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1221(承久3)年 〈承久の乱〉★★

2016-07-28 | 『新日本史頻出年代暗記』


 

 

●鎌倉時代(仲恭天皇 北条義時)
1221(承久3)年 〈承久の乱〉★★
Jyōkyu Disturbance: Ex- emperor Go-Toba issues an order for the arrest of Hōjō Yoshitoki.
(ひと)に追討 ご登場。
1221年     後鳥羽上皇 承久の乱
  
1219年、鎌倉幕府3代将軍源実朝の暗殺をきっかけに、朝廷と幕府の関係は不安定となった。1221年、後鳥羽上皇は北条義時追討の兵を挙げたが、戦いは北条政子の呼びかけで結束した幕府側の勝利に終った(承久の乱)。幕府は後鳥羽上皇を隠岐に流すなど、3人の上皇を配流し、仲恭天皇を廃位。また京都には六波羅探題を設置して朝廷の監視にあたらせ、政治的支配力を強めた。



《承久の乱後の処理》
 承久の乱後、後鳥羽上皇は隠岐、土御門上皇は土佐、順徳上皇は佐渡に配流された。後鳥羽上皇の「隠岐」は上記のゴロ合せでしっかりと覚える。土御門上皇は〈土〉の字に着目すれば、「土佐」が楽勝。その「土佐」をひっくり返せば、順徳上皇が流された「佐渡」になる。
 また、乱の後に六波羅探題が設置されたことも、承久の乱の年代(1221)を足した〈六〉でバッチリ押さえよう!

Gotoba attempted to overthrow the bakufu with armed force since he thought the bakufu was in an insecure condition without having the Seii Taishogun, but his forces lost the battle against the bakufu. (The Jokyu War)

これ(実朝暗殺)により征夷大将軍不在となった幕府の体制を不安定と見た後鳥羽は、幕府の武力排除を試みたが、幕府軍に敗北してしまった(承久の乱)。

 

 

 

〈2014明大・農(食料環境政策):「
1 1219(承久元)年、将軍の(ア)源実朝が頼家の子公暁によって暗殺され、公暁も殺されると、源氏の血筋が絶え、北条義時は後鳥羽上皇に皇子の将軍職就任を要請した。しかし、あらたに院警護のために[ 1 ]をおいて兵力を増強し、幕府打倒を目指していた後鳥羽上皇はこの要請を拒むとともに、自分に関係する荘園の地頭職の停止を要求するなど、鎌倉幕府との対立を深めた。
 そして1221(承久3)年、後烏羽上皇は、[ 1 ]や畿内近国の武士らに対して義時追討の宣旨を出したが、多くの武士は、頼朝以来の御恩にこたえよという北条政子の呼びかけに応じて幕府に結集した。義時の弟の時房と子の泰時に率いられた幕府軍は、東海・東山・北陸の三道に分かれて京都を攻め、わずか1か月で反乱を鎮圧した。
 この乱後、幕府は(イ)三上皇の配流などの処分を強行し、仲恭天皇に代えて、後堀河天皇を立てた。また、上皇方の責族・武士の西国を中心とする所領3000か所あまりを没収し、戦功のあった東国の武士たちを(ウ)あらたに御恩として地頭に任命した。時房と泰時は乱後も京都にとどまり、[ 2 ]をもうけて、朝廷の監視や京都の警備、尾張(のちの三河)以西の国々の御家人の統括にあたった。こうした乱後の政策によって、幕府の西国支配は飛躍的にすすみ、朝廷の権威がおとろえる一方で、幕府の全国支配がいっそう強化されることになった。

 

問1 空欄(1)に入る適切な用語を、解答用紙裏面の解答欄に漢字で記入せよ。

 

問2 空欄(2)に入る適切な用語を、解答用紙裏面の解答欄に漢字で記入せよ。

 

問3 下線部(ア)源実朝に関連して、源実朝は万葉調の和歌を詠み、歌壇に新風を送ったといわれているが、彼の和歌が残されている歌集は何か。下記から最も適切なものを一つ選べ。
 A金槐和歌集 B金葉和歌集 C山家集
 D新葉和歌集 E万葉集註釈

