◆「大逆不道玉均」として河原に晒された金玉均(1894年)
●明治時代(明治天皇)
Kapsin Political Coup is mounted in Korea with the support of Japanese.
一派(いっぱ)夜襲に 公使緊迫。
1884年 甲申事変
金玉均 朴泳孝
1884年6月、ベトナムをめぐって清国とフランスの間に戦争が起こり、朝鮮で親日派の金玉均・朴泳孝(パク エイコウ)ら独立党は清仏戦争に清が敗れたのを機に日本公使館の援助でクーデタを決行(甲申事変)。
国王の妃、閔妃は清国に密使を送り、国王と閔妃の救出を要請した。袁世凱率いる清軍1500人が王宮を守る日本軍150人に攻め寄り、銃撃戦となった。
竹添進一郎日本公使は、日本公使館に火を放って長崎へ敗走し、クーデタは失敗に終わった。
《甲申事変と清仏戦争》
甲申事変で清国が強い姿勢をとった背景には1884年から行われた清仏戦争において示された清国の実力があった。
清仏戦争は、英国の仲介によって清国がベトナムの宗主権を放棄したために清国の敗戦だったとされるが、実は戦局は途中から清国有利となり、フランスのフェリー内閣の崩壊を招いた戦争であった。
《天津条約》
甲申事変の翌1885年、事変の事後処理として、日本と清国の間で、将来の出兵時には互いに通告し合うという天津条約が結ばれた。
「甲申」と「天津」に共通する〈シン〉の音に注目すれば、これも簡単に覚えられる。
天津条約に調印したのは、伊藤博文と李鴻章であったが、この二人は1895年に日清戦争の講和条約である下関条約の調印の場で10年ぶりに再び顔を合わせることとなるが、この時、勝者と敗者の立場は入れ替わっていた。
《脱亜論》
金玉均ら開化派を支え続けてきた福澤諭吉であったが、この事件で朝鮮・中国に対していわば匙を投げてしまうこととなる。
とりわけ開化派人士や、幼児等も含むその近親者への残酷な処刑は福澤に大きな失望感を抱かせ、福澤が主宰する『時事新報』は社説「脱亜論」を掲載するに至った。
▼クーデターによって守旧派を一掃し日本と協力して近代化を図ろうとした金玉均。
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