学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

日文研シンポジウム「投企する太平記―歴史・物語・思想」

2020-11-14 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年11月14日(土)11時25分21秒

荒木浩編『古典の未来学 Projecting Classicism』(文学通信)が11月6日に出ましたが、近くの図書館が発注済みであることを知って、わざわざ買うまでもないか、と未だに購入していないセコい私です。
まあ、税込み8,800円と結構高価な本ですし、私が読みたいのは「Ⅱ 特論―プロジェクティング・プロジェクト」「第1部 「投企する太平記―歴史・物語・思想」から」の和田琢磨・谷口雄太・亀田俊和氏の三論文だけですからね。

荒木浩編『古典の未来学 Projecting Classicism』(文学通信)
https://bungaku-report.com/books/ISBN978-4-909658-39-5.html

また、三氏の論文の概要は日文研の『大衆文化研究プロジェクトニューズレター』第3号(2019)の「古代・中世班 H30年度共同研究会 ④シンポジウム「投企する太平記―歴史・物語・思想」レポート」(呉座勇一氏)で知ることができます。
これによると、

-------
 初日1本目の報告、和田琢磨(早稲田大学)の「『太平記』と武家―南北朝・室町時代を中心に―」は、近年国文学で急速に進展している『太平記』諸本論の成果と課題を総括したものである。従来の研究では、『太平記』諸本における合戦場面の叙述の揺れ(本文異同)については、諸大名が自身・先祖の戦功を『太平記』に書き入れるよう個々に要求したため、と解釈されてきた。この考えは、『太平記』を「室町幕府監修あるいは公認の歴史書、いわば南北朝の動乱に関する正史」と捉える通説と密接に結びついていた。しかし上記の説の史料的根拠は、『太平記』に先祖の武功が記されていないので書き足して欲しいと嘆く今川了俊の『難太平記』(1402)しか存在しない、と和田は指摘する。和田は『太平記』諸本の中で最も特異な伝本である天正本や現存最古の伝本である永和本の再検討を通じて、功名書き入れ要求―『太平記』正史説に疑問を呈し、『太平記』の生成過程・異本派生の過程を再考すべきと主張した。質疑では、常に本文が流動する中世軍記と、出版によってテキストが固定される近世軍記との違いについての議論などが行われた。

https://taishu-bunka2.rspace.nichibun.ac.jp/wp-content/uploads/2019/07/NewsLetterVol.3.pdf

とのことですが、前回投稿で紹介した「今川了俊のいう『太平記』の「作者」」(『日本文学』57巻3号、2008)では、和田氏は「『太平記』を「室町幕府監修あるいは公認の歴史書、いわば南北朝の動乱に関する正史」と捉える通説」に賛成していたはずです。
現在の和田氏は、この通説を根本的に批判する立場に転じたのか、それとも「功名書き入れ要求」と「『太平記』正史説」を結び付けることに反対するだけで、「『太平記』正史説」自体は維持されているのか。
ま、これは『古典の未来学』を読んで確認したいと思います。
また、

-------
 2本目の報告、谷口雄太(立教大学兼任講師)の「「太平記史観」をとらえる」は、『太平記』が提供した歴史認識の枠組みが現代に至るまで南北朝史研究を規定してきたことを論じた。谷口がこれまで進めてきた足利氏研究を題材に、足利尊氏と新田義貞が武家の棟梁の座をめぐって争ったという『太平記』の構図が、新田氏を足利氏と並ぶ源氏嫡流と捉える歴史認識を生み出し、新田氏は足利一門であるという歴史的事実の発見を妨げてきたと説く。その上で、『太平記』の史料としての活用法を自覚的に追究せず、結果的に『太平記』の歴史観に絡め取られてきた中世史学界の問題を鋭く批判した。質疑では、仏教思想・無常観というひとつの思想・構想で貫かれた『平家物語』と異なり『太平記』には一貫した歴史観が見出せないにもかかわらず、「太平記史観」という概念を設定することは適切かとの意見が提出され、白熱した討論が行われた。
-------

とのことですが、これは『中世足利氏の血統と権威』(吉川弘文館、2019)に含まれていたか、その延長線上の議論ですね。

http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b475200.html

そして、亀田氏の発表については、

-------
 シンポジウム2日目には亀田俊和(台湾大学)が「『太平記』に見る中国故事の引用」という報告を行った。『太平記』の特色として、中国故事の大量の引用が挙げられる。国文学では古くから注目され、研究が積み重ねられてきた。しかし、出典はどの作品かという点に関心が集中し、引用の意図などの考察は少ないと亀田は批判する。亀田報告は『太平記』において本筋の話を遮ってまで延々と中国故事を紹介する長文記事を「大規模引用」と名付け、その分布傾向や引用方針の変化を分析した。そして大規模引用、特に政道批判型の大規模引用が巻を追うごとに増加する傾向があると指摘した。さらに大規模引用が観応の擾乱を叙述する巻でピークに達して、日本の南北朝史との対応関係も複雑でひねったものになることに着目し、一見無関係に見える故事を引用するという“道草”によって読者の興味関心を引くという逆説的な演出があったのではないかと論じた。質疑では、中世の日本人がどのようにして漢籍を学んだかという問題も視野に入れる必要があり、幼学書の研究も参照すべきではないかとの意見が提出された。他にも、混沌とした『太平記』の叙述に対して予定調和を排したものとして積極的・肯定的な評価を与えることはできないかなど、興味深い意見が寄せられた。
-------

とのことですが、「一見無関係に見える故事を引用するという“道草”によって読者の興味関心を引くという逆説的な演出」との指摘は興味深いですね。
ただ、「読者」はそれでよいとしても、『太平記』が語られるのを聞いた聴衆にとってはどうだったのか。
「大規模引用」を聞いて理解できる人は当時としてもごく少数だったはずで、『太平記』を語る場合、演者は「大規模引用」など殆ど省略してしまったのではないか、という感じもします。
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和田琢磨氏「今川了俊のいう『太平記』の「作者」:『難太平記』の構成・思想の検討を通して」

2020-11-13 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年11月13日(金)13時12分43秒

今川了俊の晩年の著作活動の活発さは驚異的で、川添著でも230頁から269頁まで延々と解説が続きますが、『難太平記』に関する記述は前三回の投稿で紹介した六頁分ほどです。
川添氏の古典的研究は今でも新鮮ですが、『難太平記』に関する最近の研究状況を概観するには和田琢磨氏(早稲田大学教授)の「今川了俊のいう『太平記』の「作者」:『難太平記』の構成・思想の検討を通して」(『日本文学』57巻3号、2008)という論文が便利ですね。
この論文はリンク先からPDFで読めますが、全体の構成は、

-------
一、はじめに
二、難太平記の構成
三、了俊の思想
四、恵鎮と玄恵─了俊の認識─
五、「作者は宮方深重の者」の解釈
六、むすび

https://www.jstage.jst.go.jp/article/nihonbungaku/57/3/57_KJ00009521771/_article/-char/ja/

となっています。
第一節には、

-------
 『難太平記』の研究は、右の記事(以下、「六波羅合戦記事」と称する)を中心に進められてきた。 それは、六波羅合戦記事が『太平記』の作者(作者圏の中心人物を示す場合がある。以下同)・成立に関する貴重な情報を具体的に伝える唯一の資料であるため、『太平記』研究の基礎資料とされてきたからである。
-------

とありますが(p52)、「唯一の資料であるため」に付された注(2)を見ると、近世の『太平記秘伝理尽鈔』には『太平記』の作者・成立に関する記述があるものの、それは『難太平記』の影響を受けている可能性があることが指摘されています。
また、第二節の冒頭に、

-------
 研究史を整理していくと、『難太平記』全体を見渡した論が少ないことに気づかされる。 管見に入った限りでは、寺田弘氏の論を筆頭に、武田昌憲氏・市沢哲氏が作品全体に目を向け検討しているが、それでもまだ応永の乱に関する記事を持つ後半部については、考察の余地が残されているようである。そこで本節では、『難太平記』を政道批判の書として読むべきだという桜井英治氏の提言を踏まえた上で、『難太平記』全体の中での六波羅合戦記事の位置を明らかにすることを目指したい。
-------

とありますが(p53)、「『難太平記』全体を見渡した論が少ないこと」は、確かに『難太平記』の俄か勉強を始めたばかりの私も気になっている点です。
なお、「『難太平記』を政道批判の書として読むべきだという桜井英治氏の提言」は、注(8)をみると『室町人の精神』(講談社、2001)に出ていて、全般的に和田氏は桜井氏の影響を強く受けておられるようです。
ついで、『太平記』の基本的性格については、

-------
『太平記』を足利政権の管理下で成立した公的な史書と認識する了俊が、その『太平記』について言及する最初において、『太平記』の間違いの具体例として六波羅合戦の記事を引いている点に注意したい。足利将軍家にとって最も重要な事件についてさえも間違えがあるとすることによって、以下に指摘・批判する『太平記』に関する自説の信憑性を増そうとする意図が感じられるからである。
-------

とあり(p54)、「公的な史書と認識する了俊が」に付された注(11)を見ると、

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(11) 加美宏氏「『難太平記』─『太平記』の批判と「読み」」(『太平記享受史論考』桜楓社、一九八五年。初出一九八四年)参照。
-------

とのことで、和田氏も『太平記』が室町幕府の公的な史書であるとの立場ですね。
この点は、「公的史書である『太平記』には間違いがあるという了俊の主張」(p55)、「『難太平記』所載の「作者」情報を簡潔にまとめると、①了俊は、「近代」書き継ぎ後も作者圏は足利将軍家周辺にあり将軍家が管理していると考えていた」(p57)、そして「「かの」「だに」という言葉からは、以下に語られる今川家の忠節を保証する、足利将軍家の公的史書と信じる『太平記』の作者を重んじる了俊の姿勢が感じ取れる」(p59)という具合いに何度か繰り返されます。
細かいことを言うと、和田氏は『太平記』が公的な史書だと了俊が「主張」しているだけ、即ち客観的に『太平記』が公的な史書であるか否かとは別問題、とされているようにも読めない訳ではありませんが、まあ、客観的にも公的な史書なのだ、と考えるのが和田説なんでしょうね。
さて、私がしつこく検討してきた「降参」については、

