学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

『伊藤律回想録』(その3)─「今こうして同席していても、やがて敵味方になるかも知れないぜ」(by 志田重男)

2019-01-31 | 「五〇年問題」と網野善彦・犬丸義一
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 1月31日(木)10時53分22秒

続きです。(p19以下)

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  その前兆

 突如、足もとの大地が崩れおち、真っ暗な奈落の底に堕ちたような挫折感に包まれた。一九三三年(昭和8年)、血を流して守った党・共青(共産青年同盟)中央の三船留吉と今井藤一郎が、実はスパイだった事実を知った時の衝撃感に似ている。
 だが、今度は寝耳に水ではなかった。こうした窮地に堕ちるかもしれないという不安な予感は、一九五一年(昭和26年)一〇月、密かに日本を出て中国に向った時からすでに心の片隅にあった。その直前に開かれた党第五回全国協議会指導部会議(五全協)の席上、国内の主要責任者・志田重男は「今こうして同席していても、やがて敵味方になるかも知れないぜ」と言った。まるで私を敵扱いにしたのだ。いくつもの前兆が、次々に現われたからだ。
 一九五一年秋に私が中国へ密航したのは、徳田よりも一年三ヵ月ほどあと、野坂より約一年後であった。北京の党機関に入ると即座に、情況が異常に複雑なのに気づいた。中共の至れり尽せりの手厚い配慮で、実に恵まれた何不足ない生活で、表面上は平穏である。しかし、徳田と野坂・西沢の間には、深い溝が横たわっていた。徳田書記長は野坂に対し、依然強い批判と不信を抱いている。けれども表面上はつとめて平静な態度を保っていた。党の統一のために彼をかかえてゆくという徳田の心中は誰の目にも明らかだった。岡田文吉、聴濤克己、土橋一吉は、徳田を全面的に支持した。岡田は私と入れ替りに帰国したが、乗船した上海から別れの手紙を送ってきた。それは書記長宛の熱烈な私信であった。
 高倉は西沢と同室、野坂の隣室という関係もあり、同じ文学者ということもあって彼らに傾きがちだった。といっても徳田の指導には忠実に従った。
 ただ徳田は西沢に対しては、一同の前で毎日のように叱責し、批判した。時には西沢が中山服のホックやボタンをかけず、だらしないとまで叱った。これは私にとってもおどろきであった。西沢は徳田の女婿で、戦後ずっと徳田家に同居していた。それもあって徳田とは最も親密な関係にあり、宮本顕治・蔵原惟人集団は、政治局の決定まで西沢が家でひっくり返すと非難していた。そんな二人の関係が壊れ、鋭い亀裂を生じた原因は、北京到着後、すぐに徳田から聞かされた。徳田は西沢との絶縁を言明していた。
「おれは長年獄中にいて世間にうといから、西沢にやわらかくほぐすよう助言させてきた。しかし、それはブルジョワ思想でおれを毒する危険な協力だった。彼のため、もう一歩で一生を誤るところだった。彼と野坂君は同じ思想だ。彼を日本に帰してしまおう」
 私は同室だった聴濤と協力して野坂・西沢への批判を開始し、書記長支持を強めた。徳田の話ののちに聴濤がそれまでのいきさつを詳しく話してくれた。私はすでに相当激しい党内闘争の諸事件が起っていたことを知った。
-------

「西沢は徳田の女婿」とありますが、西沢の妻となった女性は徳田の実子ではなく、妻の連れ子だったようですね。
西沢が主要登場人物の一人である司馬遼太郎の小説『ひとびとの跫音』にそんなことが書いてあったのを見ただけで、詳しい事情は知りませんが。
ま、それはともかく、ここも共産党史に詳しい人以外にはチンプンカンプンな記述でしょうから、『伊藤律回想録─北京幽閉二七年』の注記も引用しておきます。(p66)

◆三船留吉と今井藤一郎  通称リューちゃんこと三船留吉は三三年日共組織部長兼東京市委員長。山さんこと今井藤一郎は共産青年同盟中央組織部長で、二人共前年一〇月熱海で開かれた日共全国代表者会議を毛利特高課長に通報したスパイM(飯塚盈延)のあと釜のスパイであり、今井の妹が三船のハウスキーパーだった。この二人は伊藤の入党推せん者でもあった。「赤旗」三三・六・二一付。『宮本顕治公判速記録』『スパイM』『偽りの烙印』
◆「一九五一年(昭和26年)一〇月、密かに日本を出て中国に向った時」 伊藤はこの部分以外の個所では日本出国の時期を五一年九月末としてきたが、彼は五全協(五一年一〇月一五日)に出席している。出入国管理令が五一年一一月一日施行のため抵触する虞れがあった。帰国時の事情聴取の際も問題になっている。
◆志田重男(一九一一~一九七一)  三一年日共に入党、戦前逮捕、投獄をくり返し、予防拘禁所に収監される。戦後、第四回大会で中央委員候補となり、徳田球一書記長が日本を脱出するさい、椎野悦朗、伊藤律とともに国内の最高指導者となる。
◆「宮本顕治・蔵原惟人集団」  この二人はともに戦前のプロレタリア文化運動に大きな影響を与えた著名な人物であり、戦後日共の中央委員であったが、ここでは日共五〇年分裂当時の国際派の主要な人物を概括して、このような表現を用いている。
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『伊藤律回想録』(その2)─「金庫の鍵をくれ」(by 野坂参三)

2019-01-30 | 「五〇年問題」と網野善彦・犬丸義一
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 1月30日(水)21時58分17秒

続きです。(p16以下)

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 野坂は弁解めいた口調で、おだやかに言った。
「徳田書記長の入院中に、私がこういうことをやるのは、痛くもない腹をさぐられるようで不本意なのだが……。伊藤君についてはスパイ説もあったが、敵と分派(五〇年問題で分裂した国際派)のデマだと思っていた」。さらにこうつけ加えた。「日本で地下潜行中、ソ連代表部の要人と密かに会った際、"伊藤律が党中枢にいるが、大丈夫か?"と聞かれた」。そして野坂は「ここは雑音が多いので、李初梨さんの世話で、他所へ移り反省してもらう」と決めつけた。
 そのとたん、野坂に対面して私の隣に座っていた土橋が、ソファーから半分腰を浮し、李初梨に詰問した。「伊藤さんの命は大丈夫ですか? 安全を保証してくれますか?」。李初梨は「いや、私たちは野坂さん(日共とは言わなかった)の依頼でことをやるだけです」と答えた。
 この時、聴濤が憤りと軽蔑のまなざしで野坂を睨みつけ、嘲笑を顔に浮かべながら言った。「これは陰謀だ。徳田書記長が入院するや企てられた陰謀だ。絶対に反対だ」。それをきっかけに賛否の発言が、座席順に始まった。その次の席の私は、問題の当人だから発言権はない。次の土橋は「律さんは夜も眠らず党の仕事をしてきたのですからねぇ」と反対意見。つづいて高倉は「私もそう思うけど、こういうことになった以上どうも……」と語尾を濁した。終りに西沢があせり気味に、面倒くさげに論議を打ち切らせた。「とにかく伊藤君を他所に移してから、話をしよう」。
 来るべきものが、遂に来た。一瞬、私の全身を戦慄が電閃のように走った。特に書記長入院以来、野坂・西沢との激しい論争を思うと、憤怒がこみあげてくる。だが、ここで争ってもムダだ。野坂の突然の抜き打ち処分に直面して混乱する頭の中で、私はこう判断した。野坂はソ共中央の「勧告」なるものを提示した訳ではない。野坂と、彼に親密な中共中連部幹部の手で仕組まれた企てであることは明白だ。彼らは武装した国家権力を背後にしている。抵抗は無益だ。万事休す。
 私は無言のまま席を立った。弁明したとて何になろう。聴濤が近よって手を握り、「闘おう。闘ってくれ」と励ました。私は「うん」とだけ答えて、うなずいた。会議室を出て、その隣りの自室に入り、持ち物の整理にかかった。同行して来た野坂がまず言ったのは「金庫の鍵をくれ」であった。金庫とは、野坂の北京での自己批判書、西沢査問書、「国際派」からソ中両党に送られた全文書などいっさいの党重要文書の保存ロッカーである。党内反対派からソ中両党に送られた文書は、スターリンと毛沢東から徳田にそっくり渡されていたのだ。その金庫と鍵は、徳田書記長の指名で彼の隣室、私の部屋に置かれていた。前には岡田文吉が管理していた。その文書は、徳田の同意なしには、誰にも閲読させなかった。
 日用品をまとめる際、野坂は机や箪笥の中を探索していた。私をスパイと決めてかかっているのだ。彼に促されて階下に降りた。待ち構えていた趙安博ともうひとりの幹部に伴われて玄関に出て車に乗った。別れ際、野坂は「すぐあとから行って話をするから」と告げた。初対面の若い幹部は、これから行く中連部第七招待所の所長・鄭恵卿であった。
【中略】
 この時からまる一年の軟禁生活が始まった。続いて二七年にわたる投獄、完全な秘密監禁、つまり社会から抹殺され、葬り去られた。この時、私は三九才と六カ月であった。
-------

