学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

ありがとうございます。

2018-04-30 | 『増鏡』を読み直す。(2018)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 4月30日(月)23時03分3秒

>ザゲィムプレィアさん
お久しぶりです。
そして「インターネットアーカイブ」のご教示、ありがとうございます。
久しぶりに自分のサイトを見たら、「参考文献」の「弘安の御願」関係だけでも18項目あって、我ながらよくやったなあと思う反面、多方面に拡散しすぎてしまって、重点がつかみにくいサイトになっていたな、とも思います。


やっぱりサイトの核となるものがしっかり存在していることが肝心で、それは『とはずがたり』と『増鏡』の原文だったのですが、旧サイトではその部分は貧弱でした。
まあ、欠点も多々ありましたが、再会できて本当に幸せです。

※ザゲィムプレィアさんの下記投稿へのレスです。

旧サイトはここで見れます 2018/04/30(月) 21:48:05
http://web.archive.org/web/20150830085744/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/

お久しぶりです。『増鏡』と『とはずがたり』の比較は全く歯が立たないので、ROMを続けていました。

上のサイトですが、ざっと見た範囲でサイト内のリンクは表示されます。
このサイトを運営しているarchive.orgについて、以下の情報があります。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%8D%E3%83%83%E3%83%88%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%82%A4%E3%83%96
 
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「弘安の御願」論争(その3)─八代説への批判

2018-04-30 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 4月30日(月)18時15分51秒

旧サイトのデータは何台か前に使っていたパソコンのハードディスクの中にあり、バックアップ用のフロッピーディスク(!)も手元にないので、図書館で『国史叢説』を見た方が早いのですが、未だに確認できていません。
ただ、昨日の投稿で、

-------
(二)に<「君が御代にも」とあるのは、上皇ではいえないことである>というのは、岩波古典文学大系の引用部分に「君が御代にも」という表現がないので、ちょっと妙な感じですね。
おそらく八代論文で参照されている『増鏡』の写本には「我御代にしもかかる乱れ出で来て、まことにこの日本のそこなはるべくは、御命を召すべき」の冒頭に相当する部分に「君が御代にも」とあったのでしょうが、今は『国史叢書』が手元にないので、ちょっと確認できません。
-------

と書いた点、どうも八代の論文でも「我御代にも」となっていて、川添昭二氏が「君が御代にも」と間違ったようですね。
これは改めて確認することとし、『蒙古襲来研究史論』(雄山閣、1977)から続きを引用します。(p160以下)

-------
(二)八代説への批判
 大正七年(一九一八)四月、龍粛は『史学雑誌』二九編四号に「弘安の御願に就いて」(昭和三二年一二月、春秋社刊『鎌倉時代』下に再録)を発表し、『増鏡』の記事から、この御願は大宮院(後嵯峨天皇の皇后・姞子。西園寺実氏の第一女。後深草・亀山天皇の生母)とことに親密な関係の人物でなければならぬとして種々考証し、それは後宇多天皇ではなくやはり亀山上皇であるとした。また八代説の根拠の一つは、『増鏡』以外の諸史料に、院から大神宮への使いの発遣のことがまったく見えず、『弘安四年日記抄』の記事から、この御願が公卿勅使経任が大神宮に捧げたものに違いないとするところにあった。龍は、これに対して、院使発遣の蓋然性がまったくないとはいえないとし、『弘安四年日記抄』の「希代之御願也、叡慮異他之子細」という表現も単なる形容詞にすぎず、八代説=後宇多天皇説のいうように身を以て国難に代らんとする御願を指すものとは限らないとした。弘安の御願に関して、八代説を批判した龍粛の前掲論文のあと、ひきつづいて、慎重な行論ではあるが、亀山説を支持して新史料を提示し八代説を批判した栢原昌三の論文「弘安御祈願と通海権僧正」(『歴史と地理』二巻一号、大正七年八月)が発表された。八代はその後再びこの問題を大正八年五月の史学会講演で論じた(『史学雑誌』三〇編六号、前掲『国史叢説』に収む)。
-------

八代国治の論文は『史学雑誌』の大正七年(1918)一月号に載りましたが、同誌の同年四月号で龍粛が八代説を批判し、ついで栢原昌三も八代説を批判します。

八代国治(やしろ・くにじ、1873-1224)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E4%BB%A3%E5%9B%BD%E6%B2%BB
龍粛(りょう・すすむ、1890-1964)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BE%8D%E7%B2%9B

以前調べたときは、栢原昌三については『旗本と町奴』(国史講習会、1922)という著書があることしか分からなかったのですが、朝鮮史編修会に関係していた人のようですね。
検索してみたところ、古川祐貴氏に「朝鮮史編纂委員・栢原昌三の「宗家文庫」調査」(『アジア遊学』177号、2014)という論文があるそうです。

さて、上記論文の中では龍粛のそれが一番分かりやすいので、次の投稿で紹介します。
川添著の上記引用に続く部分は、龍粛の論文を知らないと意味が分かりにくいところがありますが、論点をざっと眺めるには便利なので、先に引用しておきます。

-------
 八代は、栢原が亀山上皇祈願の証として挙げた通海の『伊勢大神宮参詣記』の法楽社の記事を疑わしいとして退けた。また栢原があげた『続門葉集』中の通海の歌の詞書にみえる「公家」というのは、天皇しか指さないと論じ、さらに栢原があげた『弘安百首』中の亀山上皇の御製は『新後撰和歌集』によって弘安元年のものと認められるから、弘安四年の祈願に関係はないと断じた。最後に従前からの自説をまとめ、後宇多天皇説が成立する理由として次の三カ条をあげている。

第一、増鏡の文章のみでも、天皇の御願と解すれば、文章も調ひ、脈絡も貫通して、意味が徹底する様であります、之に反して上皇の御願と解すれば、或は石清水に御祈願、或は伊勢に御祈願、或は御在位中の御祈願と三様に解せられる上に、文章に連絡もなくなりて、難解なものとなるのであります。
第二、勘仲記、弘安四年日記抄等によれば、後宇多天皇が公卿勅使を発遣せられ、且其の御祈願は委しく記されて、之に希代の御願とさへあって、立派な傍証とすることが出来る様に思はれる、然るに亀山上皇が太神宮に御祈願になられたことは、弘安九年太神宮参詣記に、通海法印が院宣を奉じて法楽社に祈ったとあるが、同書は後世のもので信拠すべき史料ではない。従うて上皇太神宮御祈願の証拠は見当たらぬこととなるのであります。
第三、弘安四年閏七月一日の大風雨は、当時の人々は、天皇の御祈願に基づく神風と信じ、弘安四年日記抄に「今出神力給、雖末代猶感涙難押事也」、勘仲記に「今度事神鑒炳焉之至也」と書いてあるのを見ても、天皇の御願であったことの傍証とすることが出来ませう。
-------

「弘安四年日記抄」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%98%E5%AE%89%E5%9B%9B%E5%B9%B4%E6%97%A5%E8%A8%98%E6%8A%84

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「弘安の御願」論争(その2)─八代説の根拠

2018-04-29 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 4月29日(日)17時11分28秒

前回投稿で岩波古典文学大系の関係部分も省略せずに引用しましたが、これは細かい字句の異同を除き、既に紹介済みの井上宗雄氏の『増鏡(中)全訳注』と同一内容です。

「巻十 老の波」(その15)─後嵯峨院姫宮他界
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cff81b83b5579beabef9fe74b37293da
「巻十 老の波」(その16)─蒙古襲来(弘安の役)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2e6a966f476cd5f30390c4b2ad108ab8
「巻十 老の波」(その17)─「勅として祈るしるしの神風に」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/64aa1ca44847b09c6082f8bb49f2bf37

ただ、両者を比べると、川添昭二氏は後嵯峨院姫宮の他界と蒙古の帝王のエピソードを、弘安の御願とは無関係なものとして「中略」で済ませています。
前者は良いのですが、後者、即ち、

-------
かの異国の御門、心うしと思して湯水をも召さず、「われ、いかがして、このたび日本の帝王に生まれて、かの国を滅ぼす身とならん」とぞ誓ひて死に給ひけると聞き侍りし。まことにやありけん。
-------

という奇妙な、『増鏡』にしか存在せず、内容から見ても作り話であることが明らかなエピソードの扱いについては慎重に考察する必要があると私は考えています。
その点は後で述べるとして、八代説の根拠について引用を続けます。(p159以下)

-------
 八代は、『続本朝通鑑』や『大日本史』亀山天皇の本記に、すでに亀山上皇御祈願と解していることをあげ、そのように解されてきた理由と、その当たらないことを四点に分けて説明している。(一)「太神宮への御願に」という文句が、新院の次にあるから、文章が連続して、亀山上皇の御願と認めたのであろうが、この文章は「供養せらる」で一段落付いたので、太神宮の御願は公卿勅使を受けたものと認めるのが穏当で、太神宮の上にさてという字をいれてみると、よく意味が通ずるように思う。(二)この時は亀山上皇の院政であるから、上皇の御願と考えたのであろうが、国家重大の事柄に関しては、すべて詔勅宣旨でおこなう例であるから、この御願も天皇の御願と認むべきである。ことに「君が御代にも」とあるのは、上皇ではいえないことである。(三)大宮院は亀山上皇の母で、上皇を寵愛していたから諫めたものと認められたのであろうが、後宇多天皇も大宮院の孫で寵愛深かったことが『増鏡』に見えているから、後宇多天皇とみてさしつかえない。(四)「為氏の大納言、伊勢の勅使にて上る」とあるので、亀山上皇より院公卿勅使が別に立てられて御願があったと認められたものであろう。しかし、院公卿勅使は院司の中の公卿が勤むる例であるが、為氏は院司ではなく、和田英松・佐藤球『増鏡詳解』のいうように、為氏は中御門経任を誤ったものであろう。かつ、『勘仲記』や『弘安四年日記抄』には公卿勅使発遣のことは委しく記されているが、院公卿勅使発遣のことはみえない。以上が八代の新説の内容である。
-------