-------
 ここで論旨を明確にするために、以上述べてきたことを再度まとめ直しておこう。 A~Cには、足利将軍家の絶対性と、将軍家と今川家の関係を中心とした系譜が語られている。そして、Dで、足利家が天下を取ることが運命づけられた存在であることが再確認され、六波羅合戦も神仏に保証されていた事件であることが述べられている。それを受け、Eでは、それにもかかわらず『太平記』は六波羅合戦で尊氏が「降参」したと間違っていることを批判して、公的史書である『太平記』には間違いがあるという了俊の主張は、客観的事実であることを印象付けようとしている。
-------

とあり(p55)、「降参」に付された注(15)を見ると、

-------
(15)この記事は現存『太平記』にはない。了俊が読んだ本にこの記事があったのか、了俊が読み違えたのか、不明である。
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とのことなので、「降参」については和田氏には特別の意見はないようですね。
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今川了俊にとって望ましかった『太平記』(その3)

2020-11-12 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年11月12日(木)11時41分32秒

『難太平記』は著者が子孫以外の披見を禁じ、本来は外部への流出が予定されていなかった秘密の書ですが、兵藤裕己氏はそうした特性を持つ『難太平記』の表現を素直に受けとめて独自の前提を形成し、その前提をゴリゴリと演繹的に『太平記』の世界に押し込んで行きます。
これに対し、川添昭二氏は『太平記』の内容を帰納的に、例えばそれが「宮方深重」の内容であるかを第一部・第二部・第三部ごとに分析し、第一部はともかく全体的にはとても「宮方深重」とは言えないな、という結論を出して、そこから『難太平記』の「宮方深重」という語句が、文字通りには受け取れない特異な表現である可能性を探って行きます。
川添氏の方法であれば、後続の研究者は、例えば第二部・第三部にも「宮方深重」を思わせる表現が多々あるではないか、といった形で川添氏の分析が正しいか否かを検証することができます。
兵藤氏の方法は一見極めて論理的で、歴史研究者の発想になじみやすいのかもしれませんが、出発点の『難太平記』は扱いが極めて難しい史料であり、『太平記』の叙述の帰納的分析を通じて『難太平記』の曖昧な語句を慎重に解釈すべきではなかろうか、と私は考えます。

兵藤裕己・呉座勇一氏「歴史と物語の交点─『太平記』の射程」(その12)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d9fcca15b7d2136c654f634d3edd676e

さて、川添著の続きです。(p235以下)

-------
 次に、法勝寺(京都市)の恵鎮上人が三十余巻の『太平記』を足利直義のもとに持参し、直義はこれを玄慧法印に読ませた、という了俊の記述は、『太平記』の作者と成立とに関して重要な事実を提供する。現存四十巻本の巻二十七「左兵衛督欲被誅師直事 付師直打囲将軍屋形事 并上杉畠山死罪事」に直義の死を記しているから、恵鎮持参の『太平記』は現存本とは違ったものであったか、あるいは桜井好朗氏が言われるように、「三十余巻」というのが了俊の思い違いか誤写である、ということになる。ともあれ、この記事から、玄慧を監修者として小島法師をはじめ多くの作者が草案を持ち寄り、足利直義の監督下に討議を重ねた、という意味を読みとることは許されよう(岩波、日本古典文学大系三四『太平記』一解説一一ページ)。
-------

「恵鎮持参の『太平記』は現存本とは違ったものであったか」は変な表現で、違っているに決まっていますね。
直義が自分の死を記した『太平記』を読めるはずはありません。
また、恵鎮持参の『太平記』は現在の『太平記』より巻数が多く、実際に「三十余巻」あったのだ、という可能性も論理的には考えられますが、まあ、これは「了俊の思い違いか誤写」であり、おそらく「二十余巻」だったのでしょうね。
先に『アナホリッシュ国文学』の兵藤・呉座対談を検討した際には引用しませんでしたが、同対談の小見出しの九番目、「『太平記』成立の三段階」で、兵藤氏が「「三十余巻」は、たぶん「二十余巻」の誤写と思われます。「二」と「三」の書き間違いは写本ではよくありますが、歴史をやっている方も、そのへんはよくご存じかと思います」と発言し(p27)、呉座氏も「はい」と肯定しています。
さて、川添氏は岩波古典文学大系『太平記』の後藤丹治・釜田喜三郎氏による「解説」を参照した上で「ともあれ、この記事から、玄慧を監修者として小島法師をはじめ多くの作者が草案を持ち寄り、足利直義の監督下に討議を重ねた、という意味を読みとることは許されよう」と言われますが、この点は疑問です。
少なくとも『難太平記』には、

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昔等持寺にて。法勝寺の恵珍上人。此記を先三十余巻持参し給ひて。錦小路殿の御目にかけられしを。玄恵法印によませられしに。おほく悪とも誤も有しかば。仰に云。是は且見及ぶ中にも以の外ちがひめ多し。追て書入。又切出すべき事等有。其程不可有外聞有之由仰有し。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2bdfb8e70f1853746d3cf35e2a023377

とあるだけなので、同書から分かるのは恵鎮が「原太平記」を持参し、玄慧は直義に命じられて検閲を試みたという事実だけですね。
『洞院公定日記』に出てくる小島法師は『難太平記』とは関係はなく、「玄慧を監修者として小島法師をはじめ多くの作者が草案を持ち寄り、足利直義の監督下に討議を重ねた」には相当量の想像がミックスされています。
ま、この点は後で改めて検討することとし、川添著に戻ります。(p236)

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 更に了俊は、右の記事に続き『太平記』の増補過程について「後に中絶也、近代重て書続けり」とのべている。了俊の『難太平記』にいう「細川相模守御不審の時云々」の事件は、現存本三十六「清氏反逆 付相模守子息元服事」に拠っているから、右の書続本は、およそ応安四-五年の間に成立したといわれる現存本四十巻本を指すものであろう。即ち、了俊の見たこの『太平記』は、直義披見本を増補したものであった。
-------

「細川相模守御不審の時云々」とは康安元年(1361)九月、佐々木導誉と対立した執事の細川清氏が、導誉の陰謀に乗せられた足利義詮の軽率な判断により失脚を余儀なくされ、若狭に逃亡後、南朝方に転じてしまった、という大事件です。
『難太平記』によれば、この時、今川了俊の父・範国は、細川清氏と親しい了俊を清氏のもとに送って差し違えさせる、という物騒な提案を義詮にしたのだそうですね。
結果的に息子を犠牲にするこの提案は実現することはなかったものの、了俊自身もこれが結構な名案であり、こんな良い提案がされたことを何で『太平記』は書かないのだろう、などと淡々と記しています。
ま、この記述があるので、了俊が現在の巻三十六とほぼ同一内容の『太平記』を見ていたことは確実ですが、「了俊の見たこの『太平記』は、直義披見本を増補したものであった」かどうかは議論の余地があります。
この点は改めて論じます。

現代語訳『難太平記』(『芝蘭堂』サイト内)
細川清氏のこと・その1、その2
http://muromachi.movie.coocan.jp/nantaiheiki/nantaiheiki16.html
http://muromachi.movie.coocan.jp/nantaiheiki/nantaiheiki17.html
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今川了俊にとって望ましかった『太平記』(その2)

2020-11-11 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年11月11日(水)09時53分28秒

繰り返しになりますが、『難太平記』は国会図書館デジタルコレクションで読めます。
リンク先ページの「コマ番号」に「351」を入れると『難太平記』の最初のページが出てきます。

『群書類従. 第拾四輯』
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879783

また、現代語訳は『芝蘭堂』サイトが大変分かりやすく、参考になります。

http://muromachi.movie.coocan.jp/nantaiheiki/index.html
http://muromachi.movie.coocan.jp/nantaiheiki/nantaiheiki07.html

さて、川添昭二氏『今川了俊』の続きです。(p232以下)

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 応永の乱後、上京してからの了俊の事蹟は、歌道と仏道とそして子孫への教訓に明けくれるが、それは一連の述作活動を通してしか知ることができない。以下、諸著の解題をつなぎ通すことによって晩年の事蹟にふれて行こう。
 応永九年(一四〇二)二月、了俊は『難太平記』をあらわした。『群書類従』第十三輯には瀬名貞如本を収めるが、『新校群書類従』第十七巻は瀬名本を書陵部本で校合したものである(全二十三条)。この書は、後人加筆の了俊の年齢記載「于時〔ときに〕七十八歳」の箇所を除き、了俊の著作として疑う余地はない。著作の目的は「をのれが親祖はいかなりし者、いかばかりにて世に有けるぞとしるべきなり」という立場から、父範国から聞いた今川家に関する所伝をのべ、特に応永の乱に際しての了俊自身の立場がいかなるものであったかを子孫に書き残そうとしたもので、子孫以外の他見を戒めているのもそのためである。総じて真実の今川家の歴史を子孫に伝えようとする意欲が行間に溢れている。
-------

著作の目的は一番最初に出てきますね。
この段での山名時氏の教訓はなかなか深く重いものがあります。

http://muromachi.movie.coocan.jp/nantaiheiki/nantaiheiki01.html

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 このため、父・兄および一族の武功・忠節が『太平記』に書いてなかったり、記してあっても極めて不十分であることを「無念」とし、正確かつ十分に記入すべきであると再三強調している。足利将軍に対する父・兄および一族の忠誠が広く世間に確認されることは、単にその面目=名誉にかかわるばかりでなく、一族の繁栄をも保証することになる。了俊自身「此太平記事、あやまりも空ごともおほきにや」「此記は十が八九はつくり事にや」と『太平記』の性格がフィクションを基調とする文学作品であることを認めながら、しかもなおかつ今川一門の功績事実の記述を、この異質の場所にもちこもうと深く執着しているのは、一にかかってここに原因がある。この種の、記録としての正確さを期待する精神が数多く『太平記』に集中し、同書を武功羅列の軍忠状の世界に引きこもうとする傾向が強いことは、『太平記』評価の際忘れてはならない精神風土の問題である。
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「無念」、「此太平記事、あやまりも空ごともおほきにや」、「此記は十が八九はつくり事にや」という箇所は原文を紹介済みです。

『難太平記』の足利尊氏「降参」考(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2bdfb8e70f1853746d3cf35e2a023377

