投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 4月29日(日)15時55分45秒
「弘安の御願」論争を取り上げる現代的意味が全くないかというとそんなことはなくて、この論争を振り返ることを通して、『増鏡』の性格を改めて考えることができそうです。
さて、旧サイト『後深草院二条─中世の最も知的で魅力的な悪女について』でやっていたように、「弘安の御願」論争を全部再現することはできませんが、川添昭二氏が『蒙古襲来研究史論』(雄山閣、1977)において、この論争を簡明に整理されているので、これを紹介したいと思います。(p158以下)
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各論 第三章 大正時代における蒙古襲来研究
三 「弘安の御願」をめぐる論争
(一)八代国治の新説
八代国治「蒙古襲来についての研究」(大正七年一月『史学雑誌』二九編一号、大正一四年五月・吉川弘文館『国史叢説』に再録)は『伏敵編』に洩れた蒙古襲来関係の新史料を駆使した研究で、大正時代の蒙古襲来研究中すぐれたものの一つである。本論によってはじめて明らかにされた事実は多いが、『勘仲記』『弘安四年日記抄』や図書寮・関戸守彦氏所蔵文書などによって、公家側の祈祷関係の事蹟が一層具体的に解明されたことは特筆されねばならぬ。その論証の過程で、弘安四年閏七月の伊勢大神宮への亀山上皇の祈願と伝えられていた事実を、後宇多天皇の勅願であると論断した。亀山上皇の祈願は古来から人口に膾炙していたため、八代の新説は世の注目をあび、諸新聞・雑誌に転載報導され、その後この問題をめぐって研究者の間に論難がかわされた。
この、いわゆる弘安の御願についての基礎史料は『増鏡』第十老のなみで、その解釈いかんによって亀山上皇説ともなり、後宇多天皇説ともなる。関係個所を岩波古典文学大系87(三六六-七)によって示しておこう。
弘安も四年になりぬ。夏比、後嵯峨院の姫宮、かくれさせ給ぬ。<〇中略>其比、蒙古起こるとかやいひて、世の中騒ぎたちぬ。色さまざまに恐ろしう聞こゆれば、「本院〔後深草〕・新院〔亀山〕は東へ御下りあるべし。内〔後宇多〕・春宮〔伏見〕は京にわたらせ給て、東の武士ども上りてさぶらふべし」など沙汰ありて、山々寺々に御祈り、数知らず。伊勢の勅使に、経任大納言まいる。新院も八幡へ御幸なりて、西大寺の長老〔思円〕召されて、真読の大般若供養せらる。太神宮へ御願に、「我御代にしもかかる乱れ出で来て、まことにこの日本のそこなはるべくは、御命を召すべき」よし、御手づから書かせ給けるを、大宮院、「いとあるまじき事なり」と、なほ諫めきこえさせ給ふぞ、ことわりにあはれなる。東にも、いひしらぬ祈りどもこちたくののしる。故院〔後嵯峨〕の御代にも、御賀の試楽の頃、かかる事ありしかど、程なくこそしづまりにしを、この度はいとにがにがしう、牒状とかや持ちて参れる人など有て、わづらはしうきこゆれば、上下思ひまどふ事かぎりなし。されども、七月一日〔閏七月一日〕、おびたたしき大風吹て、異国の舟六万艘、つは物乗りて筑紫へよりたる、みな吹破られぬれば、或は水に沈み、をのづから残れるも、泣く泣く本国へ帰にけり。<〇中略>さて為氏の大納言、伊勢の勅使のぼるみち、申をくりける。
勅として祈るしるしの神風によせくる浪はかつくだけつつ
かくて静まりぬれば、京にも東にも、御心ども落ちゐて、めでたさかぎりなし。
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いったんここで切ります。
現代人から見ると、「亀山上皇の祈願は古来から人口に膾炙していたため、八代の新説は世の注目をあび、諸新聞・雑誌に転載報導され」云々が既に奇妙な感じがしますが、これにはそれなりの背景があります。
即ち、明治に入り、列強の脅威の中で近代国家を建設して行くにあたり、蒙古襲来を撃破したという過去の栄光の記憶が国民統合のための新たな意義を持つようになり、民間人の中からも、その意義を顕彰しようとする動きが出てきます。
その最も分かりやすい例が、今も福岡市博多区東公園に残る亀山上皇殉国の御祈願の銅像です。
ま、この銅像が日蓮像と並んで建立された背景には、一般的な説明とは違う裏事情も若干あるようですが、この銅像はあくまで亀山上皇が「我が身をもって国難に代わらん」と言われたことを前提とするものであることは間違いありません。
そこで、『増鏡』の「弘安の御願」は実は後宇多天皇によるものだった、という話が歴史的事実として確定してしまえば、では、銅像を建て直さなければならないのか、というような話にも発展しかねません。
こうした社会的背景があって、八代説は世間の注目を浴びた訳です。
◇参考
「亀山上皇銅像」(福岡市公式シティガイド「よかなび」内)
この銅像は、十三世紀後半の元寇の際に亀山上皇が「我が身をもって国難に代わらん」と伊勢神宮などに敵国降伏を折願された故事を記念して、福岡県警務部長(現在の警察署長)だった湯地丈雄等の十七年有余の尽力により、明治三十七年、元寇ゆかりのこの地に建立された。
衣冠束帯の直立像の高さはおよそ4.8メートルある。原型の制作者は、当時高村光雲下で活躍していた福岡出身で博多櫛田前町生まれの彫刻家山崎、朝雲で、亀山上皇像はその代表作のひとつである。
また、台座に書かれた「敵国降伏」の文字は、初代福岡県知事有栖川宮熾仁(たるひと)親王の筆によるものである。
https://yokanavi.com/spot/27045/
「東公園にある亀山上皇銅像はなぜ北条時宗にならなかったのか」(山田孝之氏「福岡穴場観光」サイト内)
http://y-ta.net/kameyama-jyokou/
「なぜ亀山上皇像なのか」(『旧聞since2009』サイト内)
http://koikoi2011.blog.fc2.com/blog-entry-205.html