ということですが、(二)に<「君が御代にも」とあるのは、上皇ではいえないことである>というのは、岩波古典文学大系の引用部分に「君が御代にも」という表現がないので、ちょっと妙な感じですね。
おそらく八代論文で参照されている『増鏡』の写本には「我御代にしもかかる乱れ出で来て、まことにこの日本のそこなはるべくは、御命を召すべき」の冒頭に相当する部分に「君が御代にも」とあったのでしょうが、今は『国史叢説』が手元にないので、ちょっと確認できません。
さて、八代の提案に従って「太神宮の上にさてという字をいれてみると」、

-------
伊勢の勅使に、経任大納言まいる。新院も八幡へ御幸なりて、西大寺の長老召されて、真読の大般若供養せらる。【さて】太神宮へ御願に、「我御代にしもかかる乱れ出で来て、まことにこの日本のそこなはるべくは、御命を召すべき」よし、御手づから書かせ給けるを、大宮院、「いとあるまじき事なり」と、なほ諫めきこえさせ給ふぞ、ことわりにあはれなる。
-------

となって、このように実際には存在しない字句を付加するという改竄を経れば、八代説も理解できない訳ではありません。
ところで、私にとって一番の関心は中御門経任と二条為氏の関係なのですが、八代説は「為氏は中御門経任を誤ったものであろう」ですから、ずいぶんあっさりとした答えです。
まあ、これは『増鏡』の写本に関係した過去の全ての人が、何でここで為氏が出てくるのだろう、と不思議に思って、その疑問を解決する案として最初に思いつくであろう答えかと思いますが、安直な感じは否めません。
明らかに奇妙な記述でありながら、連綿として写本に残ってきたということは、やはり原本に、疑いようもないくらい明確に「為氏の大納言」と書かれていたからではないかと思います。
私見では、それは作者の意図的なものと考えるのが自然であって、「為氏は中御門経任を誤ったものであろう」で済ましてよい話ではありません。

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「弘安の御願」論争(その1)─八代国治の新説

2018-04-29 | 『増鏡』を読み直す。(2018)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 4月29日(日)15時55分45秒

「弘安の御願」論争を取り上げる現代的意味が全くないかというとそんなことはなくて、この論争を振り返ることを通して、『増鏡』の性格を改めて考えることができそうです。
さて、旧サイト『後深草院二条─中世の最も知的で魅力的な悪女について』でやっていたように、「弘安の御願」論争を全部再現することはできませんが、川添昭二氏が『蒙古襲来研究史論』(雄山閣、1977)において、この論争を簡明に整理されているので、これを紹介したいと思います。(p158以下)

-------
各論 第三章 大正時代における蒙古襲来研究
三 「弘安の御願」をめぐる論争

(一)八代国治の新説
 八代国治「蒙古襲来についての研究」(大正七年一月『史学雑誌』二九編一号、大正一四年五月・吉川弘文館『国史叢説』に再録)は『伏敵編』に洩れた蒙古襲来関係の新史料を駆使した研究で、大正時代の蒙古襲来研究中すぐれたものの一つである。本論によってはじめて明らかにされた事実は多いが、『勘仲記』『弘安四年日記抄』や図書寮・関戸守彦氏所蔵文書などによって、公家側の祈祷関係の事蹟が一層具体的に解明されたことは特筆されねばならぬ。その論証の過程で、弘安四年閏七月の伊勢大神宮への亀山上皇の祈願と伝えられていた事実を、後宇多天皇の勅願であると論断した。亀山上皇の祈願は古来から人口に膾炙していたため、八代の新説は世の注目をあび、諸新聞・雑誌に転載報導され、その後この問題をめぐって研究者の間に論難がかわされた。
 この、いわゆる弘安の御願についての基礎史料は『増鏡』第十老のなみで、その解釈いかんによって亀山上皇説ともなり、後宇多天皇説ともなる。関係個所を岩波古典文学大系87(三六六-七)によって示しておこう。

弘安も四年になりぬ。夏比、後嵯峨院の姫宮、かくれさせ給ぬ。<〇中略>其比、蒙古起こるとかやいひて、世の中騒ぎたちぬ。色さまざまに恐ろしう聞こゆれば、「本院〔後深草〕・新院〔亀山〕は東へ御下りあるべし。内〔後宇多〕・春宮〔伏見〕は京にわたらせ給て、東の武士ども上りてさぶらふべし」など沙汰ありて、山々寺々に御祈り、数知らず。伊勢の勅使に、経任大納言まいる。新院も八幡へ御幸なりて、西大寺の長老〔思円〕召されて、真読の大般若供養せらる。太神宮へ御願に、「我御代にしもかかる乱れ出で来て、まことにこの日本のそこなはるべくは、御命を召すべき」よし、御手づから書かせ給けるを、大宮院、「いとあるまじき事なり」と、なほ諫めきこえさせ給ふぞ、ことわりにあはれなる。東にも、いひしらぬ祈りどもこちたくののしる。故院〔後嵯峨〕の御代にも、御賀の試楽の頃、かかる事ありしかど、程なくこそしづまりにしを、この度はいとにがにがしう、牒状とかや持ちて参れる人など有て、わづらはしうきこゆれば、上下思ひまどふ事かぎりなし。されども、七月一日〔閏七月一日〕、おびたたしき大風吹て、異国の舟六万艘、つは物乗りて筑紫へよりたる、みな吹破られぬれば、或は水に沈み、をのづから残れるも、泣く泣く本国へ帰にけり。<〇中略>さて為氏の大納言、伊勢の勅使のぼるみち、申をくりける。
  勅として祈るしるしの神風によせくる浪はかつくだけつつ
かくて静まりぬれば、京にも東にも、御心ども落ちゐて、めでたさかぎりなし。
-------

いったんここで切ります。
現代人から見ると、「亀山上皇の祈願は古来から人口に膾炙していたため、八代の新説は世の注目をあび、諸新聞・雑誌に転載報導され」云々が既に奇妙な感じがしますが、これにはそれなりの背景があります。
即ち、明治に入り、列強の脅威の中で近代国家を建設して行くにあたり、蒙古襲来を撃破したという過去の栄光の記憶が国民統合のための新たな意義を持つようになり、民間人の中からも、その意義を顕彰しようとする動きが出てきます。
その最も分かりやすい例が、今も福岡市博多区東公園に残る亀山上皇殉国の御祈願の銅像です。
ま、この銅像が日蓮像と並んで建立された背景には、一般的な説明とは違う裏事情も若干あるようですが、この銅像はあくまで亀山上皇が「我が身をもって国難に代わらん」と言われたことを前提とするものであることは間違いありません。
そこで、『増鏡』の「弘安の御願」は実は後宇多天皇によるものだった、という話が歴史的事実として確定してしまえば、では、銅像を建て直さなければならないのか、というような話にも発展しかねません。
こうした社会的背景があって、八代説は世間の注目を浴びた訳です。

◇参考
「亀山上皇銅像」(福岡市公式シティガイド「よかなび」内)
この銅像は、十三世紀後半の元寇の際に亀山上皇が「我が身をもって国難に代わらん」と伊勢神宮などに敵国降伏を折願された故事を記念して、福岡県警務部長(現在の警察署長)だった湯地丈雄等の十七年有余の尽力により、明治三十七年、元寇ゆかりのこの地に建立された。
衣冠束帯の直立像の高さはおよそ4.8メートルある。原型の制作者は、当時高村光雲下で活躍していた福岡出身で博多櫛田前町生まれの彫刻家山崎、朝雲で、亀山上皇像はその代表作のひとつである。
また、台座に書かれた「敵国降伏」の文字は、初代福岡県知事有栖川宮熾仁(たるひと)親王の筆によるものである。
https://yokanavi.com/spot/27045/

「東公園にある亀山上皇銅像はなぜ北条時宗にならなかったのか」(山田孝之氏「福岡穴場観光」サイト内)
http://y-ta.net/kameyama-jyokou/
「なぜ亀山上皇像なのか」(『旧聞since2009』サイト内)
http://koikoi2011.blog.fc2.com/blog-entry-205.html
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内田啓一氏の功績

2018-04-29 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 4月29日(日)10時24分54秒

兵藤氏は、なぜ金沢貞顕が「中宮御懐妊」を祝わなければならないのか、その背景と理由を説明していないので、このままでは歴史研究者の賛同は得られそうもない感じですね。
ただ、その点は些か逆方向に振れ過ぎてしまったとしても、「異形の王権」論批判の部分は歴史研究者にとっても参考になりそうです。
少し引用してみると、

