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藤原仲麻呂(恵美押勝)

2020-02-16 | 入試問題+ゴロ合わせ

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755新羅攻撃・757年橘奈良麻呂の変・758年淳仁天皇・760年太師 南家・養老律令施行)(紫微中台・恵美押勝

757橘奈良麻呂が、台頭してきた藤原仲麻呂を除こうとするが、逆に滅ぼされた
(757年孝謙天皇代

泣こう奈良麻呂 仲間割れ。

757 孝謙天皇 橘奈良麻呂の乱 藤原仲麻呂

橘諸兄の死後、同年に息子・奈良麻呂は謀反(橘奈良麻呂の乱)を起こし獄死している。

After TACHIBANA no Moroe passed away, his son Naramaro committed a rebellion (TACHIBANA no Naramaro War) in the same year, and died in prison.

 

橘奈良麻呂が藤原仲麻呂を滅ぼして、天皇の廃立を企てたが、密告により露見して未遂に終わった。

TACHIBANA no Naramaro planned to overpower FUJIWARA no Nakamaro and to enthrone and dethrone the emperor;

however, the coup did not succeed due to its exposure by a force of betrayal.



養老律令(成立は718年)が施行されたのは、藤原仲麻呂が政権を担当していた757年である。

唐で安史の乱(安禄山・史思明の乱、755~763)がおこり混乱が広がると、押勝は新羅攻撃を計画したが、実現しなかった。

恵美押勝は(760年1月)皇族以外で初めて太師(たいし)〔大師〕(太政大臣に相当)に任じられる。しかし後ろ盾であった光明皇太后が死去する(760年7月)と孤立を深め、孝謙太上天皇が自分の看病にあたった僧道鏡を寵愛して淳仁天皇と対立すると、危機感をつのらせて764(天平宝字8)年挙兵したが、太上天皇側に先制され滅ぼされた(恵美押勝の乱)。

2018同志社大・経済文2/6

(5)758年8月、孝謙天皇は譲位して、( サ )天皇が即位した。760年には光明皇太后が崩御し、政治権力のバランスが崩れることになる。762年に( サ )天皇と孝謙太上天皇の仲が不和になり、天皇の国家の大事や賞罰の決定権を孝謙太上天皇が奪い取ってしまった。この流れの中で、764年にはg藤原仲麻呂が乱を起こすが斬首された。また、同年10月には孝謙太上天皇は( サ )天皇を廃位し( シ )した。

【設問f】空欄(サ・シ)に入る語を漢字で記せ。

【設問g】下線部gの藤原仲麻呂は、天皇の即位に伴って恵美押勝という名を賜わった。彼は唐を模倣した儒教政策を進めるなかで、官名を唐風に改めさせた。760年には、皇族以外で生前にその地位に就いた人のない太政大臣に当たる地位を与えられた。この太政大臣に当たる唐風に改められた官名を、漢字で記せ。

(答:問fサ淳仁、シ重祚、問g大師〔太師〕)

藤原仲麻呂(706~764)は、孝謙天皇の時代に光明皇太后と結んで政界で勢力をのばした。なお南家で、問われる有名人は、始祖の武智麻呂とその次男仲麻呂の2人のみ。


紫微中台は光明皇后の皇后宮職を唐風に改称したもので、(757年)仲麻呂はその長官(紫微内相:大臣に相当)となって権力をふるった。長官はもと紫微令といったが、紫微中台を太政官と同格にするため、内相とあらためた。

2017立命館大・全学部2/3

〔A〕1)天皇の東国行幸に際し、前騎兵大将軍を務めた彼は、民部卿から式部卿を経て大納言に任ぜられた。やがて天皇が皇太子に譲位し、皇后宮職を発展させて新たな組織が設置されると、その長官を兼務し、それまで朝廷の最高位にあった人物を凌いで、しだいに朝政の実権を掌握した。叔母である皇太后の信任を受け、軍事的権限から銭貨の鋳造権まで得た彼は、自身が新たに天皇を擁立し、そのもとで専制的な政治を推進し、2)律令官制の最高位にのぼったが、皇太后の崩御を契機として権力が衰え、3)従姉妹にあたる太上天皇との間に対立が生じた。最終的には、軍事蜂起を試みたが失敗し、琵琶湖畔で命を絶たれた。

