▲大木喬任
● 明治時代(明治天皇)
The Education Order of 1872 establishes Japan’s first modern school system.
いやな布告か Oh!学制。
1872年 富国強兵 フランス式
画一的 大木喬任
学制発布
明治政府は近代国家の建設のため、学校教育の整備を重視。
富国強兵策の一環として1871年に文部省が設置され翌1872年、文部卿大木喬任の尽力によって国民皆学を旨とする学制を公布。
重い学費負担は農民一揆の原因となった。
また、フランス式の実学主義を採ったが、画一的(かくいつてき)に過ぎたため、79年の教育令によって廃止された。
《流れを掴む“教育史”》
フランス式の学制に始まる画一的教育制度への批判から、アメリカ流自由主義的な教育令が出されたが、翌年には改正され政府の監督責任が強調された。
学校令や教育勅語にでは国家主義重視の方向を採った。
夏の学生 泣くよ今日、遣(や)ろう学校 くれ勅語。
(18)72年 学制
(18)79年 教育令 (18)86年 学校令 (18)90年 教育勅語
[point]
1.明治初期の教育法令は、フランスを範とした学制→アメリカを範とした教育令→ドイツを範とした学校令の順で発令された。
[解説]
1.学制(1872.8)は、フランスの学校制度にならい、修学年限は6歳以上、男女平等で統一的な小学校教育を建設することを目的とした教育法令。全国を8大学区に分け、各大学区に大学校1、中学校32、各中学区に小学校210を設ける規定であったから、予定では全国の小学校は5万3760校となり、当時の人口で約600人に1小学校の割合であった。しかし、この計画はあまりにも画一的で現実とかけ離れて当時の国民生活にあわなかった。
2.教育令(1880)は、アメリカを範とした自由主義的教育制度。全国画一の学区制を廃して町村を小学校の設置単位とし、その管理も地方に移管し、就学義務を大はばに緩和した。しかし、強制から放任への急転換は大きな混乱を招いたので、教育令は翌年にははやくも改正された。
3.学校令(1886)は、ドイツ式国家主義的学校制度で、初代文相森有礼が推進。学校令とは、帝国大学令・師範学校令・中学校令・小学校令などの総称で、小学校・中学校・師範学校・帝国大学などからなる学校体系が整備された。小学校・中学校・師範学校は、それぞれ尋常(じんじょう)・高等の2種に分けられたが、のち、尋常中学校が中学校、高等中学校が高等学校へと改称された。また、唯一の官立大学であった東京大学は、この時、帝国大学に改組された(1897年には東京帝国大学と改称)。
〈2017早大・社会:「
問9 下線部(8)学制に関連して、明治期の学校教育についての記述として、不適切なものはどれか。1つ選べ。
イ 学制では8歳以上の男女すべてが就学することとされ、国民皆学教育が目指された。
ロ 学制がつくられた当初は、学校建設費は地元の人々の負担とされ、授業料も有料であった。
ハ 高等教育を担う民間の機関として、慶応義塾・同志社・東京専門学校などの私立学校があった。
ニ 1903年に小学校の国定教科書の制度が確立した。
ホ 東京開成学校と東京医学校が統合されて、東京大学が設立された。」
(答:イ ※修学年限は6歳以上)〉
〈2017関西学院大・全学部2/1:「
問8 a、bの正誤を判断せよ。
a.西郷隆盛を中心とする留守政府は、廃藩置県や学制・徴兵制の実施、地租改正などの大きな内政改革を推進した。
b.地租改正条例では税率を地価の5%としたが、反対の一揆が起こったので、政府は税率を3%に引き下げた。
(答:a×、b× ※a×廃藩置県は留守政府以前の政策、留守政府の主な政策は学制・徴兵令・地租改正など、b×3%を2.5%にした)〉
〈2016関西大・全学部2/8:「
E 明治政府は、1871年に文部省を設置した。翌年に、フランスの学校制度にならって7[ア学制 イ教育令 ウ教育勅語]が公布された。その序文の「学事奨励に関する太政官布告」には、「学問ハ身ヲ立ルノ財本」と記され、智を開き、産をつくるための学問という功利主義的教育観が示されている。
F 第1次伊藤博文内閣のもとで初代文部大臣となった8[ア元田永孚 イ森有礼 ウ西周]は、1886年に9[ア教学聖旨 イ学校令 ウ学校教育法]を制定し、近代的な学校体系が確立された。小学校に関しては、1890年に小学校令が改正され、10[ア尋常小学校 イ高等小学校 ウ国民学校]の3あるいは4年間の義務教育が明確化された。」