-------
 聖天(歓喜天とも)は、密教の守護神であり、ふつう象頭人身の男女二尊が和合するすがたで造形される。ヒンドゥー教に由来するその怪異な像容が、日本仏教には珍しいタントラ教の歓喜仏を連想させることから、網野氏は、「後醍醐はここで人間の深奥の自然─セックスそのものの力を、自らの王権の力としようとしていた」と述べている。
 網野氏はまた、このセックスと王権というテーマを、後醍醐天皇の密教の師、文観弘真が「邪教」真言立川流の中興の祖とされる通説に結びつけるのだが、網野氏のこの「異形の王権」論の前段階には、元徳年間の中宮懐妊について論じた百瀬今朝雄氏の論文があった(「元徳元年の「中宮御懐妊」」)。
 百瀬氏は、聖天供の修法が怨敵降伏に用いられた例をあげ、元徳年間に後醍醐の修した聖天供の修法も、中宮の安産祈禱を隠れみのとした関東調伏の祈禱であるとした。そのうえで、金沢貞顕の書状の記述をもとに、「護摩の煙の朦朧たる中、揺らめく焔を浴びて、不動の如く、悪魔の如く、幕府調伏を懇祈する天皇の姿を思い描いて、(幕府首脳部は)身の毛をよだたせたのではなかろうか」と述べている。
 百瀬論文のこの(やや文飾過多な)一節は、網野氏の著書にそのまま引用されて広く流布している。こうした後醍醐のイメージが、「妖僧」文観のイメージと結びついて、網野氏の異形の王権論の核心をなしていることはたしかである。
 だが、内田啓一氏によって指摘されたように、平安時代以来、しばしば貴族社会周辺で行われた聖天供の修法は、除災と招福、富貴や子宝(夫婦和合)を祈願するものであり、それ自体はけっして後醍醐の修法の特異性を示すものではない。
 かりにそれが、怨敵降伏を目的として行なわれたとしても、御産の祈祷は、ふつう安産を妨げるもののけ(怨霊)の調伏祈祷として行なわれるのであり、その具体例は、『紫式部日記』『栄花物語』『源氏物語』『平家物語』などに枚挙にいとまがない。すなわち、金沢貞顕の書状にいう「聖天供」の修法を、ただちに幕府調伏の祈禱に結びつける百瀬氏(および網野氏)の説には無理があるのだ。
 文観を「邪教」立川流の中興の祖とみなすことも、後述するように、江戸時代に広まった俗説でしかない。巷間に流布した「異形」「異類」のイメージからはいったん離れて、後醍醐天皇と密教、また後醍醐の付法の師である文観弘真について考える必要があるわけだ。
-------

ということで(p90)、「安産を妨げるもののけ(怨霊)の調伏祈祷」の例としては『増鏡』も追加できますね。

「巻五 内野の雪」(その2)─中宮(姞子)の懐妊
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9326b718a86a34828915d0e7fade3f27
「巻七 北野の雪」(その13)─皇子(後宇多天皇)誕生
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0b6e7187e80926aa482304fad6478bc7

さて、兵藤氏も内田啓一氏のお名前に言及されているように、<巷間に流布した「異形」「異類」のイメージ>を根本的に疑い、その払拭の先駆けとなった内田啓一氏の功績は非常に大きいものです。
ただ、内田氏が美術史出身で、町田市立国際版画美術館という歴史とは全然関係なさそうな機関の学芸員を長く勤めておられたこともあって、内田氏の研究の重要性は一般の歴史愛好者はもちろん、専門的な中世史研究者の間でも、それほど意識されていなかったのではないかと思います。
兵藤氏の新著が、そうした認識を改めるきっかけになってくれれば嬉しいですね。

「内田啓一氏、ご逝去」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/962f9648718d2a23e6999f7d301bd212

網野善彦信者は未だに巷間に満ち満ちていますが、網野氏の頭でっかちで頓珍漢なエロ親父的側面を知れば、熱が冷める人も多少はいるのではないかと思います。
網野氏が甥の中沢新一氏と共有していた部分は、歴史学には全く役に立たないガラクタばかりですね。

相生山「生駒庵」の謎(その1)~(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0141ae1bd6e55dc08e9e822e3f56971b
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e231c5ca3b2e83a351118759975e9e42
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5db8b93cf3b3c7fab312fdfee1b35bee
『血族』の世界
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/09bcdc10aadd78cf2dde13b4772e1802
注文の多い料理店
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6c39e4005ca3b2ec3abec349df21a4fb
アミノ細胞とナカザワ細胞のコンタミネーション
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b0df6fb5bb276354adf7706b61b444fc

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「巻十 老の波」(その17)─「勅として祈るしるしの神風に」

2018-04-28 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 4月28日(土)23時32分57秒

続きです。(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p278以下)

-------
 されども七月一日おびたたしき大風吹きて、異国の舟六万艘、兵〔つはもの〕乗りて筑紫へ寄りたる、みな吹き破〔や〕られぬれば、あるは水に沈み、おのづから残れるも、泣く泣く本国へ帰りにけり。石清水の社〔やしろ〕にて大般若供養のいみじかりける刻限に、晴れたる空に黒雲一村〔ひとむら〕にはかに見えてたなびく。かの雲の中より白き羽にてはげたる鏑矢の大きなる、西をさして飛び出でて、鳴る音おびたたしかりければ、かしこには、大風の吹き来ると兵の耳には聞えて、浪荒く立ち、海の上あさましくなりて、みな沈みにけるとぞ。なほ我が国に神のおはします事あらたに侍りけるにこそ。
 さて為氏〔ためうぢ〕の大納言、伊勢の勅使上る道より申しおくりける。
  勅として祈るしるしの神風に寄せ来る浪はかつくだけつつ
 静まりぬれば、京にも東にも、御心ども落ちゐて、めでたさ限りなし。かの異国の御門〔みかど〕、心うしと思して湯水をも召さず、「われ、いかがして、このたび日本の帝王に生〔む〕まれて、かの国を滅ぼす身とならん」とぞ誓ひて死に給ひけると聞き侍りし。まことにやありけん。
-------

【私訳】しかし、(閏)七月一日、大変な大風が吹いて、異国の船六万艘、敵兵が乗って筑紫へ攻め寄せてきたのが、みな難破してしまったので、敵兵のある者は水に沈み、たまたま残った者も泣く泣く本国へ帰って行った。石清水八幡宮寺にて大般若経供養が盛大に行われていた刻限に、晴れた空に突然、黒雲が一かたまり現われてたなびいた。その雲の中から白い羽で矢羽をつけた大きな鏑矢が、西を指して飛び出し、その鳴る音がものすごかったので、筑紫の地では、大風が吹いてくると敵兵の耳には聞こえて、波が荒く立ち、海の上が恐ろしく荒れて、みな沈んだということである。やはり我が国に神のいらっしゃることは、あらたかなのである。
 さて、為氏の大納言は、伊勢の勅使として上京の途中から次の歌を送ってきた。
  勅として……(天皇の勅を奉じてお祈りした、その霊験の神風によって、攻めて来た
  敵兵は、みな寄せ来る波のように砕けてしまったことよ)
 蒙古の事件が静まったので、京でも関東でも、みな安心されて、このうえなくめでたいことである。かの異国の帝王は、非常に無念だとして湯水も召さず、「私はどうかして今度は日本の帝王に生まれ、あの国を滅ぼす身となろう」と誓って死なれたと聞いたが、本当であったのだろうか。

ということで、少し前に公卿勅使として伊勢に派遣されたのが「経任の大納言」だったと明確に書いているのに、ここで「伊勢の勅使上る道より」歌を送ってきたのは「為氏の大納言」とされており、極めて奇妙です。
そして、この奇妙な記述を巡り、大正時代に「弘安の御願」論争が勃発します。
私はこの論争にある種コミカルな面白さを感じ、旧サイトでは論争参加者の論文を全て転載して、論争の発端から一応の収束までの経緯を辿った上で、『増鏡』と『とはずがたり』の作者を同一人物と考える私の立場からの意見を纏めておきました。
さすがに今からそれらを全面的に再現する熱意はないのですが、大正時代の歴史学界の雰囲気を垣間見るだけでもなかなか面白い経験なので、少しだけ紹介しようと思います。

>筆綾丸さん
ご指摘の部分、確かに「中宮懐妊への祝意」とまで言われると奇異な感じがしますね。
その後の百瀬今朝雄氏の「元徳元年の『中宮御懐妊』」論文への批判、そして網野善彦氏の「異形の王権」批判は、私もかねてから思っていたことなので、殆ど全てに賛成できるのですが。

「普通の王権」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1ae34e02fc228b0b4fbb51799ddf1dd2
「元徳元年の『中宮御懐妊』」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e469205b7fec86bec83e913fa18f2fed
「内田啓一氏、ご逝去」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/962f9648718d2a23e6999f7d301bd212

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

中宮懐妊をめぐる Much Ado About Nothing 2018/04/28(土) 11:39:13 
----------------
 前掲の金沢貞顕の書状は、『太平記』第一巻の中宮禧子の物語に沿うようにして解釈されてきた。だが、いったん『太平記』的な読みの枠組み(コード)をはずして、書状の文面を虚心に読むなら、そこにいう「言語道断」も「比興」も、中宮御懐妊への祝意と読むのが自然である。(『後醍醐天皇』「第四章 文観弘真とは何者か」88頁)
----------------
貞顕の二通の書状は以下の通りで、前者は元徳元年(1329)十月中旬のもの、後者は同年十二月中・下旬のもの、とそれぞれ推定されているとのこと(84頁~)。

