▲足利義教肖像
●室町時代
Kakitsu rebellion; Akamatsu Mitsusuke assassinates the shōgun Ashikaga Yoshinori.
遺書用意せよ 赤き血の。
1441年 赤松満祐 嘉吉の乱 足利義教
足利義教は永享の乱の後も専制政治を強行したため、ついに1441年、赤松満祐が義教を殺害する嘉吉の乱が起こった。満祐は山名持豊が率いる幕府軍に討たれたものの、この事件を契機に将軍の権威は低下した。伏見宮貞成(さだふさ)親王は『看聞日記』に、「将軍かくのごとき犬死、古来その例を聞かざること」と記した。
〈2016早大・文化構想
問5 下線c守護に関連して述べた文のうち正しいものはどれか。1つ選べ。
ア 山名持豊(宗全)は、多くの国の守護となり、六分一殿といわれた。
イ 美濃などの守護で強い勢力をもっていた土岐康行は、足利義満に討伐された。
ウ 周防などの守護であった大内氏は、大内義弘の敗死によって滅亡した。
エ 播磨などの守護であった赤松満祐は、嘉吉の徳政一揆の鎮圧に活躍した。
オ 織田信長は尾張の守護家に生まれたが、尾張国内の統一には時間を要した。
(答:イ ※ア:六分の一殿は山名氏清、ウ:大内氏は応永の乱で大内義弘が敗れた後復活し戦国大名へと成長、1551年に大内義隆が陶晴賢に討たれ、その後滅亡した。エ:嘉吉の乱で赤松満祐が6代将軍足利義教を暗殺。その後馬借・農民らが「代初めの徳政」を求めて起こしたのが嘉吉の徳政一揆、オ:織田氏は守護代で、織田信長の父信秀はその織田氏の中でも庶流)〉
2016早大・文
問7 空欄cについて。足利義教が殺害された事件は何の変と呼ばれているか。漢字2字で記述解答用紙の解答欄に記入しなさい。
(答:嘉吉)
〈2012中大・文:「
史料3
二十四日。雨降る。赤松、公方を入れ申す。猿楽ありと云々。晩に及び屋形喧嘩出来すと云々。騒動の是非いまだ聞かざるのところ、三条手負(ておい)て帰る。公方の御事は実説分明(ふんみよう)ならず。赤松の家炎上し、武士東西に馳(は)せ行く。(後略)
二十五日。晴れ。昨日の儀あらあら聞く。(中略)御後の障子引きあけて、武士数輩出てすなわち公方を討ち申す。(中略)所詮、赤松を討たるべき御企て露顕の間、遮って討ち申すと云々。白業自得の果て、無力の事か。将軍かくの如き犬死、古来その例を聞かざる事なり。(後略)
※三条…三条実雅
出典:『看聞(かんもん)日記』(原漢文)
問8 史料3に記されている「公方」と「将軍」は同じ人物を指している。該当する人物の姓名を記しなさい。
問9 史料3の「将軍」は、将軍権力の強化をねらい、対立する鎌倉公方を討った。その事件の名称を記しなさい。
問10 史料3の事件と最も近い時期の出来事を次の中から―つ選び、その記号をマークしなさい。
ア.明との国交が開かれて勘合を用いた貿易が始まったが、明の皇帝に朝貢するという形を嫌って貿易が中断した。
イ.倭寇の活動が活発化したため、朝鮮軍が対馬を倭寇の本拠地と見なして襲撃するという、応永の外寇が起こった。
ウ.朝貢形式への反対から中断していた勘合貿易が再開され、約20年ぶりに日本と明との間の国交が回復した。
エ.乃而浦・富山浦・塩浦に住む日本人が、与えられていた特権の縮小に不満を抱いて蜂起したが鎮圧されるという、三浦の乱が起こった。
オ.勘合貿易の主導権争いがもとで、博多商人と結ぶ大内氏および堺商人と結ぶ細川氏の間で、寧波の乱が起こった。」
(答:問8足利義教、問9永享の乱、問10ウ ※ア・イは4代義持の代)
〈2016早大・国際教養:「
問4 下線部c鎌倉府はしばしば自立的な動きをみせることとなったに関連する動きの説明として、誤っているものはどれか。1つ選べ。
ア 関東管領の上杉憲実は、鎌倉公方の足利持氏に諌言をした。
イ 6代将軍足利義教は、関東管領の上杉憲実を支援した。
ウ 鎌倉公方の足利持氏は、6代将軍足利義教に攻められ自害した。
エ 結城氏朝は足利持氏の遺児を奉じて結城城で挙兵した。
オ 関東管領を攻めた結城氏朝は上杉憲実を殺害した。」
(答:オ ※敗死したのは結城氏朝の方)
〈2014立大・経済コミュ福祉観光「
これ15世紀には様々な対立が起こり関東の情勢は著しく不安定になっていったに関する出来事a~eを年代順に答えよ。
a.足利政知(まさとも)が室町幕府から堀越に送り込まれた
b.足利成氏が上杉氏から追放され古河に移った。
c.足利持氏が滅ぼされた
d.上杉禅秀の乱が起こった
e.結城氏朝が挙兵したが敗れた
(答:dceba、※a政知は6代将軍義教の子。1457年、足利成氏討伐のため鎌倉公方として下向した、b鎌倉公方足利持氏の子。上杉一族や幕府と対立し、1455年、下総の古河に移った、c足利持氏は1438年、6代将軍義教に永享の乱で倒された、d関東管領上杉禅秀(氏憲)は、1416年、鎌倉公方と戦い敗れた、e結城氏朝は、1440年、足利持氏の遺児を擁立し幕府に対し挙兵したが敗死した(結城合戦))〉