投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 1月31日(木)10時53分22秒
続きです。(p19以下)
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その前兆
突如、足もとの大地が崩れおち、真っ暗な奈落の底に堕ちたような挫折感に包まれた。一九三三年(昭和8年)、血を流して守った党・共青(共産青年同盟)中央の三船留吉と今井藤一郎が、実はスパイだった事実を知った時の衝撃感に似ている。
だが、今度は寝耳に水ではなかった。こうした窮地に堕ちるかもしれないという不安な予感は、一九五一年(昭和26年)一〇月、密かに日本を出て中国に向った時からすでに心の片隅にあった。その直前に開かれた党第五回全国協議会指導部会議(五全協)の席上、国内の主要責任者・志田重男は「今こうして同席していても、やがて敵味方になるかも知れないぜ」と言った。まるで私を敵扱いにしたのだ。いくつもの前兆が、次々に現われたからだ。
一九五一年秋に私が中国へ密航したのは、徳田よりも一年三ヵ月ほどあと、野坂より約一年後であった。北京の党機関に入ると即座に、情況が異常に複雑なのに気づいた。中共の至れり尽せりの手厚い配慮で、実に恵まれた何不足ない生活で、表面上は平穏である。しかし、徳田と野坂・西沢の間には、深い溝が横たわっていた。徳田書記長は野坂に対し、依然強い批判と不信を抱いている。けれども表面上はつとめて平静な態度を保っていた。党の統一のために彼をかかえてゆくという徳田の心中は誰の目にも明らかだった。岡田文吉、聴濤克己、土橋一吉は、徳田を全面的に支持した。岡田は私と入れ替りに帰国したが、乗船した上海から別れの手紙を送ってきた。それは書記長宛の熱烈な私信であった。
高倉は西沢と同室、野坂の隣室という関係もあり、同じ文学者ということもあって彼らに傾きがちだった。といっても徳田の指導には忠実に従った。
ただ徳田は西沢に対しては、一同の前で毎日のように叱責し、批判した。時には西沢が中山服のホックやボタンをかけず、だらしないとまで叱った。これは私にとってもおどろきであった。西沢は徳田の女婿で、戦後ずっと徳田家に同居していた。それもあって徳田とは最も親密な関係にあり、宮本顕治・蔵原惟人集団は、政治局の決定まで西沢が家でひっくり返すと非難していた。そんな二人の関係が壊れ、鋭い亀裂を生じた原因は、北京到着後、すぐに徳田から聞かされた。徳田は西沢との絶縁を言明していた。
「おれは長年獄中にいて世間にうといから、西沢にやわらかくほぐすよう助言させてきた。しかし、それはブルジョワ思想でおれを毒する危険な協力だった。彼のため、もう一歩で一生を誤るところだった。彼と野坂君は同じ思想だ。彼を日本に帰してしまおう」
私は同室だった聴濤と協力して野坂・西沢への批判を開始し、書記長支持を強めた。徳田の話ののちに聴濤がそれまでのいきさつを詳しく話してくれた。私はすでに相当激しい党内闘争の諸事件が起っていたことを知った。
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「西沢は徳田の女婿」とありますが、西沢の妻となった女性は徳田の実子ではなく、妻の連れ子だったようですね。
西沢が主要登場人物の一人である司馬遼太郎の小説『ひとびとの跫音』にそんなことが書いてあったのを見ただけで、詳しい事情は知りませんが。
ま、それはともかく、ここも共産党史に詳しい人以外にはチンプンカンプンな記述でしょうから、『伊藤律回想録─北京幽閉二七年』の注記も引用しておきます。(p66)
◆三船留吉と今井藤一郎 通称リューちゃんこと三船留吉は三三年日共組織部長兼東京市委員長。山さんこと今井藤一郎は共産青年同盟中央組織部長で、二人共前年一〇月熱海で開かれた日共全国代表者会議を毛利特高課長に通報したスパイM(飯塚盈延)のあと釜のスパイであり、今井の妹が三船のハウスキーパーだった。この二人は伊藤の入党推せん者でもあった。「赤旗」三三・六・二一付。『宮本顕治公判速記録』『スパイM』『偽りの烙印』
◆「一九五一年(昭和26年)一〇月、密かに日本を出て中国に向った時」 伊藤はこの部分以外の個所では日本出国の時期を五一年九月末としてきたが、彼は五全協(五一年一〇月一五日)に出席している。出入国管理令が五一年一一月一日施行のため抵触する虞れがあった。帰国時の事情聴取の際も問題になっている。
◆志田重男(一九一一~一九七一) 三一年日共に入党、戦前逮捕、投獄をくり返し、予防拘禁所に収監される。戦後、第四回大会で中央委員候補となり、徳田球一書記長が日本を脱出するさい、椎野悦朗、伊藤律とともに国内の最高指導者となる。
◆「宮本顕治・蔵原惟人集団」 この二人はともに戦前のプロレタリア文化運動に大きな影響を与えた著名な人物であり、戦後日共の中央委員であったが、ここでは日共五〇年分裂当時の国際派の主要な人物を概括して、このような表現を用いている。
