今日の予定は天草。
とても遠い気がして気が急く。
昔息子が世界遺産登録を目指している長崎周辺の教会群を全部見て回ろうと回ったけれど 天草の奥まではどうしても行けなかった・・・・
天草ってどんなところ?
隠れクリスチャンの島 天草四郎のふるさと 隔離された場所 風光明媚な島々・・・・・
間違っているに違いない いろんなイメージが私の中で膨らむけれど 秋に訪れた黒島と比べると明るい感じしかしないのはどうしてかな?
熊本市を出て南下
イメージは北上だったんだけど宇土まで南下なんだね
三角線に付かず離れず
やがて西へ西へ・・・・
走っているときはさっぱり分りませんでしたがね
やがて三角線を離れて有明海 島原湾を見ながら先に進みます。
普賢岳見えるはずなんだけれど・・・・
ぼんやり見えているようでしたが 写真では全く分からず
半島を大きく回って天草五橋の入り口に到達。
二番目の橋は大矢野島をでて永浦島 前島 上島をつなげています。
この風景のせいか キリシタン迫害の歴史がなんだか違和感があるんだけれど やはり悲しい歴史があったようです。
上天草の中心地 「天草四郎メモリアルホール」によってみます。
天草四郎を中心とした自由と平等を求める戦いの様子が紹介されています。
3D映像で見たので迫力満点でした。
島原の乱として有名ですが この天草でも戦いが繰り広げられていた
重い年貢と大凶作 思い通りに年貢の集まらない腹いせとしか思えないようなキリシタンへの迫害
みんな秋に島原へ行ったときに知ったことではありましたが 天草はキリシタンが隠れ住む特別な場所のような気がしていました。
ところがそうでは無かったのです。
島原で火の手が上がり 天草大矢野へ戦火が移り 大島子 町山口川 富岡城 そして最期の地原城へ
まだ子どものような天草四郎に付き従い自由と平和を求めて闘うって言うのは今ひとつ信じられなくて 伝説の人のようにも思えるけれど実在の人物のようです。
美少年らしいです。
残っている銅像はどれを見ても??ですが 今と価値観が違うのでしょうか?
それとも信仰に生きる純粋さとか気高さが内面からくる美しさを引き出していたのかもしれません。
キリシタン禁止令とともに追放されたマルコス神父が去りゆくときに予言した天童だったのです。
上天草出身の小西家の家来増田喜兵衛と同士のマルタの間に生まれた増田四郎時貞・・・・天草四郎の本名です。
円墳です。
キリシタンのお墓だそうです。ここはキリシタン墓碑群として昭和42年に見つけられたと・・・
ぱっと見た目には解らないのですが 見えないところにクルスが彫りつけてあったりするのだそうです。
天草島原の乱後は もう信徒はいなくなってしまったと言われてきましたが この墓碑群を見つけたことにより どんなに迫害を受けても 信仰の心は篤く巧みに隠れて信仰していた人々がいたことが解りました。
信仰の力 とりわけキリスト教徒の心は私達にはとてもかなわない強いもののようです。
黒島でもそんな事を感じました。
現代になってやっと天草四郎達の願った地上のパライゾ(楽園)が現れたかのように 悲しい歴史とはかけ離れた明るい海辺になっていました。
松島地区へ移動します。
何処でも似たような景色に松島って名前を付けるんやな 松なんぞありそうに無いけれどと思いながら
亭主は 高舞登山に行きたいと思っていたようだけれど
日本の夕日百選だって 展望台まで車で行けるのも魅力だったようですが
ナビに入れても出てこない
ふらふら走っているうちに 千巖山登山口の文字を発見。 登山口って 私登れるわけ無いでしょ・・・・そう言いながら 何となく試してみたい気にもなって
桜の山だって
標高162メートル 天草の乱で総大将天草四郎時貞がこの山で出陣の祝宴を張り杓子で酒を酌み交わしたと言われる山 以前は手杓子山と呼ばれていたようだ。
行けるところまで車を突っ込んだから何とか登れそうだよ。 問題は下りだね。
有り難いことにゆるーい階段で 私にも登れた。 登り切ると天草の海が目の前に広がる。
さっきとそっくりの海だけれど 橋がいくつか見えて来た道を辿ることが出来る。
一番奥の薄いやまなみはたぶん普賢岳を含む島原半島
確かに地上の楽園のようです。
千巖山は巨石奇岩が折り重なるような山と言う事らしく あちこちに大きな岩があります。
三角点もありますよ~
散策路があちこちに張り巡らされていますから歩きやすかった。
標高が減るわけじゃ無いのにね
何とか無事に降りることが出来て(この山知っている人が見たら 何を大げさな・・・・って思ちゃいますよね)
まだ日が高いし 帰るのもったいない・・・・と思ったけれど 今日の宿は南阿蘇
熊本に戻って熊本城を見てから向います。
なんだか効率の悪い行ったり来たりになりました。
藍の天草村によって おみやげをゲットすることも忘れませんよ。