11月14日 午後4時24分 母は天国へと旅立ちました。
12日の夜、父からの着信・・嫌な予感がしました。
電話を取ると「危ないかも知れない。」と・・
なんで・・という絶望感と脱力感に襲われました。
病院へ駆けつけ、病室のドアを開けると、目を閉じ、息をするのも辛そうな母の姿がありました。
母の手を握り「ママ、ママ・・」と、何度も呼びました。
体を蝕む激痛に耐えられず、鎮痛剤で意識が朦朧としている状態で
母は私の声に「聞こえてるよ」と言っているように、何度か目を開けてくれました。
まだかすかに意識が残っているのか、私の声が届いているのか分からないけど
「ママ、ありがとう。」と伝え、ただただ涙ばかりが溢れ出ました。
母の前では泣かないと決めていたのに
このまま会えなくなるのかと思うと、悲しくて、寂しくて、母が死んでしまうのがすごく怖かった。
色々あって、母は兄と喧嘩別れのような状態で、ずっと疎遠になっていました。
母はずっと兄に会いたいと話していたのですが、兄は母の見舞いには絶対に行かないと頑なに拒んでいました。
だけど母の思いが通じたのか、14日の朝、兄が病院へ駆けつけてくれました。
兄が着いた時には、さらに容態は悪化していて、血圧が下がり、脈は微弱で、瞳孔が開いてきていました。
数年ぶりに会えたのに、母の変り果てた姿を見て、兄は震えて泣いていました。
そして「おかんの子供で良かった、、」と、それだけ伝えてくれました。
返事ができなくても、兄の声はきっと母に届いていると思います。
たくさんの親族が遠方から駆けつけてくれ
夕方、病室に入りきらないくらいの親族に看取られ、母は息を引き取りました。
54歳という若さでしたが、良い最期を迎えられた事が、せめてもの救いです。
それだけは本当に良かったと思います。
最期の時、母の目から涙がこぼれました。
意識がないはずなのに、ほんとに驚きました。
母もお別れが寂しかったんだと思います。
母の人生を振りかえると、それは壮絶な人生だったと思います。
19歳で兄を生み、21歳で私を生み、若くして母親となり苦労が絶えなかったと思います。
数年間、うつ病で苦しんだこともありました。
そして乳癌による手術と抗がん剤治療、再発を繰り返し、長い闘病生活を送ってきました。
さらに抗がん剤の治療による副作用で、髪が抜け落ち、常に帽子とかつらで生活を送っていました。
女性にとって乳房を切り落とすことや、髪がなくなることが、どれだけ辛いことか・・
乳癌手術の翌年には、子宮筋腫の手術も行いました。
母の体は傷だらけで、一緒にお風呂に入ると、傷跡が痛々しくて、悲しくなった。
だけど母は泣きごとを言わずに、いつも明るく振る舞ってくれました。
私の前では涙を見せたこともなく、病人だなんて感じさせないくらい、いつも明るく笑っていました。
今思うと、体のあちこちが痛かったはずなのに、我慢して耐えて来たんだと思う。
我慢強く、必死で生きようと諦めずに頑張っていました。
入院してたったの2ヶ月、看病疲れもなく、最後まで迷惑もかけてもらえませんでした。
一度くらい迷惑をかけてくれても良かったのにと想います。
まだ母が亡くなって日も浅いから、母のことを考えない日はありません。
泣いてばかりの毎日ですが、時間の経過と共に別れを受け入れられると思います。
そして、一番近くで母を支えてくれた父のことも労わっていけたらと思います。
母はもうこの世にはいないけど、母との思い出はたくさんあるから
いつか母との思い出を、笑って話せる日が来るといいな。と思います。
ブログの方も少しお休みしていましたが、またゆっくり書いていきたいと思います。
長々と読んで頂きまして、どうもありがとうございました。
12日の夜、父からの着信・・嫌な予感がしました。
電話を取ると「危ないかも知れない。」と・・
なんで・・という絶望感と脱力感に襲われました。
病院へ駆けつけ、病室のドアを開けると、目を閉じ、息をするのも辛そうな母の姿がありました。
母の手を握り「ママ、ママ・・」と、何度も呼びました。
体を蝕む激痛に耐えられず、鎮痛剤で意識が朦朧としている状態で
母は私の声に「聞こえてるよ」と言っているように、何度か目を開けてくれました。
まだかすかに意識が残っているのか、私の声が届いているのか分からないけど
「ママ、ありがとう。」と伝え、ただただ涙ばかりが溢れ出ました。
母の前では泣かないと決めていたのに
このまま会えなくなるのかと思うと、悲しくて、寂しくて、母が死んでしまうのがすごく怖かった。
色々あって、母は兄と喧嘩別れのような状態で、ずっと疎遠になっていました。
母はずっと兄に会いたいと話していたのですが、兄は母の見舞いには絶対に行かないと頑なに拒んでいました。
だけど母の思いが通じたのか、14日の朝、兄が病院へ駆けつけてくれました。
兄が着いた時には、さらに容態は悪化していて、血圧が下がり、脈は微弱で、瞳孔が開いてきていました。
数年ぶりに会えたのに、母の変り果てた姿を見て、兄は震えて泣いていました。
そして「おかんの子供で良かった、、」と、それだけ伝えてくれました。
返事ができなくても、兄の声はきっと母に届いていると思います。
たくさんの親族が遠方から駆けつけてくれ
夕方、病室に入りきらないくらいの親族に看取られ、母は息を引き取りました。
54歳という若さでしたが、良い最期を迎えられた事が、せめてもの救いです。
それだけは本当に良かったと思います。
最期の時、母の目から涙がこぼれました。
意識がないはずなのに、ほんとに驚きました。
母もお別れが寂しかったんだと思います。
母の人生を振りかえると、それは壮絶な人生だったと思います。
19歳で兄を生み、21歳で私を生み、若くして母親となり苦労が絶えなかったと思います。
数年間、うつ病で苦しんだこともありました。
そして乳癌による手術と抗がん剤治療、再発を繰り返し、長い闘病生活を送ってきました。
さらに抗がん剤の治療による副作用で、髪が抜け落ち、常に帽子とかつらで生活を送っていました。
女性にとって乳房を切り落とすことや、髪がなくなることが、どれだけ辛いことか・・
乳癌手術の翌年には、子宮筋腫の手術も行いました。
母の体は傷だらけで、一緒にお風呂に入ると、傷跡が痛々しくて、悲しくなった。
だけど母は泣きごとを言わずに、いつも明るく振る舞ってくれました。
私の前では涙を見せたこともなく、病人だなんて感じさせないくらい、いつも明るく笑っていました。
今思うと、体のあちこちが痛かったはずなのに、我慢して耐えて来たんだと思う。
我慢強く、必死で生きようと諦めずに頑張っていました。
入院してたったの2ヶ月、看病疲れもなく、最後まで迷惑もかけてもらえませんでした。
一度くらい迷惑をかけてくれても良かったのにと想います。
まだ母が亡くなって日も浅いから、母のことを考えない日はありません。
泣いてばかりの毎日ですが、時間の経過と共に別れを受け入れられると思います。
そして、一番近くで母を支えてくれた父のことも労わっていけたらと思います。
母はもうこの世にはいないけど、母との思い出はたくさんあるから
いつか母との思い出を、笑って話せる日が来るといいな。と思います。
ブログの方も少しお休みしていましたが、またゆっくり書いていきたいと思います。
長々と読んで頂きまして、どうもありがとうございました。