世界一周タビスト、かじえいせいの『旅が人生の大切なことを教えてくれた』 

世界一周、2度の離婚、事業の失敗、大地震を乗り越え、コロナ禍でもしぶとく生き抜く『老春時代』の処世術

熊本は復興できるのか

2016年05月31日 | 熊本地震
戦後復興とは違う。

それは箱物文化であり、インフラ文化であった。

阪神の時とも、東北の時とも違う。

何かが違う。

復興、復興、ガンバレ、ガンバレの大合唱。

なんか違う。

勇ましい掛け声だけがむなしく響く。

どうガンバレというのか。


復興支援という名のビジネス。

今は、ある意味復興景気に湧いているのかもしれない。

一部のホテルや一部の飲食業界は繁盛している。

それはそれで、いい。

でも、なにか違和感を覚える。


1995年の阪神大震災の復興とは時代が違う。

当時の20世紀型の考え方と今とは明らかに違う。


前と同じ姿を取り戻すことが復興なら、

復興は時代遅れだ。

前と違う形、前よりより良い形を作り上げなければならない。


20世紀は、

頑張って再建しようと一致団結した時代だ。

高度経済成長期に物質的に豊かになり始めた時代。

盲目的に目の前の仕事をこなして、

便利さを追及し家庭を持つのが美徳とされた時代だ。


それをIT景気やいざなぎ景気が後押しした時代だった。


それぞれの時代に合わせた「目的」というものが明確でわかりやすい時代であった。

今のロスジェネ世代からゆとり世代に移って、

これから生まれてくる子供たちに何か目的はあるのだろうか??


いくら地方創生を叫んでも、

従来の繰り返しでは効果は出ない。


アベノミクスも事実上失敗し、

資本主義というお金持ちを目標にする時代は終わりを迎えている。

では、

これからの時代というのはどういう位置づけになるのだろうか。

それは、

それぞれが好きなことをして生きて、

お金という拝金主義はなくなり、

何か手に入れれば嬉しいが、それを誇りに思ったり羨ましがったりするものではなくなる。


人は人、自分は自分。

ある意味、「自分の本位の時代」と言えるだろう。

金本位制ならぬ、自分本位制。

被災した多くの人の価値観が一変した。

教育も、義務教育は適当に行なって、

海外の文化に触れさせて友達を多く作ることが最良となる。

そして、自然豊かなところで育てて感性を磨く。

知識だけではなく、いわゆる生きる、生き抜く知恵をつけることに

教育の重点を置くべきである。


あらゆる分野で格差社会が広がっている。

無駄に気づく豊かな人と、所有する貧しい人に分かれる時代にシフトするだろう。

そして、前者は見えにくく、評価されにくい。

だが、実際そういう人が自信と勇気をって、

これからの世の中を変えていかなければならない。


これから生き残るものはサバイバル術を身につけ、

発想の転換をしなければならない。

パラダイムシフトはとうに起きていることを認識しなければならない。


今までのように頑張る人は頑張ればいい。

仕事に、ボランティアに。

でも、がんばりたくても頑張れない人もたくさんいる。

いや、頑張っていないわけではない。

がんばり方が違うだけなのだ。

あらゆる人々が、生きることに必死でもがいている。

やり方が違うからと言って、誰も人を裁くことなどできない。


ただ、誰にも言えない絶望感を抱いている。

がんばるけど、ダメなのではないかと感じている。

だが、声に出してはなかなか言いにくい。

袋叩きにあいそうだ。


しかし、そういう人の存在を認めるべきだ。
(むしろそういう人のほうが多いのではなかろうか)

認めたうえで、じゃあ、どうするかを根本から考えるべきである。



ボクは今の熊本に対して、はっきり言って絶望感を抱いている。

それは、なにも震災を蒙ったからではない。

その前から強い危惧を抱いていた。


   一見何事もなかったかのような熊本の中心地(5月26日撮影)