 

問4 下線部(イ)三上皇の配流に関連して、三上皇の配流先の組み合わせとして正しいのはどれか。下記から最も適切なものを一つ選べ。
 A 後鳥羽上皇-隠岐、土御門上皇-佐渡、順徳上皇-土佐
 B 後鳥羽上皇-隠岐、土御門上皇-土佐、順徳上皇-佐渡
 C 後鳥羽上皇-佐渡、土御門上皇-隠岐、順徳上皇-土佐
 D 後鳥羽上皇-佐渡、土御門上皇-土佐、順徳上皇-隠岐
 E 後鳥羽上皇-土佐、土御門上皇-隠岐、順徳上皇-佐渡
 F 後鳥羽上皇-土佐、土御門上皇-佐渡、順徳上皇-隠岐

 

問5 下線部(ウ)あらたに御恩として地頭に任命したに関連して新補地頭に関する記述として誤っているものを、下記から一つ選べ。

 A 承久の乱後に新たに置かれた地頭の得分は、すべて新補率法が適用された。
 B 新補率法が適用された地頭を新補地頭と呼んだ。
 C 新補地頭以外の地頭を本補地頭ともいう。
 D 新補率法は、1)11町につき1町の給田、2)1反あたり5升の加徴米、3)山野河海からの収益の半分を与えるという基準であった。
 E 新補地頭のなかには、現地の荘官・農民や荘園領主との間に新たな紛争を生じさせたものもいた。

 

(答:問1西面の武士、問2六波羅探題、問3A(金槐和歌集)、問4B、問5A)〉

 

〈2014文教大学・全学部:「
各問のA、Bの文章を読んで、下の指示にしたがって答えなさい。
A、Bが両方正しい場合は、1をマークしなさい。
Aが正しく、Bが誤っている場合は、2をマークしなさい。
Aが誤っていて、Bが正しい場合は、3をマークしなさい。
A、Bがいずれも誤っている場合は、4をマークしなさい。

 

問4 
A 平安時代後期、宮中を警備する役目は西面の武士に新たに与えられ、これをきっかけにして、武士の中央進出が始まった。
B 後鳥羽上皇は、院御所を警備する役目を奉公衆に一任し、この武力を用いて北条義時追討を計画した。

 

(答:A×9世紀末に宇多天皇によって置かれたのは滝口の武士、B×後鳥羽上皇が置いたのは西面の武士)〉

 

〈2013早大・文:「
 下線c承久の乱について。次の文章のうち、正しいものを2つ選べ。

 

 ア 後鳥羽上皇が執権北条泰時を打倒するために起こした兵乱である。
 イ この兵乱の前に、後鳥羽上皇は藤原定家等に命じて、『新古今和歌集』を編纂させた。
 ウ 承久の乱において幕府軍が勝利した背景には北条政子の存在があった。
 エ 承久の乱の後、土御門上皇が政務を執るようになった。
 オ 新補率法では免田と加徴米の規定が設けられたが、山川の収益については規定がなかった。

 

(答:イ〇1205年ころの編纂、ウ〇『吾妻鏡』にみえる尼将軍政子がおこなった幕府草創時のことを振り返る演説が、士気を高めた ※ア×義時の誤り、エ×幕府は仲恭天皇を廃し、後鳥羽上皇を隠岐に、土御門上皇を土佐(のちに阿波)に、順徳上皇を佐渡に流した。オ×(1)田畑11町ごとに1町の土地、(2)田地1段につき5升の米(加徴米)、(3)山や川からの収益の半分、をそれぞれ地頭にあたえるものであった。)〉

 

〈2013上智大・法総合人間科神外国語:「
G(承久の乱)近會(ちかごろ)( ア )の成敗と称し、天下の政務を乱る。纔(わずか)に将軍の名を帯ぶると雖も、猶以て(c)幼稚の齢(よわい)に在り。然る間、彼の( え )朝臣、偏(ひと)へに言詞を教命に仮り、恣(ほしいまま)に裁断を都鄙に致す。剰へ己が威を耀かし、皇憲を忘れたるが如し。これを政道に論ずるに、( お )と謂ふべし。早く五畿七道の諸国に下知し、彼の朝臣の身を追討せしめよ。兼て又諸国・庄園の( ウ )人・( キ )等、言上を経べきの旨あらば、各(おのおの)(d)院庁に参り、宜しく上奏を経べし。