(a)下線部1)の「東国行幸」は、九州で生じたあるできごとを契機に行われた。藤原式家の人物が起こした、このできごととは何か。

(b)下線部2)に関連して、当時、律令官制の名称は唐風に改められていたが、彼が就任した太政大臣に相当する官職は何と呼ばれたか。もっとも適当な名称を下から一つ選べ。

 あ)大師(太師) い)大保 う)紫微令 え)大傅

(c)下線部3)の「太上天皇」について述べた文章として、適当でないものを下から一つ選べ。
 
 あ)彼女は、史上初めて女性で皇太子の地位に就き、父の天皇の譲位により即位した。
 い)彼女が在位中に盧舎那大仏が完成し、盛大に開眼供養が行われた。
 う)譲位して太上天皇となった彼女は、出家して尼となり、道鏡を師と仰いだ。
 え)再び天皇となった彼女は、唐から帰国した道慈に命じて、大安寺を整備させた。」

(答:a藤原広嗣の乱、bあ、cえ×※道滋(?~744)、孝謙天皇(位749~770))

大安寺は、天平元(729)年、聖武天皇が道慈に勅して造立させた。初め、聖徳太子の遺志により百済大寺を建立。天武天皇の677年、寺を高市(飛鳥)に移建し大官大寺と号するようになり、さらに平城遷都とともに聖武天皇は天平元年、道慈に勅し、建立させ、天平17(745)年に完成。大安寺と号されるようになった。

740年 藤原広嗣の乱 

詰れ広嗣 元気よく。

740年 式家 藤原広嗣の乱 玄昉・吉備真備の排斥を訴える 恭仁京

権勢をふるう玄昉・吉備真備の2人に反感を抱く者も多く、ついに藤原広嗣(宇合(うまかい)の子、式家)は740年に、2人の排斥を求めて大宰府で反乱(藤原広嗣の乱)を起こしたが、敗れた。

※長岡京造営を主導した藤原種継、薬子の変を起こした仲成・薬子も式家である。皆不遇の死を遂げ、式家で天寿を全うできたのは光仁天皇を擁立した百川くらいなので〈死期家〉と覚えよう。

ウマ拾う桃 種失くす。
宇合・広嗣 百川・種継・仲成・薬子

2016学習院大・済営

 1『続日本紀』は764年に亡くなったある人物の生前の様子について、次のような内容を伝えている。

 (前略)押勝は、近江大津宮の内大臣だった[ 2 ]の曾孫で、平城京時代になってから活躍し亡くなってから太政大臣を贈られた[ 3 ]の第二子である。頭脳は賢く鋭敏で、多くの書物に親しんでいた。大納言だった阿倍少麻呂(宿奈麻呂)に師事して4算道を学び、その学問に精通するまでになった。

 (中略)749年に彼は、正三位で大納言、さらに紫微中台の長官である紫微令と中衛府の長官である中衛大将を兼ねるという地位になり、政治の中心の重要部分をひとりで掌握するまでになった。このため、名門貴族たちがみなその権勢を妬み、757年には[ 5 ]らが彼を排除する企てを謀ったが、そのことは孝謙天皇の廃位にまで関わる問題であり、謀反とされて逆に滅ぼされた。その年に彼は紫微内相に任じられた。758年には大保(右大臣相当)に任じられ、天皇からの勅命によって特別に優遇され、姓に「恵美」の二文字を入れ、押勝という名をたまわり、功績に対する[ 6 ]として3000戸、田100町を与えられて、さらに7銭貨鋳造や私出挙や「恵美」家の印を使うことを許された。760年には大師(太政大臣相当)に任じられた。8彼の子息たちは参議となったり、衛府や三関の所在する要国の国司となったりして、そのほかの重要な役職も彼の姻戚が独占し、彼は権威をほしいままにしたので、周囲からの批判が日常的に続くこととなった。ときに、道鏡が常に内裏に仕えて、9孝謙太上天皇から非常な寵愛を受けるようになると押勝はこれを疎ましく思って不安を覚えるようになった。(後略)

