カタルシス catharsis
https://bit.ly/3Boar7D
アリストテレスが演劇学用語として使ったのちに、医学用語として転用され、薬剤を用いて吐かせたり、下痢を起こさせる治療行為を指した。アリストテレスは、『詩学』内で悲劇の効用としてカタルシス論を展開し、効果のひとつとしてカタルシスに言及する、、、
近世フランス詩学においては、アリストテレスのカタルシス論は悲劇論の中核をなすものとして理解され、カタルシスは、観者の魂に「怖れと憐れみ」によって浄化を起こすものと理解された。
精神科医のジークムント・フロイトがこの語を採用したことから、カタルシスは代償行為によって得られる満足を指す心理学用語としても用いられるようになった。
==
==
「ホメロスは他の多くの点でも称賛に値するが、とくにほめられてよいのは、詩人たちのなかで彼だけが作品中で作者自身がはたすべき役割」を見落としていない点である。すなわち、詩人は [作品中に顔を出して]自らが語ることをできるだけひかえねばならない。
というのも、自らが語っているかぎり、その詩人は模倣家 [ミーメーテース]ではないからである。
しかるに、他の叙事詩人たちは、徹頭徹尾自分を表面に出しつづけて、ほんの少数のことについて、ほんの少数の機会にしか模倣をおこわない。
これに対してホメロスは、前置きを短くすませておいて、ただちに男や女、あるいは他の役柄の人物を[作品中に]登場させる」
アリストテレス「詩学」24章
==
==
演劇による自己変容のプロセスに関する成人教育学的研究
丸山 里奈 Tohoku University
http://hdl.handle.net/10097/00128187
・・・
・・・
3. 演劇の特徴と理論 (1) 抑圧への抵抗
演劇は芸術分野であるため、情操教育の一環として捉えている人が 多いが、むしろ歴史的にみると、その時代に生きている抑圧された民 衆の心の叫びを発信する社会的活動としてとらえることができる。例 えば、日本では、歌舞伎は庶民のものであり、そこでは社会的地位が高 い権力者の名前に酷似した登場人物を作品に組み入れて、わざとコメ ディータッチに創りあげた社会風刺作品が多かった。民衆の遊び心と 笑いのかげに、権力者への批判と挑戦があったといえる。
社会風刺にとどまらず、社会改革に積極的に演劇を利用した史実は たくさんある。その一つに、ペルーの事例がある。非識字率が高い深刻 な社会問題の改善と民衆の意識改革のためのツールとして「演劇」が 社会的役割を果たした出来事である。これは先の学習理論のところで あげたパウロ・フレイレの業績である識字事業と深く関係があり、ま さに演劇と学習理論の「批判的文化理論」との接点である。
参加型民衆演劇―アウグスト・ボアールの例
1973 年ペルーの革命政府は 1400 万人の国民に対して 300 万-400 万人の非識字者が存在することを問題とし、総合識字計画を発足した。 ブラジルの演出家アウグスト・ボアール(1984、里見ら訳)は「識字 は母国とスペイン語の両方でおこなう。一方のために他方を犠牲にす ることを強制しない」ため、「可能なあらゆる言語を用いて識字を行な う。とくに演劇、写真、人形劇、映画等の芸術的諸言語、新聞などを活 用する」という識字事業の演劇部門にかかわることになった。「“ひと つの言語としての演劇”を、 芸術的な才能をもつかもたぬかには関係なく誰しもがつかうことのできるひとつの言語としての演劇」(ボア ール 1984)を描いていた。ボアールの著書『被抑圧者の演劇』の中 で「私は実践のなかで、演劇が被抑圧者に役立ちうるものであるとい うこと、演劇をとおして被抑圧者たちは自己を表現し、この新しい言 葉をつかいながら、表現すべき新しい内容をも発
見するにいたるもの である」と語っている。
