丸さん
『徒然草』第6段は不気味な雰囲気が漂っていますね。
近世の学者は道徳的にけしからんとして筆誅を加え、現代の注釈書を見ても多くの国文学者が困惑している感じがします。

『吉田神道の四百年 神と葵の近世史』は一種の奇書で、その文体には抵抗を覚える人が多いでしょうね。
私も最初の方をちょっと読んで、捨てようかなと思いましたが、興味深い個別エピソードに惹かれて何とか読み終えました。
特に第三部は結構面白かったですね。
後で少し引用してみるつもりです。

-------
 序 天下人と天上の神
第一部 神使い
第二部 零落と再興
第三部 鍍金(めっき)と正金
 結 神と葵


※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

ボレロのような・・・ 2013/02/23(土) 17:30:43
小太郎さん
『吉田神道の四百年 神と葵の近世史』は、購買意欲をそそられませんが、仰るとおり、変な記述ですね。上皇は下り居の帝だから、「上皇陛下」のように上皇に陛下をつけるのは、なにか変な感じがします。
『徒然草』第六段は、いまだにスッキリしないのですが、兼好は源実朝などを想定して書いているのでしょうか(あるいは、全滅した北条氏一族なども)。

http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4163761500.html
船橋洋一氏『カウントダウン・メルトダウン』は話題の本なので、上巻の半分くらいまで読んでみましたが、周知の事実ばかりで、どうも面白くありません。

http://www.youtube.com/watch?v=MOHepB6PuwY
「死ぬほどヘタクソな Bolero 」は、モントリオール交響楽団の演奏のようで(?)、ほんとに呆れるほどヘタクソです。聴衆は行儀の好い日本人らしいのですが、やめろヘタクソ、と怒鳴る人もいないのが不思議です。これはもうラヴェルに対する冒瀆ですね。
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東名・野蒜周辺

2013-02-23 | 東北にて
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2013年 2月23日(土)14時10分28秒

東松島市関係の記事をいくつか纏めてアップします。
最初は先月15日に訪問した東名・野蒜周辺です。

「JR仙石線東名駅周辺」
http://chingokokka.sblo.jp/article/62784938.html
「如月庵」
http://chingokokka.sblo.jp/article/62819205.html
「東名漁港」(その1)
http://chingokokka.sblo.jp/article/62832221.html
「東名漁港」(その2)
http://chingokokka.sblo.jp/article/62834143.html
「東名運河」(その1)
http://chingokokka.sblo.jp/article/62861990.html
「東名運河」(その2)
http://chingokokka.sblo.jp/article/62864129.html
「東名運河」(その3)
http://chingokokka.sblo.jp/article/62867085.html



東松島市東名の如月庵に「東薺塩場碑(とうなしおばひ)」という石碑があります。
『江戸時代 人づくり風土記4 宮城』(農山漁村文化協会、1994)の「古代から続く製塩業」(高倉淳氏執筆)には、この石碑についての説明がありました。(p136)

-------
 高城塩田創始者の伊藤三郎右衛門信茂から七代目に元直という人がいます。元直は、安永七年(一七七八)に高城塩田から独立して、松島湾東端の東名長浜(とうなながはま、今の鳴瀬町)の砂州に播州流塩田を開きました。東名の如月庵(じょげつあん)には元直像が安置され、境内には先祖の功績をたたえ、享和二年(一八〇二)に建った「東薺塩場碑(とうなしおばひ)」があり、次のようなことが刻まれています。

 磯崎に奈良和元直(ならわもとなお)という人格円満な人が、安永年中に東名の
 ペンペン草しか生えない荒れた土地に、仲間をつれて堤防を築き、四方に溝を
 通じて、画して釜を構えた、伊藤を再び奈良和と改め唱える事にした(後略)

 この御塩場は元直の自己資金で開田され、二十五町八反(二五五八アール)におよびました。生産量も徐々に増えて、文化四年(一八〇七)には、年間生産量が一万四千俵にまでなっています。
-------

冒頭の高城塩田は今の松島町にあった塩田ですね。
鳥屋崎浜(亘理町の「鳥の海」)、流留(ながる、石巻市内)、長面(ながつら、同)、階上(はしかみ、気仙沼市)等の津波被害が甚大だった地域もかつて塩田が存在していたそうです。


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六条上皇の院宣?