伊藤律に味方したことも響いたのか、聴濤克巳・土橋一吉は共産党内での出世には恵まれなかったようですね。
前回投稿で野坂・聴濤・土橋と李初梨についてはウィキペディア等へのリンクを張っておきましたが、その他の関係者を含め、『伊藤律回想録─北京幽閉二七年』の注記も転載しておきます。(p64以下)

◆趙安博  日本に留学して第一高等学校に学び、伊藤律の一年後輩、延安の日本工農学校(弘長・野坂参三)の副校長、通訳もつとめる。中共政権成立とともに廖承志らと対日政策スタッフの重要メンバーとなり、政府の要職を歴任した。
◆野坂参三(一八九二~)  彼の占領下革命の路線と思想は、欧州共産党・労働者党情報局〔コミンフォルム〕の機関誌で批判されたが、自己批判し、徳田に次ぐ党内の地位は揺るがなかった。九二年末「週刊文春」が彼の活動歴の決定的疑惑を報道し、党から除名された。『風雪のあゆみ』。
◆西沢隆二(一九〇三~一九七六)  プロレタリア作家同盟書記長、三一年八月共産党に入党、のち「赤旗」の印刷責任者となったが、スパイと誤認され除名される。獄中で作詞した『編笠』を戦後発表、中央委員、統制委員となる。『ぬやま・ひろしとその時代』
◆高倉テル(一八九一~一九八六)  作家、"自由大学"運動の指導者、ゾルゲ事件の宮城与徳検挙後自首したが、四五年三月再検挙され警視庁から脱走、それをたすけたとして哲学者三木清が逮捕されて獄死した。戦後国会議員となったがGHQの指令で公職追放となり、中国へ脱出、「国外脱出九年間」を「文藝春秋」に発表した。
◆李初梨(一九〇〇~)  日本留学中に日本婦人と結婚したが別れて中国革命に参加。中共七全大会で野坂が「民主日本の建設」を報告したときの通訳をした。中共軍が東北地方(旧満洲)に入ったとき対日本人工作の中心になって活動。のち文革で失脚した。
◆徳田球一(一八九四~一九五三) 共産党の創立者の一人、『獄中十八年』で知られる。党書記長。五〇年三月「静養してもあと四年の寿命」と診断され、重病を秘して党務を続けていたが、GHQの指令で公職追放となり北京に脱出、五二年九月、会談中に意識不明となり、五三年一〇月一四日、現職の書記長のまま死去した。
◆金子健太(一八九九~)  新潟鉄工所の労働者、日共創立直後の党員。労働者生活と党活動に専心し、戦前幾たびか検挙される。戦後、全日本機器労組書記長、全労連幹事、五一年五月日本を脱出して北京で世界労連アジア太平洋州連絡局で活動した。
◆聴濤克巳(一九〇四~六五)  朝日新聞労組、産別会議の初代委員長。四九年衆議院議員選挙で東京六区から最高位で当選した。占領軍命令で公職追放となり、「北京機関」から五八年帰国、公労協の四・一七ストを非難した四・一八声明の責任を問われ降格、不遇のうちに死去。
◆土橋一吉(一九〇八~一九八二)  全逓労組委員長、四九年伊藤の選挙地盤をひきつぎ東京七区から衆議院議員に当選。伊藤と一緒に日本を脱出し中国に渡った。六九年、七〇年連続して衆議院議員に当選したが、党内の地位としては中央委員にはなれなかった。
◆岡田文吉(一九〇一~一九六六)  鳥取県の貧農に生れる。三一年日共に入党。三三年検挙され網走刑務所に服役。徳田から国際連絡の指令を受け延安に密行。戦後中央委員、徳田の日本脱出の実行責任者。伊藤と入れ替りに日本に帰国、人民艦隊事件で検挙された。

「徳田の日本脱出の実行責任者」岡田文吉の墓は徳田球一の墓所内にあるそうですね。

岡田文吉(『歴史が眠る多磨霊園』サイト内)
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/A/okada_b.html
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『伊藤律回想録─北京幽閉二七年』(その1)─「名目は勧告だが実際は指令である。違反はできない」(by 野坂参三)

2019-01-30 | 「五〇年問題」と網野善彦・犬丸義一
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 1月30日(水)10時24分8秒

昨日の投稿で、犬丸義一の中国密航は網野の問題とはあまり関係ない、みたいなことを書いてしまいましたが、西沢隆二や高倉テルの名前を見ると、やはり当時の伊藤律が置かれた状況に触れない訳には行かないですね。
もともと内田力氏の論文を初めて読んだときに私の心の中のチコちゃんが起動した原因は、まさに伊藤律に関する部分だったので、「伊藤の除名が日本に伝えられた時点で、共産党内において網野の進退が窮まったことは想像に難くない」などという内田氏の「想像」が単なる妄想であることを理解してもらうためにも、伊藤律側の事情の説明が必須となります。

内田力「一九五〇年代の網野善彦にとっての政治と歴史」へのプチ疑問(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5f1a53b23573ef967eb5bb03921d8937

そこで、『伊藤律回想録─北京幽閉二七年』(文藝春秋社、1993)を少し引用してみます。
同書の全体の構成は、

-------
第一章 事件の発端
第二章 それからの一〇年間
第三章 革命は人民を犯罪から解放する
第四章 文化大革命の始まり
第五章 私を四半世紀世話してくれた看守・老石
第六章 革命指導者のあいつぐ死去
第七章 林彪、四人組、そして病魔との戦い
第八章 釈放、転院、妻への連絡
第九章 帰国
-------

となっていて、「第一章 事件の発端」は、

-------
Ⅰ 突然の隔離査問
  野坂の抜き打ち/その前兆/一年間の軟禁査問と自己批判/牢獄へ
Ⅱ 獄中の査問
  野坂の言った「別のところ」とは?/西沢隆二の査問と当初の獄中生活/
  紺野、宮本(太)、西沢の査問/西沢の豹変と袴田の最終査問
-------

と構成されています。
先ず、冒頭部分を紹介します。(p14以下)

-------
 野坂の抜き打ち

 一九五二年(昭和27年)一二月も末の二四日。
 人民中国の首都北京西郊にある日本共産党在外代表部(俗称「北京機関」)の秘密邸宅。四つの二階建てビルが約五〇メートル間隔で四角形に並び、周囲は鉄条網を張った高い塀で、門はひとつ。公安部隊兵が守備している。
 工作部門の定例細胞全員会議が終り、私は幹部用の別の建物に帰ってきた。いつものように午前一〇時頃であった。入口の突き当りの応接室に、中国共産党中央対外連絡部(略称「中連部」)の幹部趙安博と、もうひとり見知らぬ人が黙って座っていた。趙安博はいつになく固い表情である。私は二階に上り、自分の部屋への曲り角にある野坂の部屋へ、例の如く報告を兼ねて顔を出した。
 すると、野坂は即座に立ち上って言った。「向う(モスクワ)から重要なことを言ってきた。緊急幹部会議を開く」。そこには西沢隆二、高倉テル、中連部副部長・李初梨の三人もいる。そして徳田書記長用の広い応接間兼会議室に、全幹部が集合した。徳田書記長は三ヵ月ほど前に病気で倒れ、北京病院に入院中だった。かなり重態で、完全に党務から離れていた。労組代表として、中国総工会に常駐の金子健太は、なぜか呼ばれていなかった。
 会議の出席者は、主宰者の野坂参三、西沢、高倉、聴濤克己【ママ】、土橋一吉、そして私。もうひとり、中連部副部長・李初梨が、私たちと向い合い、野坂と西沢の間に座った。彼は趙安博の先輩の日本留学生で、日本語がかなりうまい。まず、中国共産党の幹部がわが党機関の会議に出席していることについて、野坂が釈明した。「問題が重大なので、中共中央を代表して李初梨さんに同席してもらう」。頭ごなしの言い方である。重大ならなぜ友党幹部参加が必要なのかは一言もない。ウムを言わせない態度である。野坂はよく李初梨を中共の「日本課長」と呼び、延安時代から親密だった。彼は北京の「ソ連代弁」とも言われていた。
 野坂は一枚の紙片を取り出しながら言った。「これはソ共中央のわが党への勧告で、中共中央の同意を得たものだ。名目は勧告だが実際は指令である。違反はできない」。
 ソ共中央とは明らかにスターリンを意味した。そして野坂は手にした紙片をちらりと見てから宣告した。
「伊藤律は節操のない人間であり、政治局はその証拠をもっているはずである。直ちにいっさいの職務から切り放し、問題を処理せよ」。そしてつけ加えた。「協力によって得るものは利益のみである」。私にはこの意味が分からなかった。ソ連共産党と対立した覚えはない。ただ中共中連部、ことに李初梨とは、わが党の方針をめぐって、意見を異にしていた。
 この発言には野坂、西沢、李初梨を除き、一同おどろき、あっけにとられた。
-------

野坂参三(1892-1993)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E5%9D%82%E5%8F%82%E4%B8%89
聴濤克巳(1904-65)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%B4%E6%BF%A4%E5%85%8B%E5%B7%B3
土橋一吉(1908-82)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E6%A9%8B%E4%B8%80%E5%90%89
李初梨(1900-94)
https://baike.baidu.com/item/%E6%9D%8E%E5%88%9D%E6%A2%A8
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犬丸義一・中国へ行く(その2)

2019-01-29 | 「五〇年問題」と網野善彦・犬丸義一
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 1月29日(火)21時56分23秒

