不憫長屋を4人の子 立場もなかろ道で桃。
藤原不比等・長屋王(ながやおう)藤原四子・橘諸兄(たちばなのもろえ))(藤原仲麻呂(なかまろ)・道鏡(どうきょう)・藤原百川
〈2018早大・法2/15
文武天皇の即位後には、持統太上天皇と[ C ]が主導し、[ D ]を総裁として新たな律令が編纂され、701年に大宝律令として完成した。半世紀にわたり進められた律令国家の建設は、ここに一応の完成をみたのである。
問9.空欄Cには、鎌足の子で、後に平城遷都や養老律令の編纂の中心となった人物が入る。漢字5字で記述しなさい。
問10.空欄Dの人物を、漢字4字で記述しなさい。
(答:C藤原不比等、D刑部親王)
〈2015同志社・法グローバルコミュ
次の文章を読み、下線部・空欄に対応する下記の設問に答えよ。
聖武天皇は、大宝元年(701)に文武天皇の子として藤原宮に生まれた。母はa藤原宮子である。慶雲4年(707)に文武天皇が亡くなると、祖母の元明天皇、伯母の元正天皇に続いて、神亀元年(724)に即位。即位後間もない天平元年(729)2月にb長屋王の変がおこる。これは養老5年(721)にc従二位右大臣となり、政権を担当し、その後正二位左大臣に進んだ長屋王を除くために藤原氏が画策した策謀であり、変後の8月には光明子の立后が実現したほか、藤原氏が大きく勢力をのばすこととなった。しかし、天平9年(737)に流行した天然痘によってア藤原四子があいついで病死し、藤原氏の勢力は一時後退した。
かわって政権を握ったのが皇族出身の橘諸兄であり、唐から帰国した吉備真備や玄肪が聖武天皇に信任されて活躍した。一方、d橘諸兄政権と対立し、藤原氏内部でも孤立したとも言われるイ藤原広嗣は、ウ.九州で玄昉と吉備真備らの排除を求めて大規模な反乱をおこしたが、鎖圧された。乱勃発の知らせをうけ東国への行幸に出発した天皇は、天平12年(740)12月にe新都を造営して遷都し、その後、複数の宮や都を転々とした。天皇は天平17年(745)に平城京へ戻るが、その頃から、ことに光明皇后の信任を得て、f大仏の造営を推進し、次第に橘諸兄政権の勢力を凌ぐ勢いになっていったのが藤原仲麻呂である。
彼は孝謙天皇が即位した天平勝宝元年(749)に大納言となり、中衛大将を兼ね、さらに( g )を設置してその長官に就任し勢力を広げた。またエ.大仏の開眼供養の日には、仲麻呂の田村第に孝謙天皇を迎えるなど天皇との連携も密であった。一方、このような藤原仲麻呂の台頭に対し、天平宝宇元年(757)にh.橘諸兄の子が仲麻呂を倒そうとするが、逆に滅ぼされた。仲麻呂は淳仁天皇を擁立して即位させると恵美押勝の名を賜り、破格の経済的特権を得るとともに権力を独占した。しかし、恵美押勝は後ろ盾であった光明皇太后が死去すると孤立を深め、孝謙太上天皇が道鏡を寵愛して淳仁天皇と対立すると、オ危機感ををつのらせて挙兵したが、太上天皇側に先制され滅ぼされた。淳仁天皇は廃されてカ流され、孝謙太上天皇が重祚して称徳天皇となった。
道鏡は称徳天皇の支持を得て太政大臣禅師、さらに法王とかって権力を握り、政治を行なった。神護景雲3年(769)には、称徳天皇が神託によってキ道鏡に皇位をゆずろうとする事件がおこったが、この動きは( i )らの行勤で挫折した。称徳天皇が亡くなると、ク.後ろ盾を失った道鏡は退けられた。つぎの皇位には、ケ.藤原百川らが図って光仁天皇が迎えられた。
【設問a】藤原宮子の父の名を解答欄に漢字で記せ。
【設問b】長屋王の父は天武天皇の皇子の高市皇子であるが、長屋王妃の吉備内親王の父も天武天皇の皇子で、大津皇子と皇位継承問題でライバル関係にあった人物である。この吉備内親王の父の名を漢字で記せ。
【設問c】長屋王の政権下の養老7年(723)に発布された、水田の開墾を奨励する法令の名称を解答欄に漢字で記せ。
【設問ア】藤原四子のそれぞれが興した4つの家のうち、嵯峨天皇の信任を得て、以降、とくに隆盛した家の祖は次のうち誰か。その番号を解答欄に記入せよ。
1.武智麻呂 2.房前 3.宇合 4.麻呂
【設問d】橘諸兄は光明皇后の異父兄であるが、母の名を漢字で解答欄に記せ。
