田植えを終えた田んぼの中を島津義弘の陣跡へ向かいます。
関ヶ原の合戦があったのは9月15日
稲穂が頭を垂れ取り入れを迎えていた時期だったに違いありません。
島津義弘の陣跡
不動の島津 と言われました。
再三の賛成要請を拒否したからです。これにはわけがあります。
島津家にはたくさんの遺恨がありました。
会津征伐の際伏見城への入場を拒否され孤立してしまったこと
石田三成が島津のわずかな手勢を見て存在を軽視したこと 作戦会議で義弘が主張した夜襲策が採用されなかったこと そして最後には馬から降りないで救済を依頼したこと・・・・
を経て 石田三成のために戦う気が失せてしまったということでした。
どこまで史実かはわかりませんが 島津義弘は敵中突破をしながら敗退の道を選んだのでした。
北国街道や中山道を抑えられていたので伊勢道に逃げ この川をたどればいつか合流できるを合言葉に逃げて行ったことはすごいことです。
300人ほどしかいなかった島津隊は80人ほどしか祖国には戻れなかったという。
それでもお殿様のために身代わりになって死んだ者や過酷な逃避行をみんなで成し遂げたことは感動ものです。
その後鹿児島県日置市では関ヶ原戦跡踏破隊が組織され昭和35年から毎年夏休みを利用してその退路を辿る活動がお行われています。
郷土の先輩たちに負けないような立派な大人になりたいと自戒の念を込めての活動をしていることに驚きを感じました。
リーダーのために頑張りたい そんな思いの強い島津隊はその時点で三成に勝っていたのかもしれません。
開戦地跡です。
9月15日朝8時頃 霧が晴れて松平・井伊隊が動きます。
先鋒隊の福島正則を無視して発砲したものですから面子をつぶされた福島正則は激怒 宇喜多隊に向かって一斉射撃です。
関ヶ原の戦いは井伊に始まって井伊に終わったといわれる一つのわけでしょう。
宇喜多秀家の陣跡に向かいます。
その前に 土塁の遺構です。
ちょっと盛り土してあるだけのように見えますが 一年に10センチほど削れてしまうことを考えると 大戦から400年以上たっていますから 当時はかなり高いものだったと思えます。
これなら銃撃をかわせるかもしれません。
これはわかりにくいかもしれません。右上から手前に そこから左に向かって つまり直角にへこんだところが分かります。 明らかに人工物 側溝が作られていたようですが
宇喜多秀家の陣跡です。
うっそうとした天満神社の境内です。1万7千人が入ったというには狭いように感じますが
小早川の裏切りによって総崩れとなった宇喜多軍は伊吹山山中に逃げ込みそのご島津家を頼って鹿児島まで落ち延びる。
八丈島にて島流しとされたけれど長生きしたとのこと
亡くなるとき自分の人生をどのように振り返ったのでしょうか?
近くに不破の関の遺構もあります。北限土塁跡です。
壬申の乱の翌年に作られたという関ですが 鈴鹿の関 愛発の関に並んで三関と言われ治安維持のために東国と近畿への人の移動を監視します。
ただの盛り土のように見えますが 当時は何メートルもあって物見台もついていたそうです。
長さも東西460メートルあるそうで当時としては大きな壁だったのかもしれません。
近くに資料館がありますが 今回はパスです。
東首塚に行きます。
関ヶ原には西首塚と東首坂があります。 関ヶ原の合戦で命を落とした人々を弔うために作った場所です。
関ヶ原の合戦のころ 人口は900人ほどだった。
戦に借り出されて一緒に戦ったのかと思ったら 三か所に分かれて山の中に隠れていたとか
戦争が終わって 稲刈り間近の田圃は荒らされひどいことになっていてもすぐには出てこなかったそうですが 出てきてからの衝撃はなかったようです。
累々と横たわる屍を鳥たちが群がってつついている。
その姿を見て農民たちは「鳥たちがその魂を国へ運んでくれるんだ」と考えたそうですが胸が詰まる話です。
関ヶ原の合戦の後始末の一つとして累々と横たわる屍をこの地と西首塚に運び弔いました。
井伊で終わったといわれる戦後の後始末はこうして平安の世を作っていく礎になったようです。
石田三成がなぜ負けたのか? 井伊直政の誘いに乗って三成のもとをたくさんの人が離れていったのはなぜだったのか
島津隊に代表されるように リーダーはあこがれられる人でなくてはならない。
力ではなく 知性 それも品のある知性が必要だった・・・と言われたガイドさんの言葉が心に残ります。
今の自分は今までの積み重ねの結果なのだ・・・という言葉も胸にしみました。
今回の歴史ウォーク まだ半分もまわっていません。
また続きを回りたいと思いました。
関ヶ原の合戦があったのは9月15日
稲穂が頭を垂れ取り入れを迎えていた時期だったに違いありません。
島津義弘の陣跡
不動の島津 と言われました。
再三の賛成要請を拒否したからです。これにはわけがあります。