続きです。(p263)

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 私は結核になり、国際派は袴田氏に随行した秋山良照氏と二人だけだったので圧迫感と孤立感が強く強度のノイローゼになって、入院した。五四年一二月の二五日前後に、河田賢治氏が副校長として着任し、着任講演で、極左冒険主義から絶縁宣言を行い、その晩から眠れるようになった。『歴史評論』は入っていたが、他の歴史雑誌はなく、マルクス、エンゲルス、レーニン、スターリン、毛沢東等の古典を読むほかはなかった。中国人は日本語の上手な人ばかりで、講習会はやられたが、何とか読めるようになっただけで会話は駄目だった。
 これは「北京機関」の一部で、その総括は『日本共産党の七十年』上(二四〇-二五八)に記述されている。五七年三月に閉鎖され、帰国準備のため、各地に分散していった。「人民艦隊事件」ということで密航船が検挙され、志田氏が検察側の証人に立ち、非公然に帰国する道は閉ざされた。
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「袴田氏」は袴田里見のことで、「国際派」の意見を主張するために北京に派遣されものの、特に役に立たなかった人ですね。
ま、誰が行ってもソ連・中国側を説得できるような状況ではなかったようですが。
袴田は後に党副委員長の要職を長く務めますが、1977年に除名された後、『昨日の同志 宮本顕治へ』(新潮社、1978)と『私の戦後史』(朝日新聞社、1978)の二著を出し、共産党側も猛烈な反撃キャンペーンを展開しましたね。
秋山良照は野坂参三配下の「反戦兵士」で、『中国土地改革体験記』(中公新書、1977)・『戦争と人間の記録 中国戦線の反戦兵士』(現代史出版会、1979)の著者であり、河田賢治は1922年の日本共産党創立時からの古参メンバーですね。

袴田里見(1904-90)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A2%B4%E7%94%B0%E9%87%8C%E8%A6%8B
河田賢治(1900-95)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E7%94%B0%E8%B3%A2%E6%B2%BB
「人民艦隊」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E6%B0%91%E8%89%A6%E9%9A%8A

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 私は北京を希望したが許されず、上海の復旦大学歴史系の研究生になった。中国革命史の講義を聞いたり、日本史の教授が二人いて交流した。明治維新・民族革命・ブルジョワ革命説であり、中国人らしい視点は興味深かった。井上氏の著書が高く評価され利用されていた(『日本近代史』『日本現代史』第一巻)。
 五八年七月中国からの最後の引揚船・白山丸に乗って、自ら密航組であることを名乗り、舞鶴港で隔離された。井上清さんが親戚と名乗って私に面会にきてくれたのには感激した。一三日出入国管理令違反で検挙され、東京に護送され、万世橋署に留置され、起訴され、七回大会後の七月三一日保釈出獄し、九年間の裁判闘争になるが、一審は三ヵ月の懲役・執行猶予一年。こうして、日本の歴史学界に復帰をめざすことになる。
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「白山丸」事件については、「国会議事録検索室 改め 国会ソース」というサイトで、当時の国会での議論を知ることができますが、自由民主党代議士・長谷川峻の発言によれば、

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今回の白山丸による第21次引き揚げによって帰国した者は、総数579名です。その内訳は、いわゆる引揚者のうち、一般邦人374名、旧軍人軍属75名でありまして、ほかに再渡航者と、すでに新聞で御承知の、いわゆる密出国者として戦後渡航し、今回の引き揚げ船に便乗して帰国した65名及び華僑2名となっております。
【中略】
次に、舞鶴における援護状況を申し上げますと、乗船者中の、いわゆる密出国者グループの大部分には、逮捕状が発せられておった。それで、13日の白山丸入港当日は、警視庁の公安部、京都府警の機動隊、並びに17都道府県の捜査官約600名が派遣されていたのであります。

http://rock-sack.blogspot.com/2016/06/blog-post_22.html

といった状況であり、この「密出国者として戦後渡航し、今回の引き揚げ船に便乗して帰国した65名」の中に犬丸も含まれていた訳ですね。
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犬丸義一・中国へ行く(その1)

2019-01-29 | 「五〇年問題」と網野善彦・犬丸義一
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 1月29日(火)12時45分27秒

網野善彦とはあまり関係ないので犬丸義一「私の戦後と歴史学」の続きは省略しようかなとも思いましたが、この回想録の中で一番興味深いのは中国見聞記なので、ついでに紹介しておきます。(p261以下)

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 こうして、レポの手に渡り、「伊藤」さんという労働者出身の人とともに、静岡県の焼津港に鉄道で行き、夜までぶらぶらして富士山を眺めて、密航漁船に乗って夜出港し、夜和歌山県の串本港に暗くなって入港し、関西からの男女数名をのせた。注意を要するのは、マッカーサー・ラインにひっかかることだった。命がないからである。四国沖、鹿児島沖を通って東海の漁船団の中にまぎれて、夜漁船が引き上げてからも海上に残り、深夜領海突破をはかる。緊張の数時間である。午前四時領海を越えたことを確認し、喜びの声があがる。中国領海である。後は拿捕を待つのみである。三月末、夜が明け切って一時間、中国人民解放軍の砲艦から停船を命じられる。中国兵が乗りこみ銃剣を擬されて逮捕され手錠がかけられ、連行される。舟山列島沖である。上海につれられ、海軍の留置場にいれられる。昼ごろ留置場から解放され、応接室に通される。これでやっと安心した。上海の招待処に案内され、夕方から中国海軍による歓迎会になる。二・三日滞在し、上海見物をして、北京に列車で行く。四月上旬、北京に着くと、もうばらばらである。私と伊藤さんの二人が劉と名乗った西沢隆二氏に会った。服部さんの話が出たりして、歴史の人々はよくやってると話したのが印象的だった。二人は河北省の党学校へ行くのだといわれる。北京の招待処に行き、学校から迎えにきた日本人の案内で一日北京見物をして天安門、故宮博物館、王府井などに行き、列車にのって、済南からトラックで、河北省邯鄲郡永年県についた。
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いったんここで切ります。
犬丸は1953年3月に密出国しますが、朝鮮戦争休戦協定の調印は同年7月27日なので、海上においてはまだまだ緊張状態が続いていた時期ですね。
『伊藤』さんという労働者出身の人」とありますが、もちろん偽名で、犬丸も何か偽名を名乗っていたはずです。
この種の状況においては、互いに相手の素性など知ろうとしてはならないのが共産党のお約束ですね。
この当時の密航事情については、例えば海上保安庁の「海上保安リポート2004」には、

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2 平和条約の発効とその影響

 昭和27年4月、我が国と連合国との間で平和条約が発効しました。これにより我が国は主権国家として自立し、国内の治安も自らの手で維持していくことが必要となりました。また、平和条約の発効は、政治経済をはじめとする各分野において共産圏諸国の干渉が活発化する懸念も生じさせました。
 これまで見られた密航については、朝鮮動乱の休戦により朝鮮半島の情勢が安定したため減少はしたものの、これまでの重点的な取締りによって密航ブローカーが介在し、在日の韓国人と密接な連絡を取り合いながら巧妙に密航を敢行する事例が見られるようになりました。これは、密航請負組織による密航と相通じるものがあります。また、平和条約の発効により、共産圏諸国の我が国に対する諜報工作が活発化し、工作員の密入国も見られるようになりました。

https://www.kaiho.mlit.go.jp/info/books/report2004/honpen/hp05020200.html

などとあります。
犬丸を乗せた「人民艦隊」の漁船は日本側の巡視船に誰何されることも中国側から疑われて銃撃されるようなこともなく、無事密航に成功した訳ですが、何かの手違いで海の藻屑と消える可能性もあったでしょうね。
さて、北京に到着した犬丸と「伊藤さん」は「劉と名乗った西沢隆二氏」に歓迎されたそうですが、1953年4月というと「北京機関」のボスである徳田球一は重病に倒れ、徳田の後ろ盾を失った伊藤律は野坂参三・西沢隆二との闘争に敗れて、きちんとした裁判もないまま既に拘束状態に置かれていました。
しかし、そのような内情を西沢が犬丸に語るはずもなかったでしょうね。

徳田球一(1894-1953)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E7%94%B0%E7%90%83%E4%B8%80
伊藤律(1913-89)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%97%A4%E5%BE%8B

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 河北軍官学校の跡であり、日本の党学校であり、中国の解放戦争に参加した日本人と日本から亡命した少数の者が集まっていた。校長文山=高倉テルであった。学生は十中隊に編成されていた。ここは、準備段階で年末に北京郊外へ移転した。鉄筋の近代的校舎だった。研究室は、日本問題、中国革命、政治経済学、マルクス・レーニン主義(ソ党史)に別れ、日本語図書館、全体の資料室があり、私は日本問題であり、日本問題資料室は別個だった。五人が助教だった。中国人教授にソ連人教授がいた。一月から開講になった。中国人民大学第二分校が公式名称だった。
 日本問題は教授は日本から来ることになっていたが、最後まで来なかった。私達は、時事問題の解説に当たるとともに、服部『近代日本のなりたち』、井上『日本近代史』の学習を準備としておこなった。最後に五回の日本問題の講義をおこなうにとどまった。
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高倉テルは1891年生まれですから、犬丸より27歳上ですね。
高倉は三木清が終戦間際に逮捕・投獄され、獄中死することになった原因を作った人物なので、個人的にはあまり良い印象を持てません。
三木清の妻・喜美子は東畑精一の妹で、速水融氏の叔母ですね。