【設問イ】藤原広嗣の出身は、藤原四子のそれぞれが興した4つの家のうちのどれか。その番号を解答欄に記入せよ。
1.南家 2.北 3.式家 4.京家
【設問ウ】(九州で)藤原広嗣が反乱をおこした時の官職は次のうちどれか。その番号を解答欄に記入せよ。
1.大宰帥 2.筑前守 3.大宰少弐 4.薩摩守
【設問e】この新都の名称を漢字で記せ。
【設問f】聖武天皇が大仏造立の詔を出した時の宮の名称を漢字で解答欄に記せ。
【設問g】空欄( g )には、光明皇后の皇后宮職が749年に昇格した官司の名称が入る。その名称を漢字4文字で解答欄に記せ。
【設問エ】大仏の開眼供養の西暦年は次のうちどれか。その番号を解答欄に記入せよ。
1.750年 2.752年 3.754年 4.756年
【設問h】この事件をおこした橘諸兄の子の名を漢字で解答欄に記せ。
【設問オ】この事件がおこった西暦年は次のうちどれか。その番号を解答欄に記入せよ。
1.760年 2.762年 3.764年 4.766年
【設問カ】淳仁天皇が流された地は、次のうちどの国にあったか。その番号を解答欄に記入せよ。
1.隠岐 2.土佐 3.佐渡 4.淡路
【設問キ】この道鏡の即位を告げた神社は、次のうちどの国にあったか。その番号を解答欄に記入せよ。
1.筑前 2.筑後 3.豊前 4.日向
【設問i】空欄( i )は、道鏡の即位の神託を確認するために派遣され、偽託であることを復奏して大隅に配流されるが、道鏡の失脚後は復帰し、平安遷都の進言などで活躍した人物である。その人物名を漢字で解答欄に記せ。
【設問ク】道鏡が追放された寺は、次のうちどの国にあったか。その番号を解答欄に記入せよ。
1.武蔵 2.下野 3.上野 4.常陸
【設問ケ】藤原百川と共に光仁天皇の即位に尽力した人物は次のうちどれか。その番号を解答欄に記入せよ。
1.藤原緒嗣 2.藤原仲成 3.藤原永手 4.藤原冬嗣
(答:a藤原不比等、b草壁皇子、c三世一身の法、ア2、d県犬養三千代(橘三千代)、イ3、ウ3、e恭仁京、f紫香楽宮(信楽宮)、g紫微中台(きゅう)、エ2、h橘奈良麻呂、オ3、カ4、キ3※偽託がバレた道教は〈憮然〉としたことだろう。、i和気清麻呂、ク2、ケ3)
藤原不比等(659~720)は、鎌足の子。大宝律令の制定および平城遷都に努力。養老律令を完成。娘宮子が聖武天皇を生み、藤原氏が外戚となる端緒をつくる。
長屋王(684~729)は、天武天皇の孫で、藤原不比等の死後、最高位の左大臣となり権勢を振い皇親政治をおこなう。
吉備内親王(きびないしんのう、生年不詳(天武天皇15年(686年)頃か?) - 神亀6年2月12日(729年3月16日))は、白鳳時代から奈良時代初期にかけての皇族。草壁皇子と元明天皇の次女。元正天皇の妹、文武天皇の姉または妹。長屋王の妃。長屋王の変で自殺に追い込まれた。
天皇が根拠のない密告を信じて政府首班の長屋王を死に追い込んだ背景には、皇位を巡る天皇の疑心暗鬼があったとする説もある。
Some say in the context of the Emperor's believing in the information without
solid foundation to force Prince Nagaya, the leader of the government, to
commit suicide was the Emperor's doubts and fears about the throne.
723(養老7)年三世一身の法
何さ長さは三世代?
723年 長屋王 三世一身の法
723年(養老7)墾田開発のため、三世一身法(さんぜいっしんのほう)を施行する。
723: Sanze-isshin Law (a law allowing farmers who cleared new lands to own them for a period of three generations) enacted for the agricultural development of reclaimed land.
