次の文章を読んで、あとの設問に答えなさい。
地質学でいう[ ア ]世にあたる①旧石器時代から日本列島に人類が居住していたことは、各地から発見される石器や化石人骨から知られる。
②これまで発見された旧石器時代の人骨が埋葬されたものかどうかは不明であるが、続く縄文時代にはいると、集落の周辺に墓地が造られるようになる。
この時代の埋葬法としては、死体を折り曲げて埋葬する[ イ ]がしばしば見られるが、それは死者の霊が生者に災いをもたらすのを恐れたためではないかという説がある。
縄文時代には③自然物や自然現象に霊が宿るという考え方が支配的であったと考えられており、これは有力な説と思われる。
縄文時代末から弥生時代にかけて、大きな土器に遺体を埋葬する[ ウ ]が九州地方北部で盛んになった。
また扁平な板石を長い箱形に組み合わせて棺のようにして遺体を埋葬した[ エ ]が西日本各地で造られた。
さらに恐らく朝鮮半島の影響を受けて成立したと考えられる、自然石の支柱に大きな平石を乗せた[ オ ]が、九州地方北部を中心に造られるようになる。
やがて周囲に方形に溝をめぐらした方形周溝墓が出現し、全国的に広がっていった。
そして、弥生時代中期の大規模な環濠集落である佐賀県の吉野ケ里遺跡などでは、盛り土をした墓が造られるようになる。
弥生時代に出現するこのような墳墓は、後の古墳と区別して[ 力 ]と呼ばれている。
弥生時代後期には、さらに大規模な墓が造られるようになったと考えられる。
『魏志倭人伝』には、邪馬台国の女王卑弥呼が死んだとき、「大いに塚を作る。径百余歩。④殉葬する者百余人」という記述が
見える。
この記事は、次の古墳時代の先駆けを記録したのではないかという説もある。
畿内の大和政権を中心とした政治権力の影響が全国的に及ぶようになると、古墳が一般化する。
古墳では、⑤遺体を埋葬した石室に多くの副葬品が見られる。そして石室の壁面や石棺に彩色絵などが施される[ キ ]も後期には出現する。
最も大型化した古墳は[ ク ]と呼ばれる形式であるが、その中でも最大のものは大阪府堺市にある⑥通称仁徳天皇陵と呼ばれる古墳である。
しかし巨大化した古墳もやがて縮小化し、⑦6~7 世紀には小型の円墳が密集して作られるようになった。
問1.文中の空欄[ ア ]~[ ク ]にあてはまる語句を記しなさい。
問2.下線部①について、次の(1)・(2)の問いに答えなさい。
(1)日本の旧石器文化の発見のきっかけとなった群馬県の遺跡の名称は何か。
(2)この遺跡から発見された石器は何という地層から出土したか。
問3.下線部②について、沖縄本島で発見された旧石器時代の化石人骨は何人と呼ばれているか、答えなさい。
問4.下線部③について、このような原始的な信仰を何と呼ぶか、答えなさい。
問5.下線部④について、この記述は、卑弥呼が死んだときの埋葬風習を表している。
このような風習のかわりに、土製の焼き物を作らせたという伝承を『日本書紀」は伝えているが、この土製の焼き物を何というか、答えなさい。
問6.下線部⑤について、この古墳の副葬品は前期と中期以降とでは変化が見られるが、それはどのような変化か。簡潔に述べなさい。
問7.下線部⑥について、仁徳天皇陵は別に何と呼ばれるか、答えなさい。
問8.下線部⑦について、このように密集して作られた古墳を何と呼ぶか、答えなさい。
解 答
問1 ア 更新世( 洪積世) イ 屈葬 ウ 甕棺墓 エ 箱式石棺墓 オ 支石墓 カ 墳丘墓 キ 装飾古墳 ク 前方後円墳
問2 (1) 岩宿遺跡 (2) 関東ローム層
問3 港川人 問4 アニミズム 問5.埴輪
問6 前期は鏡や碧玉製のものなど呪術的なものが多く司祭者的首長の存在をうかがえるが、中期以降は武具・馬具といった権力的なものが多くなり軍事力を背景とした現実的な支配者の存在 がうかがえる。
問7 大仙古墳 問8 群集墳