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古代の東北経営

2020-02-01 | 入試問題+ゴロ合わせ

愛当てきさふ。

倍比羅夫(あべのひらふ)・伊治呰麻呂(これはるのあざまろ)・阿弖流為(あてるい))(紀古佐美(きのこさみ))(坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)・文室綿麻呂(ふんやのわたまろ))

2019慶大・法2/16 

中央政府は、版図の「境」に生きる人びとに対してどのように向き合ってきたのだろうか。この問題を、東北地方と北海道を中心に考えてみよう。

 律令国家体制の確立期、畿内の中央政府は、東北地方に対する勢力拡大を本格化させる。その過程で、坂上田村麻呂や、[ 12 ]が派遣した阿倍比羅夫による蝦夷征討が行われた。蝦夷は、中央政府が打ち倒す対象として位置づけられていたのである。」

(答:12斉明天皇)

658年 阿倍比羅夫が蝦夷 斉明天皇

斉明天皇時代は阿倍比羅夫を東北地方へ派遣して蝦夷を討ち支配権を拡大させた。

In the era of Empress Saimei, ABE no Hirafu was dispatched to the Tohoku region to defeat Ezo (northerners) and gained more control.


〈2017南山大・営人文外2/11

嵯峨天皇の治世は、政治体制の転換期であった。811年に征夷将軍となった[ A ]による蝦夷征討で、武力による領土拡大は終わりを告げた。

問1 空欄[ A ]に入る語として、正しいものを、下記のア~エから選びなさい。

 ア大伴旅人 イ紀古左美 ウ巨勢野足 エ文室綿麻呂」

(答:エ)

811(弘仁2)年 文室綿麻呂を征夷将軍に任命。

やぁいい気分さ 疾く征夷。
 811年 文室綿麻呂 嵯峨天皇 徳丹城 征夷将軍

志波城が設置されたが、雫石川の氾濫により度々被害を受けたことから弘仁2年(811年)廃絶され、徳丹城に移設された。

Shiwa-jo Castle was founded, but being frequently damaged by flooding of Shizukuishi-gawa River, it was abolished in 811 and relocated to Tokutan-jo Castle.


2017青山学院大・全(理工を除く)2/7

問10.奈良時代には、中央政権は陸奥側では多賀城を基点として北上川沿いに北上して城柵を設け、出羽側では秋田城を拠点に日本海沿いに勢力を伸長させていった。しかし、780年に蝦夷の豪族伊治呰麻呂が反乱を起こし、一時は多賀城を占拠して焼くという事態に至った。この時に呰麻呂によって殺された陸奥按察使は誰か、最も適当な人物名を下から選べ。

 ①紀広純 ②紀古佐美 ③紀友則 ④紀夏井」

(答:①〇(※きのひろずみ)

780(宝亀11)年 陸奥の蝦夷伊治呰麻呂、反して多賀城を焼く(宝亀の乱)。

納屋を焼いたが これは痣。

780   多賀城消失 光仁天皇 伊治呰麻呂

780年(宝亀11年)には伊治呰麻呂が陸奥按察使紀広純を殺害し多賀城を焼き払うという事態に至り、これ以降蝦夷征討といわれる果てしない戦いへと突入する。

In 780, KOREHARI no Azamaro killed KI no Hirozumi, the Mutsu no Azechi (

Inspector of Mutsu), and burnt down Taga-jo Castle, spurring endless war 

thereafter known as Ezo Seito ("The Ezo Conquest").

 

2017法政大・文営法

C.律令体制下では東北地方の各地にe城柵が設置されていった。城柵には行政的な役所の機能が付与され、その周辺に関東地方などから柵戸を移住させて開拓に従事させ、一帯には律令国家による支配が浸透していった。しかし、いったんは帰順した蝦夷の豪族である[ 1 ]が780年に反乱を起こし、東北地方ではこれ以後三十年以上にわたって戦争があいついだ。789年には胆沢地方の[ 2 ]ら蝦夷を制圧しようとした[ 3 ]率いる政府軍が大敗した。そののち征夷大将軍に任じられた[ 4 ]らが胆沢城を築くとともに[ 2 ]を帰順させた。

問6.空欄[1~4]に入るもっとも適切な人名の組み合わせを、以下のア~エのなかから一つ選べ。

 ア.①阿弖流為 ②伊治呰麻呂 ③坂上田村麻呂 ④紀古佐美
 イ.①阿弖流為 ②伊治呰麻呂 ③紀古佐美 ④坂上田村麻呂
 ウ.①伊治呰麻呂 ②阿弖流為 ③坂上田村麻呂 ④紀古佐美
 エ.①伊治呰麻呂 ②阿弖流為 ③紀古佐美 ④坂上田村麻呂