不比等の後妻で、光明子の母である県犬養三千代(あがたいぬかいのみちよ)は、後宮(こうきゅう)の女官として大きな力を発揮し、賜姓して橘三千代となり橘氏の祖となる。
藤原四子(~737)は、藤原不比等の4子。729年、長屋王を、謀反の意思ありとして藤原武智麻呂らが邸を囲み、一族と共に自殺させ(長屋王の変)、光明子を立后させて覇権をにぎる。しかし、藤原四子は737年に疫病(天然痘か?)で相ついで亡くなった。
橘諸兄(684~757)は、皇族出身で光明皇后の異父兄。この権力の空白に諸兄は、738年に右大臣になり僧玄昉(?~746)・吉備真備(693?~775)らを登用して政権をにぎった。
740年 藤原広嗣の乱
詰れ広嗣元気よく。
740年 藤原広嗣の乱 玄昉・吉備真備の排斥を訴える 恭仁京
権勢をふるう玄昉・吉備真備の2人に反感を抱く者も多く、ついに藤原広嗣(宇合(うまかい)の子、式家)は740年に、2人の排斥を求めて大宰府で反乱(藤原広嗣の乱)を起こしたが、敗れた。
これをしりぞけた諸兄は、743年には左大臣となる。晩年は藤原仲麻呂に権勢がうつる趨勢のなかで失意のうちに死去。
恐怖なら 苦難しがらみ 平城京。
飛鳥浄御原(672年) 藤原京(694年~) 平城京(710年~) 恭仁京(740~) 難波宮(744年) 紫香楽京(744年~) 平城京(745年)
743年10月 紫香楽宮(※当時はまだ離宮、都になるのは744年)で大仏造立の詔。
馴染み大仏 造立し。
743年 聖武天皇 大仏造立の詔 「夫れ天下の富を有つ者は朕なり。」 紫香楽
h .仲麻呂は、757年橘氏の反撃(諸兄の長子橘奈良麻呂の変)を未然に封じ、独裁政権を確立。758年淳仁天皇を擁立し、天皇から恵美押勝の名を賜(たまわ)るなど一時全盛をほこった。
キ.この事件で、清麻呂は大隅に配流。このとき清麻呂の姉で孤児院をつくった和気広虫も連坐し備後に流されている。
769年 宇佐八幡宮神託事件。
難下る道 嘘っぱち。
769年 下野国薬師寺に左遷 道鏡 宇佐八幡宮神託事件
道鏡は、770年同天皇の病死で失脚、下野薬師寺に左遷され、その地で死去。
藤原百川(732~779)は、式家宇合の子(甥が種継)。称徳天皇の死後、道鏡排斥の中心となる。百川は、吉備真備らの反対を抑えて、壬申の乱以来の天智天皇の皇統でしかも62歳の光仁天皇(桓武天皇の父)を擁立し、平安初期の式家台頭の基礎を築く。
〈2014立大・法・経済(経済政策)・異文化コミュ
問5.下線部藤原不比等に関する次の出来事a~dを年代順に並べたとき、3番目に古いのはどれか。
a.息子たち4人が長屋王を滅ぼした
b.娘の光明子が聖武天皇の皇后となった
c.娘の光明子を文武天皇の皇太子に嫁がせた
d.娘の宮子を文武天皇に嫁がせた
問6.下線部聖武天皇の治世下で起きた政変はどれか。次のa~dから1つ選び、その記号をマークせよ。
a.応天門の火事をめぐり、大納言伴善男が政敵の失脚を画すが失敗に終わった
b.遷都をめぐり太上天皇が天皇と対立し、乱を企てた藤原仲成が射殺された
c.橘奈良麻呂が、台頭してきた藤原仲麻呂を除こうとするが、逆に滅ぼされた
d.藤原広嗣が吉備真備らの排除を求めて乱を起こすが、鎮圧された
問7.下線部奈良の都への望郷の思いから、大宰府の地にて、「あをによし奈良の都は咲く花の薫ふがごとく今盛りなり」と詠んだのは誰か。次のa~dからlつ選べ。
a.小野老 b.小野篁 c.小野道風 d.小野好古
(答:問5d→c→a→b ※a長屋王の変729年、b長屋王の変の直後、c716年、d697年)。問6d〇740年聖武天皇代 ※a×866年清和天皇代、b×810年嵯峨天皇代薬子の変、c×757年孝謙天皇代。問7a※「あをによし奈良の都は咲く花の薫(にを)ふがごとく今盛りなり(万葉集)」)
〈2014同志社大・文
【設問ウ】755~763年に唐で乱がおこり混乱が広がると、新羅攻撃を計画した人物がいた、光明皇大后の信を得て、新設された紫徴中台の長官に任じられた、その人物を次のうちから1つ選べ。
