●明治時代(明治天皇 第三次伊藤博文内閣)
Constitutional Party is formed.
飛躍(ひやく)は自信 憲政を。
1898年 自由党 進歩党 憲政党 第一次大隈重信内閣
第3次伊藤内閣の地租増徴案に、自由党と進歩党が反対。1898年、両党の合同による憲政党を母体に、日本初の政党内閣第1次大隈重信内閣が板垣退助を内相とするいわゆる隈板内閣として成立。しかし尾崎行雄文相の共和演説事件を契機に党は分裂、内閣は4ヶ月で倒れた。
[ポイント]
1.1898年成立の隈板内閣は、憲政党(直前に自由党と進歩党が合同)による初の政党内閣。
[解説]
1.日清戦争の勝利と三国干渉は、政府と政党の関係を大きく変化させた。自由党は第2次伊藤博文内閣を公然と支持し板垣退助が内相として入閣。軍備拡張予算を承認した。
2.1896(明治29)年にそのあとを継いだ第2次松方正義内閣も、進歩党と提携。大隈重信が外相として入閣、軍備を拡張に協力した。
3.1898(明治31)年1月に成立した第3次伊藤内閣は、総選挙でのび悩んだ自由党との提携を捨て、超然主義にもどった。この情勢に対し、自由・進歩両党は合同して憲政党を結成、衆議院に絶対多数を持つ合同政党の出現させた。このため、伊藤内閣は議会運営の見通しを失って退陣。
4.そこで1898年6月、憲政党による第1次大隈内閣(隈板内閣)が成立した。首相兼外相に大隈重信、内相に板垣退助が就任、陸・海軍両大臣をのぞくすべての閣僚を憲政党出身者が占めた。わが国ではじめての政党内閣が誕生した。
5.しかし、大隈内閣は組閣直後から旧自由・進歩両党間の対立に悩まされ、尾崎行雄が共和演説事件で文部大臣を辞任すると、後任をめぐって対立が頂点に達した。憲政党は憲政党(旧自由党系)と憲政本党(旧進歩党系)に分裂し、内閣はわずか4カ月で退陣した。
6.尾崎文相は、「仮に日本が共和制になれば、三井・三菱が大統領になる」と財閥批判をおこなったが、天皇制批判として攻撃された。
7.かわった第2次山県内閣は憲政党の支持を得て、憲政本党の反対をおさえ地租増徴案を成立させるなど、国民を抑圧する諸政策を推進した。
〈2017立命館大・全学部
その後も政府と民党との対立は続き、これを案じた[ C ]は、1896年、自由党と歴史的な提携を結び、自らが組織する内閣の内務大臣として板垣退助を迎え入れた。また、続く第2次松方内閣も立憲改進党を中心に再編された[ D ]党の党首大隈重信を[ E ]大臣として迎え入れるなど政党と藩閥の距離は少しずつ縮まった。
1898年、自由党と[ D ]党は合同して憲政党を組織した。そして同年6月には日本初の政党内閣となる第1次大隈重信内閣が誕生した。しかし、この内閣は閣内の対立が激しく、[ F ]文相の5)「共和演説」事件を機に分裂瓦解し、内閣はわずか4ヵ月の短命で終わった。」
(答:C伊藤博文、D進歩、E外務、F尾崎行雄)
〈2016法大・済(済)社(社)スポーツ
問10 下線部(d)憲政党の説明として誤っているものを下記のア~エから一つ選べ。
ア 1898年に自由党と立憲改進党が合同して結成された。
イ 結党後、はじめての政党内閣である隈板内閣を組織した。
ウ 党内対立が激化した結果、憲政党と憲政本党に分裂した。
エ 1900年に解党して、伊藤博文派の官僚とともに立憲政友会を結成した。」
(答:ア× ※立憲改進党→進歩党)〉
〈2014立大・済コミュ福観光
問5.松方正義に関する記述として正しいのはどれか。次のa~dから1つ選べ。
a.第1回帝国議会の際に、黒田清隆のあとを継いで首相に就いた
b.第2回総選挙で、第1次松方内閣は内務大臣を中心に選挙干渉を行った
c.第2次松方内閣は、自由党と連携して軍備増強のための予算を成立させた。
d.第2次松方内閣は、憲政党の結成によって総辞職した。
(答:b〇 ※a×黒田清隆→山県有朋、c×第2次松方内閣→第2次伊藤内閣、d×退陣したのは次の第3次伊藤内閣。その結果、第1次大隈重信内閣が成立した)〉
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