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 同書はこのように、一門の武功顕彰の立場から、たまたま『太平記』に筆を及ぼしたのであるが、後人命名の書名とも相まって、あたかも『太平記』批判を主目的とする書物であるかのように喧伝されている。しかし、了俊の同書述作の主目的がそこになかったにせよ、その言及箇所は、現在に至るまで『太平記』研究の基本的な問題である作者論・成立論に種々の問題を投げかけている。『難太平記』についてはいままで随所でふれてきたので、ここではその問題だけにふれておこう。
 先ず、了俊が本書で『太平記』に関し、「此記の作者ハ、宮方深重〔しんちょう〕の者にて」(因みに、『禰寝文書』『入来院家文書』『斑島文書』等の了俊書状に「御方深重の人々」という用語がみえる)と書いたことが、『太平記』の作者を、宮方=南朝の立場に立つ者、という半ば定説化した作者論を形作らせた。だがかりに、現存四十巻本『太平記』の構成を、一部(巻一-巻十二)・二部(巻十三-巻二十一)・三部(巻二十二欠巻、巻二十三-巻四十)に分けると、事実上一部の辺は「宮方深重」の者の手になるとみてもよいが、二部ではその傾向が薄らぎ、殊に第三部になるとその気配はない。近来、了俊のこの記述の箇所を、『太平記』が「宮方深重の者」が書いたかと思われるくらいに「無案内」であり、「尾籠のいたり」であると責めているだけである、と解する人もある(桜井好朗「太平記の社会的基盤」『日本歴史』七五号、同「太平記論」『文学』二五巻六号、同「難太平記論」『日本歴史』一三二号)。
-------

川添著は昭和三十九年(1964)に刊行されていますが、当時は『太平記』の作者を「宮方=南朝の立場に立つ者」とする学説が「半ば定説化」していて、それに桜井好朗氏あたりが異論を唱えていた訳ですね。
現在では『太平記』の作者が「宮方=南朝の立場に立つ者」どころか、『太平記』そのものが室町幕府の「正史」だと説く兵藤裕己説が多くの歴史研究者に支持されていて、文字通り隔世の感があります。
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今川了俊にとって望ましかった『太平記』(その1)

2020-11-09 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年11月 9日(月)09時36分48秒

ここで視点を変えて、今川了俊にとってどのような『太平記』が望ましかったのかを、『難太平記』などを素材に探って行きたいと思います。
そもそも今川了俊とは何者かが一番最初に問題になりますが、これは私には大きすぎる課題なので、川添昭二氏の『今川了俊』(吉川弘文館人物叢書、1964)などを参照していただきたいと思います。
同書の構成は、

-------
はしがき
第一 今川氏一門
第二 その父─今川範国
第三 九州探題となるまで
第四 九州探題として
第五 九州探題解任以後─晩年─
-------

となっていますが、その内容を「はしがき」から少し引用すると、

-------
 今川了俊(俗名「貞世」)は、南北朝時代の後半二十五年間を、北朝方の九州探題として、九州の南朝勢力を制圧し、室町幕府の基礎を築いた足利一門の武将である。応永二年(一三九五)讒にあって帰東し、没するまでの約二十年間の隠遁生活を、主として歌論書の述作に捧げ、冷泉歌風の宣揚と連歌指導につとめた歌人でもあった。
 性格は慎重で、いわゆる遠謀深慮であり、軍略用兵に秀で、教養は多方面にわたり、雄勁な書を書いた。まさに当代第一級の人物である。その指導的性格と相まち、啓蒙的エンサイクロペディストとして多角的な活動をし、多くの業績を残した。彼が九州に下ってきたことは、文化施設の移動ともいうべき観があり、南北朝時代の政治・軍事の問題だけではなく、中世の中央文化と地方文化の関係についても種々の興味ある問題を提供している。中世動乱の時代がえらんだこの人物の、誠実で多様な活動の全貌を、総合的・統一的に叙述したいというのが、本書のねらいである。
-------

といった具合です。
軍人にして「啓蒙的エンサイクロペディスト」という存在は日本史では本当に稀有ですが、著者の川添氏は歴史学だけでなく文学にも本当に詳しくて、ご自身が「啓蒙的エンサイクロペディスト」の趣がありますね。
昭二というお名前は、たぶん昭和二年生まれだからなのでしょうが、『今川了俊』は執筆時に著者がまだ三十代だったとは思えない円熟した筆致で描かれています。

川添昭二(1927~2018)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E6%B7%BB%E6%98%AD%E4%BA%8C

さて、『難太平記』はなかなか扱いが難しい史料であり、その解釈に当たっては成立事情を慎重に考慮する必要がありそうなので、川添著から参考になりそうな部分を丁寧に紹介したいと思います。
「第五 九州探題解任以後─晩年─」の第三節「述作活動」から引用します。(p230以下)

-------
 冷泉為尹〔ためまさ〕が、参議に在任中、すでに出家していた父の為邦〔ためくに〕や了俊とともに、東山に花を見に行き、慶運の子慶孝が黒谷にいたのを訪ねて、ともに歌を詠んだというのは(『正徹物語』)、了俊が『難太平記』を書き終わったころであろう。長い年月を経て、武将・歌人了俊の、武将の外皮は破れ去ったが、歌人了俊の真実・裸形の数寄生活が始まったのである。当時の歌壇は、二条為右の死を契機として、為秀の孫為尹を中心に、冷泉家復興の気運が顕著になっていた。為尹の支持後援と、歌・連歌学びの後進に対する指導は、了俊に課せられた責務であり、了俊の徒らな老残を許さなかった。完全な政治的敗北を代償に、老いの晩年を一途で旺盛な述作活動に燃焼させることとなった。
 了俊が正徹をつれて石山寺に詣でたのも、応永の乱の宥免のあと余り遠くないころのことであったろう(『草根集』巻三)。御堂の正面の柱に「はるかなる南の海の補陀らくの石の山にも跡はたれけり」という歌を書きつけているが、ここには、応永の乱の生々しい、そして苦々しい記憶がまださめ切らぬうちに書かれた『難太平記』に見られるような「人は其身の位にしたがひて忠を致すべき事なりけり、身の程より忠功の過たるは、かならず恨の可出来かと思ふ故也」という、臍をかむような敗北感は見られない。この歌は勿論、平安末・鎌倉時代のような熱狂的な補陀落山信仰を表明したものではなく、政治的な世界を捨離した隠者の、静かな諦念と仏に近づこうとする祈りをあらわすものである。
-------

今川了俊の「完全な政治的敗北」の内容は川添著を見ていただきたいと思います。
ウィキペディアにもそれなりに詳しい説明がありますね。

今川貞世
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E5%B7%9D%E8%B2%9E%E4%B8%96
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『梅松論』に描かれた尊氏の動向(その3)

2020-11-08 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年11月 8日(日)13時01分32秒

西源院本『太平記』と『梅松論』を比較してみると、以下のような違いがあります。
まず、『太平記』では「三月七日、鎌倉を立つて、大手の大将名越尾張守高家に三日先立つて、四月十六日には、京都にこそ着き給ひにけれ」という具合いに尊氏の移動の日付が明記されていますが、『梅松論』では出発日は明記されず、入京も「四月下旬」と曖昧です。
そして、尊氏が後醍醐側と連絡を取ろうとしたのは、『太平記』では、

-------
京着の翌日より、伯耆船上へひそかに使ひを進せられて、御方に参ずるべき由を申されたりければ、君、ことに叡感あつて、諸国の官軍を相催し、朝敵を追罰すべき由、綸旨をぞ成し下されける。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1288bebe2cfd662d9be837f75a8a5bb1

ということで、「京着の翌日」即ち四月十七日ですが、これでは船上山との使者の往復に要した時間が最大で十日間となってしまい、不可能ではないにしても、あまりに余裕がありません。
この点、『梅松論』では、

-------
細川阿波守和氏。上杉伊豆守重能。兼日潜に綸旨を賜て。今御上洛の時。近江国鏡駅にをいて披露申され。既に勅命を蒙らしめ給ふ上は。時節相応天命の授所なり。早々思召立つべきよし再三諫申されける間、

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/bca455df44a9716d2cc79c7c887e95d7

とあり、何時から連絡を取ろうとしたのかははっきりしませんが、細川和氏・上杉重能が後醍醐の綸旨を尊氏に見せたのが近江の鏡宿ですから、『太平記』よりは相当前ということになりますね。
まあ、この点は『梅松論』の方が具体的で、その内容も自然ですね。
さて、『太平記』と『梅松論』の最大の違いは大手の大将・名越高家の討死についての記述ですが、『梅松論』は「久我縄手にをいて手合の合戦に大将名越尾張守高家討るる間。当手の軍勢戦に及ずして悉く都に帰る」と極めてあっさりしているのに対し、『太平記』では「赤松が一族、佐用左衛門三郎範家」の活躍が詳細に描かれます。
更に、『太平記』では名越高家が討たれた四月二十七日、尊氏は「桂川の西の端」でのんびり酒盛をしており、「数刻」を経て、名越高家討死の情報を得た後、「さらば、いざや山を越えん」と出発して大江山を越え、丹波篠村に向かったとしていますが、『梅松論』では同日に京を出発したことと篠村に到着したことを記すのみです。

『難太平記』の足利尊氏「降参」考(その4)(その5)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/415a9f71066ce2245de4749fd995e5ae
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e87381cb1d9254070905e3a1d3e5fe82

また、『太平記』では篠村に移動した尊氏は五月七日の六波羅攻撃までずっと篠村に滞在していますが、『梅松論』では、「篠村の御陣を嵯峨へうつされ。近日洛中へ攻寄らるべきよし其聞へあり」とのことで、日付は明記されていないものの、本陣を嵯峨に移していますね。
こうして両者を比較してみると、最も不自然なのは『太平記』に記された四月二十七日の尊氏の行動です。
出発の当日に朝から酒盛りを「数刻」続け、まるで名越高家の討死を予知していたかのようにその死を知っても何ら動ずることなく、そして大手の救援に向かうどころか丹波・篠村に行ってしまうなどということは史実としては考えられず、ここは明らかに『太平記』作者の創作ですね。
尊氏の軍勢催促状は四月二十七日から発せられているので、これも酒盛りや篠村への行軍中に書かれたはずがなく、こうした客観的史料も尊氏が当日、大手の動向とは無関係に迅速に篠村に移動したことを示していると思われます。