2013-02-22 | 東北にて
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2013年 2月22日(金)18時30分19秒

井上智勝氏『吉田神道の四百年 神と葵の近世史』(講談社選書メチエ、2013年)のp34に次のような記述があります。

------
 兼倶が神祇管領長上である理由は、その血統にある。兼倶は、承安五(一一七五)年六月十日付の、次のような内容の文書の写しを大切に保管していた。

 当家は、祖先神天児屋根命(あめのこやねのみこと)の妙業を受け継ぎ、代々これを伝えてきた。その妙業は神国の根源であり、朝家の枢要であって、他に代えようがない。当家はまさに神道の棟梁と呼ぶにふさわしく、実際に神祇官を差配している。だから神祇官に参列するときは、律令制度の序列に関係なく、最上席を占めてよい。上皇陛下はこのようにお考えである。

 上皇の側近が主人の意志を伝える「院宣(いんぜん)」と呼ばれる様式の文書だ。年代から判断すれば、六条上皇が兼倶の先祖に意志を伝えたものということになる。
------

「六条上皇が兼倶の先祖に意志を伝えた」とありますが、六条天皇は長寛2年(1164)生まれ、翌年、生後7ヶ月余り(数えで2歳)で即位、在位2年8ヶ月、5歳の時に3歳上の叔父・高倉天皇に譲位したという、歴代天皇の中でもとりわけ珍しい経歴の人物ですね。
そして 安元2年(1176)、13歳で亡くなっています。
承安5年(1175)の時点では確かに存命ですが、別に院政は行っていませんね。
院政を行っていない上皇が院宣を出すこと自体がおかしい訳ではなく、例えば両統迭立期には治天の君ではない上皇が沢山院宣を出していますが、それは自統が権限を持つ所領等についての院宣ですね。
国政に関わる院宣を六条上皇が出すという井上氏の説明には、いささか奇異の感を抱きます。

六条天皇
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E6%9D%A1%E5%A4%A9%E7%9A%87

※追記
この院宣は吉田兼倶が主張しているだけで、歴史的事実としてはそんなものは存在していないはずですね。
ただ、そうではあっても、この時期の院宣が六条上皇によって出されたとする判断はおかしい、という疑問です。

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「震災後の海岸の自然環境の変化」展

2013-02-21 | 東北にて
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2013年 2月21日(木)09時08分51秒

東北大学総合学術博物館訪問後、仙台駅前の「アエル」に移動し、29階「ニコンプラザ仙台」で行われていた「青森~千葉 震災後の海岸の自然環境の変化~海岸植物群落から見た海岸の今とこれから」展も見てきました。
これは藤田象観さんの「JIEN記」で昨日20日が最終日だと教えてもらって、あわてて行ってきたものです。


「ニコンプラザ仙台」の奥の方のスペースでは、たまたま昨日から日本財団の「東日本大震災復興応援イベント~日本財団写真・動画コンクール2012写真部門入賞作品展」が行われていたので、これも見学したところ、岩手県盛岡市と千葉県旭市のパネル解説で、撮影地と内容が一致していない箇所を発見しました。
お節介かなとは思いましたが、展示担当らしい若い女性に来てもらって、誤っている旨を指摘しました。
実は名取市閖上の写真の解説にも間違いがあり、「富主姫神社」であるべきところ「富士主姫神社」となっていたのですが、そんな細かいことまで指摘したらブキミな人間と思われるので、こちらは黙っていました。
単にワープロで「富」を出すために「富士」としたのでしょうが、もしかしたら「富主姫」が富士信仰を連想させるのかもしれません。
「富主姫」が「富主島の竹生島弁財天」であることは、今では地元の閖上ですら、ごく少数の人が知っているだけのトリビアなんでしょうね。

※写真
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海を見ていた午後

2013-02-21 | 東北にて
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2013年 2月21日(木)08時43分39秒

♪山手のドルフィンは 静かなレストラン
 晴れた午後には 遠くシロナガスクジラも見える
 ソーダ水の中を マンボウがとおる
 小さなアワビも 恋のように消えていった♪



昨日の午後、仙台市青葉区の東北大学総合学術博物館(自然史標本館)を訪問しました。
同博物館では「宮城県自然史標本レスキュー活動」のパネル展が行われており、「南三陸町歌津 魚竜館」の標本の一部が展示されていました。
大型標本は仙台市科学館にあるそうなので、そちらも後で訪問してみるつもりです。

東北大学総合学術博物館

同博物館は河口慧海の遺族から寄贈を受けたチベット仏教美術資料も保有しているそうで、ごく一部が展示されていました。


※写真
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Moby-Dick

2013-02-21 | 東北にて
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2013年 2月21日(木)08時14分2秒

>筆綾丸さん
「鯨さんの詩」の運営者、上村博一氏は元NHK報道局チーフ・プロデューサーだそうですが、この方の鯨情報収集の熱心さ、というか執念はすごいですね。
温厚なエイハブ船長ですね。

http://homepage2.nifty.com/ue_room/kujira.html

--------
次に義概(風虎)の次男、内藤露沾の句2句。
● 爰(ここ)を切(きり)かしこをたつや初くしら  露沾
● 舟はた(舟端)や立て見ゐて見鯨つき
*内藤露沾(ないとう・ろせん。1655(明暦元)-1733(享保18))は、
 江戸前・中期の俳人。奥州磐城平藩3代藩主、内藤義概(風虎)の次男。
 名は義英 のち政栄。長男の早世で家督を継ぐ立場にありましたがお家騒動に巻き込
 まれ退身。
 早くから俳諧に親しみ、風虎サロンの若亭主として活躍、退身後は江戸の蕉門とも
 交流しました。<『朝日日本歴史人物事典』>
http://homepage2.nifty.com/ue_room/kujira_haiku.html