島津家にはたくさんの遺恨がありました。
会津征伐の際伏見城への入場を拒否され孤立してしまったこと
石田三成が島津のわずかな手勢を見て存在を軽視したこと 作戦会議で義弘が主張した夜襲策が採用されなかったこと そして最後には馬から降りないで救済を依頼したこと・・・・
を経て 石田三成のために戦う気が失せてしまったということでした。
どこまで史実かはわかりませんが 島津義弘は敵中突破をしながら敗退の道を選んだのでした。
北国街道や中山道を抑えられていたので伊勢道に逃げ この川をたどればいつか合流できるを合言葉に逃げて行ったことはすごいことです。
300人ほどしかいなかった島津隊は80人ほどしか祖国には戻れなかったという。
それでもお殿様のために身代わりになって死んだ者や過酷な逃避行をみんなで成し遂げたことは感動ものです。
その後鹿児島県日置市では関ヶ原戦跡踏破隊が組織され昭和35年から毎年夏休みを利用してその退路を辿る活動がお行われています。
郷土の先輩たちに負けないような立派な大人になりたいと自戒の念を込めての活動をしていることに驚きを感じました。
リーダーのために頑張りたい そんな思いの強い島津隊はその時点で三成に勝っていたのかもしれません。
開戦地跡です。
9月15日朝8時頃 霧が晴れて松平・井伊隊が動きます。
先鋒隊の福島正則を無視して発砲したものですから面子をつぶされた福島正則は激怒 宇喜多隊に向かって一斉射撃です。
関ヶ原の戦いは井伊に始まって井伊に終わったといわれる一つのわけでしょう。
宇喜多秀家の陣跡に向かいます。
その前に 土塁の遺構です。
ちょっと盛り土してあるだけのように見えますが 一年に10センチほど削れてしまうことを考えると 大戦から400年以上たっていますから 当時はかなり高いものだったと思えます。
これなら銃撃をかわせるかもしれません。
これはわかりにくいかもしれません。右上から手前に そこから左に向かって つまり直角にへこんだところが分かります。 明らかに人工物 側溝が作られていたようですが
宇喜多秀家の陣跡です。
うっそうとした天満神社の境内です。1万7千人が入ったというには狭いように感じますが
小早川の裏切りによって総崩れとなった宇喜多軍は伊吹山山中に逃げ込みそのご島津家を頼って鹿児島まで落ち延びる。
八丈島にて島流しとされたけれど長生きしたとのこと
亡くなるとき自分の人生をどのように振り返ったのでしょうか?
近くに不破の関の遺構もあります。北限土塁跡です。
壬申の乱の翌年に作られたという関ですが 鈴鹿の関 愛発の関に並んで三関と言われ治安維持のために東国と近畿への人の移動を監視します。
ただの盛り土のように見えますが 当時は何メートルもあって物見台もついていたそうです。
長さも東西460メートルあるそうで当時としては大きな壁だったのかもしれません。
近くに資料館がありますが 今回はパスです。
東首塚に行きます。
関ヶ原には西首塚と東首坂があります。 関ヶ原の合戦で命を落とした人々を弔うために作った場所です。
関ヶ原の合戦のころ 人口は900人ほどだった。
戦に借り出されて一緒に戦ったのかと思ったら 三か所に分かれて山の中に隠れていたとか
戦争が終わって 稲刈り間近の田圃は荒らされひどいことになっていてもすぐには出てこなかったそうですが 出てきてからの衝撃はなかったようです。
累々と横たわる屍を鳥たちが群がってつついている。
その姿を見て農民たちは「鳥たちがその魂を国へ運んでくれるんだ」と考えたそうですが胸が詰まる話です。
関ヶ原の合戦の後始末の一つとして累々と横たわる屍をこの地と西首塚に運び弔いました。
井伊で終わったといわれる戦後の後始末はこうして平安の世を作っていく礎になったようです。
石田三成がなぜ負けたのか? 井伊直政の誘いに乗って三成のもとをたくさんの人が離れていったのはなぜだったのか
島津隊に代表されるように リーダーはあこがれられる人でなくてはならない。
力ではなく 知性 それも品のある知性が必要だった・・・と言われたガイドさんの言葉が心に残ります。
今の自分は今までの積み重ねの結果なのだ・・・という言葉も胸にしみました。
今回の歴史ウォーク まだ半分もまわっていません。
また続きを回りたいと思いました。
九州人を代表する、鹿児島の人たちの真骨頂ですね。
それにしてもずいぶん歩きましたね。
お嫁ちゃんの具合が少し悪かったので 息子のところに入り浸っていました。
ここではあまり書けませんでしたけれど 九州の人たちの気骨というか思いにはすごいものがあるのだと思いました。
岐阜には・・・というか木曽三川には薩摩の力で出来上がった松林があります。 治水工事のしるしです。
大変な努力だったと思います。
主学校のときに社会科で勉強します。
その時に感じた感動をこの地でも感じました。
薩摩人すごい