(答:7ア、8イ、9イ、10ア)〉
〈2016早大・人間科学:「
近代化政策を推進した明治政府は、教育の普及にも力を入れた。政府は1872年にa学制を公布し、全国各地で小学校の設置を進めた。しかし、学制において示された学校設置の計画は、当時の国民生活の実情に合わなかったため、1879年の[ 1 ]によって改められた。
問1 明治政府が下線部a学制を定めるにあたって主に範としたのはどの国か、1つ選べ。もし該当するものがなければ、カをマークせよ。
ア アメリカ イ イギリス
ウ オランダ エ ドイツ
オ フランス
問3 空欄1に該当する法令・布告はどれか、1つ選べ。もし該当するものがなければ、カをマークせよ。
ア 改正教育令
イ 学事奨励に関する太政官布告
ウ 学校令
エ 教育令
オ 小学校令」
(答:問1オ、問3エ)〉
〈2012明大・文:「
欧米列強に対抗するため、新生の明治国家は積極的に西欧の制度や文化を取り入れようとした。教育の面では、1871年(明治4)に[ a ]が設置されたのに続き、翌年には[ b ]の学校制度を手本とする統一的な学制が敷かれ、小学校教育の普及に力が入れられた。しかし画一的な強制に対する批判が起こり、教育制度は改変をかさね、1886年(明治19)に[ c ]のもとでいわゆる学校令が公布され、小学校・中学校・師範学校・帝国大学などからなる学校体系が整えられた。それとともに、教育政策はしだいに国家主義重視の方向へと変化していき、1890年(明治23)10月発布の[ d ]によって、忠君愛国が学校教育の中心に据えられた。
問1.空欄aにあてはまる国の行政機関名を記せ。
問2.空欄bにあてはまる国名をカタカナで記せ。
問3.空欄cにあてはまる、空欄aの行政機関の大臣をつとめる人物の氏名を記せ。
問4.空欄dにあてはまる語を四字で記せ。」
(答:a文部省、bフランス、c森有礼、d教育勅語)〉
初期制度の整備・7事項年代順)
小学生教育学校直後告ってろ。
(文部省(もんぶしょう)・学制・教育令)(学校令)(教育勅語)(国定教科書・小学校6年制)
[句意]小学生の教育の学校(つまり小学校)では教育勅語に凝りかたまっていなさいね、という句。
[ポイント]
1.教育制度は文部省を設置後、学制→教育令→学校令→教育勅語→国定教科書制→小学校6年制、と変遷。
[解説]
1.1871(明治4)年の文部省の新設に続いて、翌72(明治5)年に、フランスの学校制度にならった統一的な学制が公布された。政府は、国民各自が身を立て、智をひらき、産をつくるための学問という功利(こうり)主義的な教育観をとなえて、小学校教育の普及に力を入れ、男女に等しく学ばせる国民皆学(かいがく)教育の建設をめざした。なお初代文部卿は大木喬任(おおきたかとう)。
2.学制のもとで、小学校教育の普及に努力が払われた結果、義務教育の就学率はしだいに高まったが、地方の実情を無視した画一的な強制に対する政府内外の批判から、1879(明治12)年には学制は廃され教育令が公布された。教育令では、全国画一の学区制を廃して町村を小学校の設置単位とし、その管理も地方に移管し、就学義務を大はばに緩和した。
しかし、強制から放任への急転換は大きな混乱を招いたので、教育令は翌年にははやくも改正され、小学校教育に対する政府の監督責任が強調された。
3.これらの試行錯誤をへて、1886(明治19)年に森有礼(もりありのり)文部大臣のもとでいわゆる学校令が公布され、小学校・中学校・師範学校・帝国大学などからなる学校体系が整備された。尋常・高等小学校各4年のうち、尋常小学校4年間が義務教育とされた。さらに1907(明治40)年には義務教育は6年間に延長された。
4.同時に、教育政策はしだいに国家主義重視の方向へと改められていき、1890(明治23)年に発布された教育に関する勅語(教育勅語)によって、忠君愛国が学校教育の基本であることが強調された。また1903(明治36)年に小学校の教科書を文部省の著作に限ることが定められ(国定教科書)、教育に対する国家の統制が強まった。
5.1892(明治25)年の就学率は男子70%、女子36%であったが、1900(明治33)年に義務教育期間の授業料が廃止されたため、就学率は1902(明治35)年に90%を超えた。