『難太平記』の足利尊氏「降参」考(その6)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e3d211b9ad0dff14e28d8486f5c62866

尊氏の反逆の意志が京を出発する前に固まっていたことは爾後の行動から客観的に明らかですが、『太平記』のように佐用範家の大活躍の後に記すと、まるで尊氏が日和見を決め込んでいて、名越高家討死により事態が急速に流動化したことを確認した後、やっと後醍醐方に転じたような印象を与えることは確かですね。
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『梅松論』に描かれた尊氏の動向(その2)

2020-11-07 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年11月 7日(土)11時46分8秒

うーむ。
『梅松論』は比較的信頼できる史料だ、みたいなことを言われても、後嵯峨院崩御の年を二十六年も間違えるなど、何だかなあ、と思わざるをえない箇所が多いのですが、まあ、「何がしの法印とかや申て多智多芸の聞え有ける老僧」に仮託されている『梅松論』の作者は、実際には武家側の人であって、公家社会については知識が乏しく、僅かな情報を聞きかじっているだけなんでしょうね。


しかし、その程度の知識・教養の持ち主に過ぎないにもかかわらず、「後嵯峨院の御遺勅」への異常なこだわりは何なのか。
おそらくこれは、両統迭立期に「後嵯峨院の御遺勅」に関するこのような説明が後醍醐天皇に近い公家から幕府関係者になされていて、それを真に受けた人の歴史認識を反映しているのではないか、と思われます。
そうした、いわば大覚寺統のイデオロギー工作の担当者としては、「当今の勅使」の「吉田大納言定房卿」あたりも有力な候補者となりそうですが、後醍醐の乳父であった吉田定房にしろ、正中の変による混乱を最小限に止めた万里小路宣房にしろ、後醍醐の周辺には本当に優秀な側近がいますね。
こうした人たちが鎌倉に行って幕府と交渉した際に、その頭脳の明晰さと識見の高さを幕府関係者に強く印象づけたことが、後醍醐に怪しい動きをあったにもかかわらず、幕府側が敢えて退位を要求しなかった理由のひとつなのかもしれません。
さて、『梅松論』そのものにあまり寄り道している訳にも行かないので、足利尊氏の討幕前後の行動に関係する部分を確認したいと思います。
以下、『群書類従』第二十輯(合戦部)から引用します。

-------
去年の春遷幸の時。天下の貴賤関東の重恩にあづかる者も君の御遠行を見奉りて。心有人の事は申すにをよばず。心なき山男賤女にいたるまでもあさの袖をぬらし。かなしまぬはなかりける。いかにも宝祚安寧ならん事をぞ人々祈念し奉る。かかりける所に。播磨のくに赤松入道円心以下畿内近国の勢残らず君に参じける事。是偏に只事にあらず。遂に還幸を待請奉て元弘三年三月十二日二手にて鳥羽竹田より洛中に攻入処に六波羅の勢馳向て合戦をいたし追返す。依之京都よりの早馬関東へ馳下る間。当将軍尊氏重て討手として御上洛。御入洛は同四月下旬なり。元弘元年にも笠置城退治の一方の大将として御発向有し也。今度は当将軍の父浄妙寺殿御逝去一両月の中也。未御仏事の御沙汰にも及ばず。御悲涙にたへかねさせたまふ折ふしに大将として都に御進発あるべきと高時禅門申間。此上は御異儀に及ばず御上洛あり。凡大将たる仁体もだしがたしといへども。関東今度の沙汰不可然。依之ふかき御恨とぞ聞えし。一方の大将は名越尾張守高家。これは承久に北陸道の大将軍式部丞朝時の後胤なり。両大将同時に上洛有て。四月廿七日同時に又都をいで給ふ。将軍は山陰丹波丹後を経て伯耆へ御発向有べきなり。高家は山陽道播磨備前を経て同伯耆へ発向せしむ。船上山を攻らるべき議定有て下向の所。久我縄手にをいて手合の合戦に大将名越尾張守高家討るる間。当手の軍勢戦に及ずして悉く都に帰る。


『太平記』との比較は次の投稿で行いますが、このように『梅松論』では名越高家は単にその討死の事実があっさりと記されるだけで、佐用範家の活躍はおろか、その名前すら登場しません。
もう少し引用を続けます。

-------
同日将軍は御領所に丹波国篠村に御陣を召る。抑将軍は関東誅罰の事。累代御心の底にさしはさまるる上。細川阿波守和氏。上杉伊豆守重能。兼日潜に綸旨を賜て。今御上洛の時。近江国鏡駅にをいて披露申され。既に勅命を蒙らしめ給ふ上は。時節相応天命の授所なり。早々思召立つべきよし再三諫申されける間。当所篠村の八幡宮の御宝前にをいて既に御旗を上らる。柳の大木の梢に御旗を立てられたりき。是は春の陽の精は東よりきざし始む。随て柳は卯の木なり。東を司て王とす。武将も又卯の方より進発せしめ給ふて。順に西にめぐりたる相生の夏の季に朝敵を亡し給ふべき謂なり。しかる程に京中に充満せし軍勢共御味方に馳参ずる事雲霞のごとし。即篠村の御陣を嵯峨へうつされ。近日洛中へ攻寄らるべきよし其聞えあり。都にては去三月十二日より十余度の合戦に打負て六波羅を城郭に構へ皇居として軍兵数万騎楯籠る。かかる所に去春より楠兵衛尉正成金剛山の城を囲し関東の大勢一戦も功をなさず利を失ふ処に。将軍已に君に頼まれ奉り給て近日洛中へ攻入給ふよし金剛山へ聞えければ。諸人おどろき騒事斜ならず。かかるに付ても関東に忠を存ずる在京人并四国西国の輩。弥思ひ切たる事の体。誠にあはれにぞおぼえし。去ほどに五月七日卯刻将軍の御勢嵯峨より内野に充満す。【後略】
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『梅松論』に描かれた尊氏の動向(その1)

2020-11-06 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年11月 6日(金)12時54分17秒

それでは『梅松論』に描かれた尊氏の動向を少し検討して行きます。
『梅松論』の概要についてはウィキペディアなどを参照していただきたいと思います。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%85%E6%9D%BE%E8%AB%96

『梅松論』の写本には古本系と流布本系があり、厳密に議論するためには古本系の京大本(京都大学文学部博物館所蔵)を用いる必要がありそうですが、当面の論点に関しては『群書類従』第二十輯(合戦部)に収められている流布本で対応可能と思います。
Akiさんの『芝蘭堂』サイト内に『梅松論』の現代語訳が載せられていて大変参考になりますが、これは流布本に基づいています。

『芝蘭堂』
http://muromachi.movie.coocan.jp/index.html
http://muromachi.movie.coocan.jp/baisyouron/index.html

さて、『梅松論』は『太平記』よりも潤色が少なく、史実をより正確に反映している史料として武家社会の研究者には評価が高いようですが、実際に読んでみると、後嵯峨院崩御の時期や遺勅の内容に甚だしい誤解があるなど、些か奇妙な点も目立ちますね。
例えば、

-------
爰に後嵯峨院。寛元年中に崩御の刻。遺勅に宣く。一の御子後深草院御即位有べし。おりゐの後は長講堂領百八十ヶ所を御領として御子孫永く在位の望をやめらるべし。次に二の御子亀山院御即位ありて。御治世は累代敢て断絶あるべからず。子細有に依てなりと御遺命あり。
-------

などとあって、後嵯峨院は文永九年(1272)崩御であるにもかかわらず、「寛元年中」、即ち寛元四年(1246)、四歳の後深草天皇に譲位して院政を始めた直後に死去した、などと壮絶な勘違いをしています。
また、史実としては後嵯峨院は皇位継承者について明確な「遺勅」を残しておらず、「一の御子後深草院」の皇位は一代限りであって、その子孫には長講堂領百八十か所を御領として認めるけれども、在位の望みを持ってはいけない。「二の御子亀山院」の即位後は、その子孫は累代断絶せず皇位を継ぐように、などという後嵯峨の「御遺命」は存在しません。
このように『梅松論』の作者は後嵯峨院について全く無知でありながら、「後嵯峨院の御遺勅」に異常なこだわりを持っていて、伏見院と「伏見院の御子持明院(後伏見院)」の「二代は関東のはからひよこしまなる沙汰」であり、「後伏見院の御弟萩原新院(花園院)」を含め、「如此後嵯峨院の御遺勅相違して。御即位転変せし事。併関東の無道なる沙汰に及びしより。いかでか天命に背かざるべきと遠慮ある人々の耳目を驚かさぬはなかりけり」などと非難します。

http://muromachi.movie.coocan.jp/baisyouron/baisyou06.html

そして、何故に関東がこのような「無道なる沙汰」に及んだかというと、それは伏見院が在位中に関東に密かに告げ口したからだと言います。
即ち、

-------
亀山院御子孫御在位連続あらば。御治世のいせいを以のゆへに。諸国の武家君を擁護し奉らば。関東遂にあやうからむものなり。其故は承久に後鳥羽院隠岐国に移し奉りし事。安からぬ叡慮なりしを。彼院深思召れて。ややもすれば天気関東を討亡し。治平ならしめむ趣なれども。時節いまだ到来せざるに依て今に到まで安全ならず。一の御子後深草院の御子孫にをいては天下のためにとて。元より関東の安寧を思召候所なりと仰せ下されける程に。依之関東より君をうらみ奉る間。【後略】
-------

ということで、亀山院は幕府が承久の乱後に後鳥羽院を隠岐に流したことを不愉快に思っていて、内心では関東を滅ぼしたいと願っているが、未だ時節が到来しないので実行には至っていない。しかし、このまま亀山院の子孫が連続して在位すれば、諸国の武家が亀山子孫を擁護し、幕府を危うくするおそれがある。それに比べたら、後深草院の子孫である我々は、天下のため関東の安寧を心から望んでおりますよ、と伏見院が言ったのだそうです。
そして、これを信じた幕府は十年ごとの両統迭立を図ったのだ、というのが『梅松論』作者の理解ですね。
まあ、伏見院が本当にこうしたことを言ったのかは不明ですが、正応三年(1290)の浅原事件などを念頭に置くと、それなりの真実味を持って関東に受け入れられた話かもしれない、という感じはします。
なお、『芝蘭堂』のAkiさんは後鳥羽院の隠岐配流を「深思召れ」た主体を、私のように亀山院とは考えておられないようですね。

http://muromachi.movie.coocan.jp/baisyouron/baisyou07.html

ま、それはともかく、後醍醐即位の際にも、「当今の勅使」の「吉田大納言定房卿」と「持明院の御使」の「日野中納言の二男の卿」が関東で激論を交わして、定房が「後嵯峨院の御遺勅」の正統性を強力に主張したので後醍醐即位となり、これで亀山子孫の連続即位が確定したかと思ったら、

