浮遊する言語空間と変革主体形成の危機
櫻井 智志
福島原発事故の後に、被災地を訪問した徐京植さんの様子をNHK・Eテレが報じた。その番組を見ながら、徐さんの「根こぎ」という言葉が強く印象に残った。「根こぎ」は「根こそぎ」と同義である。
原発事故に怒りと憤りを感じた国民の各層が、広範に都内の明治公園、代々木公園、官邸前、国会議事堂前に、数万人、数十万人と集まった。その多くは、組合や団体からの動員ではなく、自然発生的に立っていられない気持ちで集まった方が多かったときく。
長年の沖縄県民の復帰闘争には、悲惨で不合理な体験のもとに耐えに耐え続けてきた沖縄県民の怒りが岩盤のような土台にある。実際の現実のなかから、「オール沖縄」が構築された。選挙戦術や政治政策の方便だけなのではない。
沖縄県民の、国会から自治体までの選挙における圧倒的選挙の勝利は、沖縄の民意の総意を鮮やかに示した。それに対する本土政府の安倍晋三政権は、差別と強権の「植民地宗主国」政治対応に終始した。
国会の政権閣僚の汚職、国民蔑視、立憲野党への答弁になっていない答弁など、行政の劣化には目を覆うものがある。ひとつや二つを例示できるような段階のものではない。多くの発言の虚偽、詭弁、方便など首相から閣僚、官僚のお粗末な公式発言は、議会政治の頽廃のきわみに達している。国民生活の改善をまともに実行する法案には、無関心で、カジノ・共謀罪・年金改悪などの反国民的法案を「自民」「公明」「日本維新」「日本のこころ」などの与党・与党従属政党によって強行採決し、強行採決をもくろんでいる。
稲田朋美・高市早苗・丸川珠代など安倍首相お気に入りの女性閣僚、安倍政権下ですでに交代した女性閣僚たちは、むしろ女性の地位向上や政治家・閣僚の増加を世間に反発を感じさせるレベルの低い答弁に終始していて、「だから女は駄目なんだ」という差別意識を高めてしまうような酷いものだ。かつての社会党土井たか子さんや二院クラブの市川房枝議員のような平和と福祉、護憲と暮らしの改善をきめ細かに気付き提案し実行しつづけた政治家とは異なる。現代でも、日本共産党、社民党、民進党、自由党など立憲野党のすぐれた女性政治家と比べても、明確に異質な閣僚たちだ。
なぜ、一方では反原発の市民・国民たちがいて、他方では劣化し続ける安倍政権への比較的高めの支持率と暴政とがあるのだろうか?
安倍政権は、まっとうな政治によって国民的支持の高い政権ではない。やっていることは、極右の軍国主義思想・破綻した新自由主義経済策・福祉切り捨て弱者切り捨ての福祉政策・軽率な海外発言と国民の税金ばらまきの大判振る舞い外交。そのどれをとっても、反国民的な政権である。
そんな政権が高支持率なのは、二つのアメとムチ政策がある。
安倍首相を批判するマス・メディアへの徹底的な恫喝と介入は、先進資本主義国でも稀有な弾圧である。高市早苗総務相は、「偏向報道は、放送免許剥奪につながる」という驚くべき無知と報道対応を公的発言している。TBS「news23」とテレビ朝日「報道ステーション」への目に余る偏向攻撃と首脳陣への放送免許剥奪もちらつかせる安倍政権の高圧的姿勢。
政権からの弾圧で、岸井成格氏と古館伊知郎氏が、番組から降りた。岸井氏は、前からのテレビ局内での方針で、急な降板ではないことを月刊誌のインタビューに応えている。
あらかじめお断りしておきたいことがある。良心派、理性派の報道番組について限定している。ここでとりあげない日本テレビやフジテレビの報道番組のキャスターなどについては、検討の対象としていない。比較的ジャーナリズムの役割を果たしてきた番組を対象としている。それだけ国民世論の形成に強い影響を与えてきたからだ。お名前をあげて批判するが、そのような前提をご留意いただきたい。
「news23」は全員が、「報道ステーション」は小川アナウンサー以外が変わった。それぞれの番組の中枢とも言えるキャスターは、「news23」は星浩元朝日新聞幹部が、「報道ステーション」は、別の報道番組にもいた後藤謙次氏の両氏が、新たな若手のアナウンサーを補佐する立場で起用されている。星浩氏・後藤謙次氏ともに不適格である。他の報道サイトでも後藤氏が批判されていたが、両氏ともに、ジャーナリストとはとても言えない。新聞テレビの高等幹部社員に過ぎない。Aという意見もあるが、Bという意見もあるという中和剤コメントで、問題の本質を的確に伝えるというスタンスではない。首相や重要閣僚と酒席をともにし、完全に取り込まれている「態勢維持のマスコミエリート」に過ぎない。温和で「人情派」の星浩氏は、決して反動派でなく、むしろ穏健な客観的なマスコミ人であるけれど、自分が会社から求められた「立場」を忠実に順守する毎日の放送の中で、田英夫、古谷綱正、入江徳郎、筑紫哲也、岸井成格らの諸氏が築き上げた「報道のTBS」を見事に経営陣とともに、瓦解させてしまった。TBSは日曜だけの「関口宏のサンデーモーニング」、土曜だけの「報道特集」によって辛うじて、ジャーナリズムの実を保持している。
このような「客観主義的」体制維持の報道マンは、ほかにもいる。もっと酷い連中である。田崎史郎氏などおだやかな語り口から,出てくる言葉は国民馴化の安倍政権擁護のデマゴギーである。このようなマスコミの安倍首相のお先棒をかつぐ輩があまりにも多すぎる。安倍首相という「強大権力」に阿る連中のオンパレード。
連日流される国民馴化のマスコミの堕落は、権力からの弾圧で経済的危機に陥らせられたなかでの究極の存立保持策であるのかも知れない。これ以上マスコミを論じることの虚しさを感じる。
トップに掲げた徐京植さんの「根こぎ」「根こそぎ」という言葉。それは、現代の、「記号」として量産され消費され、泡と消える空虚の「ことば」文明への警鐘である。
自らが体験したことを己の肉体で言語化して紡ぎ出すことばこそ、たやすく瓦解したり時流に押し流されたりしない「ことば」である。以下に自らの私的体験をまとめて述べる。
私は37歳に「櫻井智志37歳」として、『民主文学』読者欄に投稿した。「琉球新報」読書欄への丸木正臣氏の書評一面写真入り、週刊金曜日の『北朝鮮に消えた友と私の物語』(萩原遼氏著作。彼は金芝河の詩集を何冊も翻訳したことで重要な意義を果たした)の書評見開きニページ、『葦牙ジャーナル』『葦牙』への評論などを執筆。ほかに『日曜セミナー』季刊『群馬評論』月刊『技術と人間』月刊『軍縮問題資料』に評論を掲載された。そのかたわら『語り継ぐ人間性と人格の教育』と題して、教育実践記録と文化・思想への省察を、定年間近にまとめて出版した。『座標―吉野源三郎・芝田進午・鈴木正』を出版した。しかし、それらの活字媒体での社会的発言は、思わぬインターネット上の出来事によって、蹉跌経験を味わい、インターネット・ブロガーに専念して、一切の活字メディアを離れて今にいたる。
そうやってインターネット空間に浸る中で、徐京植さんの「根こぎの現実」に立ち向かう上で、圧政に立ち向かい抵抗するためには、変革主体形成とそこでの各人の自らの言語形成の営みの重要性にたどりついた。
あれほど沖縄の県民のために,政治実践や選挙闘争やしんぶん赤旗などの広報活動を蓄積し続けている日本共産党中央委員会が、人権蹂躙の不当勾留四カ月を超えるいまに至るまで、国民的救出運動の実践にとりくまない、そのことは私にとり強い衝撃であった。
なぜ、なのか・・・・?
ユニークで斬新な数々の選挙手法や政治的実践によって、低迷していた時期を脱した共産党は、東京都議選、都知事選、国政選挙が相次いだ時点から、急速に国民的支持を復活させた。全国に護憲平和勢力の要として、誠実で私心無き党員の活動と的確な指導部の政策や指針、志位和夫委員長の謙虚な人柄と有力な指導によって、国民の信頼に耐えうる見事な実際の運動を展開した。
それを否定するものはなにもない。ラインやインターネット、ツイッターなどの新たなコミュニケーション・ツールを駆使して、より効果を倍増させてもいる。
ただ、インターネットを離れて、沖縄県民の反圧政、反基地闘争において、現地に入り市民運動とともにせっかく共闘しながら、平和運動のリーダー山城博治さんを、今もなお手術後のがんと闘病する山城さんを救出できていない。私もインターネットでの署名や救出アピールを行ってきた。それは効果として実現されていない。
今井正監督の映画『小林多喜二』を鑑賞して、作品としては『ひめゆりの塔』『きけわだつみのこえ』に比して決して成功した仕上がりとは言えないと思った。だが「多喜二」が特高の手にかかり虐殺され、遺体には皮下出血で全身が虐殺を無言の告発をおこなっていた。
治安維持法最大の被害者であった日本共産党は、山城博治さんが社民党から国政選挙に出馬するなど、なんらかの懸念や「はねあがりや挑発による権力ひきだし」に警戒するケースも政党としての政治体験史から教訓化してることも想定した。
そして私はこういう考えを初めて持った。インターネット選挙で成功してきた日本共産党は、躍進後の若い世代や新しい加入党員たちが、「自らの体験や疑似体験を通して血肉化した熟成したことば」を持っていないのではあるまいか?共産党全体が、目の前の現実に即時対応する前提としての《ほんもののことば》を各人が持っていないのではあるまいか?
このような《自らが血肉化したことば》は、反安倍政権の側にも広く問題として広がっているのではあるまいか?
『浮遊する言語空間と変革主体形成の危機』とは、いま記したような「仮説」を表象している。
私の仮説が、実際とかけ離れた、日本共産党批判であったなら、それは名誉の毀損として謝罪と訂正に応ずる所存である。
そしてなによりも、私は自らの《インターネット表現者》としての今までの自らの在り方を、この機会に改める。それを最後の結論に掲げて結びとする。
【結論】
「浮遊する言語空間と変革主体形成の危機」を、我がこととして認識し、表現活動の改善に務める。
[Ⅰ]自らのことばとして、熟考し発酵し熟成した言語を自らの結論として発信する。
[Ⅱ]多くの情報を、Ⅰと連携させ、他の記事の転載を自らの結論とはしない。必要な情報は転載して「私見」は添えるが、できるだけ「事実の提示」を心がける。
―終了―
櫻井 智志
福島原発事故の後に、被災地を訪問した徐京植さんの様子をNHK・Eテレが報じた。その番組を見ながら、徐さんの「根こぎ」という言葉が強く印象に残った。「根こぎ」は「根こそぎ」と同義である。
原発事故に怒りと憤りを感じた国民の各層が、広範に都内の明治公園、代々木公園、官邸前、国会議事堂前に、数万人、数十万人と集まった。その多くは、組合や団体からの動員ではなく、自然発生的に立っていられない気持ちで集まった方が多かったときく。
長年の沖縄県民の復帰闘争には、悲惨で不合理な体験のもとに耐えに耐え続けてきた沖縄県民の怒りが岩盤のような土台にある。実際の現実のなかから、「オール沖縄」が構築された。選挙戦術や政治政策の方便だけなのではない。
沖縄県民の、国会から自治体までの選挙における圧倒的選挙の勝利は、沖縄の民意の総意を鮮やかに示した。それに対する本土政府の安倍晋三政権は、差別と強権の「植民地宗主国」政治対応に終始した。
国会の政権閣僚の汚職、国民蔑視、立憲野党への答弁になっていない答弁など、行政の劣化には目を覆うものがある。ひとつや二つを例示できるような段階のものではない。多くの発言の虚偽、詭弁、方便など首相から閣僚、官僚のお粗末な公式発言は、議会政治の頽廃のきわみに達している。国民生活の改善をまともに実行する法案には、無関心で、カジノ・共謀罪・年金改悪などの反国民的法案を「自民」「公明」「日本維新」「日本のこころ」などの与党・与党従属政党によって強行採決し、強行採決をもくろんでいる。
稲田朋美・高市早苗・丸川珠代など安倍首相お気に入りの女性閣僚、安倍政権下ですでに交代した女性閣僚たちは、むしろ女性の地位向上や政治家・閣僚の増加を世間に反発を感じさせるレベルの低い答弁に終始していて、「だから女は駄目なんだ」という差別意識を高めてしまうような酷いものだ。かつての社会党土井たか子さんや二院クラブの市川房枝議員のような平和と福祉、護憲と暮らしの改善をきめ細かに気付き提案し実行しつづけた政治家とは異なる。現代でも、日本共産党、社民党、民進党、自由党など立憲野党のすぐれた女性政治家と比べても、明確に異質な閣僚たちだ。
なぜ、一方では反原発の市民・国民たちがいて、他方では劣化し続ける安倍政権への比較的高めの支持率と暴政とがあるのだろうか?
安倍政権は、まっとうな政治によって国民的支持の高い政権ではない。やっていることは、極右の軍国主義思想・破綻した新自由主義経済策・福祉切り捨て弱者切り捨ての福祉政策・軽率な海外発言と国民の税金ばらまきの大判振る舞い外交。そのどれをとっても、反国民的な政権である。
そんな政権が高支持率なのは、二つのアメとムチ政策がある。
安倍首相を批判するマス・メディアへの徹底的な恫喝と介入は、先進資本主義国でも稀有な弾圧である。高市早苗総務相は、「偏向報道は、放送免許剥奪につながる」という驚くべき無知と報道対応を公的発言している。TBS「news23」とテレビ朝日「報道ステーション」への目に余る偏向攻撃と首脳陣への放送免許剥奪もちらつかせる安倍政権の高圧的姿勢。
政権からの弾圧で、岸井成格氏と古館伊知郎氏が、番組から降りた。岸井氏は、前からのテレビ局内での方針で、急な降板ではないことを月刊誌のインタビューに応えている。
あらかじめお断りしておきたいことがある。良心派、理性派の報道番組について限定している。ここでとりあげない日本テレビやフジテレビの報道番組のキャスターなどについては、検討の対象としていない。比較的ジャーナリズムの役割を果たしてきた番組を対象としている。それだけ国民世論の形成に強い影響を与えてきたからだ。お名前をあげて批判するが、そのような前提をご留意いただきたい。
「news23」は全員が、「報道ステーション」は小川アナウンサー以外が変わった。それぞれの番組の中枢とも言えるキャスターは、「news23」は星浩元朝日新聞幹部が、「報道ステーション」は、別の報道番組にもいた後藤謙次氏の両氏が、新たな若手のアナウンサーを補佐する立場で起用されている。星浩氏・後藤謙次氏ともに不適格である。他の報道サイトでも後藤氏が批判されていたが、両氏ともに、ジャーナリストとはとても言えない。新聞テレビの高等幹部社員に過ぎない。Aという意見もあるが、Bという意見もあるという中和剤コメントで、問題の本質を的確に伝えるというスタンスではない。首相や重要閣僚と酒席をともにし、完全に取り込まれている「態勢維持のマスコミエリート」に過ぎない。温和で「人情派」の星浩氏は、決して反動派でなく、むしろ穏健な客観的なマスコミ人であるけれど、自分が会社から求められた「立場」を忠実に順守する毎日の放送の中で、田英夫、古谷綱正、入江徳郎、筑紫哲也、岸井成格らの諸氏が築き上げた「報道のTBS」を見事に経営陣とともに、瓦解させてしまった。TBSは日曜だけの「関口宏のサンデーモーニング」、土曜だけの「報道特集」によって辛うじて、ジャーナリズムの実を保持している。
このような「客観主義的」体制維持の報道マンは、ほかにもいる。もっと酷い連中である。田崎史郎氏などおだやかな語り口から,出てくる言葉は国民馴化の安倍政権擁護のデマゴギーである。このようなマスコミの安倍首相のお先棒をかつぐ輩があまりにも多すぎる。安倍首相という「強大権力」に阿る連中のオンパレード。
連日流される国民馴化のマスコミの堕落は、権力からの弾圧で経済的危機に陥らせられたなかでの究極の存立保持策であるのかも知れない。これ以上マスコミを論じることの虚しさを感じる。
トップに掲げた徐京植さんの「根こぎ」「根こそぎ」という言葉。それは、現代の、「記号」として量産され消費され、泡と消える空虚の「ことば」文明への警鐘である。
自らが体験したことを己の肉体で言語化して紡ぎ出すことばこそ、たやすく瓦解したり時流に押し流されたりしない「ことば」である。以下に自らの私的体験をまとめて述べる。
私は37歳に「櫻井智志37歳」として、『民主文学』読者欄に投稿した。「琉球新報」読書欄への丸木正臣氏の書評一面写真入り、週刊金曜日の『北朝鮮に消えた友と私の物語』(萩原遼氏著作。彼は金芝河の詩集を何冊も翻訳したことで重要な意義を果たした)の書評見開きニページ、『葦牙ジャーナル』『葦牙』への評論などを執筆。ほかに『日曜セミナー』季刊『群馬評論』月刊『技術と人間』月刊『軍縮問題資料』に評論を掲載された。そのかたわら『語り継ぐ人間性と人格の教育』と題して、教育実践記録と文化・思想への省察を、定年間近にまとめて出版した。『座標―吉野源三郎・芝田進午・鈴木正』を出版した。しかし、それらの活字媒体での社会的発言は、思わぬインターネット上の出来事によって、蹉跌経験を味わい、インターネット・ブロガーに専念して、一切の活字メディアを離れて今にいたる。
そうやってインターネット空間に浸る中で、徐京植さんの「根こぎの現実」に立ち向かう上で、圧政に立ち向かい抵抗するためには、変革主体形成とそこでの各人の自らの言語形成の営みの重要性にたどりついた。
あれほど沖縄の県民のために,政治実践や選挙闘争やしんぶん赤旗などの広報活動を蓄積し続けている日本共産党中央委員会が、人権蹂躙の不当勾留四カ月を超えるいまに至るまで、国民的救出運動の実践にとりくまない、そのことは私にとり強い衝撃であった。
なぜ、なのか・・・・?
ユニークで斬新な数々の選挙手法や政治的実践によって、低迷していた時期を脱した共産党は、東京都議選、都知事選、国政選挙が相次いだ時点から、急速に国民的支持を復活させた。全国に護憲平和勢力の要として、誠実で私心無き党員の活動と的確な指導部の政策や指針、志位和夫委員長の謙虚な人柄と有力な指導によって、国民の信頼に耐えうる見事な実際の運動を展開した。
それを否定するものはなにもない。ラインやインターネット、ツイッターなどの新たなコミュニケーション・ツールを駆使して、より効果を倍増させてもいる。
ただ、インターネットを離れて、沖縄県民の反圧政、反基地闘争において、現地に入り市民運動とともにせっかく共闘しながら、平和運動のリーダー山城博治さんを、今もなお手術後のがんと闘病する山城さんを救出できていない。私もインターネットでの署名や救出アピールを行ってきた。それは効果として実現されていない。
今井正監督の映画『小林多喜二』を鑑賞して、作品としては『ひめゆりの塔』『きけわだつみのこえ』に比して決して成功した仕上がりとは言えないと思った。だが「多喜二」が特高の手にかかり虐殺され、遺体には皮下出血で全身が虐殺を無言の告発をおこなっていた。
治安維持法最大の被害者であった日本共産党は、山城博治さんが社民党から国政選挙に出馬するなど、なんらかの懸念や「はねあがりや挑発による権力ひきだし」に警戒するケースも政党としての政治体験史から教訓化してることも想定した。
そして私はこういう考えを初めて持った。インターネット選挙で成功してきた日本共産党は、躍進後の若い世代や新しい加入党員たちが、「自らの体験や疑似体験を通して血肉化した熟成したことば」を持っていないのではあるまいか?共産党全体が、目の前の現実に即時対応する前提としての《ほんもののことば》を各人が持っていないのではあるまいか?
このような《自らが血肉化したことば》は、反安倍政権の側にも広く問題として広がっているのではあるまいか?
『浮遊する言語空間と変革主体形成の危機』とは、いま記したような「仮説」を表象している。
私の仮説が、実際とかけ離れた、日本共産党批判であったなら、それは名誉の毀損として謝罪と訂正に応ずる所存である。
そしてなによりも、私は自らの《インターネット表現者》としての今までの自らの在り方を、この機会に改める。それを最後の結論に掲げて結びとする。
【結論】
「浮遊する言語空間と変革主体形成の危機」を、我がこととして認識し、表現活動の改善に務める。
[Ⅰ]自らのことばとして、熟考し発酵し熟成した言語を自らの結論として発信する。
[Ⅱ]多くの情報を、Ⅰと連携させ、他の記事の転載を自らの結論とはしない。必要な情報は転載して「私見」は添えるが、できるだけ「事実の提示」を心がける。
―終了―