 

問1 上記の史料Gにもっとも関係の深い事柄を、次から1つ選びなさい。
 1徳政一揆 2下地中分  3源平の争乱 4守護請  5貞永式目
 6土一揆  7建武の新政 8新補率法  9戦国家法 10半済令
 11国一揆  12悪党   13建武式目  14徳政令  15承久の乱

 

問2 前掲の史料Gの空欄(ア・ウ・キ)に当てはまるもっとも適切な語句を、次から1つずつ選びなさい。

 

 1国司 2凡下  3惣領  4式目  5畠山
 6官物 7名主  8国人  9加地子 10近江
 11地頭 12知行国  13加徴米  14山城  15細川 
 16守護 17年貢   18大和   19家臣  20関東

 

問3 前掲の史料Gの下線部c~dの人物について、次の問いの答えとしてもっとも適切なものを、以下の語群より1つずつ選びなさい。

 

 cこの人物は誰を指しているか。
 dこの時期の院(治天の君)は誰か。

 

〔語群〕
 1宗尊親王  2後宇多天皇 3北条貞時 4亀山天皇
 5後鳥羽上皇 6北条高時  7久明親王 8北条守時
 9白河上皇  10守邦親王  11藤原頼嗣 12光厳天皇
 13藤原頼経  14後醍醐天皇 15北条時宗 16後白河上皇

 

問4 前掲の史料Gの空欄(え)~(お)に当てはまる人物または事柄について、もっとも関係深くかつ正しい説明を、次から1つずつ選びなさい。
 1宝治合戦で三浦泰村を討った。
 2皇室・寺社に対して敬意を失する罪。
 3中世武士の同族結合のこと。
 4所領を売却した元の所有者のこと。
 5段別5升の兵粮米を徴収する権限が認められた。
 6評定衆を設置した。
 7歴史を貫く普遍的な公正観のこと。
 8律令格式に系譜を引く朝廷の法。
 9皇居を破壊しようと謀る罪。
 10有力名主から武家の被官となる者もあった。
 11所領を譲与した被相続人のこと。
 12八虐の一。律で定められた最も重い国家反逆罪で斬刑にあたる。
 13六波羅探題を設置した。
 14所領を現実に関連している者のこと。
 15武士社会の慣習・道徳に基づくもので公平と認められたこと。

 

(答:問1G15(承久の乱)、問2ア20(関東)、ウ16(守護)、キ11(地頭)、問3c13(藤原頼経)、d5(後鳥羽上皇)、問4え.13(北条義時)、お12(謀反(むへん)))〉

 

〈2013早大・法:「8 得宗の名の由来になった法名をもつ執権の名前として正しいものを1つ選べ。

 あ 北条時政 い北条義時 う北条泰時
 え北条時頼   お北条長時

(答:い)〉

 

〈2012立教大・全学部:「
8.この年(1221)についての説明として正しくないのはどれか。

 

a.将軍職に、摂家将軍である九条頼経が就いていた
b.北条政子は朝廷側に対する御家人の結束を説いた
c.北条義時が政所・侍所別当として実権を握っていた
d.北条義時の弟である北条時房も京都に赴いた

 

(答:a※九条頼経が摂家将軍に就任したのは1226年)〉

 

  

 

〈2014立大・文

2.鎌倉幕府は3代執権北条< い >のとき、5御成敗式目(貞永式目)を制定して、御家人たちに示した。式目は、武士社会での慣習や道徳に基づいて、守護や6地頭の任務を定め、紛争を裁く基準などを明らかにした。

 

問5.御成敗式目に関する記述として正しくないのはどれか。次のa~dから1つ選べ。
 a.建武以来追加は室町幕府の法令集である
 b.これが制定されても律令の系統を引く公家法がなお効力を持っていた
 c.これは戦国大名の分国法にも影響を与えた
 d.喧嘩は両成敗と定められた