1.藤原清河 2.藤原広嗣 3.藤原仲麻呂 4.藤原百川
(答:3)
しかし光明皇太后が没すると孝謙上皇とは道鏡の処遇をめぐって不和となり、764年道鏡を除こうとして反乱を企てたが、事前に発覚して(情報漏(も)れで事前に発覚して失敗に終わった)、押勝は捕らえられ斬首された(恵美押勝の乱)。
〈2014早大・教育
問5 下線部d.8世紀ににわかに台頭してきた宇佐の八幡神は皇位にかかわる託宣を下し、この神託の判断をめぐって大きな混乱が巻き起こったについての説明で正しいものはどれか。
ア 孝謙天皇の重祚をうながす神託が下された。
イ 神託を確かめるために藤原百川が宇佐へ派遣された。
ウ 神託後、日本史上初の法王が誕生した
エ 石清水から宇佐へ勧請された八幡神が猛威をふるった
オ 神託によって皇位につくことをうながされた人物は、下野薬師寺に追放された
(答:オ〇 ※ア×孝謙天皇の重祚ではなく、道鏡の皇位就任に関する神託問題、イ×派遣されたのは和気清麻呂である、ウ×道鏡が法王になったのは766年、宇佐八幡宮の神託が下ったのは769年、エ×平安時代初期、宇佐八幡宮から石清水八幡宮に勧請(神仏の分霊を請じ迎えること)された)〉
〈2013早大・文
古代において、藤原氏の果たした役割には大なるものがある。そこで藤原氏について考えてみることにする。
藤原氏の基をつくったのは中臣鎌足である。鎌足は中大兄皇子に協力し、乙巳の変を成功させた。その後、改新の詔が出されたとされる。
鎌足の子供が[ A ]である。[ A ]は、大宝律令の編纂に尽力し、平城京への遷都にも協力した。藤原宮子は[ B ]天皇と婚姻関係を結び、首皇子(後の聖武天皇)を生むことになる。こうして藤原氏の権力基盤は確立していった。
(答:A不比等、B文武)
〈2012明大・商
天皇と皇族を中心とした政治形態である[ 2 ]の体制が崩れて、藤原氏の台頭に伴う権力争いが激しくなり、朝廷もそれを統制する力を失っていた。このような政治や社会の混乱の中で、徒に遷都が繰り返され、ときの聖武天皇は仏教の力による平穏を期待するばかりであった。この遷都のうち、京都府相楽郡に置かれたものをc【①紫香楽京 ②難波京 ③甲賀京 ④福原京 ⑤恭仁京】という。藤原氏は、鎌足以来皇族を中心とする[ 2 ]に関連してきたが、不比等は皇室との結びつきを強め、その四子も対立していた長屋王を追い落とし、臣下として初めて妹の光明子を天皇の皇后とすることに成功した。しかし、天然痘の流行で四子が相次いで病死すると勢力は一時衰え、政権は皇族出身の[ 3 ](684~757)や唐に留学経験のある玄昉、吉備真備らの主導するところとなった。玄昉と吉備真備は、[ 3 ]に重用されて活躍したが、d【①藤原百川 ②藤原武智麻呂 ③藤原緒嗣 ④藤原冬嗣 ⑤藤原広嗣】は、彼らを除くことを名目に、740年、乱を起したが、敗死した。やがて、藤原仲麻呂が政権の座についた。彼は、[ 4 ]天皇(733~765)から恵美押勝の名を賜り、権力を独占するようになり、太政大臣にまでのぼった。ところが、後ろ盾であった光明皇太后が死去すると孤立を深め、孝謙太上天皇の寵愛を受けた道鏡が台頭すると、道鏡を取り除こうとして乱を起し敗死した。このころ、僧侶のなかには、道鏡のように政治的野心をたくましくする者も現れた。のちに[ 4 ]天皇は、廃され、淡路に流された。孝謙太上天皇は、再び即位して称徳天皇となり、そのもとで道鏡による仏教政治が展開された。
道鏡は、称徳天皇のもとで、765年、太政大臣禅師に任じられ、さらに翌年は法王の地位に就いた。769年には、道鏡が、皇位を求める事件が起ったが、この動きは、和気清麻呂の行動で挫折した。[ 5 ]が道鏡の即位を促すお告げを下したが、その神意を聞く使いとなった和気清麻呂は、最初のお告げとは反対の報告をして道鏡の皇位をうかがう意図をくじいたのであった。清麻呂の行動の背景には、道鏡に反対する貴族たちが存在したとみられる。道鏡は、770年に称徳天皇が死去すると、ただちにe【①元興寺 ②会津慧日寺 ③西大寺 ④下野薬師寺 ⑤筑紫観世音寺】に追放され、そこで死去した。その後、道鏡時代の仏教政治で混乱した律令政治と国家財政の再建が追求されることになった。