ボアールが非識字率の高い民衆を社会改革に導くことに成功した大 きな要因の一つは、「参加型演劇」を築き上げた点である。この参加型 演劇の基盤は、「演者を観ている人(観客)」を「演じる人(行為者=俳 優)」へと転じるという特徴がある。「観る」という客体から「演じる」 という主体にかわることが何回か繰り返され、演じられているストー リーは次々と変わっていき、変わっていくことで問題の解決を模索し ていく。「演劇は解放の武器である」(ボアール、1984)というように、 解放された観客は、仮構の中で「演じる」ことに身を投げていくことが でき、これをボアールは「革命のリハーサル」と呼んでいた。
なぜ、ボアールは参加型演劇を考えついたのか。彼は演出家として、 ブルジョワ演劇に対抗したブラジル独自の演劇を模索し、最初は「情 緒的記憶」8に注目していたが、次第に「誰のための演劇か」という疑 問にぶつかっていった(高橋&鈴木 2011 : 260)。劇団一座の旅中に 出会った神父が、小作農に対する搾取の実体を彼に伝えたことが大き な転機となる。「『われわれは行動を起こす人間(actors)でなければなら ない。土俵(stage)に上がって戦わなければならない。不正で不平等な 戦いの傍観者(spectators)になることは罪だ!』」(高橋&鈴木 2011: 自伝からの引用)という神父の言葉が響き、行動を起こす観客 (active spectator)の着想が生まれたという。単なる「傍観者」でいられる集団 の「何もしなくなる」心理学的な現象を放置せずに、刺激をつくるチャ ンスにしていくことを彼は考えた。この集団の「無関心になる」現象 は、心理学者ジンバルドーの「ルシファー効果」9の概念や集団心理10 にも関係している。また、オルテガ・イ・ガセット(1995)のいう「自分 自身に特殊な価値を認めようとはせず、自分は『すべての人』と同じであると感じ、そのことに苦痛を覚えるどころか、他の人々と同一であ ると感じることに喜びを見出している」(オルテガ 1995 : 17)という 「大衆」とも共通点があり、社会変革にはこの「傍観者」という「なに もしないでいる集団」の存在にボアールが目をつけ、個人単位だけで はなく「集団の変容」を求めていった点は社会的意義が大きい。
次に参加型演劇がなぜ社会変革に至るのか見直すことにする。
表 1-2 参加型演劇 出典:『被抑圧者の演劇』(ボアール, 1984, 晶文社)
・・・
このようにボアールの参加型演劇は、社会の上部構造を暴きだし、 最後は民衆の現実の要求にこたえるものとなる民衆演劇である。演劇 が観客の悲劇的な感情を浄化するものであることを反対し、問題意識 をもち、その問題は自分達で解決しうるものであるという活力を与え る目的がある。
・・・
・・・
古代ギリシャの五大芸術(詩、音楽、絵画、彫刻、建築)にも演劇と いう分野は存在しなかったが、悲劇と喜劇は叙事詩とともに「詩」に位 置づけられていた。そして近代になってから、舞踏、演劇は芸術分野に 加えられたという歴史がある。
・・・
演劇をとおして「他者とのコミュニケーション力が身につ く」「表現力が豊かになる」などの抽象的な良いイメージはあっても、 なぜそうなるのかという根本的なことを学問として専門にしてきた人 が日本の教育現場には少ない。広瀬(2011)は、シュタイナー(Rudolf Steiner)の教育理論に支えられているオーストリアのヴァルドルフ学校でのリサーチをもとに、日本で演劇教育への期待が高まる一方で演 劇を理論として勉強して指導できる教員養成がともなっていない問題 点を指摘している。
・・・
学校教育での意識の改善も課題であるが、フォーマルな学校教育よ りもインフォーマルな成人学習では、演劇を専門とする研究者・指導 者の導入のチャンスが多いので、学習としての発展の可能性はある。
・ドラマ(劇)的演劇から叙事的演劇へ