上村氏は特に言及されていませんが、「爰(ここ)を切(きり)かしこをたつ」は『徒然草』第6段ですね。

-------
わが身のやんごとなからんにも、まして、数ならざらんにも、子といふものなくてありなん。
前中書王・九条太政大臣・花園左大臣、みな、族絶えん事を願ひ給へり。染殿大臣も、「子孫おはせぬぞよく侍る。末のおくれ給へるは、わろき事なり」とぞ、世継の翁の物語には言へる。聖徳太子の、御墓をかねて築かせ給ひける時も、「こゝを切れ。かしこを断て。子孫あらせじと思ふなり」と侍りけるとかや。
http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/tsuredure/turedure000_049/turedure006.htm

『聖徳太子伝暦』からの引用だそうですが、近世の人の教養だと、たぶん直接的には『徒然草』でしょうね。

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山元町沿岸部

2013-02-19 | 東北にて
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2013年 2月19日(火)09時17分50秒

昨年12月16日に山元町を訪問した際の記録を纏めてアップします。

「山元町瓦礫焼却施設周辺」(その1)
http://chingokokka.sblo.jp/article/62604643.html
「山元町瓦礫焼却施設周辺」(その2)
http://chingokokka.sblo.jp/article/62647069.html
「JR坂元駅近くの白鳥の群れ」
http://chingokokka.sblo.jp/article/62655674.html
「八重垣神社」
http://chingokokka.sblo.jp/article/62667532.html
「八重垣神社近くの海岸(冬)」
http://chingokokka.sblo.jp/article/62698375.html
「山元町瓦礫焼却施設周辺」(その3)
http://chingokokka.sblo.jp/article/62743523.html
「山元町瓦礫焼却施設周辺」(その4)
http://chingokokka.sblo.jp/article/62749714.html
「山元町瓦礫焼却施設周辺」(その5)
http://chingokokka.sblo.jp/article/62758151.html
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閖上漁港

2013-02-18 | 東北にて
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2013年 2月18日(月)16時45分41秒

久々の更新です。

「閖上漁港(その1)」
http://chingokokka.sblo.jp/article/62566495.html
「閖上漁港(その2)」
http://chingokokka.sblo.jp/article/62578414.html

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白石川の白鳥

2013-02-18 | 東北にて
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2013年 2月18日(月)14時19分14秒

>筆綾丸さん
鯨は夏の季語かと思いましたが、昔は冬に食べたから冬の季語で、海豚も同様だそうですね。
食べる習慣がなくなってしまったのに、季語での制約が続くのは妙な話ですね。

読売新聞山梨版「季語で五感に訴える」
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/yamanashi/feature/kofu1354890025050_02/news/20121222-OYT8T00022.htm

『鯨さんの詩(うた)』
http://homepage2.nifty.com/ue_room/kujira_haiku.html

白鳥は後ろから見ると、なるほど鴨の仲間だな、という感じがします。
葱を背負わせてみたいとは思いませんが。

写真は宮城県柴田郡柴田町の白石川で撮影したものです。
三枚目の写真、『樅の木は残った』の船岡山城址ですね。

※写真
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/6732

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フィリピン沖でも「善寶寺」

2013-02-17 | 東北にて
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2013年 2月17日(日)16時33分57秒

善宝寺&閖上で検索してみたら、「お散歩猫。」というブログの2009年1月の日記に閖上の街並みが紹介されており、その中に善宝寺の旗を掲げた漁船の写真がありました。

http://blogs.yahoo.co.jp/nya_geo/12456134.html

また、同じ方が運営されている「南ア研修日記2010」というブログには、

------
それぞれの船にはためいている「善寶寺」の旗。
どこだっけ?そのお寺。と思っていたら、焚き火に当たっていたおじさんが「ああ、ここんとこ鶴岡の善寶寺のが流行なんだ」とひとこと。
http://blogs.yahoo.co.jp/hyamageo/46684315.html

との一文があり、つい最近の流行であるらしいことが分かりました。
善宝寺はなかなか商売熱心で、電話で旗を注文すれば宅配便で送ってくれるそうです。

「マーボーのマイボート日記」
http://blogs.yahoo.co.jp/ccdkj183/27965549.html

新潟の知人から送ってもらったというフィリピン在住の人もいますね。

「フィリピンで釣り三昧」
http://fmcaga.blog136.fc2.com/blog-entry-487.html

ま、旗を見ただけで、いきなり信仰がどうのこうのという話にしてしまうのも少し変でしたね。
山形自動車道を利用すると鶴岡あたりは一泊の温泉旅行にちょうど良い距離なので、閖上の漁師さんも仲間内で骨休みに旅行したり、あるいは宅配便で送ってもらっているのかもしれないですね。

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