一、中宮御懐妊の事、実ならざる間、御祈り等止められ候へども、禁裏一所御座の由、その聞こえ候ふ。実事に候ふか。承り存ずべく候ふなり。
一、禁裏、聖天供とて□□御祈り候ふの由承り候ふ、不審に候ふ。

一、中宮又御懐妊候ふとて、十一月二十六日、京極殿へ行啓の由承り候ひ了んぬ。比興申すばかりも無き事に候ふか。御祈りの事、言語道断に候ふか。
一、禁裏御自ら護摩を御勤むるの由承り候ひ了んぬ。

二通の書状を何度か虚心に読んでみたのですが、 「中宮御懐妊への祝意と読む」のは不自然な気がしてなりません。父・後宇多譲りの密教狂いとはいえ、至尊の主上ともあろうお方が、国家安康等他の祈禱ならともかく、中宮安産の為と称して部屋に籠り、おんみずから護摩を焚いて聖天供の修法を執り行うのは物狂の沙汰以外の何物でもなく、「不審に候ふ」、ついては、本当のところはどうなのか、事実を教えてほしい、と息子の貞将に尋ねている、と読むのが自然ではあるまいか。つまり、「比興」も「言語道断」も、中宮懐妊への祝意などではなく、風聞通りならば、常軌を逸した以ての外の振る舞いだ、と読めばいいのではないか。書状の文体からしても、中宮懐妊への祝意を表しているとは、とても思えない。
前者の十月の書状「中宮御懐妊の事、実ならざる間、御祈り等止められ候へども」と、翌々月十二月の後者の書状「中宮又御懐妊候ふとて」とを、よくよく読み比べてみれば、後者には、「やれやれ、また懐妊の空騒ぎかね、まるで沙翁の Much Ado About Nothing みたいだな、馬鹿々々しい」という気持ちが表れている、と読めるのではないか。そう読む方が、私には自然な気がします。
なお、前者の書状における二文字の欠落□□は、「出精」あるいは「懇請(懇誠)」などが相応しいのではあるまいか。

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「巻十 老の波」(その16)─蒙古襲来(弘安の役)

2018-04-27 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 4月27日(金)23時18分8秒

続きです。(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p277以下)

-------
 その頃、蒙古起こるとかやいひて、世の中騒ぎ立ちぬ。色々様々に恐ろしう聞ゆれば、「本院・新院は東〔あづま〕へ御下りあるべし。内・春宮は京にわたらせ給ひて、東武士〔あづまぶし〕ども上〔のぼ〕りてさぶらふべし」など定めありて、山々寺々の祈り数知らず。伊勢の勅使に経任〔つねたふ〕の大納言参る。新院も八幡へ御幸なりて、西大寺の長老召されて真読の大般若供養せらる。大神宮へ御願に、「我が御代にしもかかる乱れいで来て、まことにこの日本〔ひのもと〕のそこなはるべくは、御命を召すべき」よし御手づから書かせ給ひけるを、大宮院、「いとあるまじき事なり」となほ諫め聞えさせ給ふぞ、ことわりにあはれなる。
 東にも、いひ知らぬ祈りどもこちたくののしる。故院の御代にも、御賀の試楽の頃、かかる事ありしかど、程なくこそしづまりにしを、この度〔たび〕はいとにがにがしう、牒状〔てふじやう〕とかや持ちて参れる人などありて、わづらはしう聞ゆれば、上下思ひまどふこと限りなし。
-------

【私訳】その(弘安四年の)頃、蒙古が襲来するとかいって、世の中が騒ぎ立った。いろいろさまざまに恐ろしい風聞が立つので、
「本院・新院は関東に御下りになるであろう。今上と東宮は京においでになって、関東武士が上洛して警固するであろう」
などとうわさされて、山でも里でも寺院でのご祈禱は数知れないほどである。伊勢神宮への公卿勅使に経任の大納言が参る。新院も八幡へ御幸されて、西大寺の長老を召されて真読の大般若供養をなさる。伊勢大神宮への御願文には、
「私の御代にこのような乱れが起こって、本当にこの日本が滅亡するようなことになるのでしたら、(代わりに)我が命を取り上げてください」
との旨を御自身でお書きになったのを、大宮院が
「そんなことを言われてはなりません」
と御諫め申し上げたのは(母のお気持ちとしては)本当にもっともなことであった。
 関東でも、言葉にならないほどの祈祷を大騒ぎして大規模に行った。故後嵯峨院の御代にも、五十の御賀の試楽のころ、このようなことがあったものの、程なく静まったものであったが、今回は本当に苦々しい事態となり、蒙古からの牒状とかいうものを持って参った者もあって、たいそう面倒なように思われたので、上下の人々が限りなく思案に暮れたのであった。

ということで、文永十一年(1274)の蒙古襲来(文永の役)以降、再度の襲来に備えて幕府は継続的に対策を取っていた訳ですが、『増鏡』作者はそんなことに何の関心も示していません。
また、現代人から見て非常に奇妙なのは、「故院の御代にも、御賀の試楽の頃、かかる事ありしかど、程なくこそしづまりにしを」となっていて、比較の対象は後嵯峨院五十賀試楽が中止となった文永五年(1268)であり、現実に蒙古襲来のあった文永十一年ではないことです。
実際、『増鏡』の記述の分量も、前者の方が少し多くなっています。
といっても、前者も僅かに、

-------
 かやうに聞こゆる程に、蒙古の軍といふこと起こりて御賀とどまりぬ。人々口惜しく本意なしと思すこと限りなし。何事もうちさましたるやうにて、御修法や何やと公家・武家ただこの騒ぎなり。されども程なくしづまりていとめでたし。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9b5e845e6c301a87dc455fe53dd5a8ee

とあるのみで、後者に至っては、後宇多天皇の即位式に関連して、

-------
十一月十九日又官庁へ行幸、廿日より五節始まるべく聞こえしを、蒙古起るとてとまりぬ。廿二日大嘗会、廻立殿の行幸、節会ばかり行はれて、清暑堂の御神楽もなし。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/94f3d9b355824ec3f1380faeac8dddb7

とあるのみで、どんぐりの背比べ程度の違いしかありません。
弘安の役関係の記事はもう少し続きますが、いったんここで切ります。

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「巻十 老の波」(その15)─後嵯峨院姫宮他界

2018-04-27 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 4月27日(金)19時39分32秒

続きです。(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p275以下)

-------
 弘安も四年になりぬ。夏頃、後嵯峨院の姫宮隠れさせ給ひぬ。後堀河院の御むすめにて、神仙門院と聞えし女院の御腹なれば、故院もいとおろかならずかしづき奉らせ給ひけり。御かたちもたぐひなくうつくしうおはしまして、「人の国より女の本〔ほん〕をたづねんには、この宮の似絵〔にせゑ〕をやらん」などぞ、父みかども仰せられける。御乳母〔めのと〕隆行の家におはしましける程に、御乳母子〔めのとご〕隆康、忍びて参りける故に、あさましき御事さへいできて、これも御うみながし、にはかに失〔う〕せさせ給ひにけるとぞ聞えし。
-------

【私訳】弘安も四年(1281)になった。夏ごろ、後嵯峨院の姫宮が亡くなられた。後堀河院皇女で神仙門院と申された女院の御腹であったので、故院もほんとうにひと通りでなく大事に養育されておられたのである。御容姿も比類なく美しくいらっしゃって、「異国から美しい女性の典型を求めてきたら、この姫宮の肖像画を贈ろう」などと父院もおっしゃっておられた。御乳母の四条隆行の家におられた間に、御乳母子の隆康がこっそり参りなどしたため、(妊娠というような)浅ましい御事まで起こって、その結果、御流産で急に亡くなられたということであった。

ということで、「巻十 老の波」に入ってからは亀山院の後宮の場面以来、久しぶりの「愛欲エピソード」です。
この場面の関係者の生没年を整理すると、

後堀河院(1212-34)
後嵯峨院(1220-72)
神仙門院(1231-1301)
四条隆行(1224-85)
四条隆康(1249-91)

ということで、後嵯峨院が十一歳下の神仙門院と通じて姫宮が生まれたとして、それが仮に神仙門院が二十代の頃だとすると、姫宮は1250年代くらいの生まれです。
そして、その姫宮と四条隆康が通じて、弘安四年(1281)に姫宮が流産で死亡するということは、年齢だけを考えるならばそれほど無理な話でもありません。

体子内親王(神仙門院)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%93%E5%AD%90%E5%86%85%E8%A6%AA%E7%8E%8B

しかし、井上氏の「解説」によれば、

-------
 神仙門院と後嵯峨院の私通は諸書にみえず、その間の一皇女のことも同様である。『本朝皇胤紹運録』にもこの皇女はみえない。後深草院や亀山院が異母妹と通じたことなどから推測しても、院と女院との私通はありそうなことである(院と女院は再従兄妹)。ここに書かれている話も、いかにもリアリティがある。その結果、生まれた皇女が今度は乳母子と通じてお産で没したというようなことも、ありうるのであろう。
 この辺は、鎌倉期貴族社会の退廃相をよく示しているが、『増鏡』に記されている事例も、(『とはずがたり』を思い浮かべればなおさらだが)、まったく氷山の一角にすぎないのだろう。
-------