「東畑精一とハルナック」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f63e833f205c8a3985381d0b88b98e77
高倉輝(1891-1986)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%80%89%E8%BC%9D
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網野善彦を探して(その16)─「『井上清なり、山辺健太郎』なりを送るから待っていろ」(by 松島栄一)

2019-01-28 | 「五〇年問題」と網野善彦・犬丸義一
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 1月28日(月)12時39分28秒

前回投稿、「マルクス・レーニン主義研究所の後身だった社会思想研究所」が良く分からないのですが、先を急いで続きです。(p258以下)

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 その後、石母田『歴史と民族の発見』が発行され、大きな影響があり、学生歴研協議会の筆者参加合評会で、「階級の分離と対立」を「存立せしめている地盤としての社会」「その具体的表現」が民族であるという表現(一四二頁)を私は批判したが、『続』のあとがきで自己批判している。階級闘争は、民族解放闘争に従属する、と述べていて、民族主義的傾向を批判した限り、正しかった、と思う。しかしスターリン民族論への批判はなく、スターリン崇拝であった。(歴研大会報告・討論集参考)
-------

ということで、これで「五 歴史学研究大会での民族問題論争」は終わりです。
石母田正『歴史と民族の発見』(東大出版会)の出版は1952年、『歴史と民族の発見・続』(同)は1953年ですね。
この後、「六 卒業論文「満州事変原因論」の執筆」と「七 東大近代史懇話会助手時代」では犬丸と主流派(所感派)に属する井上清・林基・松島栄一・松本新八郎等との関係が円滑であったことを示すエピソードが続きます。
そして、「七 東大近代史懇話会助手時代」の最後に、

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 五一年の秋に山辺健太郎さんの検挙事件があって、井上さんの指示で山辺さんの留守宅へいき、夫人に会い、出獄した山辺さんに会い、出入りするようになった。主流派と思った山辺さんから復党を急ぐな、勉強してお迎えを待てといわれたのが意外だった。その後労働運動史、社会運動史をやるときめて教えを受けるようになった。山辺さんのところで平気で猫の食べた残りを食べて気にいれられ、自由に出入りするようになった。終生の師の一人となった。
-------

とあるので(p261)、1951年8月のスターリンの「判決」(by 安東仁兵衛)の後、旧「国際派」は四分五裂し、安東のように「所感派」との対立を続ける人々はいたものの、犬丸は直ぐに「所感派」の歴史学者たちとの関係を修復したことが確認できます。
ちなみに「気にいれられ」は文法的に変ですが、犬丸の文章は大体こんなものです。
また、山辺健太郎(1905-77)については、この掲示板でも少しだけ言及したことがありますが、まあ、変った人ですね。
もともと共産党に入っているだけで、一般的な基準からすれば変人の類かもしれませんが、山辺はちょっと別格の変人です。

『山辺健太郎・回想と遺文』
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f12c9894aff42e9169230fbd5162e822

さて、犬丸は単に「所感派」との良好な関係を続けたばかりか、1953年3月になると「所感派」の松島栄一の指示で中国に密航することになります。(p261)

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 八 密出国で中華人民共和国へ

 五三年三月、三井礼子編『近代日本の女性』(五三年、五月書房)の合評会の終わったあと、松島栄一さんから中国へ行かないかという話があった。地下指導部と会い、労働者・農民に日本近現代史を教える仕事で中国に行けということである。先生は「井上清なり、山辺健太郎」なりを送るから待っていろ、といわれた。誰が中国にいるかは想像がつくだろう、党史をつくることもあるし、その手伝いも出来るかもしれない、とも匂わされた。
井上と遠山さんには話してもよい、といわれたので話をした。私も行きたいといえ、といわれたのでそう話した。築地の三味線の先生の家であった。たぶん志田重男氏であろう。弟には潜るから後はたのむと話した。神田、香内両氏に潜ると話して、後始末を頼み、帯刀さんにも潜ると話し、お赤飯をたくといわれたが、時間が早くなってたべられず、本郷の喫茶店で会って電車にのった。
 三月一八日だったと思う。遠山さんに『太平洋戦争史』Ⅰの原稿を渡した。大久保利謙さん、岩生さんには故郷には帰ると話してもらった。梅田氏に駒込駅のホームで潜ると話し、後をたのむと話した。
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神田・香内・帯刀・遠山・岩生・梅田はそれぞれ神田文人(横浜市立大学名誉教授、1930-2005)、香内三郎(東京経済大学名誉教授、1931-2006)、帯刀貞代(女性運動家、1904-90)、遠山茂樹(横浜市立大学名誉教授、1914-2011)、岩生成一(日本学士院会員、1900-88)、梅田欣治(宇都宮大学名誉教授、1927生)ですね。
「築地の三味線の先生の家であった」は、「築地の三味線の先生の家」で「地下指導部」の「たぶん志田重男氏」に会ったということでしょうが、「であった」では分からないですね。
「故郷には帰る」も「故郷に帰る」としないと変ですが、犬丸の文章は大体こんなものです。

志田重男(1911-71)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%97%E7%94%B0%E9%87%8D%E7%94%B7

さて、松島栄一「先生」は「「井上清なり、山辺健太郎」なりを送るから待っていろ、といわれた」そうですが、犬丸を追って中国に密航した歴史研究者は誰もおらず、犬丸は「結核になり、国際派は袴田氏に随行した秋山良照氏と二人だけだったので圧迫感と孤立感が強く強度のノイローゼになって、入院した」(p263)という悲惨な期間を含め、1958年7月まで五年以上を中国で過すことになります。

松島栄一(1917-2002)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B3%B6%E6%A0%84%E4%B8%80
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網野善彦を探して(その15)─「井上氏は私との関係を藤間氏らに追求された」(by 犬丸義一)

2019-01-26 | 「五〇年問題」と網野善彦・犬丸義一
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 1月26日(土)10時27分43秒

続きです。(p257以下)

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 翌年の五一年の歴研大会の「歴史における民族問題」についての私の発言の自己批判は既に発表しているが、(『歴史科学の課題とマルクス主義』)、学生の私が発言できたのは、統一会議が発足して、マルクス・レーニン主義研究所の後身だった社会思想研究所の打ち合せ会があって、大会対応が議論されていたからであった。第一回目の会合には、国際派主導と知らないで、井上清氏は出席してしゃべっていたが、二回目にはそれを知って欠席した。歴研会員は統一会議は小野義彦、勝部元氏しかいず、後は非会員だった。力石定一氏がいて、よくしゃべったが、会員でなく、私に発言しろ、ということになってしまった。そこで、レーニンの民族理論を集めた『民族問題』三分冊(彰考書院)などを読んで、「大ロシア民族のほこりについて」などをみつけて、藤間氏のヤマトタケル=民族的英雄論の批判を発言したのであった。共産党の分裂が討論を激しく政治的にしたのである。大会の後、明治大学の正門あたりで井上さんにばったり会って立ち話をしていたところ、藤間氏に見られて、井上氏は私との関係を藤間氏らに追求された、というエピソードもあるようで、先日の井上さんを偲ぶ会で、荒井信一さんから思い出話があった。
-------

1951年5月の歴研大会は同年8月にスターリンの「判決」(by 安東仁兵衛)が下される直前ですから、共産党関係者にとっては本当に微妙な、薄氷を踏むが如き時期ですね。
「国際派」の犬丸が「所感派」の井上清と「ばったり会って立ち話」していただけで、井上は犬丸との関係を「所感派」の藤間生大等に「追求された」というのですから、同じく「所感派」の網野善彦との間でも、犬丸が「網野さんと私」(『網野善彦著作集』四巻「月報一五」)で書いているような、

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「薄紙指導」と呼ばれた、党の地下指導部からの指示書があった。カーボン紙で限られた枚数だけ複写され、封をした秘密書類である。それを網野さんから受け取って、民科歴史部会のグループ員に届けるというメッセンジャーボーイの役を私が一時期つとめていたので、それを受け取るために何度か月島の常民文化研究所を訪ねたものである。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ae948c213c3eac2ec7dde005eb9bc1a4

といった関係は、この時期にはおよそありえない訳ですね。

井上清(京大名誉教授、1913-2001)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%B8%8A%E6%B8%85_(%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E5%AE%B6)
藤間生大(1913-2018)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E9%96%93%E7%94%9F%E5%A4%A7
荒井信一(茨城大学名誉教授、1926-2017)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%92%E4%BA%95%E4%BF%A1%E4%B8%80

藤間生大は去年の12月に亡くなったばかりですが、そのニュースを聞いて、まだ生きていたのかと驚いた人も多いでしょうね。
歴史学者には長命な人が多い感じがしますが、それにしても105歳はすごいですね。
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網野善彦を探して(その14)─「アカハタ記者を伊藤律問題でやめていた小野義彦氏」(by 犬丸義一)

2019-01-25 | 「五〇年問題」と網野善彦・犬丸義一
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 1月25日(金)11時03分39秒

犬丸義一「私の戦後と歴史学」(『年報・日本現代史第8号 戦後日本の民衆意識と知識人』、現代史料出版、2002)に戻って、続きです。(p257以下)