(答:2皇親政治、3橘諸兄、4淳仁、5宇佐八幡宮、c⑤、d⑤、e④)
道鏡は、孝謙上皇が重詐した称徳天皇の下で権勢をふるう。上皇は僧道鏡を太政大臣禅師とし、さらに769年には法王(法王の地位や内容は不明)とした。
14.さらに天皇は、道鏡を皇位につけようとしたが、和気清麻呂らに阻止された(宇佐八幡宮神託事件)。
〈2012立大・経済法異文化コミュ
聖武天皇と(7)光明子との間には、皇子が生まれたものの早世してしまったため、娘である阿倍内親王が、聖武天皇から譲位されて天皇となった。孝謙天皇である。孝謙天皇は、父聖武天皇の事業を受け継ぎ、大仏開眼供養の儀式を盛大にとり行うなどした。他方、この時期には、光明皇太后の信を得た藤原仲麻呂が紫微中台の長官として権力を握っていた。これに対抗する〈 え 〉は、藤原仲麻呂を倒そうと図ったが、757年、計画が発覚し失脚してしまった。光明皇太后が病に伏せると、その看病のため、孝謙天皇は淳仁天皇に譲位した。淳仁天皇のもとで、藤原仲麻呂は、( ト )の名を得て、太政大臣としてさらに権力をふるった。ところが、光明皇太后の死後、このような状況に変化が生じる。孝謙太上天皇は、僧道鏡を重用して、淳仁天皇と対立するようになったのである。これに危機感を感じた( ト )は、764年挙兵するも、制圧された。この後、淳仁天皇も天皇の地位を追われて淡路に配流され、孝謙太上天皇が重祚し、称徳天皇となった。称徳天皇のもとで重用された道鏡は、太政大臣禅師、( チ )の位につき、さらには、宇佐八幡の神託を受けて、称徳天皇が道鏡に皇位を譲ろうとする事態が生じた。結局、宇佐八幡の神意を確認する役を担った( リ )の報告により、道鏡への譲位は行われなかった。称徳天皇の死後、後ろ盾を失った道鏡は失脚したが、天皇と道鏡との関係は『日本霊異記』などにも記され後世に語り継がれた。称徳天皇の後、天武天皇直系の皇統はとだえ、また、その後長い間、女性が天皇になることはなかった。
A.文中の空所それぞれにあてはまる適当な語句をしるせ。
B.下線部7光明子に関する記述として正しくないのはどれか。次のa~dから1つ選べ。
a.藤原不比等の孫であり、藤原仲麻呂とは従姉弟の関係にあった
b.仏教を篤く信仰し、鑑真から授戒を受けた
c.平城京に、悲田院を設けて孤児・病人を収容し、施薬院を設けて医療にあたらせた
d.律令では、皇后は皇族であることが条件とされていたにもかかわらず、藤原氏出身である光明子が聖武天皇の皇后となった
(答:Aえ橘奈良麻呂、ト恵美押勝、チ法王、リ和気清麻呂。Ba×※光明子は不比等の子(仲麻呂は不比等の孫)
光明皇后は皇后宮職に貧窮者・孤児の救済機関「悲田院」「施薬院」を設置。
730年(天平2年)4月 皇后宮職に悲田院・施薬院を置く。
為され巧妙 火で背焼く。
730年 光明皇后 悲田院・施薬院
730年、施薬院は光明皇后の発願により、悲田院とともに創設され、病人や孤児の保護・治療・施薬を行った。
In 730 Seyaku-in and Hiden-in were established together based on the wish of Empress Komyo to accommodate, provide relief and dispense medicine for sick
people and orphans.
8.藤原仲麻呂(706~764)は、武智麻呂の第2子、南家出身。光明皇太后の信任により、藤原氏再台頭をはたす。光明皇后の後見機関の皇后宮職を唐風に改称した紫微中台の長官に就任して、政治の実権を握る。
12.僧道鏡(?~772)は、河内国志紀郡弓削出身の僧。孝謙上皇の病気を秘法で治し寵愛を得て政界に進出。
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