とのことで(p277)、『増鏡』以外に一切の記録がないのですから、結局のところ『増鏡』をどこまで信頼できるか、という話になります。
井上氏の思考パターンは、

「後深草院や亀山院が異母妹と通じたこと」は確定的な歴史的事実
  ↓
従って後嵯峨院と神仙門院の(再従兄妹の)私通は「ありそうなこと」
  ↓
この場面も「いかにもリアリティがある」
  ↓
「その結果、生まれた皇女が今度は乳母子と通じてお産で没したというようなことも、ありうる」
  ↓
「『とはずがたり』を思い浮かべればなおさら」、この事例は「まったく氷山の一角にすぎない」

というものですが、出発点の後深草院が異母妹の前斎宮と通じたことは『とはずがたり』と『増鏡』にしか記されておらず、また、亀山院が異母妹の五条院と通じたことも『増鏡』にしか記されていません。
とすると、井上氏の「鎌倉期貴族社会の退廃相」に関する認識は、特に論理的な裏付けはなく、『とはずがたり』と『増鏡』の周囲をグルグル廻っているうちにどんどんイメージが増幅され、次第に強固となって、とうとう巨大な「氷山」を仰ぎ見るような段階に達しただけのような感じもします。
ま、別に私もこの場面の記述が虚偽であると主張したい訳ではないのですが、他の史料に一切現れないこれほどの秘事を『増鏡』作者はどうして知ったのだろうか、という疑問は生じてきます。
そして、『とはずがたり』と『増鏡』の作者が同一人物ならば、母方の四条家一族の内情は容易に知ることができそうなので答えは簡単ですが、二条良基や丹波忠守を『増鏡』作者とする場合には、いかなる経緯でこの情報を知ったのかがそれなりの問題になりそうです。
なお、四条家といっても、もちろん一枚岩ではありません。
四条隆行(1224-85)は後深草院二条の祖父・四条隆親(1203-79)の兄である隆綱(1189-?)の子なので、隆親にとっては甥であり、二条と極めて親しい善勝寺大納言隆顕(1243-?)にとっては従兄弟となります。
四条一門では隆綱より十四歳も年下の隆親が本家筋となったために、隆綱流と隆親流の間で潜在的な対立が想定される上に、隆親によって四条家を追い出された隆顕にとって、隆行・隆康父子は好意的に見ることのできる存在でもなさそうです。
とすると、『増鏡』作者が『とはずがたり』と同一人物であれば、隆行・隆康父子の秘密を入手するルートも、それを暴露する動機も存在しそうです。

それにしても『増鏡』作者の後嵯峨院皇女に対する視線は本当に冷ややかですね。
まず、「巻八 あすか川」で月花門院に源彦仁と園基顕が通ってきて、堕胎の失敗で亡くなったことが記されます。

「巻八 あすか川」(その8)─月花門院薨去
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7fefb8903614166d0eee9c4963c36217

その後、「巻九 草枕」の半分を費やして後深草院と前斎宮の密通、ついで西園寺実兼・二条師忠と前斎宮の奇妙な三角関係が描かれます。

「巻九 草枕」(その6)─前斎宮と後深草院(第一日)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e25b0fbfedcc25a407c202e61e161ddf
「巻九 草枕」(その7)─前斎宮と後深草院(第二日)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c7c9e9918899aa55f64744b59d9a3bf9
「巻九 草枕」(その8)─前斎宮と後深草院(第二日の夜)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b7aee4690e5603b5bda8b5c5d5736bd5
「巻九 草枕」(その9)─前斎宮と後深草院(第三日)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5a58f07bed7b0300dbac5204ce193a25
「巻九 草枕」(その10)─前斎宮と後深草院(第三日の夜)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9b66ecfbbbb8585e29499abc8f9d4725
「巻九 草枕」(その11)─前斎宮と西園寺実兼・二条師忠(前半)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a4a9cc3e7d2b0873f824e27bff3f0000
「巻九 草枕」(その12)─前斎宮と西園寺実兼・二条師忠(後半)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ac8642bb8d6f5b41db85c5fc6abcb3ad

ついで「巻十 老の波」にはいると、今度は亀山院と五条院の密通ですね。

「巻十 老の波」(その4)─五条院
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2763b18b7676761c25266abb46aba941

そして今度は神仙門院腹とあるだけで名前も不明な姫君ですが、さすがに後嵯峨院皇女に関するこの種のエピソードはこれで最後です。

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「巻十 老の波」(その14)─継仁親王の誕生と死

2018-04-27 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 4月27日(金)12時56分54秒

続きです。(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p273以下)

-------
 かくて年月変はりぬ。そのころ新陽明門院またただならずおはしますと聞えし、五月ばかり御気色〔けしき〕あれば、めづらしう思す。内々、殿にてせさせ給ふに、天下の人々参り集ふ。前の度〔たび〕生まれさせ給へる若宮は、隠れさせ給ひにしを、新院本意〔ほい〕なしと思されけるに、又かくものし給へば、めでたう思ふ様なる御事もあらばと、今より思しかしづくに、いとかひがひしう若宮生まれさせ給へれば、限りなく思さる。
 八月みこの御歩〔あり〕きぞめとて、万里小路殿に渡らせ給ふ。唐庇の御車に、後嵯峨の院の更衣腹の姫宮、聖護院の法親王の一つ御腹とかや、御母代〔ははしろ〕にてそひ奉り給ふ。
また三条内大臣公親の御女〔むすめ〕、内の上の御乳母〔めのと〕なりしも、めでたき御あえものとて、御車に二人乗り給ふ。女院は院の上一つ御車に、菊の網代の庇に奉る。宮の御車にやり続けて、よそほしくめでたき御事なり。
-------

【私訳】こうして年月が変った。そのころ、(亀山院妃の)新陽明門院がまた御懐妊であられるということであったが、(弘安二年の)五月頃、お産の御様子があるので、亀山院は嬉しく思われた。内々、女院の御所でなさるということであったが、天下の人々が参集した。以前にお生まれになった若宮(啓仁親王)はお亡くなりになったのを、亀山院は残念に思われていたが、またこのように御懐妊となったので、めでたくご希望通りの事があればと、今から女院を大切になさっていたところ、まことにその甲斐があって若宮(継仁親王)がお生まれになったので、この上なくお喜びになる。
 八月、皇子の御歩き初めということで、万里小路殿へお渡りになる。唐庇の御車に、後嵯峨院の更衣腹の姫宮で、聖護院覚助法親の御同腹とかいう方が、御母代りとして付き添い申し上げた。また、三条内大臣公親の御娘で、今上(後宇多)の御乳母であった方も、縁起の良いあやかり者として、御車に二人お乗りになった。女院は亀山院とご同車で、菊の紋をつけた網代車にお乗りになる。若宮の御車に続けて、美々しく立派な御事である。

-------

ということで、『増鏡』作者の新陽明門院(1262-96)に対する関心は非常に強く、その登場はこれで三度目です。
最初は「巻九 草枕」の末尾に、文永十二年(建治元年、1275)、十四歳で女御として入内した近衛基平の姫君が直ぐに新陽明門院の女院号宣下を受け、翌年、啓仁親王を産んだとあります。
ついで「巻十 老の波」に入ると、亀山院が亡き皇后宮を慕うあまり、新陽明門院とは疎遠になったことが(事実かどうかはともかく)記されます。

「巻九 草枕」(その13)─新陽明門院
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/92111b1b91f8cc8b6302a08c08f325fc
「巻十 老の波」(その3)─亀山院の皇后追慕・二条内裏炎上
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a1da48f8875f759c3b291eb508c367ad

そして、ここで啓仁親王(1276-78)の夭逝と継仁親王の誕生となるのですが、「御歩きぞめ」のめでたい雰囲気も直ぐに消えてしまいます。

-------
 その頃、倹約行はるとかや聞えし程にて、下簾〔したすだれ〕短くなされ、小金物〔こかなもの〕抜かれける。物見る車どものも、召次〔めしつぎ〕寄りて切りなどしけるをぞ、「時しもや、かかるめでたき御事の折ふし」などつぶやく人もありけるとかや。この宮も親王の宣旨ありて、いとめでたく聞えし程に、あくる年九月また隠れさせ給ひにし、いと口惜しかりし御事なり。
-------

【私訳】その頃、倹約令が出されたとのことで、簾の下の布を短くされ、飾り金具を除かれたりした。拝観の車などのそれらも、召次が寄って来て切りなどしたのを、「他の機会もあろうに、こういうめでたい御事の折に切るなんて」などとつぶやく人もあったという。この宮も親王宣下があって、たいそうめでたく思い申しているうちに、翌年九月、また亡くなられてしまったのは、何とも残念な御事であった。

ということで、継仁親王(1279-80)も夭逝してしまう訳ですね。
二人の親王が亡くなった弘安三年の時点で、新陽明門院はまだ十九歳です。

新陽明門院(1262-96)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E4%BD%8D%E5%AD%90

なお、継仁親王の「御歩きぞめ」の場面で、「御母代」として登場する「後嵯峨の院の更衣腹の姫宮、聖護院の法親王の一つ御腹とかや」という女性は琵琶の名手の藤原孝時女・博子のことですね。
五条院の母であり、従って「いはぬ事」の姫君の祖母となります。

「刑部卿の君」考
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b1142af01bd5c7e08644f57dbf5f2558
「巻十 老の波」(その4)─五条院
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2763b18b7676761c25266abb46aba941