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五 歴史学研究会大会での民族問題論争

 この間、私は東大歴史学研究会の研究会に生協活動の合間を縫って参加する。コミンフォルム批判で国家論、民族問題の重要性が痛感され、一九五〇年歴研大会は「歴史における国家権力」をとりあげる。大会には前年の大会にも参加していたが、この大会でアカハタ記者を伊藤律問題でやめていた小野義彦氏が発言し戦後日本の国家権力の買弁的ブルジョワ権力への転化を主張した。この大会が終わった後、かねて小野氏の論文を読み、国際派ということを聞いていたので、声をかけ、小野氏の家に出入りするようになった。隣が内野壮児氏だった。小野氏の『前衛』で没になってゲラのままだった未発表論文を筆写して回覧したりした。
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いったんここで切ります。
歴史研究会大会は五月に行うのが慣例ですが、1950年の大会は1月のコミンフォルムによる野坂参三の平和革命路線批判の後、6月6日のマッカーサーによる共産党中央委員24人の公職追放指令に伴う共産党の分裂の直前ですから、政治的にかなり微妙な時期ですね。
小野義彦(大阪市立大学名誉教授、1914-90)については、その著書『「昭和史」を生きて』(三一書房、1985)を少し紹介したことがあります。

「伊藤律がすぐ私のもとにやってきて、私の思想調査のようなことを……」(by 小野義彦)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0c3b6212ebcd81fde18fde76bef8d379

小野は「国際派」の学生に大きな影響を与えていたようで、安東仁兵衛『戦後日本共産党私記』(現代の理論社、1976)にも登場します。(p88以下)

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 四九年の秋も終ろうとする頃、私はグラウンドの地下室にあった『学生評論』の部屋で力石からある人物に会うことをすすめられた。力石はその頃、確か学対部員となって本部に勤務していたはずである。その彼が本部の宿直の夜に小野義彦という理論家と知り合った。この人は戦前の京大の学生運動のリーダーであってわれわれ全学連にも深い理解と支持を抱いている、しかし徳田らの指導方針に批判を持っているために『アカハタ』の一記者という仕事に甘んじているが、知り合い語り合うほどに感服させられた、是非訪ねてこい、といわれた。
 教えられた小野の家は私の家族が間借りしている目黒の近く、大崎の駅から歩いて十分ほどのところであった。夜、ひそかに訪ねるという形をとった。確かこの頃、小野は伊藤批判の故に「出勤に及ばず」ということで閉門状態に置かれていたと思う。*
 見るからに明晰な相貌をした小野は力石から私の訪問を知らされていたと見えて、早速私を啓蒙にかかった。「三二テーゼ」と比較しながら戦後の権力体制の変動を説くという手法である。絶対主義的天皇制は? その背骨たる軍事的・警察的機構とは? そして半封建的な寄生地主制は? ひとつひとつ小野は問うてきた。問われて見れば事実は明々白々、もはやそれらの権力要素は崩壊し去っている。「そうですね、すると当面する革命の性格は何でしょうか」、実にハッとするような瞬間であったといって決してオーバーではなかった。「とうぜん社会主義革命……」と私は答える。眼からウロコが落ちる、とはこういう瞬間を指すものであろう。地域人民闘争も夏の国鉄の全逓の大敗北も、党の戦略が根本で狂っていることの所産に過ぎないのではないか。私は宙を飛ぶような勢で目黒のわが家に戻り、小野が貸し与えてくれた論文を大学ノートに筆写しはじめた。それは戦前と戦後の天皇制を比較・検討するという論題のもので、中央から発表を禁じられた禁断の論文である。私は夜を徹して全文を写し取った。中西功の意見書を知らなかった私はこの夜を境に社会主義革命論者となり、党中央に対する明確な造反の意志を固めることになったのである。
-------

ということで、犬丸が読んだ「小野氏の『前衛』で没になってゲラのままだった未発表論文」と安東の言う「戦前と戦後の天皇制を比較・検討するという論題のもので、中央から発表を禁じられた禁断の論文」は同じものでしょうね。
この論文を読んで、犬丸が安東と同じような「眼からウロコが落ちる」経験をしたのかは分りませんが、仮にそのような出来事があったとしても、後に共産党から除名されることになる小野について犬丸が書けることは自ずと限定されるでしょうね。
それと、犬丸が「アカハタ記者を伊藤律問題でやめていた小野義彦氏」云々と書いている事情は、安東が次のように説明しています。(p90)

-------
* 内野の話によれば、四九年の秋から冬にかけて『アカハタ』編集局の内部には中央に対する批判的空気が充満していた。とりわけ伊藤律の指導に対する不信は強く、伊藤が本部内の大久保という女性に無礼かつお粗末なラブレターを渡し、それが細胞委員会で問題になって律を糾弾しようとしたのが統制委員会に知られ、西沢隆二が小野を呼び出して出勤停止処分を言い渡した。
 なお内野の回想によれば、内野らの批判グループが党内闘争のためのグループ結成をめざし、七・八人の同志が吹田秀蔵の家で新年宴会を兼ねて集まったちょうどその日にコミンフォルムの論評が報道されたという。
-------

小野義彦の『「昭和史」を生きて』では、伊藤律に言及する箇所のすべてにおいて伊藤に極めて冷ややかな記述があるのが気になっていたのですが、このような個人的事情があるのであれば仕方ないなと思います。
なお、西沢隆二(ぬやまひろし)は徳田球一の義理の娘と結婚しており、徳田の威を借りて党内で権勢を振るっていたそうですが、「北京機関」時代に徳田との関係が悪化し、伊藤とも激しく対立して、伊藤を中国の刑務所に閉じ込めるのに貢献したようですね。
1949年の時点では、西沢と伊藤はともに徳田球一を支える立場として利害が一致しており、西沢は小野らの攻撃から伊藤を守ってあげたのでしょうね。
司馬遼太郎は西沢と交流があり、『ひとびとの跫音』に西沢が登場しているらしいと聞いて読んでみたのですが、共産党活動の機微に関するようなことは全く出ておらず、つまらないので途中でやめてしまいました。

西沢隆二(1903-76)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%B2%A2%E9%9A%86%E4%BA%8C
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『承久の乱 日本史のターニングポイント』

2019-01-25 | 「五〇年問題」と網野善彦・犬丸義一
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 1月25日(金)09時43分0秒

>筆綾丸さん
>『承久の乱 日本史のターニングポイント』

本郷和人氏は有能な編集者の知己に恵まれているようで、次々に著作を発表されますね。
昨年から当掲示板で何かと話題にしている松沢裕作氏も、講談社選書メチエの『町村合併から生まれた日本近代 明治の経験』(2013)は本郷氏が講談社の編集者を紹介してくれたのだそうです。

井出英策・松沢裕作編『分断社会・日本―なぜ私たちは引き裂かれるのか』
松沢裕作『町村合併から生まれた日本近代 明治の経験』
「虚偽のイデオロギーとしてのナショナリズムを指弾するだけではじゅうぶんではないのだ」(by 松沢裕作)

今は頭が中世モードになっていないので本郷氏の新著も読めませんが、「五〇問題」を片付けたら手に取ってみようと思います。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

閑話ー承久の乱後798年 2019/01/24(木) 12:25:23
https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784166611997
本郷和人氏の新著『承久の乱 日本史のターニングポイント』は、新しい知見はないものの(偉そうな言い草ですが)、面白く読みました。氏の以前の用語を使って乱暴に要約すれば、承久の乱はゾレンとザインの戦いで、後者が前者を屈服させた戦乱である、ということになるのでしょうね。

https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/kokuhoukan/28tennjikai.html
https://www.hachimangu.or.jp/news/
鎌倉市は「源実朝没後800年」と云い、鶴岡八幡宮は「神忌800年」と云いますが、両者の相違がよくわかる表現ですね。

蛇足
「幕府軍は瀬田(東)・宇治(西)の二方面から侵攻し、京都を占拠しました」(同書187頁)とありますが、宇治は京都に対して南ですね。
「・・・編集会議にこの企画を諮ったところ、エラいさんから厳しくダメ出しを食らったそうです」(同書217頁 あとがき)の「ダメだし」は誤用ですね。
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網野善彦を探して(その13)─「国際友党は所感派を全面的に支持し、国際派を断罪した」(by 安東仁兵衛)

2019-01-24 | 「五〇年問題」と網野善彦・犬丸義一
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 1月24日(木)10時26分20秒

学生運動における「国際派」の解体については、私が入手した限られた資料の範囲では安東仁兵衛『戦後日本共産党私記』(現代の理論社、1976)の「第八章 国際派・東大細胞の解体」が一番詳しいのですが、そこには犬丸の言う1951年8月下旬の埼玉大学での「細胞解散総会」は出て来ません。
ただ、