問6.地頭に関する記述として正しくないのはどれか。次のa~dから1つ選べ。
 a.国司や荘園領主にはこれを罷免する権限がなかった
 b.これの主な職務は大番催促であった
 c.年貢の徴収をこれに請け負わせる荘園領主もあらわれた
 d.平氏の没官領や謀反人の所領跡にはこれが任命された

(答:い泰時、問5d※慣習や道理の法理で裁定する、問6b※守護の職務)〉

 

 〈2014明大・情報コミュ(情報コミュ(A))

問4 下線部(エ)『御成敗式目』に関する説明として、もっとも正しいものを次の1~4のうちから1つ選べ。

 

1 北条泰時が六波羅探題であったころ、大江氏のアドバイスをうけて作成した。
2 全51か条のうち、半数以上は金銭貸借関係の基準を示したものとなっていた。
3 律令の系譜を引く、公家法などを否定するものではなかった。
4 源氏全盛期の源義家以来の先例が法基準として重視された。

 

(答:3 ※1成立の1232年当時、泰時は既に執権で、大江広元は1148~1225年没。2所領関係などの所有の規定が多い。4頼朝以来の先例)

 

〈2013青山学院大・文教育経済法経営など

 1203年、将軍頼家を廃した[ ア ]は弟の実朝を第3代将軍とし、将軍補佐を名目として、幕府の実権を握ることになる。この[ ア ]の地位は[ エ ]とよばれ、子の義時に継承される。義時の後を継ぎ[ エ ]となった[ オ ]は実朝の死後、頼朝の遠縁にあたる摂関家出身の[ カ ]を鎌倉に迎えた。以後三代続いた摂関家出身の将軍を藤原将軍、摂家将軍とよんだ。」

 

(答:ア法条時政、エ執権、オ北条泰時 カ藤原頼経)〉

 

〈2013慶大・法

 3代執権泰時は、有力な御家人や政務に優れた11人を評定衆に選んで、合議制に基づいて幕府の政務の処理や裁判にあたらせた。1232年に、泰時は、評定における裁判の公正さを期すために、(エ)御成敗式目を制定した。体系的武家法の制定によって、幕府裁判において。荘園領主により御家人が訴えられた場合でも、対等な当事者として双方の主張を聞いて公平に訴訟の裁断をすることが出来るようになった。(オ)御成敗式目は、「武家の人」のためだけの定めであり、「京都の御沙汰、律令」には影響を与えないとして、公家法とは異なる規定も含んでいた。しかし、幕府勢力の発展につれて公平な裁判を重視する武家法の影響は広がり、当事者双方が非御家人あるいは東国非居住者である裁判でも、武家法の適用が求められるようになった。」

問エ.次のうち御成敗式目の内容として正しいものはどれか

1.守護は、夫役や雑税を荘園・公領に賦課することができる。
2.地頭が農民からの年貢をおさえとどめて、荘園領主に渡さない場合は、ただちに、地頭の権利を取り上げる。
3.子がない女性が養子を迎えて所領を譲ることは認められない。
4.ある所領を20年以上現実に支配している者には、正当な権利の有無にかかわらず、その支配をやめさせることはしない。
5.主人を異にする間の子供は、すべて母親の主人に帰属する。

問オ.泰時は、御成敗式目のこのような制定趣旨について説明する書状を、六波羅探題[  ]に送った。

 

(答:エ4※御成敗式目第8条(知行年紀法(20年の取得時効の制度))、オ北条重時)

 

〈2014明大・情報コミュ(情報コミュ(A)):「
 鎌倉幕府が成立すると、将軍家の女性も妻・母として政治への影響力を強めていった。源頼朝の妻( ア )は頼朝死後2代・3代将軍の母として御家人の信頼を集めつつ、幕府政治を安定させ、( イ )の後には、摂関家から幼少の将軍を出しつつも、彼女が政治を左右していた。もちろん、正式に征夷大将軍に任命されていないが、幕府の正史である( ウ )は彼女のことを「尼将軍」と誇っている。