-------
元徳二年に持明院の御子立坊の義なり。以の外の次第也。凡後醍醐院我神武の以往を聞に。凡下として天下の位を定奉る事をしらず。且は後さがの院の明鏡なる遺勅をやぶり奉る事。天命いかむぞや。たやすく御在位十年を限の打替打替あるべき規矩を定申さむや。しかれば持明院十年御在位の時は御治世と云。長講堂領と云。御満足有べし。当子孫空位の時はいづれの所領をもて有べきや。所詮持明院の御子孫すでに立坊の上は。彼御在位十年の間は長講堂領を以。十年亀山院の御子孫に可被進よし。数ヶ度道理を立て問答に及ぶといへども。是非なく持明院殿の御子光厳院立坊の間。後醍醐院逆鱗にたへずして元弘元年の秋八月廿四日。ひそかに禁裏を御出有て山城国笠置山へ臨幸あり。

http://muromachi.movie.coocan.jp/baisyouron/baisyou08.html

ということで、神武天皇以来、凡下の者が天皇の位を定めるなどといった話は聞いたことがないし、「後さがの院の明鏡なる遺勅」を破ったら「天命」に背くのだ、などと凄い話になっています。
その一方で、持明院統には長講堂領という財産があるのに、亀山子孫には所領はないのだから、持明院統の天皇が在位中の十年間は長講堂領を亀山子孫に管領させろ、みたいなことも言っていますが、亀山子孫に所領がないというのは明らかに事実に反しますし、しかも何だかずいぶんケチ臭い話で、これも奇妙な議論ですね。
結局、元弘元年(1331)八月に後醍醐が笠置山に行ったのは「後さがの院の明鏡なる遺勅」に反して「持明院殿の御子」量仁親王(光厳天皇)が立坊したことに激怒したからだ、という話の展開も、立坊の時期、嘉暦元年(1326)七月と五年も離れているので、これまた奇妙です。
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『難太平記』の足利尊氏「降参」考(その11)

2020-11-05 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年11月 5日(木)12時45分29秒

今まで十回の投稿を通じて『難太平記』の足利尊氏「降参」という表現を検討してきましたが、ここで整理しておきます。
そもそも「降参」の通常の意味は「戦いに負けて服従すること」であって、これは中世でも同じですね。

『デジタル大辞泉』

そして、『太平記』西源院本に即して尊氏の倒幕の決意、入洛までの経緯、後醍醐との連絡、名越高家討死後の行動を概観してみましたが、そこには「戦いに負けて服従する」といった要素は全くありませんでした。
そこで、西源院本での「降参」と類義語の「降人」の用例を検討してみたところ、四月二十七日の名越高家討死と五月七日の六波羅陥落をメルクマールとして、次のように分類できそうです。
まず、名越高家討死前の時点で幕府を裏切った場合、勝敗の行方は全く分からない段階ですから、この時点ではおよそ「降参」はありえず、西源院本でもその用例はありません。
他方、五月七日の六波羅陥落後は、関東の動静はともかくとして、畿内では勝負が決着済みで(「京洛すでに静まりぬ」)、これ以降、討死も自害もせずに幕府を裏切った者たちは「戦いに負けて服従」した「降人」であり、その行為は文字通りの「降参」ですね。
金剛山の寄手の中で、六波羅陥落後に「綸旨を給はつて上洛」した「宇都宮紀清両党七百余騎」も「降参」に含まれています。

(その9)

微妙なのは四月二十七日の名越高家討死と五月七日の六波羅陥落の間に幕府を裏切った者であって、佐介宣俊(流布本では「貞俊」)の処分に関する長大な記事が、後醍醐側にとってもその処遇が難しかったであろうことを示唆しています。
まあ、大手の大将・名越高家が西に向かった初日に久我縄手で討死してしまうというのは幕府側はもちろん、後醍醐側にとっても吃驚仰天の事態だったでしょうが、とにかくこれで情勢は一気に流動化します。
この後、後醍醐側にすり寄った者に対しては、勝敗が完全に決着していない以上、新たな戦力として歓迎する反面、今まで日和見を決め込んでいたくせに、潮目が変わったとたんに立場を豹変させた調子の良い連中、という軽蔑もあったはずです。
その処遇は、おそらく個別の事情に即して決められたものと想像されますが、基本的に命まで奪われることはなく、幕府との戦闘で活躍したならばそれなりに優遇されることもあったかもしれません。
しかし、佐介宣俊のように後醍醐側近の千種忠顕から味方になれとの綸旨をもらい、その綸旨に従って後醍醐側に転じた者であっても、「五月の初め」の時点では、それは「千剣破より降参」と評価される訳ですから、四月二十七日以降に幕府を裏切った者は、西源院本の作者にとって「降参」に分類されるのでしょうね。
宣俊はいったんは自由の身になったようですが、その後、阿波に流罪、そして処刑となっており、これは「平氏の門葉」であったことが決定的な要因と思われます。

(その10)

さて、以上の検討を踏まえると、今川了俊が見たという『太平記』にも尊氏が「降参」したという表現があったとは考えにくく、これは関連記事を通読した了俊の解釈だろうと思われます。
とすると、了俊にとって、当該記事のどこが気に入らなかったのか、が次の問題となります。
この問題を検討するためには、『難太平記』から了俊にとって望ましかったであろう『太平記』像を推測するとともに、いったん『難太平記』を離れて、他の歴史叙述において尊氏の行動がどのように描かれていたかを比較参照する必要がありそうです。
便宜上、後者から検討しますが、尊氏が討幕に転じる時期の歴史の流れを大きく描いているのは『太平記』と『梅松論』だけなので、『梅松論』と比較した上で、了俊にとって「降参」と言いたくなるような『太平記』の記述を特定したいと思います。
予め一応の結論を示しておくと、『梅松論』では名越高家討死はその事実が簡単に記されるだけで、赤松配下の佐用範家の大活躍など全く無視されています。
ここが『梅松論』と『太平記』との一番の違いであり、了俊は『太平記』の赤松関係記事が面白くなくて、それ以外の癪に障る記述を含め、こんな書き方ではまるで尊氏が「降参」したように思われてしまうではないか、と怒ったのではないかと私は想像しています。

(その5)

※追記
この後、更に若干の考察を加えた結果、直接的には新田義貞奏状の影響が強いのではないかと考えています。

新田義貞奏状に基づく「降参」再考〔2021-07-24〕


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『難太平記』の足利尊氏「降参」考(その10)

2020-11-04 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年11月 4日(水)11時29分56秒

続きです。
まあ、形だけ僧侶になっても許してもらえないのは当然ですね。(兵藤校注『太平記(二)』、p203以下)

-------
 召人〔めしうど〕京都に着きければ、皆黒衣を脱がせ、法名を元の名に替へて、一人〔いちにん〕づつ大名に預けらる。その秋刑〔しゅうけい〕を待つ程に、禁錮の裏〔うち〕に起き伏して、思ひつらぬる浮き世の中、涙の落ちぬひまもなし。さだかならぬ便りに付けて、鎌倉の事どもを聞きしかば、偕老の枕の上に契りをなしし貞女どもも、むくつけげなる田舎人〔いなかびと〕どもに奪はれて、王昭君が恨みを残し、富貴〔ふっき〕の中に冊〔かしず〕き立てし賢息も、あたりへだにも寄らざりし凡下〔ぼんげ〕どもの奴〔やっこ〕となつて、黄頭郎〔こうとうろう〕が夢をなせり。【中略】
 同じき七月九日、阿曾弾正少弼、大仏右馬助、江馬遠江守、佐介安芸守、并びに長崎四郎左衛門、かれら十五人、阿弥陀峯にて誅せらる。この君、重祚〔ちょうそ〕の後〔のち〕、諸事の政〔まつりごと〕未だ行はれざる先に、刑罰を専らにせられん事は仁政にあらずとて、ひそかにこれを切りしかば、首を渡さるるまでの事にも及ばず、便宜〔びんぎ〕の寺々に送られて、かの後世菩提〔ごせぼだい〕をぞ弔はれける。
-------

召人(囚人)に一縷の希望を持たせて大人しくさせるためか、道中は僧形を認めても、京都に着いたとたんに黒衣を脱がせ、法名も俗名に戻すというのはなかなか厳しいですね。
そして、後醍醐の政治が目出度く再開された直後に刑の執行では世間の聞こえが悪いということで、処刑も密かに行われてしまいます。
これが六波羅陥落後、討死も自害もせずに「降伏」した「降人」の運命ですね。
ただ、般若寺で僧形になったのは「阿曾弾正少弼時治、大仏右馬助貞直、江馬遠江守、佐介安芸守貞俊を始めとして、宗徒の平氏十三人、 并びに長崎四郎左衛門、二階堂出羽入道以下、関東権勢の侍五十四人」の合計六十七人ですから、七月九日に処刑された十五人の割合は22.4%程度で、皆殺しという訳ではありません。
同日に処刑されなかった人で、その処遇が記されているのは「二階堂出羽入道」だけです。(p205)

-------
 二階堂出羽入道道蘊は、朝敵の最頂〔さいちょう〕、武家の補佐たりしかども、賢才の誉れ、かねてより叡聞に達せしかば、召し仕はるべしとて、死罪一等を許され、懸命の地を安堵して居たりけるが、また陰謀の企てありとて、同年の秋の末に、つひに死刑に行われけり。
-------

二階堂道蘊は『太平記』の第一巻第十一節「主上御告文関東に下さるる事」に登場していて、正中の変(1324)に際し後醍醐流罪に反対したとされる人ですから、「朝敵の最頂、武家の補佐」である以上、死罪が当然の立場ではあったものの、特別に宥恕された訳ですね。
ただ、「同年の秋の末に、つひに死刑」は史実には反していて、実際にはもう少しだけ生きています。