芸術として認識される遅れはあったといえども、演劇の分野はすで にいろいろな形で人間の生活に関与している要素があるためか、幅広 く発展していった。その中でも西洋演劇史で大きな貢献をしたのが、 アリストテレスによるギリシャ悲劇の定義である。ドラマ(劇)的演劇 (dramatisches theater)では感情移入が重視され、イリュージョンで 観客を登場人物に同化させるものであった。一方、その後、これに対立 的なものとして「非アリストテレス的ドラマトゥルギー」が現れた。観 客を傍観者とするベルトルト・ブレヒトによって提唱された叙事的演 劇(epische theater)の疑念である。これは、「表象される世界と出来 事を自然なもの、人格や感情に関して不変なものとして見せるのでは なく、矛盾を抱え、議論の余地あるものとして立ち現われるようにす る」(クリスティアンら 2009 :170)ので、ドラマ(劇)的演劇と大き く異なり、観客を同化させるのではなく、異化させることに力を入れ た33。さらに観客だけにとどまらず、演じる側にも登場人物を客観的に とらえる力が要求される。
このブレヒトの概念を、アウグスト・ボアールは発展させ、本研究の 第 1 章-3(1)でとりあげたように、劇の進行中で観客と演者の立場 を入れ替えながら現実社会を理想のものに変えていく民衆演劇を支持 した34。ボアール(1984)は「現実に行動する前に、仮構の行動をして みるわけだ。ぼくはこのテクニックを試みてみたんだよ。それで驚く べき結果をもたらすことが分かったんだ。それはカタルシス効果とは ちがう。・・・(略)
従来の演劇がやっているのはカタルシス35だろう? その浄化作用に訴えて、観客から、よこしまな意識だと、その他もろ もろの不純物をとりのぞくことをやっているわけだよ。それとはちが うんだ」(ボアール 1984:322)とカタルシス効果を不要とし、「観客の 意識を変えることを援けるだけでは駄目なんだ。観客が現実を変えて いくということは、つまりからだで、それを変えていくということな んだよ」(ボアール 1984 :321)と語っている。要するに意識変容に 「演じる=参加するからだ」を重要視している点からも、本章で「演じ る」ことに焦点をあてることに研究として意味がある。
・・・
・・・
成長への意欲が引き出されるには、内側から生じる「面白い」という 感情も必要であるが、外部からの成長への刺激的な誘導も必要な時が ある。例えば、前に述べたボアール(1984)は「舞台でやったことを 現実のなかでやってみたいという欲望を引き起こす目的」により、「現 実の行動によってしかみたすことのできない欲求不満」を引き出した。 これは,「面白い」というプラス方向の感情とは違って、不満というマ イナス方向の感情を引き出すことで、民衆に意欲を燃えさせる結果と なっている。このような視点で事例をみなおすと、そのような意図的 な外部からの刺激はないにしても、人間がもともと持っている「実現 できない悔しさ」で葛藤する意欲の語りは、不満から湧き出る自己成 長(自己改革)意欲として関係があると考える。
・・・
・・・
1. 身体化された学習
2. 批判する力を育む学習
3. 仮想現実を利用した学習
・・・
ゲームに夢中になっている子ども達が多い現代社会と合わ せて考えていきたい。今ゲームに夢中で部屋から出ない子どもたちも、 いずれ成人である。ゲームがなぜそんなに魅力的なのか、なぜ親は反 対するのか、この点も今後の成人学習を考えていくときに無視できない社会現象である。ゲーム世代が親になる時代が来る。ゲームを頭か ら否定するだけでは先に進まない。
・・・
しかし、本研究を通して、創造性・自発性の重要性をあらためて感じたためか、バーチャルリアリティの仮想体験の欠点が見えてきた。本 物の「身体」がないところが大きな弱点である。
・・・
4. ホリスティックな学習
・・・
おわりに