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「巻十 老の波」(その13)─続拾遺集の撰進

2018-04-27 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 4月27日(金)10時36分26秒

続きです。(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p270以下)

-------
 この御代にも又勅撰の沙汰、一昨年〔をととし〕ばかりより侍りし、為氏大納言えらばれつる、この師走〔しはす〕にぞ奏せられける。続拾遺集と聞ゆ。「たましひあるさまにはいたく侍らざめれど、艶〔ゑん〕には見ゆる」と、時の人々申し侍りけり。続古今のひきうつし、おぼろけの事は、立ち並び難くぞ侍るべき。
-------

【私訳】この御代にもまた、勅撰集を撰ぶべき命が一昨年(建治二年)ころからあって、為氏の大納言の撰ばれた集が、この(弘安元年の)十二月に奏覧された。『続拾遺集』とのことである。「この集は力強い精神に満ちている訳ではなさそうだが、優美には見える」と、当時の人々は評した。『続古今集』を引きうつしたもので、なみなみのことでは、それには及ばないことであろう。

ということで、非常に厳しい批評ですね。
『尊卑分脈』を見ると、二条為氏に「建治二年七月廿二日、依亀山院々宣、撰新続拾遺集、弘安元年十二月廿七日奏覧之」とあり、下命者は治天の君たる亀山院です。
井上氏は、

-------
 為氏は父為家の独撰した『続後撰集』を手本にしたと思われ、父が撰者ではあったが、その意志があまり通らなかった『続古今集』に対しては冷たかったとも推測され、歌風も、『続後撰集』の平淡・優美なものを庶幾したと見られる。しかしここも歌壇史的な見方を踏まえた歌風論でいっているのではない。『続古今集』と比べると、本質的に歌風の相違はなく、しかも平弱である、と把握し、それが、後嵯峨院文壇の絢爛たる態勢の中から生まれたものではないから、やはり見劣りする、という評価である。
-------

と言われています(p272)。
正直、私は歌壇史も歌風の違いもよく分からないのですが、『増鏡』に関連する事実だけを指摘すると、『増鏡』作者は後嵯峨院政下での最初の勅撰集、即ち藤原定家の息子の為家が単独で撰進し、建長三年(1251)十二月に奏覧となった『続後撰集』を全く無視しています。
文字通り、一言も触れていません。
他方、当初は為家に撰集が命じられ、その後、御子左家に敵対的な真観らが撰者に追加された『続古今集』については好意的な記述をしており、その評価の態度はこの場面での記述と一貫していますね。
『増鏡』作者を御子左流の二条家関係者とする少数説がありますが、このあたりの記述を見ると、それはちょっと無理ではないかと思われます。

「巻七 北野の雪」(その10)─続古今集
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/95dba62ef98dd9a1836c1161e16bc0f8

二条為氏(1222-86)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E7%82%BA%E6%B0%8F

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2月16日の投稿の修正

2018-04-27 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 4月27日(金)09時52分10秒

『増鏡』の「女房蹴鞠」の場面に対応する『とはずがたり』の「女房蹴鞠」の場面に関し、2月16日の投稿に誤りがあったので修正しておきました。

『とはずがたり』に描かれた中御門経任(その2)─女房蹴鞠
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f9b4844774e0e7a1976b7ee3933965ef

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「巻十 老の波」(その12)─女房蹴鞠と五節の舞

2018-04-26 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 4月26日(木)22時24分9秒

さて、『増鏡』に戻って続きです。(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p268以下)

-------
 かやうに御仲いとよくて、はかなき御遊びわざなども、いどましき様に聞えかはし給ふを、めやすき事に、なべて世の人も思い申しけり。ある時は御小弓〔こゆみ〕射させ給ひて、「御負〔まけ〕わざには院の内にさぶらふ限りの女房を見せさせ給へ」と新院のたまひければ、童〔わらは〕の鞠蹴〔まりけ〕たるよしをつくりなして、女房どもに水干〔すいかん〕着せて出〔いだ〕されたる事も侍りけり。新院の御賭物〔のりもの〕には亀山殿にて五節〔ごせち〕のまねに、舞姫・童・下仕へまでになされけり。上達部、直衣〔なほし〕に衣〔きぬ〕出して、露台の乱舞、御前の召し、北の陣、推参までつくされ侍りとぞ承りし。
-------

【私訳】このように本院(後深草)・新院(亀山)の御仲はたいへん良くて、ちょっとした遊びごとなども、競い合うように交わられるのを、好ましいことと世間の人はみな思い申し上げていた。或る時は御子弓を射られて、「負けた方の御つぐないには、院の御所にお仕えしている女房をすべてお見せください」と新院がおっしゃったので、本院側では童が蹴鞠をする様子を演出して、女房たちに水干を着させてお出しになったこともあった。また、新院がお負けになったときには、亀山殿で五節の真似をして、(院中の女房を)舞姫・童から下仕えの女房にまでなされたのであった。公卿は直衣の下衣の裾を花やかに出して、(五節の儀の)露台の乱舞・御前の召し・北の陣・推参まで、すべての儀をなされたと承った。

ということで、ここも『とはずがたり』の二つのエピソードからの引用です。
ただ、分量は極めて圧縮されており、比較のために既に紹介済みの『とはずがたり』の場面から原文だけを引用すると、まず、後深草院側の「負わざ」である女房蹴鞠については、『とはずがたり』では、

-------
 かくて、二月のころにや、新院入れせおはしまして、ただ御さし向ひ、小弓を遊ばして、「御負けあらば、御所の女房たちを上下みなみせ給へ。我負け参らせたらば、またそのやうに」といふことあり。この御所御負けあり。「これより申すべし」とて、還御ののち、資季の大納言入道を召されて、「いかがこの式あるべき。めずらしき風情何ごとありなん」など、仰せられ合はするに、「正月の儀式にて、大盤所に並べ据ゑられたらんも、あまりに珍しからずや侍らん。また一人づつ、占相人などに会ふ人のやうに出でんも、異様にあるべし」など、公卿たちめんめんに申さるるに、御所、「龍頭鷁首の舟を造りて、水瓶をもたせて、春待つ宿のかへしにてや」と御気色あるを、舟いしいしわづらはしとて、それも定まらず。
 資季入道、「上臈八人、小上臈・中臈八人づつを、上中下の鞠足の童になして、橘の御壺に木立てをして、鞠の景気をあらんや珍しからん」と申す。さるべしとみな人々申し定めて、めんめんに、上臈には公卿、小上臈には殿上人、中臈には上北面、傅につきて出だし立つ。水干袴に刀さして、沓・襪などはきて出で立つべし、とてある、いとたへがたし。さらば夜などにてもなくて、昼のことなるべしとてあり。誰かわびざらん。されども力なきことにて、おのおの出で立つべし。
 西園寺の大納言、傅につく。縹裏の水干袴に紅のうちき重ぬ。左の袖に沈の岩をつけて、白き糸にして滝を落し、右に桜を結びつけて、ひしと散らす。袴には岩・堰などして、花をひしと散らす。「涙もよほす滝の音かな」の心なるべし。権大納言殿、資季入道沙汰す。萌黄裏の水干袴には、左に西楼、右に桜。袴、左に竹結びてつけ、右に燈台一つつけたり。紅の単を重ぬ。めんめんにこの式なり。中の御所の広所を、屏風にて隔て分けて、二十四人出で立つさま思ひ思ひにをかし。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d8797cb0c18b28115d6de1f3e2ddc0a7

 さて、風流の鞠をつくりて、ただ新院の御前ばかりに置かんずるを、ことさら、かかりの上へあぐるよしをして、落つるところを袖に受けて、沓を脱ぎて、新院の御前に置くべしとてありし、みな人、この上げ鞠を泣く泣く辞退申ししほどに、器量の人なりとて、女院の御方の新衛門督殿を、上八人に召し入れてつとめられたりし、これも時にとりては美々しかりしかとも申してん。さりながらうらやましからずぞ。袖に受けて御前に置くことは、その日の八人、上首につきてつとめ侍りき。いと晴れがましかりしことどもなり。
  南庭の御簾あげて、両院・春宮、階下に公卿両方に着座す。殿上人はここかしこにたたずむ。塀の下を過ぎて南庭を渡るとき、みな傅ども、色々の狩衣にてかしづきに具す。新院「交名を承らん」と申さる。御幸昼よりなりて、九献もとく始まりて、「遅し、御鞠とくとく」と奉行為方せむれども、いまいまと申して松明を取る。
 やがて、めんめんのかしづき、脂燭を持ちて、「誰がし、御達の局」と申して、ことさら御前へ向きて、袖かき合せて過ぎしほど、なかなか言の葉なく侍る。下八人より次第にかかりの下へ参りて、めんめんの木のもとにゐる有様、われながら珍らかなりき。まして上下、男たちの興の入りしさまは、ことわりにや侍らん。御鞠を御前に置きて急ぎまかり出でんとせしを、しばし召しおかれて、その姿にて御酌に参りたりし、いみじくたへがたかりしことなり。二三日かねてより局々に伺候して、髪結ひ、水干・沓など着ならはし候ふほど、傅たち経営して、養ひ君もてなすとて、片よりに事どものありしさま、推しはかるべし。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f9b4844774e0e7a1976b7ee3933965ef