続きです。(p19以下)
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その前兆
突如、足もとの大地が崩れおち、真っ暗な奈落の底に堕ちたような挫折感に包まれた。一九三三年(昭和8年)、血を流して守った党・共青(共産青年同盟)中央の三船留吉と今井藤一郎が、実はスパイだった事実を知った時の衝撃感に似ている。
だが、今度は寝耳に水ではなかった。こうした窮地に堕ちるかもしれないという不安な予感は、一九五一年(昭和26年)一〇月、密かに日本を出て中国に向った時からすでに心の片隅にあった。その直前に開かれた党第五回全国協議会指導部会議(五全協)の席上、国内の主要責任者・志田重男は「今こうして同席していても、やがて敵味方になるかも知れないぜ」と言った。まるで私を敵扱いにしたのだ。いくつもの前兆が、次々に現われたからだ。
一九五一年秋に私が中国へ密航したのは、徳田よりも一年三ヵ月ほどあと、野坂より約一年後であった。北京の党機関に入ると即座に、情況が異常に複雑なのに気づいた。中共の至れり尽せりの手厚い配慮で、実に恵まれた何不足ない生活で、表面上は平穏である。しかし、徳田と野坂・西沢の間には、深い溝が横たわっていた。徳田書記長は野坂に対し、依然強い批判と不信を抱いている。けれども表面上はつとめて平静な態度を保っていた。党の統一のために彼をかかえてゆくという徳田の心中は誰の目にも明らかだった。岡田文吉、聴濤克己、土橋一吉は、徳田を全面的に支持した。岡田は私と入れ替りに帰国したが、乗船した上海から別れの手紙を送ってきた。それは書記長宛の熱烈な私信であった。
高倉は西沢と同室、野坂の隣室という関係もあり、同じ文学者ということもあって彼らに傾きがちだった。といっても徳田の指導には忠実に従った。
ただ徳田は西沢に対しては、一同の前で毎日のように叱責し、批判した。時には西沢が中山服のホックやボタンをかけず、だらしないとまで叱った。これは私にとってもおどろきであった。西沢は徳田の女婿で、戦後ずっと徳田家に同居していた。それもあって徳田とは最も親密な関係にあり、宮本顕治・蔵原惟人集団は、政治局の決定まで西沢が家でひっくり返すと非難していた。そんな二人の関係が壊れ、鋭い亀裂を生じた原因は、北京到着後、すぐに徳田から聞かされた。徳田は西沢との絶縁を言明していた。
「おれは長年獄中にいて世間にうといから、西沢にやわらかくほぐすよう助言させてきた。しかし、それはブルジョワ思想でおれを毒する危険な協力だった。彼のため、もう一歩で一生を誤るところだった。彼と野坂君は同じ思想だ。彼を日本に帰してしまおう」
私は同室だった聴濤と協力して野坂・西沢への批判を開始し、書記長支持を強めた。徳田の話ののちに聴濤がそれまでのいきさつを詳しく話してくれた。私はすでに相当激しい党内闘争の諸事件が起っていたことを知った。
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「西沢は徳田の女婿」とありますが、西沢の妻となった女性は徳田の実子ではなく、妻の連れ子だったようですね。
西沢が主要登場人物の一人である司馬遼太郎の小説『ひとびとの跫音』にそんなことが書いてあったのを見ただけで、詳しい事情は知りませんが。
ま、それはともかく、ここも共産党史に詳しい人以外にはチンプンカンプンな記述でしょうから、『伊藤律回想録─北京幽閉二七年』の注記も引用しておきます。(p66)
◆三船留吉と今井藤一郎 通称リューちゃんこと三船留吉は三三年日共組織部長兼東京市委員長。山さんこと今井藤一郎は共産青年同盟中央組織部長で、二人共前年一〇月熱海で開かれた日共全国代表者会議を毛利特高課長に通報したスパイM(飯塚盈延)のあと釜のスパイであり、今井の妹が三船のハウスキーパーだった。この二人は伊藤の入党推せん者でもあった。「赤旗」三三・六・二一付。『宮本顕治公判速記録』『スパイM』『偽りの烙印』
◆「一九五一年(昭和26年)一〇月、密かに日本を出て中国に向った時」 伊藤はこの部分以外の個所では日本出国の時期を五一年九月末としてきたが、彼は五全協(五一年一〇月一五日)に出席している。出入国管理令が五一年一一月一日施行のため抵触する虞れがあった。帰国時の事情聴取の際も問題になっている。
◆志田重男(一九一一~一九七一) 三一年日共に入党、戦前逮捕、投獄をくり返し、予防拘禁所に収監される。戦後、第四回大会で中央委員候補となり、徳田球一書記長が日本を脱出するさい、椎野悦朗、伊藤律とともに国内の最高指導者となる。
◆「宮本顕治・蔵原惟人集団」 この二人はともに戦前のプロレタリア文化運動に大きな影響を与えた著名な人物であり、戦後日共の中央委員であったが、ここでは日共五〇年分裂当時の国際派の主要な人物を概括して、このような表現を用いている。