二階堂貞藤(道蘊)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E9%9A%8E%E5%A0%82%E8%B2%9E%E8%97%A4

死罪となった十五人と道蘊を除く人たちは「朝敵の最頂、武家の補佐」よりは一段下のレベルだったので死罪は免れたものの、流罪など、それなりに処断されたのでしょうね。
さて、この後、佐介宣俊(流布本では「貞俊」)の処分に関する記事が長々と続きますが、この人は六波羅陥落後に「降伏」した人々とは違って、ちょっと微妙な立場です。(p205以下)

-------
 佐介右京亮宣俊は、平氏の門葉〔もんよう〕たる上、武略才能ともに兼ねたりしかば、定めて一方の大将をもと身を高く思ひける処に、相模入道さまでの賞翫もなかりければ、恨みを含み、憤りを抱きながら、金剛山の寄手の中にぞ候ひける。かかる処に、千種頭中将殿より綸旨を申し与へて、御方〔みかた〕に参ずべき由を仰せらければ、去んぬる五月の初めに、千剣破〔ちはや〕より降参して、京都にぞ歴廻〔へめぐ〕られける。さる程に、平氏の一族皆出家して召人になりし後は、武家被官の者ども悉く所領を召され、宿所を追ひ出だされて、わづかなる一身をだに置きかねたり。宣俊も阿波国へ流されてありしが、【中略】「関東奉公の者どもは、一旦命を助からんために降人に出づと云へども、つひにはいかにも野心ありぬべければ、悉く誅せらるべし」とて、宣俊また召し取られにけり。
-------

もともと自らの待遇に不満を持っていた佐介宣俊は「千種頭中将殿より綸旨を申し与へて、御方に参ずべき由を仰せらければ、去んぬる五月の初めに、千剣破より降参」した訳ですが、この「五月の初め」は何とも微妙な時期ですね。
宣俊はいったんは自由の身になったようですが、「平氏の一族皆出家して召人になりし後は」「宣俊も阿波国へ流されて」、更に「一旦命を助からんために降人に」なった「関東奉公の者ども」は「悉く誅せらるべし」という方針変更があって、結局、宣俊も処刑されてしまいます。
この宣俊の事例は、「降人」が幕府を裏切って官軍に「降伏」した時期と、その処遇の関係を考える上で極めて興味深いですね。

北条貞俊 (時房流)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E8%B2%9E%E4%BF%8A_(%E6%99%82%E6%88%BF%E6%B5%81)
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『難太平記』の足利尊氏「降参」考(その9)

2020-11-03 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年11月 3日(火)09時38分20秒

第十一巻第十節「越中守護自害の事」の後半は非常に良くできた怪談話ですね。
ちょっと寄り道したい気持ちもありますが、第十一節「金剛山の寄手ども誅せらるる事」に移って、引き続き「降参」と「降人」の用例を検討したいと思います。(兵藤校注『太平記(二)』、p201以下)

-------
 京洛すでに静まりぬと云へども、金剛山より引つ返したる平氏ども、南都に留まつて、京都を攻めんとする聞こえありければ、中院中将定平を大将として、五万余騎、大和路へ差し向けらる。楠兵衛正成に、畿内の勢二万余騎を添へられて、河内国より搦手にぞ向けられける。
 南都に引き籠もつたる平氏の軍兵〔ぐんぴょう〕、すでに十方に退散すと云へども、残り止まつたる兵、なほ五万余騎に余りたれば、今一度手痛き合戦あらんと覚ゆるに、日来〔ひごろ〕の義勢〔ぎせい〕尽き果てて、いつしか小水〔しょうすい〕の沫〔あわ〕に吻〔いき〕づく魚の体〔てい〕になつて、徒らに日を送りける間、先づ一番に、南都の一の木戸般若寺を堅めて居たりける宇都宮紀清両党七百余騎、綸旨を給はつて上洛す。これを始めとして、百騎、二百騎、五騎、十騎、われ先にと降参しける間、今は平氏の一類の輩〔ともがら〕、譜代重恩の族〔やから〕の外は、残り止まる者もなし。
-------

金剛山の寄手の動向については、この記事の前提となる記述が第九巻第八節「千剣破城〔ちはやじょう〕寄手南都に引く事」にあって、六波羅陥落を知った「千剣破の寄手十万余騎」は五月十日の早朝、南都方面に逃げようとしたものの、行く手には「野伏満ち満ちたり」という状態で、大混乱の中、殺戮と逃亡が続きます。
そして、「今まで十万余騎と見えつる寄手の勢、残り少なに討ちなされて、生きたる軍勢も、馬、物具を捨てぬはなかりけり」という状況になりますが、「されども、宗徒の大将達、一人も道にては討たれずして、生きたる甲斐はなけれども、その日の夜半ばかりに、南都にぞ皆落ち付きにける」となります。(p96)
この記述と比較すると、「南都に引き籠もつたる平氏の軍兵、すでに十方に退散すと云へども、残り止まつたる兵、なほ五万余騎に余りたれば」という軍勢は少し多すぎるような感じもしますが、そこから更に人数は減って、最後は本当に「平氏の一類の輩、譜代重恩の族」だけになってしまう訳ですね。
ところで、「先づ一番に、南都の一の木戸般若寺を堅めて居たりける宇都宮紀清両党七百余騎、綸旨を給はつて上洛す」という部分、「綸旨を給はつて上洛」ですから若干微妙な点はありますが、これは敵方を切り崩すために「宇都宮紀清両党七百余騎」だけは一応のメンツを立ててやった、ということでしょうね。
これも「降参」と評価されていることは、「これを始めとして、百騎、二百騎、五騎、十騎、われ先にと降参しける」という表現から明らかですね。
さて、残った者はどのような行動を取ったかというと、討死することも自害することもなく、般若寺で出家して一応「律僧」の形を整えた上で「降人」となります。(p202以下)

-------
 これにつけても、今は何に憑〔たの〕みを懸けてか命を惜しむべきなれば、おのおの討死して名を後の世にこそ残すべきに、業〔ごう〕の程のあさましさは、阿曾弾正少弼時治、大仏右馬助貞直、江馬遠江守、佐介安芸守貞俊を始めとして、宗徒〔むねと〕の平氏十三人、 并〔なら〕びに長崎四郎左衛門、二階堂出羽入道以下、関東権勢の侍〔さぶらい〕五十四人、般若寺にしておのおの入道出家して、律僧の形となり、三衣〔さんえ〕を肩に懸け、一鉢〔いっぱつ〕を手に提〔さ〕げて、降人になつてぞ出でたりける。
 定平朝臣、これを請け取つて、高手小手〔たかてこて〕に誡〔いまし〕め、伝馬〔てんま〕の鞍壺〔くらつぼ〕に縛り屈〔かが〕めて、数万〔すまん〕の官軍の前に追つ立て、白昼に京へぞ帰られける。平治には、悪源太義平、平家に生け取られて首を刎ねられ、元暦には、右大臣宗盛公、源氏に囚はれて大路を渡さる。これは皆、戦ひに臨む日に、或いは敵にたばかられ、或いは自害に隙〔ひま〕なくして、心ならず敵の手に懸かりたりしをだに、今に至るまで人口〔じんこう〕の翫〔もてあそ〕びとなつて、両家の末流〔ばつりゅう〕これを聞く時、面〔おもて〕を一百余年の後に辱しむ。況んや、これは敵にたばかれたるにもあらず、自害に隙なきにてもなし。勢ひ未だ尽きざる先に、自ら黒衣〔こくえ〕の身となつて、遁れぬ命を捨てかねて、縲紲面縛〔るいせつめんばく〕の有様、前代未聞の恥辱なり。
-------

このように形だけ「黒衣」の「律僧」となったこれら「降人」たちの運命や如何に。
「降人」となれば、命だけは助けてもらえるのでしょうか。
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『難太平記』の足利尊氏「降参」考(その8)

2020-11-02 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年11月 2日(月)18時29分9秒

クレージーキャッツのメンバーは植木等が1926年生まれ、ハナ肇が1930年、谷啓が1932年ですから、私もその全盛時代をリアルタイムで見ていた訳ではありません。
ずっと後になって、結構面白いことをやっていた人たちなんだなあ、と思って少し調べてみて、子供の頃の自分が実際にテレビで見た映像と後で調べた結果が、ごちゃ混ぜの記憶になっているような感じですね。
まあ、昭和を遠く離れた世代の人たちにとっては、そんなことはどうでもいい話でしょうが。

ハナ肇とクレージーキャッツ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%8A%E8%82%87%E3%81%A8%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%BC%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%83%E3%83%84

さて、島津四郎のコミカルな場面に続き、第十巻で二回(兵藤校注『太平記(二)』、p145・147)、第十一巻で二回(p165・166)「降人」が登場した後、第十一巻第八節「長門探題の事」に「降人」と「降参」が出てきます。(p188以下)

-------
 長門探題遠江守時直は、京都の合戦を聞いて、六波羅に力を合はせんと、大船百余艘に取り乗つて海上を上られけるが、周防の鳴渡〔なると〕にて、京も鎌倉も早や皆源氏のために滅ぼされて、天下悉く王化〔おうか〕に順ひぬと聞こえければ、鳴渡より船を漕ぎもどして、九州探題と一つにならんとて、心つくしにぞ趣きける。
-------

「心尽くし(心労)」に「筑紫」が掛けられていて、こんな深刻な場面なのにダジャレが入っていますね。
この後、北条時直は赤間関に向いますが、そこで「筑紫探題も、昨日、早や少弐、大友がために滅ぼされて、九国二島〔くこくにとう〕悉く公家の計らひとなりぬ」(p189)と聞き、付き従ってきた配下もいなくなって、「時直、わづかに五十余人となつて、柳浦〔やなぎがうら〕の浪に漂泊す」という有様になります。
そして、