という相当な分量です。
また、亀山院側の「負わざ」は、

-------
 さるほどに、御嫉みには御勝あり。嵯峨殿の御所へ申されて、按察使の二品のもとにわたらせ給ふ、と御所とかや申す姫君、十三にならせ給ふを、舞姫に出だし立て参らせて、上臈女房たち、童・下仕になりて、帳台の試あり。また公卿厚褄にて、殿上人・六位、肩脱ぎ、北の陣をわたる。美女・雑仕が景気などのこるなく、露台の乱舞、御前の召し、おもしろくとも言ふばかりなかりしを、なほ名残惜しとて、いや嫉みまであそばして、またこの御所御負け、伏見殿にてあるべしとて、六条院の女楽をまねばる。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7c27ba6c45e5a0a0dca79c8196e4b18f

ということで、この後、『とはずがたり』では祖父・四条隆親の処置に怒った後深草院二条が御所から出奔し、行方不明になるという「女楽事件」に発展するのですが、それは『増鏡』には採用されていません。

>筆綾丸さん
お昼の投稿は一分差でしたね。
兵藤裕己氏の『後醍醐天皇』を購入し、パラパラと眺めてみましたが、「第四章 文観弘真とは何者か」は良いですね。
私も既に網野善彦氏の『異形の王権』は古臭く、間違いだらけであることを何度も書いていますが、岩波新書で最近の研究状況が紹介されたことで、世間一般の認識も変化しそうです。
また、後ほど。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

閑話ーカタカナ英語 2018/04/26(木) 12:02:20 
兵藤裕己氏『後醍醐天皇』を読み終えました。
「第四章 文観弘真とは何者か」と「第八章 建武の「中興」と王政復古」が、よく知らない分野なので面白く読めました。
小太郎さんが「兵藤氏の文体がちょっと苦手」とされる理由は、カタカナ英語の多用でしょうか。
いくつか拾ってみると。
マイノリティ、イデオロギー、イデオロギッシュ、ディスクール、イデオローグ、フィクション、ネガティヴ・イメージ、メディエーター、コーディネーター、オルガナイザー、ヒエラルキー、カテゴリー、クロス、エピソード、ルーツ、スキャンダル、ボルテージ、アンチテーゼ、メタファー、ファンタズム、アクロバティック、アンビヴァレント、テクスト、タイムリミット、リゴリスティック、アジテーション、キーワード、スローガン、プロパガンダ、ネーション・ステート、アナロジー、アポリア、シンボル、ロジック、テロル、テロリスト、テロリズム、オブセッション、コンテクスト、アクチュアル、そして、呆れるほど頻出するイメージという語。
どういう了見か、知りませんが、こんなふうに並べてみると、ちょっとバカっぽい感じがしますね。
カタカナ英語は得意らしいのですが、次の漢語の使い方は間違っています。
-----------------
・・・児島高徳は、配所へ送られる天皇の奪還を企て、一族を集めた評定の席で、つぎのように述べる。(中略)「備前国の住人」とされる地方武士には不似合いな漢学の素養だが、ともかくこのような檄を発した児島高徳は・・・(137頁)
-----------------「
檄はそもそも「飛ばす」ものだということはともかくとして、檄とは目の前にいない人に飛ばすものであって、評定の席で飛ばすものではない。そういう場合は、叱咤激励というのであり、日本文学者には「不似合いな漢学の素養」ですね。 

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『歴史学研究』969号の「小特集 脇田晴子の歴史学」

2018-04-26 | 歴史学研究会と歴史科学協議会

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 4月26日(木)13時51分35秒

『歴史学研究』の四月号、今頃パラパラめくってみたのですが、「小特集 脇田晴子の歴史学」はなかなか興味深いですね。

-------
商業の発展を物語った人…………………………………………早島大祐(2)
脇田晴子と中世女性史研究………………………………………細川涼一(9)
脇田晴子の中世都市論をめぐって………………………………三枝暁子(17)
脇田晴子の身分論・芸能論…………………………………………辻浩和(25)
日本国外の学術研究における脇田晴子の貢献と遺産…… トノムラ ヒトミ(36)

http://rekiken.jp/journal/2018.html

私自身の関心は脇田晴子氏の研究とあまり重ならなくて、脇田氏の著書・論文もそれほど読んでいなかったのですが、昨年、苅部直氏の『「維新革命」への道』の記述に疑問を抱いてあれこれ調べた際にスーザン・B・ハンレー氏の『江戸時代の遺産─庶民の生活文化』(中公叢書、1990)を読み、日米の歴史研究者間の交流に脇田晴子氏がたいへん尽力されたことを知りました。

「慶応大学の速水融教授は日本での私の最初の助言者」(by スーザン・B・ハンレー)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b464997de8163c3bb72ede51e3a8ca69
山崎正和氏の『「維新革命」への道』への評価について
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/81a04f41be09e3c6518fc6d6fd26b766

そんな訳で最初にトノムラヒトミの論文を読み、ついで後ろから辻浩和・三枝暁子・細川涼一氏の順番で読んで、ふむふむ、なるほどと思ったのですが、唯一、早島大祐氏の論文は不可解な点が極めて多いですね。
特に、

-------
 商業課税に注目が集まった過程を検討するにあたり、朝廷で商業課税を推進したのが、皇統では非主流派だった大覚寺統の天皇だった事実は重要である。亀山天皇は兄後深草天皇から奪い取るかたちで皇位を継承したために、寺社修造などを通じて自身の正統性を強調しなければならなかったが、その財源として大坂湾岸の入港税を創出したことなどが、これまでの研究で明らかにされている(16)。
 持明院統の天皇たちが鎌倉幕府から後援を受けていたのに対して、大覚寺統の天皇たちは、上記の経緯もあって幕府から相対的に独立しており、そのために自身の正統性を主張する事業と、それに必要な財源を新たに捻出しなければならなかった。その結果として歴代の大覚寺統天皇は、都市や商業課税の創出に積極的にならざるを得なかったのである。
 これらの点を踏まえると、かつて網野善彦が非農業民≒商人たちと結託して権力基盤を固めようとした後醍醐天皇を「異形の王権」と評した実態は、実は大覚寺統固有の性格に起因するものであったことが明確になる(17)。後醍醐天皇が内裏再建事業の財源として紙幣発行を計画したことなどは(18)、大覚寺統における権威と財源の問題を象徴しているのである。
-------

という部分(p5)は、脇田晴子氏自身のご研究と全く関係のない早島氏のユニークな見解ではないですかね。
仮にウィキペディアに書いたら、「独自研究」と言われるレベルの珍説のような感じがします。
そもそも大覚寺統が「皇統では非主流派」であり、「亀山天皇は兄後深草天皇から奪い取るかたちで皇位を継承した」と主張する人は早島氏以外に誰かいるのですかね。
注を見たら、

(16) 藤田明良「鎌倉後期の大坂湾岸」(『ヒストリア』162、1998年11月)
(17) 網野善彦『網野善彦著作集』6(岩波書店、2007年、初出は1986年)
(18) 桜井英治「中世の貨幣・信用」(桜井ほか編『新体系日本史12 流通経済史』山川出版社、2002年)

とありますが、藤田・網野・桜井の三氏とも、そんな変なことは言っていないはずです。
後深草から皇位を奪って亀山に変えたのは治天の君たる後嵯峨院その人ですから「亀山天皇は兄後深草天皇から奪い取るかたちで皇位を継承した」などという事実は全く存在せず、また、亀山の皇太子に亀山皇子の世仁親王(後宇多)を据えたのも後嵯峨院ですから、素直に考えれば大覚寺統こそが「主流派」です。
つい最近紹介した近藤成一氏の「内裏と院御所」(五味文彦編『中世を考える 都市の中世』、吉川弘文館、1992)でも、

-------
 両統が内裏や院御所に用いる殿第の由来にもそれぞれ特徴がある。大覚寺統の冷泉万里小路殿・禅林寺殿・亀山殿などは後嵯峨法皇から伝領した殿第である。冷泉万里小路殿は文庫を付設しており、後嵯峨法皇の本所御所である。また亀山殿は後嵯峨がみずから終焉の地と定めたところである。この二箇所がいずれも亀山天皇に譲られたことの意味は大きい。
 これに対して持明院統が後嵯峨から伝領した殿第はない。この統の本所御所である冷泉富小路殿は西園寺実氏の殿第であり、実氏からその娘で後深草天皇の中宮となった公子(東二条院)に譲られたのを持明院統の内裏・院御所に使用したのである。また持明院殿は後高倉院・北白河院から式乾門院・室町院を経て伏見上皇の時に伝領したものである。
 このように見ると、後嵯峨の皇統を嗣ぐのは大覚寺統であり、持明院統は後深草に始まる新しい皇統であるといえるのかもしれない。
-------

とされていて(p85以下)、近藤氏は慎重に「いえるのかもしれない」とされていますが、「後嵯峨の皇統を嗣ぐのは大覚寺統」であることは明らかですね。
早島氏が何を根拠に大覚寺統が「皇統では非主流派」と主張されているのかは知りませんが、それを調べるほど私もヒマではありません。
正直、査読が入っているのか疑問を感じるレベルの叙述ですね。

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「有明の月」考(その5)─「赤裸々莫迦」タイプではない次田香澄氏

2018-04-26 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 4月26日(木)12時03分53秒

「有明の月」が『とはずがたり』に登場した初期の場面を見て改めて驚くのは、そのストーリー展開の早さですね。
この点、次田氏も「解説」で次のようにいわれています。(次田香澄『とはずがたり(上)全訳注』、p304)