 これ以後、この人物は孝謙太上天皇との対立を深め、兵を集めて反旗を翻し、宇治から近江国へと逃れて不利な形勢を立て直そうとした。しかし、孝謙太上天皇の下の政府軍は先回りして10近江国府を押さえていたため、そこから北行して越前国を頼って逃れようとした。ところが、そこでも政府軍は先回りして越前国に入れさせなかったため、彼はやむなく琵琶湖西岸を逃げながら政府軍と戦い、敗死した。

〔設問〕
問1 下線部1に関して、六国史のうち『続日本紀』に続く次の時代内容をまとめた史書は何か、答えなさい。

問2 [ 2 ]にあてはまる人名を答えなさい。

問3 [ 3 ]にあてはまる人名を答えなさい。

問4 下線部4の算道は、このころ都にあった公的機関でも学生に対して教えられていた。その公的機関の名称を答えなさい。

問5 [ 5 ]にあてはまる人物の祖母にあたり、[ 3 ]にあたる人物の父の妻となって光明子を生んだのは誰か、人名を答えなさい。

問6 [ 6 ]には、指定された特定の戸から出される調・庸などを、収入として受け取ることができる制度を指す用語があてはまる。この用語を答えなさい。

問7 下線部7に関して、本来、銭貨鋳造権は国家によって独占されている。国家によって鋳造された、8世紀初頭の和同開称から10世紀半ばの乾元大宝までの銭貨を総称して何というか、その呼称を答えなさい。

問8 下線部8に関して、彼の子息のうち朝臈(あさかり)は、押勝の専制政権期に陸奥守・陸奥按察使・鎮守将軍を兼任し、東北地方経営にあたった。その時期に、出羽国の横手盆地に造営されたと考えられ、海岸部の秋田城とともに出羽国における対蝦夷政策の最前線となった施設の名称を答えなさい。

問9 下線部9に関して、押勝が擁立した天皇は、孝謙太上天皇を批判したため太上天皇と対立した。押勝が殺された後にこの天皇はその地位を追われ、都から追放されて幽閉された。どの国に幽閉されたか、答えなさい。

問10 下線部10に関して、近江国府から瀬田川を挟んだ西側には、押勝の専制時期にある寺院の造営が進められた。平安時代には天皇や摂関家も多く帰依し、紫式部が参寵したことも伝えられる。また、中世になって描かれたこの寺院の縁起についての絵巻には、大津の関所を通る馬借が描かれていることでも著名である。この寺院の名称を答えなさい。

(答:問1日本後紀、問2中臣鎌足(藤原鎌足、問3藤原武智麻呂、問4大学、問5県犬養橘三千代、問6食封(封戸)、問7皇朝十二銭(本朝十二銭)、問8雄勝城、問9淡路国、問10石山寺)

759年 藤原朝刈、秋田雄物川流域に雄勝城を造営する。

なぁ刻苦朝 雄勝城。

759年 藤原朝刈、秋田雄物川流域に雄勝城を造営

757年(天平宝字元年)に仲麻呂の子藤原朝狩が陸奥守となり、新たに勢力外だった土地に桃生城および雄勝城を建設した。

In 757, FUJIWARA no Asakari, a son of Nakamaro, was appointed Mutsu no kami (the governor of Mutsu Province) newly building Momonou-jo Castle and Okachinoki Castle in an area which was formerly out of their control.


のち淳仁天皇は廃されて淡路に流され、孝謙太上天皇が重祚して称徳天皇となった。


2014同志社大・文

 755~763年に唐で乱がおこり混乱が広がると、新羅攻撃を計画した人物がいた、光明皇大后の信を得て、新設された紫徴中台の長官に任じられた、その人物を次のうちから1つ選べ。

 1.藤原清河  2.藤原広嗣  3.藤原仲麻呂 4.藤原百川」

(答:3.藤原仲麻呂)

仲麻呂は淳仁天皇を擁立して即位させると恵美押勝の名をたまわり、破格の経済的特権を得るとともに権力を独占した。

2013立命館・文法済営などA方式

問 下線部③718年に養老律令がつくられたに関して、養老律令は、大宝・養老両律令の編纂に関わった人物の孫が政権を掌握した時期に施行された。政権を掌握した孫とは誰か。氏名を漢字5文字で答えよ。」

(答:藤原仲麻呂)

これまで政権を握っていた橘諸兄の子の奈良麻呂は仲麻呂をたおそうとするが、逆に滅ぼされた(757年、橘奈良麻呂の変)。

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