-------
跡に止〔とど〕めし妻子どもも、いかがなりぬらん。せめてその行末〔ゆくえ〕を聞いて、心安く討死をせばやと思ひければ、暫くの命を延べんがために、郎従を一人船より上げて、少弐、大友がもとへ降人になるべき由を伝へらる。少弐も島津も、年来〔としごろ〕の好みに、今の有様聞くもあはれにや思ひけん、急ぎ迎ひに来たり、己〔おの〕が宿所へ入れ奉る。
 その比〔ころ〕、峯僧正と申ししは、先帝の御外戚にておはしけるを、笠置の刻〔きざみ〕、筑前国へ流されておはしけるが、今一時〔いっし〕に運を開く。国人皆その左右〔そう〕に慎しみ順ふ。九州の成敗、勅許以前はこの僧正の計らひに在りしかば、少弐、島津、かの時直を同道して、降参の由をぞ申しける。僧正、「子細あらじ」と仰せられて、即ち御前〔おんまえ〕へ召さる。
-------

ということで、北条時直は年来親しくしていた少弐・島津に「降人」となることを申し出ます。
そして、少弐・島津に同道してもらって、後醍醐の生母・談天門院の縁者であり、笠置落城後に長門探題・北条時直に預けられていた峯僧正・春雅に「降参」を申し出て、今や立場が逆転した峯僧正から念入りに嫌味を言われます。(p190以下)

-------
時直、膝行頓首〔しっこうとんしゅ〕して、あへて平視せず。遥かの末座に畏まつて、誠に平伏したる体〔てい〕を見給ひて、僧正、涙を流して仰せられけるは、「去んぬる元弘の始め、われ罪なくしてこの所に遠流〔おんる〕せられし時、遠州〔えんしゅう〕、われを以て讎〔あた〕とせしかば、或いは過分の言〔ことば〕の下に面〔おもて〕を低〔た〕れて、涙を拭〔のご〕ひ、或いは無礼の驕りの前に手を束〔つか〕ね、恥を忍びき。しかるに今、天道謙〔けん〕に祐して、図らざるに世の変化を見、吉凶相犯〔あいおか〕し、栄枯地を易〔か〕へたる夢の現〔うつつ〕、昨日は身の上のあはれ、今日は人の上の悲しみなり。「怨〔あた〕を報ゆるに恩を以てす」と云ふ事あれば、いかにもして、命ばかりをば助け申すべし」と仰せられければ、時直、頭〔こうべ〕を地に付けて、両眼に涙を浮かべけり。
 不日〔ふじつ〕に飛脚を以て、この由を御奏聞ありければ、即ち勅免あつて、懸命の地に安堵せさせらる。時直、甲斐なき命を助かつて、嘲りを万人の指頭〔しとう〕に受くと云へども、時を一家の再興に待たれけるが、後幾程もあらざるに、病の霧に侵されて、夕〔ゆうべ〕の露と消えにけり。
-------

こうして時直は峯僧正に命を助けてもらいますが、周囲から嘲りを受けて、結局は病死してしまう訳ですね。
「降伏」した「降人」の運命は過酷です。
この後、第九節「越前牛原地頭自害の事」、第十節「越中守護自害の事」と、かつて権力を欲しいままにした北条一族の悲劇が描かれた後で、第十一節「金剛山の寄手ども誅せらるる事」において、再び「降参」と「降人」の用例が出てきます。


※追記
ウィキペディアの北条時直の記事、嘉禎三年(1237)に式部大輔に叙された人が元弘三年(1333)に戦っていて、極めて奇妙であり、明らかに複数の人物の履歴が混同されている。
「参考文献」には安田元久編『鎌倉・室町人名事典』(新人物往来社、1990)と北条氏研究会編『北条氏系譜人名辞典』(新人物往来社、2001)が挙げられていて、前者の北条時直の記事は奥富敬之氏が書かれており、そこには、
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ほうじょうときなお 北条時直 ?~一三三三(?~正慶二・元弘三)
鎌倉中・末期の武将。金沢流北条実村の子。相模五郎と称す。嘉禎三年(一二三七)ごろ式部大輔。寛元四年(一二四六)ごろ遠江守。建長三年(一二五一)ごろ遠江守を辞す。永仁三年(一二九五)ごろから文保元年(一三一七)ごろまで上野介で大隅守護。元亨三年(一三二三)、周防・長門の守護で長門探題となる。正慶二・元弘三年(一三三三)閏二月十一日と三月十二日には、反幕軍の土居通増・祝安親および忽那重清らと伊予石井浜および星岡で戦い、ともに破られる。五月、厚東・由利・高津などの反幕軍に攻められて瀬戸内海に逃れ、海上で鎌倉幕府の滅亡を知り、二十六日、少弐貞経に降伏。許されて本領を安堵されたが、しばらくして死んだ。なお、大仏流北条氏に同名の異人がある。
-------
とある。
ウィキペディアでは、この記述をベースに「永仁5年(1297年)、鎮西評定衆に任命され、鎮西探題となった兄弟の北条実政とともに西国へ下り、これを補佐する」といった若干の情報が付加されており、あるいはこれが『北条氏系譜人名辞典』に基づくものかもしれない(未確認)。
しかし、いずれにせよ複数の人物の履歴が混同されていることは明らか。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%99%82%E7%9B%B4
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『難太平記』の足利尊氏「降参」考(その7)

2020-11-02 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年11月 2日(月)12時34分26秒

今川了俊は『難太平記』に、

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六波羅合戦の時。大将名越うたれしかば。今一方の大将足利殿先皇に降参せられけりと。太平記に書たり。


と記していますが、了俊が見た『太平記』の六波羅合戦記事に本当に「降参」の二文字が書かれていたのか、それとも「降参」自体は存在せず、これは当該記事を読んだ了俊の解釈に過ぎないのかを考えるために、『太平記』における「降参」の用例を検討したいと思います。
元弘三年(1333)四月二十七日に足利尊氏が篠村に移動して以降、『太平記』に最初に「降参」が登場するのは五月七日、尊氏が「篠村の新八幡宮」に願文を捧げてから京へ向かう場面です。(兵藤校注『太平記(二)』、p59)

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 明けければ、前陣進んで後陣を待つ。大将大江山〔おいのやま〕の手向〔とうげ〕を打ち越え給ひける時に、山鳩一番〔ひとつが〕ひ飛び来たつて、白旗の上に翩翻〔へんぽん〕す。「これは八幡大菩薩の立ち翔〔かけ〕つて守らせ給ふ験〔しるし〕なり。この鳩の飛び去らんずるまま向かふべし」と、下知〔げじ〕せられければ、旗差〔はたさし〕馬を早めて鳩の跡に付いて行く程に、この鳩閑〔しず〕かに飛んで、大内〔おおうち〕の旧跡、神祇官の前なる樗〔おうち〕の木にぞ留まりける。官軍この奇瑞に勇んで、内野を指して馳せ向かひける道すがら、敵五騎、十騎、旗を巻いて甲〔かぶと〕を脱いで降参す。足利殿、篠村を立ち給ひし時までは、わづかに二万余騎なりしかども、右近の馬場を過ぎ給ひし時は、その勢五万余騎に及べり。
-------

四月二十七日、搦手の大将として京から篠村に向かったときには五千余騎だった尊氏の軍勢は、五月七日、篠村を出発した際には二万余騎、それが更に当日中に五万余騎に膨れ上がった訳ですね。
そして、その勢いに圧倒された敵が五騎、十騎と「旗を巻いて甲を脱いで降参」したということで、ここは敗北を認めて服従するという「降参」の通常の用法です。
この場面の後、暫く「降参」は登場しませんが、類義語として「降人」が五回(p130・145・147・165・166)出てきます。
その最初は第十巻第八節、「鎌倉中合戦の事」の島津四郎の場面ですね。(p130以下)

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 島津四郎は、大力〔だいじから〕の聞こえあつて、実〔まこと〕に器量骨柄人に優れたりければ、御大事に逢ひぬべき者なりとて、長崎入道烏帽子子〔えぼしご〕にして、一人当千と憑〔たの〕まれたりければ、口々の戦場へは向けられず、相模入道の屋形の辺にぞ置かれたりける。浜の手破れて、源氏すでに若宮小路まで攻め入りたりと騒ぎければ、相模入道、島津四郎を呼んで、自ら酌を取つて酒を進められて、すでに三度傾けける時、厩〔うまや〕に立てられたりける坂東一の無双の名馬のありけるを、白鞍置いて引かれける。人これを見て、羨まずと云ふ事なし。門前より、この馬に打ち乗つて、由井の浜の浦風に大笠符〔おおかさじるし〕吹き流させ、あたりを払つて向かひければ、数万の軍勢、これを見て、実に一人当千と覚えたり、この間、長崎入道重恩を与へて、傍若無人に振る舞はせられつるも理〔ことわ〕りなりと、思はぬ人はなかりけり。
-------

ということで、長崎入道円喜の烏帽子子で、一人で千人の敵に当たる勇士と期待された島津四郎が、この後どのような大活躍をしたかというと、

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 源氏の兵、これを見て、よき敵なりと思ひければ、栗生、篠塚、秦以下の若者ども、われ前〔さき〕に組まんと、馬を進めて近づきけり。両方名誉の大力どもが、人交〔ひとま〕ぜもせず、勝負を決せんとするを見て、敵御方〔みかた〕の軍兵、固唾を呑んでこれをみる処に、相近〔あいぢか〕になりたりけれ、島津、馬より下り、甲を脱いで降人になり、源氏の勢にぞ加はりける。貴賤上下これを見て、悪〔にく〕まぬものはなかりけり。
 これを降人の始めとして、或いは年頃重恩の郎従、或いは累代奉公の家人ども、親を離れ、主を捨てて、降人になり、敵方に加はりければ、源平天下の諍〔あらそ〕ひ、今日を限りとぞ見えたりける。
-------

という、何じゃそれ、としか思えないコミカルな展開となります。
昭和のコミックバンド、クレージーキャッツのコントで、谷啓が「ガチョーン」というと、残りのメンバーが「ハラホロヒレハレ」と崩れ落ちる場面のようですね。
ま、それはともかく、ここでの「降人」は「降伏」、すなわち敗北を認めて服従する人であり、ごく普通の用法です。
この後の「降人」が登場する場面は一々紹介しませんが、いずれも「降人」の意味は同様です。
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『難太平記』の足利尊氏「降参」考(その6)

2020-11-01 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年11月 1日(日)17時45分11秒

尊氏の動きがおかしいという情報は直ちに六波羅にも伝わったでしょうが、その伝達の役割は『太平記』では中吉十郎と奴可四郎という、この場面にしか登場しない二人の武士が担当しています。(p47以下)