6.1891(明治24)年、キリスト教徒の内村鑑三は、講師をつとめる第一高等中学校での教育勅語奉読式の際、天皇の署名のある教育勅語への拝礼を拒否したために教壇を追われた(内村鑑三不敬事件)。
〈2017早大・社会:「
問9 下線部(8)学制に関連して、明治期の学校教育についての記述として、不適切なものはどれか。1つ選べ。
イ 学制では8歳以上の男女すべてが就学することとされ、国民皆学教育が目指された。
ロ 学制がつくられた当初は、学校建設費は地元の人々の負担とされ、授業料も有料であった。
ハ 高等教育を担う民間の機関として、慶応義塾・同志社・東京専門学校などの私立学校があった。
ニ 1903年に小学校の国定教科書の制度が確立した。
ホ 東京開成学校と東京医学校が統合されて、東京大学が設立された。」
(答:イ ※修学年限は6歳以上)〉
〈2016関西大・全学部2/8:「
E 明治政府は、1871年に文部省を設置した。翌年に、フランスの学校制度にならって7[ア学制 イ教育令 ウ教育勅語]が公布された。その序文の「学事奨励に関する太政官布告」には、「学問ハ身ヲ立ルノ財本」と記され、智を開き、産をつくるための学問という功利主義的教育観が示されている。
F 第1次伊藤博文内閣のもとで初代文部大臣となった8[ア元田永孚 イ森有礼 ウ西周]は、1886年に9[ア教学聖旨 イ学校令 ウ学校教育法]を制定し、近代的な学校体系が確立された。小学校に関しては、1890年に小学校令が改正され、10[ア尋常小学校 イ高等小学校 ウ国民学校]の3あるいは4年間の義務教育が明確化された。」
(答:7ア、8イ、9イ、10ア)〉
〈2016早大・商
問D 下線部ハ教育勅語に関する記述として誤っているものを1つマークせよ。
1.第一次伊藤博文内閣の時に定められた。
2.「御真影」とともに各学校に配布された。
3.祝日の儀式の時、校長などによって奉読された。
4.奉拝の式で拝礼しなかったとして内村鑑三が辞職に追い込まれた。
5.第二次世界大戦後、衆参両議院で失効が決議された。」
(答:1×第2次山県有朋内閣)〉
〈2016上智大・法(地球)済(営)総人(社福)
( a )年に出された( あ )は、( い )・元田永孚らによって起草されたもので、儒教主義的な家族道徳を基礎に忠君愛国、忠孝一致を教育の基本として強調している。( あ )は、こののち長く学校教育の基本理念とされるが、それは学校制度における「教育」と「学問」の二元的構造を生み出すことにもなった。
1903年には小学校の( う )制度が定められ、教育に対する国家統制が強められた。また、政府は日露戦争後、国民に芽生え始めた個人主義的・享楽主義的傾向に対して、( b )年、勤倹節約と皇室の尊重を国民に求める( え )を発布して、国民道徳の強化に努めた。1911年に「尋常小学日本歴史」の教科書における南北朝の記載が政治問題化すると、政府は直ちに修正を行い、同年10月に( お )論に基づいて、南北朝の記載を吉野朝に改め、( か )を逆賊とする改訂版を出した。こうして小学校の教科書では、歴史上の事実も国民道徳優先の立場で選択されるようになった。
問1 文中の空欄( あ )~( か )に入る適切な語句を次の中から1つずつ選びなさい。
1足利尊氏 2井上毅 3上杉慎吉
4大木喬任 5岡田啓介 6桂太郎
7河合栄治郎 8菊池武夫 9久米邦武
10楠木正成 11津田左右吉 12穂積八束
13美濃部達吉 14森有礼 15吉野作造
16学事奨励に関する太政官布告 17学制
18学校令 19義務教育 20教育費無價
21教育勅語 22神代史の研究
23憲政の常道 24国定教科書
25古代研究 26国家有機体説
27国体の本義 28国家総動員法
29国体明徴声明 30国民精神作興詔書
31臣民の道 32天皇機関説
33天皇主体説 34北朝正統
35戊申詔書 36南朝正統
37南北朝合体 38日本文化史研究
39民本主義 40立憲政体論
問2 空欄(a~b)に当てはまる数字を次の中から1つずづ選びなさい。
1.1872 2.1886 3.1888
4.1890 5.1905 6.1908
7.1910 8.1915 9.1933
10.1935 11.1937 12.1941