成人学習は成人の現実の日常生活のなかに学びがある社会的なもの である。人生の意味づけにより自分の人生の振り返りをおこなってい く。「人間はただの空間の中でぽつんと生きているのは耐えがたいもの で、自分の生きていることに対して、自分をとりまく世界から、何かて ごたえを感じないと心身共に健康に生きて行きにくい」(神谷 1985 :15) と感覚遮断の実験から神谷は言っている。このてごたえは、ライフイ ベントが楽しい良いことばかりである必要がないことを意味している。 本研究では、学習理論でも演劇という学問でも「批判する目」を持って 生きていく力が成人には求められていることが明らかになった。成長 にはレジリアンスやエンパワメントが必要であり、そこには「怒り」 「悲しみ」などのマイナスの感情が原動力になっている。演劇のカタ ルシスもそのような感情をもって発展し、やがて身体置き去りの感情 では表現ができないこと、観ている人に伝わらないことを人々は学ん でいる。演劇が民衆の社会への叫びであったように、成人教育の発展 には、学習者の批判や叫びが貴重なものとして必要とされていくとい う課題が見えてきた。
演劇による自己変容のプロセスに関する成人教育学的研究
丸山 里奈 Tohoku University
http://hdl.handle.net/10097/00128187
34 ブラジルの演出家アウグスト・ボアールは,社会変革のため支配階級の手 から演劇を民衆に渡す。1973 年ペルーの改革政府は 1400 万人の国民に対 して 300‾400 万人の非識字者が存在することを問題にし,総合識字計画を 発足した。そこでボアールは演劇を言語とし,参加型演劇を提唱した。
35 カタルシスはアリストテレスが著書『詩学』の悲劇論で「悲劇が観客の心 に怖れ(ポボス)と憐れみ(エレオス)の感情を呼び起こすことで精神を浄 化する効果」として書いている。演劇用語にはなっているが、精神医学でも よく取り入れられ、フロイトが治療にも使っていた。
==
==
「いい蛇紋(じゃもん)岩だね」
サンプルの目利きを頼まれたサイモン・リチャード・ウォリス(59)が頷きながらルーペで覗き込み、その場で簡単な講義が始まると、地質学者の卵たちの目に輝きが宿る。ここは関東から中部地方、紀伊半島、四国を経て九州の佐賀関に及ぶ日本最大の広域変成帯「三波川変成帯」の起点であり、地質研究の聖地だ。巨大なプレート同士がぶつかり合い、一方が沈み込んでもう片方が隆起し、変形する。1億年以上の時間をかけて地中深くから地表へと顔を覗かせた貴重な岩石には、その年月が蓄えた情報が詰まっている。
野外調査で学生や若手研究者を率いるウォリスは東京大学大学院理学系研究科地球惑星科学専攻教授であり、日本地球惑星科学連合で副会長を務める斯界(しかい)の重鎮だ。アルプスやチベット、南米の山々など野外調査の現場は地球規模に及ぶ。しかし、無駄のない足取りで山野を駆ける佇(たたず)まいは、権威とは無縁の冒険家のそれだ。
「簡単に言えばプレートの沈み込んだ深いところで何が起きているのかについて、岩石、構造地質学の観点から世界的な業績を上げている研究者です。だけど本人は『ウォリス』と呼ばれるのは好まなくて、学生も『サイモン先生』と呼びますね。そういえば『西門』という三文判を作ってきて、ペタペタ押して喜んでたな」
https://bit.ly/3zi1BWP
岩石から見る地球の記録に探求心が止まらない 地質学者、柔道家サイモン・ウォリス<現代の肖像>〈AERA〉
地質学者、柔道家サイモン・ウォリス。少年時代の夏休みを英国の美しい森で過ごしたサイモン・ウォリスは、柔道を通して日本に親しみを持った。地質研究をきっかけに来日し、強固な意志で日本語を習得。
==
==
■フォッサマグナを見てしまった
来日してすぐ、浅間山が噴いた。ドイツには活火山はない。多くの外国人が浅間を見に行き、ナウマンも出かけた。ただ、ナウマンはなぜか、同じ道を帰ってこなかった。ちょっと西の平沢村に寄り、遠く南の雲海に富士山がぽっかりと浮かび、西側の切り立った山々の麓は平坦な平野となっているという非常に奇妙な地形を見てしまった。ナウマンはこれをフォッサマグナ(ラテン語でフォッサは溝、マグナは大きいという意味)と名付けた。日本独自の地形で、本州を南北に切り裂くように走る。その成因はいまも謎で論争が続く。ナウマンは地上でそれを見出してしまった。生涯、その成因を追究することになる。
https://bit.ly/3ezPSeo
「見てしまった男」地質学者ナウマンの知られざる一面とは?