問1 空欄( ア )に入る姓名を記述解答欄に漢字で記入しなさい。


問2 空欄( イ )に入る語句として、もっとも正しいものを、次の1~4のうちから1つ選べ。


 1宝治合戦 2元弘の変
 3承久の乱 4霜月騒動


問3 空欄( ウ )に入る語句として、もっとも正しいものを、次の1~4のうちから1つ選べ。


 1大鏡 2吾妻鏡
 3愚管抄 4十訓抄


(答:問1北条政子、問2→3、問3→2)〉

 

〈2014立大・現代心理社会コミュ福祉:「
問6.この鎌倉時代の文化に関する記述として正しいのはどれか。次のa~dから1つ選べ。

 a.西行は出家し、諸国を流浪しながら『東関紀行』を著した

 b.慈円は歴史を貫く原理をさぐり、『愚管抄』を著した
 c.道元はひたすら座禅に徹せよと説き、臨済宗をひろめた
 d.源実朝は万葉調の歌をよみ、『新古今和歌集』を編んだ

(答:b ※a『東関紀行(とうかんきこう)』は1242年成立の紀行文で作者未詳、c曹洞宗の誤り、d『金槐和歌集』の誤り)〉

 

〈2013明治大学・商

〔I〕以下の文章は歴史書『愚管抄』について記したものである。文章内におけるのa~eに入る最も適切な語句を1~5の中から選べ。また空欄[1~5]の中に入る最も適切な語句を漢字で記しなさい。