-------
 こうして事実上の分裂状態に陥りはじめていた国際派に決定的な一撃が下された。八月一〇日付のコミンフォルム機関誌に載った論評、「『分派主義者にたいする闘争にかんする決議』について」がそれである。評論はこともあろうに所感派の四全協で採択された(前掲の)決議「分派主義者に対する闘争にかんする決議」を全文引用して、これを全面的に支持し、「若干の共産党員の分派活動は日米反動を利益するにすぎない」としたのである。何回読み直してみても判決は明白であった。国際友党は所感派を全面的に支持し、国際派を断罪したのである。
 所感派が勝利を呼号し、国際派に対して全面的な屈服を威丈高に要求してきたのと対照的に、国際派は一挙に打ち砕かれ、見るも無残に打ちひしがれることになった。その崩壊はなだれを打って敗走する姿そのものであった。最左派の国際主義者団はいちはやく全面的な自己批判を発表し、臨中と全党の同志が「情報局の論評に接してわれわれが到達した結論と確信とを諒解せられ、……心からの援助をあたえられんことを切にお願いする」とした。次いで団結派は解散大会を開いて、「臨中は日毎に革命的に正しい方向に前進しつつある」とし「吾々の中道派的態度」を自己批判して四全協と臨中の下への復帰を決定した。統一協議会も組織の解散と分派活動の自己批判を表明した。統一会議派で見れば、春日(系)が自己批判と復帰を急いだことは言うまでもない。「この論評の出る直前、私たちはやっと、自らの分派性に気づき、……党中央の指導のもとに復帰する一歩をふみ出すことができました。この論評は、私たちに一層確信をあたえ、全分派の急速な解消を促進しました。」と書きはじめる春日の長文の「私の自己批判」が発表された。宮本系は大いに悩み、内部の議論は深刻にたたかわされたが、結局は大勢に抗し得ず、大部分は自己批判をおこなって復帰を申し出ることになった。宮本は最後まで屈服を拒否していると伝えられたが─そしてそれを私は六全協後も信じていたのだが─、かれもまた党に戻った。*

* 亀山によれば、宮本の自己批判書は二度書き直しを要求されているが、それはついに公表されなかった。恐らく志田が保存したままになったのではなかろうか、ということである。
-------

とのことで(p174以下)、あるいは犬丸は「解散大会」を開いたという「団結派」なのかなとも思いますが、よく分かりません。
この後、安東らのグループはそれなりに頑張るものの、

-------
 だがこうした抵抗も五一年の年も暮れ、五二年をむかえる頃には尽き果てようとしていた。グラウンド地下の隣の全学連の部屋はすでに所感派の諸君に占領されていた。吉川勇一が紳士的であったのは例外で、私が"狂犬"と呼んだ駒場選出の都学連委員長・伝をはじめ、そこにたむろする連中に私たちは連日いやがらせを繰りかえされた。その頃、書記局の孤塁を守っていたのは数名の同志に限られてきていた。早大の土本、東大の柴山、二瓶、下村、それに私といったメンバーで、その他は応援に通って来る津田塾、東京女子大、お茶の水の諸嬢たちであった。書き終った部分から紙をちぎって渡し、彼女らがガリ版をカットするといった有様で『全学連情報』を作成して発送した情景を憶い出す。三月三日、この日に開かれた全学連拡大中央委員会で私たちは「国民の敵」と非難され、追放された。
-------

のだそうで(p182)、「身の置き処」がなくなってしまった安東は、「農学部の針谷明」に誘われて茨城県の山口武秀が委員長を務める「常東農民組合の書記」となって都落ちします。(p183)
ま、それはともかく、犬丸は安東らのようにズルズルと抵抗せず、あっさり「所感派」の軍門に下ってしまったので、1951年8月以降は「所感派」の網野善彦との関係が復活してもおかしくないことになります。
そこで再び犬丸の「私の戦後と歴史学」に戻ってみることにします。

なお、安東仁兵衛と全学連については、既に下記投稿で若干言及しています。

網野善彦を探して(その2)─「民学同」と「全学連」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/86f73711d882c33ce1d34c25ac280d72
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網野善彦を探して(その12)─「山村工作というのは、たいてい新入りの真面目な連中がやらされた」(by 上田篤)

2019-01-23 | 「五〇年問題」と網野善彦・犬丸義一
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 1月23日(水)10時23分32秒

上田篤氏の回想はピカレスクロマンの趣があって、非常に面白いですね。
大島渚(映画監督)が登場する箇所もちょっと笑えるのですが、長くなりすぎるので省略して、後で少し検討する予定の「山村工作隊」との関係で、関西の「山村工作隊」の動向に関連する部分だけ、少し引用しておきます。(p15以下)

-------
今西「まあ,順番に聞いていきますけど。で,丹波では山村工作隊としてどういう活動をされていたんですか」
上田「丹波ではね,平屋村に共産党員がいて,それを頼って三人で入った。地域で若者を集めて文化活動をやる,地域を変えるのは文化活動から…」
今西「紙芝居とか,幻灯とかそういうことをやるのですか」
上田「そうです,そうです。そういうところからやる。しかし何もやらないうちに,2日目か3日目にやられた。二人は捕まっちゃった,警察が来て。張られていていたんでしょうね」
今西「京大の学生は何人くらい入っていたんですか?」
上田「それはわかりませんが,おそらく共産党員の三分の二は山村工作隊に参加しなかった。みんな逃げちゃった。なんだかんだと言って,いざとなると怖いですから」
今西「そうですね(笑)。中岡哲郎さん(技術史家,大阪市大名誉教授)もそう語っておられました」
上田「そうでしょう。おおかた逃げたんです,古くからいた連中は。やったのは新入党員が大部分です。だから丹波にどのくらい入ったか,誰も教えてくれない。誰がどこに入ったとかも教えてくれない。僕の感じでは,まあ2,30人は入ったでしょうね」
-------

この後、1953年11月11日の「荒神橋事件」の話の中で、

-------
たまたまその時に日本史研究会の研究会が立命であったんです,林家辰三郎(歴史家,京大名誉教授,故人)とか奈良本辰也(歴史家,元立命館大学教授,故人)とか。その連中を呼んできて,奈良本タッチャンが,学生たちに『諸君,我々は歴史家として言う。本日,今夜は,決して革命前夜ではない』って言ったんです(笑)。有名な演説です。それでみんながシュンとなっちゃった」
-------

という具合に「林家」ならぬ「林屋」辰三郎と奈良本辰也の名前がチョロっと出てきますね。(p22以下)
そして、再び「山村工作隊」の話となり、そこに黒田俊雄が登場します。(p、24以下)

-------
上田「そうですか。まあ,今さら小山に怨みを言ってもしょうがないけど。…大体,有名な連中というのは,実力行動というか,火炎瓶とか山村工作の時はみんな逃げました。山村工作というのは,たいてい新入りの真面目な連中がやらされた。前から前進座事件などやっていた連中はみな逃げちゃった。あるいは幹部になって後ろで糸を引いていた。僕の記憶では」
今西「だけど,国民的科学運動なんかで,紙芝居や幻灯をもって村を回ったりした人たちも,いたわけでしょ」
上田「それはいました。しかしたいていは共産党員ではない。シンパ(同調者)です」
今西「国民的科学運動には参加されたのでしょう」
上田「そういう文化活動はやっていません。政治活動ばかりです。工場にビラまきに行くとか。わたしが一時期警察から免除されたのは,火焔瓶を投げなかったからです。投げた連中はみな捕まった。警察はものすごく調べてますよ。だって,みんな捕まえて白状させたんだもの。だから芋づる式に捕まった。中岡哲郎なんかは投げなかったのでしょう。だから捕まってない。大体,山村工作隊自体では捕まりません。何も実力行使をしたわけではないのですから。最後にはやらされたでしょうけれど,そこまで行かなかった」
今西「そうですね。だから実力行動派は捕まってますけども,それ以外はわりと文化運動とかやっていた…」
上田「だから捕まっていない」
今西「文学部の黒田俊雄さん(中世史家,大阪大学名誉教授,故人)などは国民歴史学運動をやってましたけど」
上田「前からやっている連中はよくわかってますから,言葉は悪いけど『これはやばいなあ』と思ったらやらない。何も知らない新しく来た連中はやらされてみんな捕まっちゃう。中には自殺したのもいましたから。金谷って可哀想な男でしたね。文学部の」
-------

まあ、黒田俊雄が登場するといっても名前だけですが。
黒田は1926年生まれなので、上田篤より四歳上であり、このあたりの微妙な年齢の差で共産党における活動内容もかなり違ってくるようですね。

黒田俊雄(1926-93)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E7%94%B0%E4%BF%8A%E9%9B%84
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網野善彦を探して(その11)─上田篤の回想

2019-01-22 | 「五〇年問題」と網野善彦・犬丸義一
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 1月22日(火)10時50分23秒

犬丸義一によれば、1951年の「八月にコミンフォルムの再論評があり、下旬に埼玉大学で細胞解散総会が開かれ」て東大の国際派細胞は解体したことになりますが、犬丸個人の立場はともかくとして、実際には分派抗争が相当長く続いたようですね。
このあたりの事情が私にはよく分からなかったのですが、京大で「所感派」(主流派)に属し、1951年11月12日の「京大天皇事件」の後、「東京へ2カ月近くビラをまきに行った」上田篤氏の回想に、当時の東京の学生運動の混乱状態が出てきます。

今西一「荒神橋事件・万博・都市科学研究所-上田篤氏に聞く-」(『小樽商科大学人文研究』122号、2011)
https://barrel.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=579&item_no=1&page_id=13&block_id=135