問3 空欄(あ~え)に該当する史料を、次の中から1つずつ選びなさい。なお、史料は一部抜粋である。
1.恭しく惟みるに、わが国体は、天孫降臨の際下し賜へる御神勅に依り明示せらるゝ所にして、万世―系の天皇国を統治し給ひ、宝祚の隆は天地と与に窮なし。されば憲法発布の御上諭に「国家統治ノ大権ハ之ヲ祖宗ニ承ケテ之ヲ子孫二伝フル所ナリ」と宣ひ、憲法第一条には「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と明示し給ふ。
2.朕惟フニ方今人文日ニ就リ月ニ将ミ、東西相倚リ彼此相済シ以テ其ノ福利ヲ共ニス。朕ハ爰ニ益々国交ヲ修メ友義ヲ惇シ、列国ト与ニ永ク其ノ慶ニ頼ラムコトヲ期ス。顧ミルニ日進ノ大勢ニ伴ヒ、文明ノ恵沢ヲ共ニセムトスル。固ヨリ内国運ノ発展ニ須ツ。
3.人々自ラ其身ヲ立テ、其産ヲ治メ、其業ヲ昌ニシテ、以テ其生ヲ遂ル所以ノモノハ他ナシ、身ヲ修メ、智ヲ開キ、才芸ヲ長スルニヨルナリ。而テ其身ヲ修メ、智ヲ開キ、才芸ヲ長スルハ学ニアラサレハ能ハス。是レ学校ノ設アル所以ニシテ……凡人ノ営ムトコロノ事、学アラサルハナシ。
4.朕惟フニ国家興隆ノ本ハ国民精神ノ剛健ニ在リ。之ヲ涵養シ之ヲ振作シテ、以テ国本ヲ固クセサルヘカラス。……国体ニ基キ淵源ニ遡リ、皇祖皇宗ノ遣訓ヲ掲ケテ其ノ大綱ヲ昭示シタマヒ、後又臣民ニ詔シテ忠実勤倹ヲ勧メ、信義ノ訓ヲ申ネテ荒怠ノ誠ヲ垂レタマヘリ。
5.朕惟フニ我カ皇祖皇宗国ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ。我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世々厥ノ美ヲ済セルハ此レ我カ国体ノ精華ニシテ、教育ノ淵源亦実ニ此二存ス。
6.大日本帝国は、万世―系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給ふ。これ、我が万古不易の国体である。而してこの大義に基づき、―大家族国家として億兆一心聖旨を奉体して、克く忠孝の美徳を発揮する。これ、我が国体の精華とするところである。この国体は、我が国永遠不変の大本であり、国史を貫いて炳として輝いてゐる。而してそれは、国家の発展と共に弥々旱く、天壌と共に窮るところがない。我等は先づ我が肇国の事実の中に、この大本が如何に生き輝いてゐるかを知らねばならぬ。」
(答:問1あ21、い2、う24、え35、お36、か.1、問2a4、b6、問3あ5、え2)
〈2013京都大・前期
次の問について、200字以内で解答せよ。句読点も字数に含めよ。
問2 明治期における初等教育制度とその普及について、教育法令の変遷や男女の就学率に留意して述べよ。」
(解答例:政府は文部省を新設、フランス式の画一的な学制で国民皆学をめざした。次のアメリカ式の自由主義的な教育令は就学義務を緩和したが混乱を招いた。学校令で国家主義的なドイツ式を採用し学校体系が整備され、小学校の義務教育は4年とした。教育勅語で儒教主義教育の面を推進した一方、義務教育の授業料廃止で男子に較べ低かった女子の就学率が上昇した。日露戟争後、義務教育が4年から6年に延長され、就学率は90%を超えた。(198字))〉
〈2012明大・文
欧米列強に対抗するため、新生の明治国家は積極的に西欧の制度や文化を取り入れようとした。教育の面では、1871年(明治4)に[ a ]が設置されたのに続き、翌年には[ b ]の学校制度を手本とする統一的な学制が敷かれ、小学校教育の普及に力が入れられた。しかし画一的な強制に対する批判が起こり、教育制度は改変をかさね、1886年(明治19)に[ c ]のもとでいわゆる学校令が公布され、小学校・中学校・師範学校・帝国大学などからなる学校体系が整えられた。それとともに、教育政策はしだいに国家主義重視の方向へと変化していき、1890年(明治23)10月発布の[ d ]によって、忠君愛国が学校教育の中心に据えられた。
問1.空欄aにあてはまる国の行政機関名を記せ。
問2.空欄bにあてはまる国名をカタカナで記せ。
問3.空欄cにあてはまる、空欄aの行政機関の大臣をつとめる人物の氏名を記せ。
問4.空欄dにあてはまる語を四字で記せ。」
(答:a文部省、bフランス、c森有礼、d教育勅語)〉
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