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 ここに、備前国の住人中吉十郎〔なかぎりのじゅうろう〕と、摂津国の住人奴可四郎〔ぬかのしろう〕とは、両陣の手分けによつて搦手の勢の中にありけるが、中吉十郎、大江山の麓にて、道より上手〔うわて〕に馬を打ちのけて、奴可四郎を呼びのけて申しけるは、「そもそも心得ぬものかな。大手の合戦は火を散らして、今朝辰刻より始まりければ、搦手は芝居の長酒盛にさて休〔や〕みぬ。結句、名越殿討たれ給ひぬと聞いて、後ろ合わせに丹波路を指いて馬を早め給ふは、この人いかさま野心をさし挟み給ふと覚ゆるぞ。さらんに於ては、われらいづくまでか相順〔あいしたが〕ふべき。いざや、これより引つ返し、六波羅殿にこの由を申さん」と云ひければ、奴可四郎、「いしくも云給〔のたま〕ひたり。われも事の体〔てい〕怪しくは存じながら、これもまたいかなる配立〔はいりゅう〕かあらんと、とかく思案しつる間に、早や今日の合戦に外〔はず〕れぬる事こそ安からね。但し、この人〔ひと〕敵になり給ひぬと見えながら、ただ引つ返したらんは、余りに云ひ甲斐なく覚ゆれば、いざや、一矢〔ひとや〕射懸け奉つて帰らん」と云ふままに、中差〔なかざし〕取つて打ち番〔つが〕ひ、馬を轟懸〔とどろが〕けにかさへ打ち廻さんとしけるを、中吉〔なかぎり〕、「いかなる事ぞ、御辺〔ごへん〕は物に狂ひ給ふか。われらわづかに二、三十騎にて、あの大勢に懸け合うて、犬死〔いぬじに〕したらんは本意〔ほい〕か。鳴呼〔おこ〕の高名〔こうみょう〕はせぬに如かず。ただ事故〔ことゆえ〕なく引つ返して、後の合戦に命を軽くしたらんこそ、忠儀を存じたる者なりけりと、後までの名も留まらんずれ」と、再往〔さいおう〕制し留めければ、げにもとや思ひけん、奴可四郎も、中吉も、大江山〔おいのやま〕より引つ返して、六波羅へこそ帰りけれ。
-------

奴可四郎はいささか頭の弱い人物に設定されていて、二人のやりとりはコントのような趣があり、『太平記』が語られた際には聴衆の小さな笑いを誘ったのでしょうね。
さて、二人の報告を受けた六波羅の反応はというと、

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 かれら二人馳せ参じて、事の由を申しければ、両六波羅、楯鉾〔たてほこ〕とも憑〔たの〕まれたりし尾張守は討たれぬ、これぞ骨肉の如くなれば、さりとも二心〔ふたごころ〕おはせじと、水魚の思ひをなされつる足利殿さへ敵になり給ひぬれば、憑む木〔こ〕の下〔もと〕に雨のたまらぬ心地して、心細きにつけても、今まで付き纏ひたる兵どもも、またさこそあらんずらんと、心を置かれぬ人もなし。
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ということで(p49)、大手の大将の討死と搦手の大将の裏切りが同じ日に起きたのですから、六波羅にとっては驚天動地の事態ですね。
これで第四節は終わり、第五節「五月七日合戦の事」に入ります。
丹波の篠村は大江山を越えて直ぐの場所なので、尊氏に率いられた搦手の一行は四月二十七日のうちに篠村に移動し、五月七日に反転して京に侵攻するまで、ここに十日間滞在します。
その間、尊氏が何をやっていたかというと、大規模な軍勢催促ですね。
森茂暁氏の『足利直義 兄尊氏との対立と理想国家構想』(角川選書、2015)によれば、

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 伯耆よりの後醍醐天皇の勅命をうけるかたちで、一族を相催しての馳参を命ずる足利尊氏書状が、元弘三年(一三三三)四月二七日から二九日にかけて武士たちに発されている。筆者の収集によると残存例は総計一三点を数える。
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とのことで(p31)、名越高家が戦死し、尊氏が篠村に移動した当日の四月二十七日から二十九日までの日付がある複数の軍勢催促状が確認されており、その残存例が十三点ということですから、実際には相当多数が作成・送付されたはずです。
このような名越高家討死後の尊氏の迅速な対応を考えると、高家討死を聞いて初めて「降参」を決意したとはとうてい思えず、相当前から入念に準備していたはずですね。
以上、『太平記』第九巻に基づいて尊氏の行動を追ってみましたが、鎌倉出発前に既に尊氏・直義兄弟が反逆を決意し、京都に到着した翌日、四月十七日に伯耆船上山の後醍醐に使者を送って後醍醐に味方する旨を連絡したとの『太平記』の記述は、大きな流れとしては自然であり、事実を反映しているように思われます。
まあ、反逆の決意を固めていたとはいえ、いくらなんでも名越高家が出発の当日に死んでしまうという事態は尊氏にとっても吃驚仰天だったとは思いますが、適切なタイミングで反転攻勢をかけようと思っていた尊氏にとって、多少その時点が早まった程度の話だったかもしれません。
さて、こうして尊氏の反逆に至る経緯を眺めてみると、今川了俊が見たという『太平記』の尊氏「降参」の記事とはいったい何だったのか。
少なくとも、ごく普通の意味での「降参」という事態は考えにくいように思われますが、了俊が見た『太平記』には「降参」の二字があったのか。
この問題を正確に考察するためには『太平記』における「降参」の用例を検討する必要がありそうです。
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『難太平記』の足利尊氏「降参」考(その5)

2020-11-01 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年11月 1日(日)11時03分52秒

続きです。
キンキラキンのド派手な恰好をした大手の大将・名越高家に魔の手が忍び寄ります。(p45以下)

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 ここに、赤松が一族、佐用左衛門三郎範家とて、強弓〔つよゆみ〕の矢次早〔やつぎばや〕、野戦〔のいくさ〕に心ききて、卓宣公〔たくせんこう〕が秘せし所をわが物に得たる兵あり。わざと物具を脱いで、徒立〔かちだて〕の射手〔いて〕になり、畔〔くろ〕を伝ひ、藪を潜つて、とある畔の影に添ひ伏して、大将に近づいて一矢〔ひとや〕ねらはんとぞ待つたりける。尾張守は、三方の敵を追ひまくつて、鬼丸に付いたる血を笠符にて押し拭〔のご〕ひ、扇子を開き仕〔つか〕うて、思ふ事もなげにてひかへたる処を、範家、近々とねらひ寄つて、よつ引きつめてひやうど射る。その矢、矢坪を違〔たが〕へず、尾張守が甲〔かぶと〕の真向〔まっこう〕のはづれ、眉間のただ中に当たつて、脳〔なずき〕砕き骨を分け、胛〔かいがね〕のはずれへ矢さき白く射出だしたりける間、さしもの猛将たりと云へども、この矢一筋に弱りて、馬より真倒〔まっさかさま〕にどうど落つ。範家、胡箙〔えびら〕を叩いて矢叫びをし、「寄手の大将名越尾張守をば、範家がただ一矢〔ひとや〕に射落としたる。続けや人々」と呼ばはりければ、引き色に見えつる官軍、これに機を直し、三方より勝時〔かつどき〕を作つて攻〔つ〕め合はす。
 尾張守の郎従七千余騎、しどろになつて引きけるが、或いは大将を討たせていづくへ帰るべきとて、引つ返して討死する者もあり、或いは深田〔ふけだ〕に馬を乗り込うで、叶はずして自害する者もあり。されば、狐川より鳥羽の今在家〔いまざいけ〕の辺まで、その道五十余町が間には、死人の臥さぬ尺地〔せきち〕もなし。
-------

ということで、四月二十七日に京を出発した名越高家は、その日のうちに久我縄手であっさり戦死してしまいます。
眉間の真ん中に矢が当たって、脳が砕かれ、肩甲骨の端に矢先が白く出るというのは不気味なほどリアルですね。
押され気味の戦局を一瞬で逆転させた弓の名手・佐用範家の説明に「野戦に心ききて、卓宣公が秘せし所をわが物に得たる兵」とありますが、脚注によれば「卓宣公」は「未詳。中国の兵法家か」(p46)とのことで、当時の武家社会では常識であったであろう知識も、後世に伝わっていないものが意外にあるのですね。
また、細かな話になりますが、「野戦」は神田本・流布本では「野伏戦」となっているそうです。
高橋典幸氏(東京大学准教授)の「太平記にみる内乱期の合戦」(市沢哲編『太平記を読む』所収、吉川弘文館、2008)という論文に、この場面の分析があったはずだなと思って確認してみたところ、高橋氏は『太平記』の巻九「山崎攻事付久我畷合戦事」を引用して「野伏戦」について論じており(p93)、流布本を用いておられるようですね。
ま、それはともかく、以上で第三節が終わって、第四節「足利殿大江山を打ち越ゆる事」に入ります。
やっと名越高家の戦死となったところで、尊氏はどのように動くのか。
尊氏が名越高家討死を知って「降参」したとする『難太平記』の記述を裏付けるような「原太平記」の痕跡はあるのでしょうか。(p47)

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 大手の合戦は、今朝〔こんちょう〕辰刻より始まつて、馬煙〔うまけぶり〕東西に靡き、時の声天地を響かしけれども、搦手〔からめて〕の大将足利殿は、桂川の西の端〔はた〕に下〔お〕り居て酒盛〔さかもり〕しておはしける。かくて数刻〔すこく〕を経て後、「大手の合戦に寄手打ち負けて、大将すでに討たれ給ひぬ」と告げたりければ、足利殿、「さらば、いざや山を越えん」とて、おのおの馬に打ち載つて、山崎の方をば遥かの他所〔よそ〕に見捨てて、丹波路〔たんばじ〕を西へ、篠村〔しのむら〕へとぞ馬を早められける。
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ということで、尊氏は大手の合戦をよそに桂川の西でのんびり酒盛りをしていて、数刻後に名越高家の討死を聞きます。
しかし、尊氏は大手の救援に行くどころか、それでは山越えするか、ということで「山崎の方をば遥かの他所に見捨てて」、大江山を越えて丹波の篠村に行ってしまいます。
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