-------
 院の病気平癒の修法に来た有明はこれを好機として彼女に迫る。しかし、御所内のことであるから、彼女のほうから有明を訪ねるのでなければ、彼はどうにもならないわけだが、意外にはやく事が進展してゆくのは、彼女の内部に、有明の情熱に応えないではいられない何かがあるからだ。
 この段だけでも、「樒つむ」の歌をもらったことが、彼に対し強い関心をもつに至った転機となったことを告白しており、それから日ならずして契りを交わすまでになる。そして後朝の文「うつつとも」の歌を取り換えた小袖に見出して、いよいよ彼女は不羈な行動に出る、というテンポの早さである。
 それにしても、六段では人ごとのように傍観的(「をかし」がそれを表していた)だった彼女が、有明のどういうところに惹き付けられたか、また彼女の心がどのように変化していったかを追求してみるのは興味深い。
-------

「六段」とは次田著での区分で、「有明の月」が最初に登場する場面です。

「有明の月」考(その1)─「心の中を人や知らんといとをかし」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e1719453aaac1081484c38f6e51ea6d0

『とはずがたり』の出来事を年表に落としたときに生じる史実との数多くの矛盾、そしてあまりに早すぎるストーリー展開から一番素直に出てくる結論は、『とはずがたり』は事実の記録ではなく自伝風小説なのだ、ということではないかと思いますが、次田氏は決してそのようには考えません。
ただ、次田氏は「作中の出来事が変態的であればあるほど、登場人物が変質者であればあるほど、作者の描写が赤裸々であればあるほど「リアル」に感じる人たち」ではありません。
この種の研究者、まあ、強いて名づければ「赤裸々莫迦」タイプは、国文学研究者では元・宮内庁書陵部図書調査官の八嶌正治氏が典型であり、歴史学者では森茂暁氏、遡れば網野善彦氏もこのタイプです。

第三回中間整理(その6)(その7)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9f6f8f9b9b6304d2a185c8cb9e7d468e
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b7e9e1d1c173739f33283b77d9106a3c

ところが次田香澄氏の場合、もちろん『とはずがたり』の赤裸々な描写にいちいち驚くという素朴な面はあるのですが、その後深草院二条に寄せる深い信頼には、不羈奔放な孫娘の行動を辛抱づよく見守る祖父母のような暖かさがあります。
「保護者」タイプとでもいうべきですかね。
他方、本郷恵子氏などはまたちょっとタイプが違っていて、「彼女に対して積極的に好意を示す亀山の態度は、『源氏物語』の"色好み"の系譜に連なるともみえて、あくまで比較の問題であるが、いっそ気持ちがよい」、「明確な自我をもった女性であるだけに、胸中の葛藤に出口を与えるために、『とはずがたり』は書かれなければならなかったのだろう」などという表現を見ると、自己に課せられた束縛からの解放願望を『とはずがたり』に投影されているような感じもします。

「コラム4 『とはずがたり』の世界」(by 本郷恵子氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a5673c62698f60bf0423ed3ca9d42503

また、小川剛生氏の場合、私には『とはずがたり』の中でも一番嘘っぽく思える「有明の月」の実在を確信されているようで、「有明の月」がこれこれの行動を取っているから「当時の高僧が女性を養うことは珍しくな」かったと断定され、その上で具体的な歴史的存在である高僧・顕助と堀川具親母の関係を推定するという順番で思考を展開されており、私には極めて奇異に思えます。
ただ、小川氏は未だにきちんとした『とはずがたり』論を書かれていないようなので、小川氏も「赤裸々莫迦」タイプなのか、それとも新たな分類が必要なのかは謎として残っています。

「有明の月」は実在の人物なのか。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3127914da2ef6d6d1afc9ce61dbbbaec

「有明の月」の検討は今後も継続的に行うつもりですが、いったん『とはずがたり』を離れ、次の投稿から『増鏡』に戻ります。

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「有明の月」考(その4)─「このたびの御修法は、心清からぬ御祈誓」

2018-04-25 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 4月25日(水)23時07分10秒

続きです。(次田香澄『とはずがたり(上)全訳注』、p297以下)

-------
 御みあかしの光さへ、くもりなくさし入りたりつる火影〔ほかげ〕は、来ん世の闇も悲しきに、思ひこがるる心はなくて、後夜すぐるほどに、人間〔ひとま〕をうかがひて参りたれば、このたびは御時はててのちなれば、少しのどかに見奉るにつけても、むせかへり給ふけしき、心ぐるしきものから、明けゆく音するに、肌に着たる小袖に、わが御肌なる御小袖を、しひて形見にとて着かへ給ひつつ、起きわかれぬる御名残もかたほなるものから、なつかしく、あはれともいひぬべき御さまも、忘れがたき心地して、局〔つぼね〕にすべりてうち寝たるに、いまの御小袖のつまに物あり。
-------

【私訳】お燈明の光まで曇りなく差し入っていた火影の中で、来世の闇を思えば悲しくなるが、思い焦がれる気持ちはなくて、後夜の勤行が過ぎたころ、人のいない隙を伺ってあの人のところに参ると、この度は勤行が終ってからなので、少し落ち着いてお目にかかるにつけても、涙にむせかえられるお姿は心苦しく思えた。やがて夜も明けてゆく物音がするので、私の肌に着ていた小袖と、ご自身の肌に召されている小袖を、強いて形見にとて着かえられて、起き別れた後の名残も、何となくそぐわぬ気がしながら、懐かしく、哀れ深いともいうべきご様子も忘れ難い心地がして、局にそっと戻って横になったところ、先ほどの御小袖の褄に何かあった。

ということで、二条は再び、自発的に「有明の月」のところに行きます。
このあたり、心に次々と浮かぶ思いを取りとめもなく綴っているような文章が続きますが、これは意図的なものですね。
なお、「肌着を交換するのは、再びなかなか会えない男女の間で形見にするため」です。(三角洋一、岩波新体系、p78)

-------
 取りてみれば、陸奥紙〔みちのくにがみ〕をいささか破〔や〕りて、
  うつつとも夢ともいまだ分きかねて悲しさのこる秋の夜の月
とあるも、いかなるひまに書き給ひけんなど、なほざりならぬ御志もそらに知られて、このほどはひまをうかがひつつ、夜をへてといふばかり見奉れば、このたびの御修法は、心清からぬ御祈誓、仏の御心中もはづかしきに、二七日の末つ方よりよろしくなり給ひて、三七日にて御結願ありて出で給ふ、明日とての夜、「またいかなるたよりをか待ちみん。念誦のゆかにも塵つもり、護摩の道場も、煙絶えぬべくこそ。おなじ心にだにもあらば、濃き墨染の袂になりつつ、深き山にこもりゐて、幾ほどなきこの世に、物思はでも」など仰せらるるぞ、あまりにむくつけき心地する。
 明けゆく鐘に音をそへて起きわかれ給ふさま、いつならひ給ふ御言の葉にかと、いとあはれなるほどにみえ給ふ。御袖のしがらみも、洩りてうき名やと、心ぐるしきほどなり。かくしつつ結願ありぬれば、御出でありぬるも、さすが心にかかるこそ、よしなき思ひもかずかず色そふ心地し侍れ。
-------

【私訳】取ってみると、陸奥紙を少々破って、
  うつつとも……(あなたとの逢瀬は現実にあったこととも夢の中の出来事とも、未だに
  どちらか分からないまま、秋の夜の月のもと、分かれた悲しさだけが残っています)
とあり、いったいどんな暇に書かれたのであろうと、並々ならぬお気持ちも自然と知られて、このたびは暇を見ては、毎晩というほどにお会い申し上げたので、今度の御修法は心清らかとはいえない御祈誓で、御仏の御心中を思えば恥ずかしいことだったが、御所様は二七日の末からご回復となり、三七日で御結願となって、あの方は退出されることとなった。それが明日という前の夜、
「ふたたびどんな機会を待ったら良いだろう。これからはきっと念誦の床にも塵が積り、護摩の道場も煙が絶えて勤行を怠ってしまうだろう。あなたも同じ心でさえあれば、濃い墨染の袂となって深い山に籠もり、いくらも生きていけないこの世に、物思いをしないで過ごしたいものを」
などとおっしゃったのは、あまりに恐ろしい心地がした。
 明け行く鐘の音とともに起き別れる折のお言葉は、いつ経験してお覚えになられたのかと、しみじみとあわれ深く思われた。袖で涙を抑えられても、人にそれと知られて浮き名が立つのではなかろうかと、おいたわしいほどである。こうして結願となったので、お帰りになられたけれども、あの方のことがさすがに気にかかるのは、私の物思いに新たな悩みが加わったような気持ちがした。

ということで、「このたびの御修法は、心清からぬ御祈誓、仏の御心中もはづかしき」ものであったにもかかわらず後深草院の病気は直ってしまったということなので、この場面が事実の記録であるか否かに関係なく、二条の宗教観は、まあ、あまり真摯とはいえないどころか、かなり醒めたものではないかと思われます。
さて、これで後深草院の病気中、御修法の責任者である阿闍梨「有明の月」と連日連夜契りまくりました、というエピソードは一応終わって、新築の六条殿での九月の供花、そして両院伏見殿御幸の話となります。

『とはずがたり』に描かれた長講堂供花と両院伏見殿御幸
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/99263a8e2caef04978540e0c0fd7f500

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