これによると、

-------
今西「天皇事件に参加されたのはどういう経緯ですか。もう共産党とか,そういうものに関係しておられたんですか?」
上田「いや,先にもいいました両条約反対デモに参加したのがきっかけです。9月か10月に。天皇事件の時はまだ一学生であった。で,天皇事件で,同学会から往きの旅費だけもらって私は東京へ2カ月近くビラをまきに行ったんです。で,東京でいろいろなことを知った。関西では信じられないことだったが,東京の学生運動にはいろいろな派閥がある,…全学連すら二つある。国際派と呼ばれる連中と,主流派の再建全学連と。私はその両方に会いにいった。私学はどうかというと,早稲田大学は…あらゆる活動団体の組織があってビックリした。慶應や津田塾,立教などもまわりましたが,ここは主流派が押さえていました。2カ月くらいの間,ビックリの連続でした。学生運動っていってもいろいろ派閥があると。そういうことを経験して帰ってから総括してやっているうちに,ますます深みに入りました。51年の冬です。暮れの12月くらいですね」
今西「武井昭夫さん(評論家,故人)を中心とした,いわゆる東大の国際派全学連のグループですね」
上田「安東仁兵衛さん(職業革命家,故人)もいました。都学連が再建全学連を称し,伝(つとう)さんが委員長でいました」
今西「ええ,名前だけはよく」
上田「彼と一緒に二カ月近く歩き回ったんです。結果から考えると,国際派潰しのために主流派に利用されたのかもしれません」
今西「そうですか。早稲田は神山派から色々なグループが四分五裂でしたね」
上田「ええ,四分五裂でしたね早稲田は。われわれ田舎者にとっては(笑)。こんな問題があるとは知らなかった。関西は民青(民主青年団)というか共産党主流派一辺倒でしたから」
今西「当時の関西は主流派ですよね。主流派の拠点ですから」
上田「そうです。ずっと一貫して」
今西「だから国際派はものすごく少数派でしょ」
上田「ほとんど表に出なかったですね」
今西「ああ,出てなかったですか」
上田「僕は知らなかった」
今西「小松左京(実)さん(作家,故人)なんかはお友達でしょう。小松さんは国際派ですね」
上田「あとから聞いたんだけどね。彼もあれもあやふやな男ですが(笑)。
本当は僕らの時にも一緒にいた。体が大きかったもんだから,京大名物の『壁』という大きなプラカードがあって,それを持っていつもデモの先頭に立っていた。三畳敷きくらいの大きなプラカードです。それを5~6人でかつぐんだけど,体の大きいヤツがやる。小松はいつもその役をやっていたから主流派でもあったでしょう。あれもいろいろ付き合いがいいから(笑)」
今西「主流派でもあったんですか。でも,小松さんは数少ない国際派の一人ですよね?」
上田「そうでしたか? それはあとのことでしょう」
今西「まあ,でも京都は国際派はごく少数派ですね」
-------

ということで(p11以下)、この書き方だと、1951年8月「下旬に埼玉大学で細胞解散総会が開かれ」た後も「国際派」が存続していたとしか読めません。
ま、犬丸の立場からすれば「旧国際派」の武井・安東グループとでもいうことになるのでしょうが。
ところで、上田篤氏には何が専門なのか分からないほど広範囲に及ぶ多数の著書があり、中でも京都の町屋や「鎮守の森」の研究で特に有名な人なので、何となく温厚篤実な人物のように思っていたのですが、学生時代は異常に有能な「革命家」だったようですね。

-------
今西「50年に共産党が分裂して,51年くらいから軍事行動ですね,いわゆる火瓶闘争とか代議士の水谷長三郎宅襲撃事件とかを起こしていますよね。この時にはもう,先生は山村工作隊にいかれていたのですか」
上田「その時はまだです。共産党の一兵卒なんです。しかしやがて,京都中の火焔瓶をつくらされた。僕は工学部ですからね(笑)。火焔瓶をつくるのは,硫酸を薄めて希硫酸にして,ガソリンと一緒にビールビンの中に入れる。そしてビールビンの細いところを,塩素酸カリに浸した新聞紙を巻くんです。それを全部,大学の薬を使って。ですから工学部には何人もの協力者がいました」
今西「大学の薬を勝手に使って(笑)」
上田「誰かが盗んだんです(笑)。僕は3年生の時にそれをつくった。その隊長が中堀和英。中堀がリーダーで僕ら兵隊の指揮官だった。まあ今から60年前の話です」
今西「『球根栽培法』なんかは出ていたんですか? それに基づいてつくられた?」
上田「そういうのも出ていました。火炎瓶はのちに聞いたのですが,『モロトフのカクテル』といわれてた。当時のロシアのモロトフ外相が,考案したといわれてるんですけど,本当かどうか知りませんが簡単につくれた(笑)。
-------

ということで(p13以下)、語り口も楽しそうです。
上田氏が凄いのは、「京都中の火焔瓶をつくらされ」ていても自分では一切、というか警察に捕まりそうな状況では一切火焔瓶を投げなかったことですね。
また逃げ足がものすごく速かったそうで、

-------
上田「僕はただ,それまで何回も実力デモをやって,警官に追い回されたんだけれど,高校時代サッカーをやっていて足が速かったんで捕まらなかった。今でこそ有名だけど,当時の中学,高校ではほとんどサッカーなんて知られていない。だから,ともかく足は速かった。足のおかげで捕まらなかった。丸物百貨店の七階まで警官をふり切って一気にかけ上り女便所に隠れたり,祇園のお茶屋の通り庭の奥の蔵の影に身をひそめたりしました(笑)」
-------

と自慢しています。(p23)
結局、京大細胞のリーダー格として、さんざっぱら危ない活動を指導し、自分でも実践したにも拘らず、警察には逮捕されず、経歴に傷をつけることのないまま、ちゃっかり国家公務員試験上級職に合格して建設省に入ったりした訳で、上田氏は本当に世渡り上手ですね。
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網野善彦を探して(その10)─「細胞解散で時間的余裕がうまれ」(by 犬丸義一)

2019-01-21 | 「五〇年問題」と網野善彦・犬丸義一
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 1月21日(月)11時49分54秒

1950年1月にコミンフォルムの野坂参三批判があり、共産党はその批判に反論した徳田球一・野坂参三・志田重男・伊藤律らの「所感派」(主流派)と、その批判を受け入れた志賀義雄・宮本顕治らの「国際派」に分裂します。
同年6月にレッドパージが始まり、「所感派」の徳田・野坂らは中国に密航して「北京機関」を作り、志田らは国内の「地下指導部」となります。
学生運動はどうかというと、東大の場合、学生の間では圧倒的に「国際派」が多く、犬丸もその一人ですが、50年3月に卒業した網野は「所感派」ですね。
東大の影響を受けた関東の大学は「国際派」が多かったものの、早稲田大学は「所感派」「国際派」の対立のみならず、「国際派」の中の更なる分派も入り乱れていたそうです。
他方、京大を中心とする関西は「所感派」が圧倒的に強かったそうですね。
今西一氏らの努力で集められた回想録を見ても、地域によって事情は様々で、当時の関係者にとってもなかなか分りにくい混乱状況が続いたようですね。
しかし、国内ではスッタモンダがあったにしても、翌51年8月にコミンフォルム(=スターリン)の再度の裁定が下って、「国際派」は解散してしまいます。
つまり、「国際派」「所感派」の抗争期間は僅か一年半程度ですが、志田らの「地下指導部」は「武力闘争」路線を維持し、混乱は長引いて1955年の「六全協」まで続く訳ですね。

「六全協」(日本共産党第6回全国協議会)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%85%B1%E7%94%A3%E5%85%9A%E7%AC%AC6%E5%9B%9E%E5%85%A8%E5%9B%BD%E5%8D%94%E8%AD%B0%E4%BC%9A

さて、犬丸義一「私の戦後と歴史学」(『年報・日本現代史第8号 戦後日本の民衆意識と知識人』、現代史料出版、2002)に戻って、続きです。(p256以下)

-------
 八月にコミンフォルムの再論評があり、下旬に埼玉大学で細胞解散総会が開かれる。国際権威主義だから、誤ったものでも国際的決定には従わなくてはというものから様々であった。今は詳論しないことにする。ただ『理論戦線』第一・二号(五一年三・六月)掲載の吉川圭次郎(力石定一)論文は、当時の戦後国家権力の分析、高度資本主義の従属問題、従属国のブルジョワ権力など当時の理論的到達点を示していた。この戦後史の分析には意見を求められ討論した覚えがある。そして、講和・独立闘争は平和的大衆闘争で可能であるというのは彼の創見であった、と考えており、山田宗睦批判で援用したことがあるものだった。これは軍事路線、武装闘争路線批判の歴史的傑作であった、といえよう。後出の吉川論文の理論分析を基礎に現代史研究に史料を使って分析・叙述したものに服部幸雄(松本貞雄)「八・一五和平運動の展開─日本独占ブルジョワジーの役割を中心として」(『歴史評論』五一年九月)がある。歴史学の戦後ブルジョワジー権力説の最初の論文である。
 この細胞解散で時間的余裕がうまれ、卒業論文執筆の時間がうまれた。
-------

ということで、犬丸の力石定一への評価は極めて高いですね。
ちょっと分からないのは「後出の吉川論文の理論分析を基礎に」云々という表現で、この後を見ても「『理論戦線』第一・二号(五一年三・六月)掲載の吉川圭次郎(力石定一)論文」以外の「吉川論文」は出て来ないので、「前出」の誤りみたいですね。
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網野善彦を探して(その9)─岡田裕之と力石定一の回想