 鎌倉時代の僧、慈円(慈鎮)は、関白[ 1 ](1149~1207)の弟であり、比叡山延暦寺の最高位[ 2 ]にまでのぼった人物である。その著書『愚管抄』は、歴史を貫く「道理」と末法思想を柱にして。神武天皇から承久の乱直前までのわが国の歴史を叙述した書物であり、とくに901年成立のa[1『日本三代実録』2『続日本後紀』3『日本文徳天皇実録』4『類聚国史』5『日本後紀』]を最後にして勅撰正史がつくられなくなった平安中期以降の歴史を知るうえでは、重要史料とされている。
 類似の書物としては、南北朝時代の北畠親房によって書かれた歴史書『神皇正統記』が有名である。北畠親房はb[1『応安新式』 2『樵談治要』 3『建武年間記』 4『職原抄』 5『公事根源』]の著者としても知られているが、南朝の公家であったため『神皇正統記』は政治的には南朝の立場を正統とする思想が貫かれている。これに対し『愚管抄』には、慈円が[ 1 ]の弟であることからもわかるように、過去の摂関政治を肯定する叙述がしばしばうかがえる。
 摂関政治とは、早くは藤原忠平がc[1清和 2光孝 3醍醐 4朱雀 5冷泉]天皇(923~952)の幼少時に摂政、成人すると関白についたように、藤原氏の氏長者が独占的に摂政・関白の任につき、天皇権を代行する政治形態のことである。とくに969年の安和の変で左大臣[ 3 ](914~982)を失脚させたのを最後にして、藤原北家が天皇の外戚の地位を独占し、摂政・関白がほぼ常置される体制が整った。
 たとえば、以下の引用文は後三条天皇の荘園整理政策について叙述した『愚管抄』の有名な一節である。
 延久ノ記録所トテハジメテヲカレタリケルハ、諸国七道ノ所領ノ宣旨・官符モナクテ、公田ヲカスムル事、一天四海ノ巨害ナリトキコシメシツメテアリケルハ、スナハチ宇治殿(藤原頼通)ノ時、一ノ所ノ御領々々トノミ云テ、庄園諸国ニミチテd[1受領 2記録所 3宇治殿 4郡司 5院庁]ノツトメタヘガタシナド云ヲ、キコシメシモチタリケルニコソ。
 ところが、このとき藤原頼通は「ナンデウ文書カハ候ベキ」(なんで文書など持っていようか)と述べて、記録所への公験(権利を証明する文書)の提出を拒んでいる。そのため、最後は後三条天皇が折れ、「前太相国(頼通)ノ領ヲバノゾク」(頼通の荘園は除外する)ということを決定したという。ここの部分の叙述では、摂関家の荘園が他とは異なる由緒をもつものであり、後三条天皇もそれを容認していることが強調されている。
 また『愚管抄』は武士の世の到来を「保元元年七月二日、[ 4 ]院ウセサセ給テ後、日本国ノ乱逆卜云コトハヲコリテ後、ムサ(武者)ノ世ニナリニケルナリ」と表現したことでも有名であるが、一概に武家政治を否定していたわけではなかった。とくに1219年、将軍源実朝が暗殺された後、わずか二歳で将軍後継者として鎌倉幕府に推戴された三寅については、以下のように語っている。
 二歳ナル若公、祖父(西園寺)公経ノ大納言ガモトニヤシナヒケルハ、正月寅月ノ寅ノ歳・寅時ムマレテ、誠ニモツネノヲサナキ人ニモ似ヌ子ノ、占ニモ宿曜ニモメデタク叶ヒタリトテ、ソレヲ、終二六月廿五日ニ、武士ドモムカヘニノボリテ、クダシツカハサレニケリ。京ヲ出ル時ヨリクダリツクマデ、イササカモイササカモナクコヱナクテヤマレニケリトテ、不可思議ノコトカナト云ケリ。
 ここで慈円が、その器量を褒めたたえている「寅月ノ寅ノ歳・寅時」に生まれた三寅こそは、のちに初代の摂家将軍となる[ 5 ](1218~1256)である。慈円は「将軍ニハ摂籙ノ臣ノ家ノ君公ヲナサレヌル事ノ、イカニモイカニモ宗廟神ノ、猶君臣合體シテ昔ニカヘリテ、世ヲシバシヲサメントヲボシメシタル」(将軍に摂関家の若君を立てるということは、皇室の祖先神が君臣一体の昔の頃に帰ってしばらく世の中を治めさせようと、お考えになったために実現したものである)と述べて、自身の血統から出た三寅を必要以上に高く評価し、摂家将軍の誕生に大きな期待をかけたのである。
 なお『愚管抄』は、この摂家将軍を擁立した北条政子についても、「女人入眼ノ日本国イヨイヨマコト也ケリ」(日本国は女性が最後のしあげをする国だというのは本当だ)と高く評価している。こうした女性に対する高い評価がなされる背景には、慈円が生きた当時の社会では、実際に女性が政治や経済に大きな力をもっていたという事情があった。たとえば、内親王e[1障子 2姸子 3得子 4嬉子 5時子](1137~1211)は父母から伝領した膨大な荘園群を管理し、八条女院とよばれ、治承・寿永の内乱の政局にも大きな影響力を発揮している。

(答:1九条兼実、2天台座主、3源高明、4鳥羽、5九条頼経〔藤原頼経〕、a1、b4、c4、d1、e1)〉

 

〈2014明大・農(食料環境政策)

 この乱後、幕府は(イ)三上皇の配流などの処分を強行し、仲恭天皇に代えて、後堀河天皇を立てた。また、上皇方の責族・武士の西国を中心とする所領3000か所あまりを没収し、戦功のあった東国の武士たちをあらたに御恩として地頭に任命した。

 

問4 下線部(イ)三上皇の配流に関連して、三上皇の配流先の組み合わせとして正しいのはどれか。下記から最も適切なものを一つ選べ。

 

 A 後鳥羽上皇-隠岐、土御門上皇-佐渡、順徳上皇-土佐
 B 後鳥羽上皇-隠岐、土御門上皇-土佐、順徳上皇-佐渡
 C 後鳥羽上皇-佐渡、土御門上皇-隠岐、順徳上皇-土佐
 D 後鳥羽上皇-佐渡、土御門上皇-土佐、順徳上皇-隠岐
 E 後鳥羽上皇-土佐、土御門上皇-隠岐、順徳上皇-佐渡
 F 後鳥羽上皇-土佐、土御門上皇-佐渡、順徳上皇-隠岐

 

(答:B)

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