(答:エ)

2016学習院大・済営

 8世紀末、ときの桓武天皇は一部の地域を除いて軍団制を廃止した。また桓武天皇は長岡京・平安京の造営とともに、東北地方の蝦夷制圧のため大軍を派遣した。征夷大将軍の坂上田村麻呂は802年に(4)〔イ志波城 ロ多賀城 ハ磐舟柵 ニ出羽柵 ホ.胆沢城〕を築き、鎮守府をここに移した。」

(答:ホ)

801年 坂上田村麻呂の蝦夷征討。

矢を射る当てる にいさんし。

801年 阿弖流為(80)2年 胆沢城 3年 志波城

802年 胆沢城を造る。

塗った岩では 他が愛し。

足柵(647年) 磐舟柵(648年) 出羽柵(712年) 多賀城(724年)秋田城(733年) 胆沢城(802年)・志波城(803年)


2012北大前期

問3 下線部C皇極天皇は、乙巳の変により孝徳天皇に譲位するが、孝徳天皇の没後に再即位する。

 ① このように、退位した天皇が再び即位することを何というか。漢字2字で答えなさい。

 ② この天皇は、二度目の治世では蝦夷の征討を行った。そのときに派遣された人物は誰か。氏名を答えなさい。」

(答:①重祚、②阿倍比羅夫)

2012立大・文

 ( ハ )は桓武天皇によって征夷大将軍に任じられ、胆沢地方に城柵を築き、かつて政府軍を大敗させた蝦夷の族長阿弖流為を帰順させた。( ハ )は政府に阿弖流為らの助命を嘆願したが、京都の貴族たちの反対でやむをえず処刑した。彼はさらに、北上川上流に〈 い 〉城を築いた。〈 う 〉年に、都は現在の京都の地に移され、北の支配の最前線は、日本海に沿って、現在の〈 え 〉県の北部まで、そして北上川沿いに〈 お 〉県の北部にまで達した。この時代の征夷大将軍は臨時の職で、( ハ )が務めた後は、②長く途絶えた。

問1.文中の空所(ハ)・〈い~お〉にあてはまる適当な語句をしるせ。

問2.その②(長く途絶えた)理由に関わる事柄を、次のa~dから1つ選べ。

 a.阿衡の紛議 b.三世一身法
 c.徳政論争  d.二所朝廷)

(答:問1ハ坂上田村麻呂、い志波、う794.え秋田、お岩手。問2c)

805(延暦24)年 桓武天皇、藤原緒嗣の議で征夷と造営を停止。

天皇は晩年(805年)、徳政相論により軍事(東北遠征)と造作(造都などの大土木工事)に中止の断を下した。

覇を好むとぞ 乙軍事。

805年 桓武天皇 徳政相論 造作 藤原緒嗣 軍事

 

延暦24年(805年)、藤原緒嗣が「軍事と造作が民の負担になっている」と論じ、桓武天皇がこの意見を認めたため、征夷は中止になった(徳政相論)。

In 805, the expedition was cancelled by Emperor Kanmu, who accepted FUJIWARA

 no Otsugu's argument that military expeditions and the construction work for the 

new capital were placing an intolerable burden on the people (Great Political Debate

).

 

後に藤原緒嗣により「今天下の苦しむところは軍事と造作なり」と指弾されることとなる対蝦夷戦争は、「天皇の政治的権威の強化に大きな役割を担っていた」のである。

FUJIWARA no Otsugu criticized this war against Ezo, saying, 'The causes of 

suffering in today's world are military affairs and construction,' and that it had 'played a great role in enhancing the Emperor's political power.'

 

長年天皇に仕え、身分の低い学者から抜擢を受けた老齢の真道は天皇の意向を汲んで必死に反論をしたものの、ついに天皇は緒嗣の主張を受け入れてライフワークとも呼ぶべき事業である、蝦夷平定と平安京の建設の中止を宣言した。(「徳政論争」)、桓武天皇は翌年に崩御した。

Mamichi who was old, had served the emperor for years, and had been exceptionally 

promoted from a rank of low-ranked scholar made the best effort to object to Otsugu considering the emperor's intention, however, the emperor finally accepted Otsugu's assertion, announced the discontinuation of the subjugation of Ezo and the 

construction of Heiankyo which should be the lifework of the emperor ('Tokusei Dispute') and died in the next year.

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