ベック式!難単語暗記法ブログ

質の高い暗記法、芸術的なゴロ合わせ、感動の記憶法をあなたに!抜群に効果的な実例満載!

★ティトー Tito  1892~1980

2015-07-17 | ベック式!世界史用語集

▲訪米時のティトー(1971年)

本名ヨシフ=ブロス。旧ユーゴスラヴィアの共産主義者。クロアチアの農家に生まれる。初等学校卒業後、錠前工となり、1910年には社会民主党員となる。

ハプスブルク帝国の兵士として第一次世界大戦に従軍。ロシア戦線で負傷し捕虜としてロシア革命を体験した。1920年に帰国すると新たに結成されたユーゴスラヴィア共産党に入党。非合法活動を行い、34年には党中央委員会政治局員となり、37年には党書記長となった。

第二次世界大戦中の41年、ドイツ軍のユーゴ侵略にパルチザン(人民解放軍)を組織して抗戦し、ユーゴを解放。

45年、王政を廃してユーゴスラヴィア連邦人民共和国を宣言し国内諸民族の平等を保障して初代首相となった。

▼第二次世界大戦中のチトー(右)とIvan_Ribar

ソ連に対等の関係を要求し、とくに米が47年に提案したマーシャル=プラン(ヨーロッパ経済復興援助計画)の受入れを決定したことからスターリンとの対立が表面化し、48年コミンフォルム(共産党情報局)はユーゴ共産党を除名した。

1953年のスターリンの死後、ユーゴ・ソ連の和解が進み、とくに56年のスターリン批判、コミンフォルム解散によって両国の国交は回復したが、同年のハンガリー事件でふたたび断交、60年頃から国交を再開した。

しかし、ティトーによる独自のユーゴ型社会主義路線はむしろ強化された。56年、ティトー大統領、インドのネール首相、エジプトのナセル大統領はユーゴでブリオニ島会談を開いて非同盟主義の推進を約した。61年にはユーゴの首都ベオグラードで第1回非同盟諸国首脳会議を主催。

 79年のハバナの第6回会議ではカストロのソ連寄りの主張を抑えて中立主義の立場を擁護した。58年のユーゴ共産主義者同盟(52年共産党の名を改称)第7回大会では、独自の社会主義建設を目指す新綱領を採択。これに基づいて60年代から独自の自主管理社会主義を提唱して地方分権化を進めたが、それは国内の経済発展の不均衡と民族的対立を強めることになった。

 80年にティトーが死去した後も、ユーゴは任期1年の各共和国大統領輪番制の下で集団指導体制をとりつつ、ティトー路線を継承した。ユーゴでは国有ではなく、社会有企業を経済の中心とし、労働者評議会を設置して企業や地方行政における労働者の自主管理を導入し、また市場社会主義など大胆な経済改革を試みた。しかし次第に各共和国の対立が表面化し、後進地域のコソボではアルバニア人の自治要求、先進地域のスロヴェニア、クロアチアでは民族分離運動が進行。1990年にはユーゴ共産主義者同盟(旧共産党)が分裂。連邦制のあり方をめぐり各共和国で複数政党による自由選挙が実施され、連邦強化を唱えるセルビア、モンテネグロ以外の共和国で民族主義政党が進出した。

 1991年、スロヴェニア、クロアチアが独立を宣言。クロアチアでは国内のセルビア人の自治要求から内戦が本格化した。同年、マケドニアも独立宣言を発したが、ギリシアが国名変更を求め、内戦の危機が生じた。独立をめぐり連邦軍の介入、国内民族・諸外国の利害の対立、ECや国連の介入などから各共和国で複雑な内戦が起こった。

 1992年、セルビアとモンテネグロはユーゴスラヴィア連邦共和国(新ユーゴスラヴィア)を樹立し、旧ユーゴの継承を宣言した。しかしEC諸国とアメリカはボスニア内戦に対するセルビアの干渉を非難して新ユーゴに制裁を加えている。コソボ自治州のアルバニア人の独立要求も高まってきている。

 1992年には国民投票の結果ボスニア=ヘルツェゴヴィナ共和国が独立を宣言。この国には人口の4割強のムスリム人、3割余のセルビア人、2割弱のクロアチア人が複雑なモザイク状に混住しており、民族共存への努力は破綻し、独立を問う国民投票におけるセルビア人の投票ボイコットを機に激烈な内戦が続いた。軍事的優位に立つセルビア人による首都サライェヴォ包囲、民族浄化政策などはEC諸国やアメリカの反セルビア政策、国連保護軍、NATO軍の派遣などの誘因となった。1993年国連、ECの努力によるジュネーヴ和平会議で議長提案によるボスニア3分割案修正案が示された。

 

 

 

  パルチザン   ドイツ軍の占領したバルカン地域で展開された、非正規軍による遊撃戦をパルチザンという。バルカンの「バル」、パルチザンの「パル」を意識して覚えよう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする