【現代思想とジャーナリスト精神】

価値判断の基軸は自らが判断し思考し実践することの主体であるか否かであると考えております。

【色平哲郎氏のご紹介】 若月俊一先生の墓前にて、賞に恥じないことを誓いました

2021-07-19 22:14:22 | 転載
邉見公雄 2時間前
7月9日、第29回若月賞を受賞しました。
当日朝、若月俊一先生の墓前にて、賞に恥じないことを誓いました。
授賞式の後、記念講演を行いました(自己紹介は初級手話で)。
また、18歳からの医学部同級生で畏友、盛岡正博理事長自ら、
佐久大学を案内して下さいました。


(邉見 へんみドクター・返信コメント)
ありがとうございます。地域医療がコロナや新自由主義で危ないのでしっかりせよとの先人からのイエローカードとも^_^
宜しくご指導くださいますよう

https://www.facebook.com/akouhige/posts/2962092070778241


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中村哲さんの死を悼んで

https://bit.ly/36MmYDG

河合文化教育研究所


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カンダハール州のスピン・ボルダック陥落

https://bit.ly/36K0Auq

【映像】パキスタン国境検問所を制圧 アフガン反政府勢力タリバン

ここの陥落は、致命的・・


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伊丹万作

「だまされた者の罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになつてしまつていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである」


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評・藤原辰史
『スターリン 独裁者の新たなる伝記』 オレーク・V・フレヴニューク〈著〉
〈宿敵トロツキーのような優れた演説や文章の才を持たないスターリンは「極度の単純化が生み出す明解さと簡潔さを追求した」。彼の行動力や官僚的細やかさは特筆すべきだが、社会主義的発言はレーニンの思考の「鋳直し」。思想的深みはなく、困ったら人のせいにして、脅迫と恐怖で人を支配する。つい私たちの周囲にはびこり、権力を振るう小スターリンたちを数え上げたくなる。〉

朝日新聞2021/7/17

 ■脅迫と恐怖で支配、民の声届かず
 スターリン博物館は彼の出生地ジョージアのゴリにある。野外には生家や専用列車が展示され、露店がグッズを売る。銅像の隣で写真を撮る観光客も多い。館内にはデスマスクも展示されている。
 訪問して驚いたのは彼を偉人と感じ取ってもおかしくない展示風景や訪問者の高揚感だった。ロシアにはスターリン時代を神話化する言説や本が増えていると聞く。
 本書はそのスターリンの伝記である。訳者によると、著者は最もスターリン時代の史資料に目を通してきた国際的にも著名な歴史家だ。史資料から読み取れることだけを頼りに彼の出生から死までを追う。膨大な調査を経てなお不明な点は不明だと言う慎重な態度が、伝記の信頼を高めている。
 本書は読みどころが満載だが、とくに心に残ったのは三点。
 第一に、彼の死をめぐる克明な叙述。一九五三年三月二日に彼が別荘で失禁して倒れ、幹部四人が集まったが医者を呼ばない。「率先して事を起こすのに慣れていなかった」。ボスのパージに震え上がっていた取り巻きは、彼のご機嫌をとり、誰かに責任を押し付ける所作が染み付いていたのである。娘のスヴェトラーナが残した死の描写も印象的だ。いまわの際で「彼は突然目を開き、部屋にいる全ての者たちを一瞥(いちべつ)した」。そして周囲の人々に「呪い」をかけるように上を指さす。猜疑(さいぎ)心に取りつかれた独裁者の死路が暗い。
 第二に、独ソ開戦後のスターリンの動揺の激しさ。別荘に引きこもった彼の元を幹部らが訪問、彼を戦争の最高指導者に据え、政治に復帰させるお膳立てをした。「党政治局内部の権力の再バランス化」が訪れる。息をのむ場面だ。
 第三に、スターリンの元に届けられた無数の直訴状は、ほぼ読まれていないこと。彼は民衆へ関心を一度も抱かなかったという著者の分析は衝撃だ。一九二八年、珍しくシベリアへ向かい穀物徴発の指揮をするが、彼にとって農民は穀物を隠す敵対者であり、武器を向けても当然となる。一般人の食の状況も十分とは言い難かった。三二~三三年は大飢饉(ききん)を招き、五〇〇万人以上の人が餓死した。他方で、上流階級は良い医療や食事や教育を受けられたという格差社会ぶりは予想を上回る。
 宿敵トロツキーのような優れた演説や文章の才を持たないスターリンは「極度の単純化が生み出す明解さと簡潔さを追求した」。彼の行動力や官僚的細やかさは特筆すべきだが、社会主義的発言はレーニンの思考の「鋳直し」。思想的深みはなく、困ったら人のせいにして、脅迫と恐怖で人を支配する。つい私たちの周囲にはびこり、権力を振るう小スターリンたちを数え上げたくなる。
 評・藤原辰史(京都大学准教授・食農思想史)
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 『スターリン 独裁者の新たなる伝記』 オレーク・V・フレヴニューク〈著〉 石井規衛訳 白水社 5060円
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 Oleg V. Khlevniuk 59年生まれ。モスクワ大歴史学部教授。ロシア連邦国立文書館に長く勤務し、30年代のソビエト・ロシア史とスターリン研究の第一人者。邦訳に『スターリンの大テロル』。


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東大助教授だった丸山眞男は高級参謀に敬語で迎えられ現代史の講義を頼まれた

2021/07/16 公開「保阪正康 日本史縦横無尽」

 軍人たちは、原爆を太陽の光を利用した爆弾と早合点し、陽光にあたらなければ大丈夫だと部内に伝達した。根拠があろうとなかろうと、とにかく被害を軽微に見せて戦争継続を企図しようとしていたのである。
 しかし、それほど大きな傷を負わなかった兵士たちは、この爆弾で亡くなったのは熱風、放射能、光線によるのが一般的だと主張した。その一方で、皮膚を陽光に直接当ててはいけないとの言い伝えが、兵士たちの間に漠然とだが、広まっていたというのである。兵士の間に、アメリカ軍が上陸してくるという噂が広まったというし、この爆弾を、軍部が徹底して戦う口実にするのではないかとの不安も広がったというのである。
 すでに紹介したのだが、東大助教授だった丸山眞男は、一兵士として被爆体験を持ち、その10日ほどのちに敗戦を迎えている。すると意外なことが連続して起こるようになったと証言している。
 敗戦の翌日(8月16日)には、高級参謀に呼ばれて部屋に入ったという。するとその参謀は「どうぞおかけください」と丁重なことばで挨拶した。その上で「満州事変から以後の現代史を私に講義してくれないか」と言いだしたのである。参謀は「その講義では詳しく話して構わない。言論の自由も保障する」とまで言い、2週間にわたり講義をしてほしいと依頼した。
 丸山は参謀長らのお歴々が座っている席で、汗ばみながら、ひたすら広島に至るまでの歴史を語った。その歴史の授業には参謀のほかに下士官、兵士らも参加して、丸山の近代日本史の分析に耳を傾けていた。
 原爆の威力はごく普通の将校や下士官、兵士に近代日本の歴史を垣間見る機会を与えた。もう日本は負ける、ジタバタしないで次の時代に備えておいたほうが、これからの人生に役立つ、と誰もが内心では実感していたのである。
 丸山は1960年代には、アメリカの大学でも教壇に立ったのだが、その折に「自分は原爆の被災者である」と言うと、アメリカ人は途端に真剣な表情になった。
 そして、反原爆の話などにもほとんど意見を言わなかったという。
 日本は反核の意見を常に世界に発信する立場にいるという証しである。
 今日、その立場を大切にしていると言えるであろうか。

=つづく

https://bit.ly/3wQC7OW


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軍医は戦場の悲惨を見た  

 戦争体験の語られざる事実
「本来なら彼ら(重傷者)は事前に手榴弾で死ぬか、それとも青酸カリで自決しているはずであった。自身でできなければ、衛生兵や同僚の兵士によって、強制的に口を開けさせられ、アカダマを飲まされて死んでいるはずである。」

保阪正康「「世代」の昭和史」42

兵士が命を投げ出さざるを得ない構造

 もう一つ、軍医の証言を紹介しよう。
 日本軍は捕虜になることは認めない。「戦陣訓」に書いてある通りだ。このことが兵士たちにいたずらに、戦争の恐怖を教えた。有り体に言えば、戦場で戦う兵士は、家族や身内が人質に取られていて、命を投げ出さなければならない構図が出来上がっていた。この構図がいかに残酷なのかは、これまできちんと論じられてこなかった。家族を人質に取られて戦っているとの現実は、まだ20歳を超えたばかりの兵士にとってはまるで逃げ場のない空間に身を置いているという意味になる。
 自分が命を投げ出さなければ、家族が郷土で卑怯者とか非国民と謗られる光景は、親不孝の最たるものとして糾弾される。そういう強迫観念が兵士の心情を支配している。私が問題にしているのは、兵士、下士官でも20代後半、あるいは30代ならば、ホンネとタテマエを使い分けることも可能だが、20歳を超えた青年兵士、20代前半の兵士にとってはこの使い分けなどできるわけがない。家族が人質に取られているが故に、青年兵士は軍内のとんでもない慣習に振り回されていたのである。
無理やり薬を飲ませ、安楽死を強いた
 捕虜にならないために、日本軍は撤退する時に重い怪我をしている重傷の兵士を置いていかざるを得ない。捕虜にさせないために安楽死をさせるのである。具体的にどうすか。青酸カリを飲ませるのである。部隊によって言い方は異なるが、ある部隊は、クスリとかアカダマとか各種の言い方をした。軍医がそれを重傷者に飲ませなければならないが、軍医は大体が衛生兵にそれをさせる。どういう光景が描かれるか。
 重傷者は傷を負って歩けないにせよ、生命機能は特に瀕死というわけではない。だからこれを飲めと言っても飲まない重傷の兵士は少なくない。逆に口を閉じて拒否をする。衛生兵の中には強引に口を開かせ、クスリを口の中に投げ込む。その時の様子を、ある衛生兵は実演して見せてくれたが、途中で泣き出してやめた。昭和50年代の初めのことである。なんと残酷なことをしたのか、と幾つもの光景がフィードバックしてくるのである。ある軍医が密かに私に証言している。
「私たちは兵隊に、安楽死など強要できませんよ。医学を学んだのは、生命の救済にあるんですよ。どうしてアカダマなんか飲ませられますか。そういうことは衛生兵にやってもらうことで、私たちは心の救われる思いがしました。でも衛生兵だって泣いているんですよ。日本の軍隊はどうしてこんな戦陣訓なんか作って、兵士を苦しめたんですかね」
 この軍医は、戦争の終わった後に、出身大学の医学部に戻り、最終的には医学部の教授になった。意外なことに昭和40年代の大学医学部の教授たちには、軍に駆り出されて戦場で軍医として軍務を命じられたり、あるいは陸海軍の教育機関で学び、戦後は一転して医学部に入り、医師となったり、医学研究者になった者も少なくない。彼らに共通しているのは、軍医時代の話はほとんどしないことだ。
 なぜなら人の命を救う職務が、それと全く反対の軍務に使われたことに強い憤りを持っているからだ。私自身、こうして彼らから聞かされた史実を書くのは、自分たちの年代の者が亡くなってから書くのはいいが、その場合も肩書や名前などは決して書かないようにとの前提で聞かされたからである。
 玉砕の地で負傷兵が、仲間と共に最後の突撃を行うことができずに、ほとんど寝たきりの状態でアメリカ軍の捕虜になるケースがある。本来なら彼らは事前に手榴弾で死ぬか、それとも青酸カリで自決しているはずであった。自身でできなければ、衛生兵や同僚の兵士によって、強制的に口を開けさせられ、アカダマを飲まされて死んでいるはずである。ところが衛生兵の中に、あるいは同僚の兵士の中に、そのようなことをしない、あるいは青酸カリを飲ませたごとくに見せかけて命を救った例があるということであろう。
 ある軍医は、玉砕の地で捕虜が何人いるといったようなことを聞かされるとほっとしたという。誰も彼らを安楽死させていないのだという事実が確認できるからだ。この裏に安楽死の手伝いなどごめんだという衛生兵や軍医の抵抗が宿っていることに気がつき、ほっとするというのであった。軍医たちはほとんど戦友会に出ない。兵士の死には、さまざまな死があり、それを思い出として語るにはあまりにも心理的な負担が大きいというのであった。

https://bit.ly/3rs3bmA


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【ワシントン=黒瀬悦成】バイデン米政権高官は14日、アフガニスタンの駐留米軍や米政府機関で通訳や翻訳係などとして協力したアフガン人とその家族らを7月最終週から空路で国外に退避させると明らかにした。

https://bit.ly/3hNuHYg


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> https://www.facebook.com/nobuhiko.utsumi/posts/4178487412228995
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> 2018年7月17日
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>  もうすぐウィーンに行きます。アドルフ・ヒットラーは、ウィーン美術アカデミーの入試で2年続けて落とさ れました。ヒットラーは自分が入試で落とされたのは、「ユダヤの長老の世界規模の陰謀」だと信じて、自分が地位を築き名声を得るのを「ユダヤの陰謀」が妨害していると思い込むのです。受験の失敗は、「ユダヤの 陰謀」ですって!
>
>  ドイツ映画『我が闘争 若き日のアドルフ・ヒトラー/Mein Kampf』では、若干の脚色もありますが、若き日 のヒットラーが芸術家に憧れ、芸術を学ぶためにウィーンに来て、入試で落とされ、芸術家になることを断念 させられたのはユダヤの陰謀だと信じ込み、復讐するために反ユダヤ主義者になっていく過程をリアルに描いています。
>
>  今の日本では、反安倍であろうが、反資本主義であろうが、想像以上に多くの人種差別主義者が、世界は「金融ユダヤ」が支配していると信じ込み、自分が「陰の勢力」から監視され、目に見えない「闇の権力」に支 配されていて、能力に溢れた自分が認められないのは「ユダヤが世界を支配している」からだ…だなんて思い 込んでいるんです。
>
>  「陰の勢力」だとか、「闇の権力」という連中は、陰ではなく天皇制と支配階級や、日本の三井・三菱金融 資本と言えない臆病者です。ネット上の弱虫たちのマスターベーションにちょうどお手軽なおかずが、「陰」 だとか、「闇」なのです。マスターベーションの習癖から、「隠れユダヤ」なんて反知性的な妄想が生まれるんです。
>
>  表の三井・三菱は会社に知られたらまずいけど、「隠れユダヤ」なら会社も許してくれる…だなんて、情けない連中です。これはアドルフ・ヒットラーの倒錯と同じです。ナチイデオロギーを基にして生まれた反ユダ ヤ主義のオウム真理教に洗脳された若者とそっくりなんです。
>
>  日本は世界で一番、反ユダヤ主義者が溢れているレイシスト社会です。日本に来た外国人が驚くのは、なぜ 日本で反ユダヤ主義が、広範に蔓延していることです。ナチのイデオロギーがここまで浸透しているのは、ドイツの友人も呆れていました。
>
>  しかも極右と手を取り合って、いわゆる自称リベラル派に、ナチイデオロギーが浸透しているのです。ドイツの友人と私は、この矛盾について議論したのですが、1920年代のドイツと今の日本に共通するルサンチマンが、被抑圧者に浸透していると二人とも考えています。
>
>  自分が抑圧され、認められないのはユダヤ人が妨害しているからだ、自分は陰の勢力から監視され、闇の権力に支配されている…だなんて思い込むのはなぜでしょう。それは、歴史認識を裏打ちする思想と哲学の貧困 が、想像を絶するほど劣悪なのです。高学歴だろうが、一流大学出だろうが、かえってそういう知的レベルが高いんだと錯覚している人ほど、ナチの人種理論や、反ユダヤ主義にはまりやすいのです。
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任命拒否する政権 歴史学者・加藤陽子さん
それでも、日本人は「五輪」を選んだ

朝日新聞2021/7/15

画像)「それでも日本人は五輪を選びました。底を見るかもしれませんが、政府任せでは失敗するという教訓は学べたのでは」=北村玲奈撮影

 日本学術会議の会員に推薦されながら、菅義偉首相によって任命を拒否された問題が報道されてから9カ月余り。歴史学者の加藤陽子さんがインタビューに応じた。1930年代を中心にした戦前の日本近代史の研究で知られる加藤さんは、拒否した理由を説明せず、批判されても見直しに応じない現政権を、どう見ているのか。
 ――菅首相が6人の任命を拒否したと報道されたのは昨年10月でした。自身の任命が拒否されたことをどのように知ったのですか。
 「9月29日の午後5時ごろに学術会議の事務局から電話があり、任命されなかったと伝えられました。『寝耳に水』という言葉が実感として浮かびました。私のほかにも任命されなかった推薦者が誰かいる、とも言われています」
 ――詳細に覚えているのですね。日時は確かなのですか。
 「確実です。私はこの件が始まって以降、記録として残すために日記をつけていますので」
 「日記には学術会議のことだけでなく、その日の新規感染者数などコロナ禍の情報も書いています。社会の雰囲気や同時代的な偶然性も含めて記録するためです」
 ――拒否された6人の中で見ると、加藤さんはこの問題について人前であまり語っていない印象があります。会見には出ましたか。
 「出ていません。ひと様の前に顔を出して語ることには積極的ではありませんでした。研究者としての就職を控えた人たちを大学で多く指導しているので、彼らの未来に何か負の影響が及んではいけないと懸念したのが要因です」
 ――では、なぜこの段階でインタビューに応じたのでしょう。
 「政府とのやりとりが先月末で一区切りを迎えたことが一因です。私たち6人は、任命が拒否された理由や経緯がわかる文書を開示するよう政府に請求していました。たとえ真っ黒に黒塗りされていようと何かしらの情報は開示されるものと思っていたのですが、実際の政府の回答は『文書が存在するかどうかも答えない』という非常に不誠実なものでした」
 ――6月に出された不開示決定ですね。どう感じましたか。
 「納得できませんでした。回答した政府機関のうち内閣官房は、該当する文書は存在しないと通知してきました。内閣府の回答はさらにひどく、文書が存在するかどうかを明らかにしない『存否応答拒否』でした。文書が隠滅された可能性もあると思います」
 「インタビューに応じたもう一つのきっかけは、報道機関などによる調査が進んで、学術会議の自律性が前政権の時代から何年もかけて掘り崩されてきた過程が明らかにされたことです。関係者に迷惑をかけずに私が発言できる状況が整ってきたと判断しました」
     ■     ■
 ――任命拒否が判明した直後の昨年10月、加藤さんは、菅首相の決定には法的に問題があるとするメッセージを公表していますね。
 「日本学術会議法は、会議の推薦に基づいて首相が会員を任命すると定めています。この首相の任命権については1983年に中曽根内閣が答弁しており、首相が持つのはあくまで形式的な任命権であって会議の推薦が尊重される、との法解釈が確定していました」
 「しかし今回の菅首相による拒否は、会議の推薦を首相が拒絶できるという新しい法解釈に立っています。つまり政府の解釈が変更されているのです。解釈変更が必要になった場合には政府は国会で『どういう情勢変化があったから変更が必要になったのか』を説明する義務があるはずです。けれど菅首相は説明していません」
 ――同じメッセージの中で、決定の背景を説明できる決裁文書はあるのか、とも問いましたね。文書にこだわった理由は何ですか。
 「私は日本近代史を研究する者として、行政側が作成した文書を長らく見てきました。だから、何か初めてのことをするときには文書記録を作成する傾向が官僚にはある、と知っていたのです」
 「ただ近年、官僚が官邸からの要求に押され、適切に文書を作成できない事態が生まれていると感じていました。安倍晋三政権の時代からです。集団的自衛権に関する憲法解釈を閣議決定で変えたり、検察庁幹部の定年延長に関する法解釈を政府見解を出すだけで変えたり……。法ができないと定めていることを、法を変えずに実行しようとする人々が、どういう行動様式をとるのか。それを確認したい気持ちが今回ありました」
 ――任命拒否について菅首相は十分な説明をしていない、と批判してきましたね。何をすれば「十分な説明」になるのですか。
 「日本が立憲的な法治国家である以上、行政府の行為は、国民や立法府からの批判的検討を受ける必要があります。その行政活動には法的な権限があるのか、その権限を行使することに正統性があるのか。自らが任命拒否した行為について国会でそれらを正面から答弁することが、説明です」
 「首相が『人事の問題なのでお答えを控える』と言うとき、彼は『なぜ外されたのか分かるよね?』と目配せをしているのだと思います。自民党を批判したからだろうとか、政府批判にかかわったからだろうとか。国民がそう忖度(そんたく)することを期待しているから、説明しないのでしょう。忖度を駆動させない対策が必要です」
     ■     ■
 ――政権や指導者が国民や議会に十分な説明をしないことは、社会に何をもたらすのでしょう。
 「日本の歴史を振り返れば、政権や指導者が国民に十分な説明をしなくなりやすいのは、対外関係が緊張し安全保障問題が深刻化したときでした。しかし歴史は、そうした傾向が国民に不利益をもたらしたことも教えます」
 「戦前の日本は、満州事変(1931年)を機に国際連盟を脱退し、常任理事国であるという巨大なメリットをみすみす手放してしまいました。もし脱退の必要性を政権が国民に説明していたら、それは国益に資するのかという幅広い検討機会が生み出され、脱退しない展開もありえたはずです」
 ――ご自身を菅首相が外した理由は何だと推測していますか。
 「歴史記録を長年眺めてきた者の直感ですが、2014年ごろから安保法制に反対したり『立憲デモクラシーの会』に参加したりしたことを含めて、政府批判の訴えをしたからでしょう。新聞や雑誌にコラムを書いたり勉強会で講師をしたりといった大衆的な影響力を警戒されたのだと推測します」
 「任命拒否問題の本質は、政府が法を改正せずに、必要な説明をしないまま解釈変更を行った点にあり、それは集団的自衛権の問題や検察庁幹部の定年延長問題とも地続きであること。私が国民の前でそれを説明することができる人間であったことが、不都合だったのではないでしょうか」
     ■     ■
 ――菅政権が任命拒否した人数は、なぜ6人だったのでしょう。謎だとされている部分です。
 「象徴的な数字として使われたのではないかと私は見ます。前回17年に105人の新会員が任命された際、当時の学術会議会長は政府側から要求されて『事前調整』に応じています。推薦者の名簿に本来の人数より6人多い111人の名前を書き、見せたのです」
 「しかし今回は山極寿一会長(当時)が事前調整に応じず、初めから105人ぴったりの推薦名簿を出しました。それに対する政権の反応が、私たち6人を外す決定です。『次回は2017年のように6人多く書いて来いよ』というシグナルなのでしょう」
 ――任命拒否された6人のうち加藤さんを除く5人は、学術会議会長から連携会員や特任連携会員に任命されるという形で実質的に会議の活動に参加していますね。加藤さんは断ったのですか。
 「はい。昨年11月に学術会議の幹部と話した席で『特任連携会員として会議に参加する道もありますが、どうですか』と聞かれ、希望しませんと伝えました」
 ――なぜですか。
 「『実』を取るより『名』を取りたいと思ったからです」
 「特任連携会員になって学術会議の活動を支援することには確実なメリットがあります。実を取る道と言えるでしょう。ただ、政府が問題のある行為をした事実、批判されても決定を覆そうとしない態度をとっている事実を歴史に刻むことも大事だと私は考えました。実質的に欠員が生じたままにしておくこと、私が外されたという痕跡を名簿の上に残しておくことが、名を取る道です」
 ――歴史に事実を刻み得たとしても、それによって政治がすぐに良くなるとは思えません。
 「すぐには変わらないかもしれません。しかし事実として、出入国管理法の改正にしても東京都議選の結果にしても五輪の進め方にしても今、社会は政府や与党の望む通りには動いていません」
 「6人が外されたこと。6という数字には特別な意味が込められていたかもしれないこと。みんなでそれを覚えておくことが、もう一度6人を削ろうとする動きへの牽制(けんせい)球になるでしょう。そこに希望を見いだしたいと思います」(聞き手 編集委員・塩倉裕)

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 かとうようこ 1960年生まれ。東京大学教授。小林秀雄賞を受賞した「それでも、日本人は『戦争』を選んだ」など戦前期に関する著書で知られる。