そもそも熊本の人口は減っていた。

平成26年12月1日現在 前月中の増減

県内人口総数 1,794,233人 ▲395人


マーケットそのものはすでに縮小していたのだ。

今はこれに拍車がかかった。


震災前は、中国や韓国からのお客さんでまだ何とか持っている感があった。

おかげでボクのゲストハウスもソコソコ潤っていた。


だが、今回の震災で、目玉の熊本城と阿蘇は壊滅。

頼みの外国人観光客は当分は来ない。(皆無といっていい)

復興には10年スパンの期間と莫大な費用を要する。

それまでどれだけの中小企業、飲食、観光、農業がもつのか。

それでなくとも、すでに6割のそれらが廃業に追い込まれると言われている。

今がんばって店を開けているところも、お客さんが来なければ成り立たない。
(店は開けたが閑古鳥)

まだ、今のところ数千人上る県外からのボランティアやビジネスまで賑わっているようには見えるが。

夏が過ぎ、秋風が吹くころには、それも分からない。


内閣府は23日、熊本地震の影響の試算を公表し、

官民ストックの毀損(きそん)による被害推計額は2.4兆━4.6兆円にのぼるとした。

これは阪神・淡路大震災の被害額の最大9.9兆円の半分弱にあたる。

今月18日までの34日間で最大1270億円の損失は、

熊本・大分両県の同期間の県民経済計算によるGDPの14%程度にあたるとみられるという。


半面、県外脱出、移住組も増えており、人口減少に拍車がかかっていることも事実である。

熊本に残っている人たちも、消費意欲が激減している。

モノへの執着心がなくなりつつある。

つまり、価値観が変化paradigm shift したのだ。


熊本城も阿蘇もここ1~2年で復活できるどころか、

10年、20年スパンでないと復活できないともいわれている。


今のところ、阿蘇山の噴火が小規模でとどまっていること、

原発に異常がないことが幸いしている。


阿蘇山で「巨大カルデラ噴火」が再び起これば、

東京でも20センチの火山灰が積もり、

北海道東部と沖縄を除く全国のライフラインは完全に停止すると

まことしやかに言われている。

阿蘇山が大爆発を起こし、

あるいは再び震度6クラスの地震がここ一年以内で起きれば

さらなる壊滅的打撃を蒙るだろう。

それに、原発の放射能漏れでも生じれば、九州は終わりとなり、

東京オリンピックはおろか日本経済そのものが揺らぐことになるだろう。


それでなくとも安倍首相は、リーマンショック前と似ているという

世界から顰蹙を買うような発言を行い、、

自らの政策の失敗を認め、馬脚を現し墓穴を掘った格好だ。


ガンバロウという掛け声はいかにも勇ましく、熊本人気質の表れと言える。

だが、排他主義に陥り、(熊本人はよそ者を受け入れにくい)

あらぬ期待を抱かせ、より絶望の淵に追いやることは避けなければならない。

あくまでも、現実(それがどんなに悲観的なものであろうと)を直視すべきである。


がんばって、何とかしたい。

熊本を復活させたいという熱い気持ちはよく分かる。

ボクもできることならそうしたい。

だが、何かもやもやとした違和感を感じることをどうしても払しょくできない。


なぜなのか。

その根拠を上に書き記してみたのだ。


ミクロ的に頑張って、復興できる分野はあるだろう。

だが、マクロ的に見れば、どうしても悲観的にならざるを得ない。

この超楽観論者のボクがここまで悲観的になることは珍しい。


いや、ただどうしようもない、もうダメだということではなく、

現実を直視して、ダメなものはダメと認めたうえで、

もっと素晴らしい熊本を作るべく構想を練り直さなければならないということを言いたかっただけだ。

熊本駅周辺の開発も、桜町一帯の開発も見直さざるを得ないだろう。


ボクも熊本人だ。

熊本人であることに誇りを持っているし、熊本城と阿蘇をこよなく愛している。

何とかしたい気持ちは誰にも負けない。

そして、何とかする決意アイデアも持っている。


今は、浮足立って付け焼刃的な行動に出るより、

腰を落ち着け、大所高所から現実を見据え、

自分のできることを着々と進めている。


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5月30日(月)のつぶやき

2016年05月31日 | 100の力
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