2019-01-20 | 「五〇年問題」と網野善彦・犬丸義一
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 1月20日(日)13時34分11秒

前回投稿で言及した今西一氏(小樽商科大学教授)は、「五〇年分裂」前後の日本共産党の動向について、関係者からの聞取りを熱心に行っている研究者ですね。

今西一(1948生)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E8%A5%BF%E4%B8%80

「小樽商科大学学術成果コレクション:Barrel」の「詳細検索」で「著者名」に「今西一」と入れて検索すると108項目が出てきますが、その中に小樽商科大学『商学討究』に二回に分けて載せられた岡田裕之氏(法政大学名誉教授)からの聞取りがあります。
岡田裕之氏は網野・犬丸と同年の1928年生まれで、1945年に旧制一高に入学、病気休学の期間があって50年に東大経済学部入学、53年に卒業した人です。
共産党には一高時代の1948年に入党し、その際の推薦者は新島淳良と上田健二郎(不破哲三)だそうですね。
岡田氏の生育環境と一高時代の活動は非常に興味深いのですが、それは「占領下東大の学生運動と「わだつみ会」(Ⅰ) : 岡田裕之氏に聞く」を見てもらうとして、とりあえず網野に関係する部分だけを(Ⅱ)から引用すると(p13)、

-------
今西 :この頃,歴史学者の網野善彦さんなども活動されていたのですね。
岡田 :網野善彦君は組織で知っています。網野君は最初の国際派の会議でお目にかかりましたが,話しはしたことがありません。すぐ主流派に移ったと聞きました。会ったのは一度きりです。
今西 :網野さんは,所感派だったのですか。
岡田 : 「網野は所感派だ」 と国際派は悪く言っていました。
今西 :網野さんは,山村工作隊などの犠牲を悼んで,国民的歴史学運動から離れていったそうですね。
岡田 :そういうのは分かりませんからね。我々はレッテルを貼っていたのでしょう。戦後の歴史学では唯物史観が支配的で,石母田正さんの影響は大きかった。安良城君の太閤検地論は,石母田説をマルクスに添って批判的に延長するものでした。一時安良城旋風とまで評価されましたが,網野君の歴史観は完全なる唯物史観批判で,特に百姓 (ひゃくせい)史観というか,中世の非農業社会に注目して戦後日本史学を変えました。「レッテル貼り」は安易なやっつけで自戒しています。

https://barrel.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=395&item_no=1&page_id=13&block_id=135

といった具合です。
「最初の国際派の会議で」顔を見ただけで話もせず、「会ったのは一度きり」ということなので、この程度の内容になるのは仕方ないですね。
さて、網野の名前は東大「国際派」のリーダー格であった力石定一(法政大学名誉教授)の回想、「第三高等学校から東京大学へ : 力石定一氏に聞く」(『小樽商科大学人文研究』119号、2010)にも登場します。

https://barrel.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=604&item_no=1&page_id=13&block_id=135

ただ、こちらは、

-------
今西:先生は,所感派の地下活動とか武装闘争には,最初から反対だったんですか。
力石:反対です。
今西:東大の人はそんなに武装闘争に行ったんですか。
力石:全然行かない。
今西:早稲田のひとは,小河内闘争とかね,非常に山村工作隊に行っていますよね。東大はあんまり出ていない。
力石:全然行かない。大衆闘争でいいんだ,と。
今西:農学部の菊池昌典さんとか,武装闘争を経験したことがあると聞いたことがあるんですけれど。
力石:僕らよりちょっと若いでしょ。
今西:でも,所感派もいたでしょう。
力石:所感派は行っていたですよね。
今西:網野善彦さんなんかは,そうですよね。
力石:網野善彦はそうですね。
今西:やはり山村工作隊へ。
力石:そうですね。
今西:先生方は所感派グループに対して。批判的だったわけですね。
-------

といった具合で、「山村工作隊」の関係で名前が出ているだけですね。(p29)
力石の回想は渡辺恒雄や氏家齊一郎を東大細胞から追い出した時期の話の方が面白いですね。(p23以下)

力石定一(1926-2016)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%9B%E7%9F%B3%E5%AE%9A%E4%B8%80
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網野善彦を探して(その8)─『一・九会文集』

2019-01-19 | 「五〇年問題」と網野善彦・犬丸義一
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 1月19日(土)21時33分45秒

1951年2月に起きた「戸塚・高沢・不破査問・リンチ事件」の続きです。(p255以下)

-------
 細胞会議が開かれ、報告があった。私は、松川事件があったので、「物的証拠があるのか」と質問した。これに、スパイの会合に出席し、スパイの証言があるという答えがあった。当時、『ソ連邦共産党小史』のスターリンのトロツキーらのスパイ説を信じていたので、この答えで軽信してしまい、賛成発言をした。安東仁兵衛『戦後日本共産党私記』(文春文庫)は、私が賛成発言をしたことは、私の「お人好しとおっちょこちょい」の性格に帰しているが、スターリン主義的思想のなせるわざであった。また名誉回復の細胞総会で私が発言したように思うが、「確かでない」としているが、私は発言し、先の発言の自己批判を行なったのは確かである。これは、ショックであった。スパイの証言を軽信したこと、史料批判の重要性を教えられた。ソ連のスターリン・トロツキー・ブハーリン=スパイ説への疑問も芽生えはじめる痛切な体験になる。とにかく反レッド・パージ闘争は誇れるが、この事件は何とも重い出来事で一・九会でも、総括では「最大の痛恨事」とされるのである(第五集の佐藤経明氏の総括試論参照、一九会は当時の第二次東大学生細胞の同窓会。不破氏から「レーニン遺書」の存在を教えられる)。
 この退潮期は四月からの都知事選の応援で検挙された十六人の軍事裁判反対闘争で再高揚するが、これは、有名な事件で学生運動史に譲ろう。
 二月には、「主流派」は第四回全国協議会を開き、武装闘争路線と「分派撲滅方針」をとり、「反主流派」は全国統一会議を再組織し、東大もこの指導下にはいる。私はC班のキャップで、財政係りということで指導部に入った。
-------

細かいことですが、『ソ連邦共産党小史』という本は国会図書館サイトで検索しても出て来なくて、『ソ連共産党小史』(プログレス出版所)という本はあるものの、これは発行が1970年です。
類似の名前の本としては、

全連邦共産党中央委員会附属委員会編・田岡信太郎訳『全連邦共産党小史』(大雅堂、1946)
野坂参三、マルクス・レーニン主義研究所訳『ソ同盟共産党史 : 原名・ソヴェート同盟共産党(ボルシェヴィキ)歴史・小教程』(日本共産党出版部、1946)

があって、後者ですかね。
また、「ソ連のスターリン・トロツキー・ブハーリン=スパイ説への疑問」という三名併記の書き方だとスターリンもスパイだったという説があるように読めますが、これはスターリンが主張したトロツキースパイ説とブハーリンスパイ説という意味なんでしょうね。
更に「不破氏から「レーニン遺書」の存在を教えられる」とありますが、これは何時の話なのか、何故ここに置かれているのか全く不明で、極めて雑な書き方です。
ま、それはともかく、「五〇年問題」や「戸塚・高沢・不破査問・リンチ事件」・「十六人の軍事裁判反対闘争」は概要を説明するだけでも大変なので、適当な参考資料がないかなと思って探してみたら、今西一氏の「占領下東大の学生運動と「わだつみ会」(II) : 岡田裕之氏に聞く」(小樽商科大学『商学討究』60巻4号、2010)が良さそうですね。
これは小樽商科大学図書館の「小樽商科大学学術成果コレクション:Barrel」で読むことができます。
ここに網野善彦への若干の言及があるので(p13)、後でその部分を紹介し、検討します。

https://barrel.repo.nii.ac.jp/

また、『大原社会問題研究所雑誌』651号(2013)に岡田裕之氏の「イールズ闘争とレッド・パージ反対闘争 : 1950年前後の学生運動,回顧と分析」という論文があり、これは「法政大学学術機関リポジトリ」で読むことができます。
そしてその脚注(p31)に、

-------
(21)東大国際派学生運動参加者有志は1973年1月9日,高沢寅男氏(50年当時都学連委員長,退学処分・復学卒業)の代議士初当選を祝賀して再会した。処分責任者の南原繁(当時総長),有沢広巳(当時学生委員長)両氏もこれに参加した。爾後35年,2009年までこの同窓会は続いたが,52年当時の同志友人の査問事件の悔恨と反省が会合の大きな主題であった。戸塚秀夫「倉塚平氏の思い出」,http//www.chikyuza.net./[study520:120628]
6冊の『一・九会文集』はその記録でもある。

https://oisr-org.ws.hosei.ac.jp/images/oz/contents/651-03.pdf

とあります。
戸塚秀夫氏の「倉塚平氏の思い出」はアドレスが少し変わったようで、今はこちらで読めますね。

「倉塚平先生を偲ぶ1 倉塚平氏の思い出――明治大學政経学部での出会いなど」
http://chikyuza.net/archives/24033

私は『一・九会文集』全六巻は未読ですが、「一・九会」の名前の由来を知りたいとずっと思っていたところ、高沢寅男の当選祝賀パーティーの開催日に由来すると知って、ちょっとがっかりしました。
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