いくつか重なった偶然により、人生が大きく左右されることがある。明治の初めに来日し、10年ほどの間に東大教授として地質学を教えたエドムント・ナウマンもそうだったのかもしれない。
==
==
中島 健FB「週刊金曜日」読者会 7月15日 4:32
対中国侵略戦争の準備を隠すための東京オリンピックは、1936年のナチスがやった「ベルリン・オリンピック」と同様に断罪すべきだ。ベルリン・オリンピックは世界から「ボイコットせよ」の声が上がったが、IOCがユダヤ人が一名ドイツ代表で出場するからとして宥和策に転じたために開催を許した。その結果が、1939年のポーランド侵略=第二次世界大戦への突入だった。過ちを繰り返してはならない。
==
==
【カイロ=蜘手美鶴】ナイル川上流のエチオピア北西部に建設中の巨大ダムへの注水を巡り、エチオピアと下流2カ国との緊張が高まっている。ナイル川の水量減少を懸念するエジプトとスーダンは、注水ペースや貯水量についての合意を求めるが、エチオピアが拒否。今月初旬に一方的に2回目の注水を始めたことで、下流2カ国が国連安全保障理事会に紛争解決を求める事態に発展している。
グランド・エチオピア・ルネサンス・ダム 高さ155メートル、長さ1.8キロ、総貯水量740億立方メートルの水力発電ダムで、アフリカ最大規模。総工費は48億ドル(約5100億円)で発電量は6450メガワット。2011年、貧困を脱する目的で建設を始め、当時の公務員は建設のため給与1カ月分を拠出。政府は小口のダム債券を発行し、国を挙げて建設を進めてきた。
https://bit.ly/3Bh1Sv8
==
==
Ct値が重要です!
感染拡大を抑え込むためのキーワードとして「スーパースプレッダー」をなくすことが大切だと話す。直訳すると「超拡散」つまり、1人が多くの人に感染させることを指す。
武市医師は、若者が感染していることを知らず、街を歩いてスーパースプレッダーになっていると話す。なぜ、若者がスーパースプレッダーになりやすいかというと、若者は体力があるため、ウイルスを持っていても無症状の人が多いからだという。感染していてもその自覚がないから、いろいろな人に感染させてしまう。若者を対象にした接種は、順次始まる。武市医師は、多くの若者が接種することが集団免疫をつくる鍵になると話している。
https://bit.ly/3wPONpc
==
==
演劇を「手法」と捉える際、本プロジェクトが足がかりにしているのが、ブラジル出身の活動家である Augusto Boal の演劇への接近法とその意図である。Boalは、Bertolt Brecht や Paulo Freire の影響を受けながら、応用演劇を生み出した人物とされ、演劇を、問題の意識化や人々の解放、社会変革の道具として用いた人物である。このBoalの「演劇」を「道具」とする捉え方は 、本プロジェクトが「演劇」を「手法」と捉える際の指針とした。また、Boalの目指した人々の「意識化」という考えは、本プロジェクトの学びの目的である「意識化」と直接つながりを持ち、その 学びの目的へのアプローチ法として位置づけている。
https://bit.ly/3wTxGCK
==
==
ブレヒトは自身の演劇を「叙事的演劇」と呼び、従来の演劇「劇的演劇」と自身のそれとを区別した。ブレヒトによれば「劇的演劇」は、観客を役に感情移入させつつ出来事を舞台上で再現(リプレゼンテーション)することによって観客に様々な感情を呼び起こすものであり、それに対して「叙事的演劇」は役者が舞台を通して出来事を説明(デモンストレーション)し、観客に批判的な思考を促して事件の本質に迫らせようとするものである。ブレヒトはこのような「叙事的演劇」を、悲劇を観客にカタルシスを起こさせるものとして定義したアリストテレスに対して「非アリストテレス的」と呼び、一方「劇的演劇」を現実から目を背ける「美食的」なものだとして批判した。
https://bit.ly/3eBoJI8
https://bit.ly/3Boar7D
アリストテレスが演劇学用語として使ったのちに、医学用語として転用され、薬剤を用いて吐かせたり、下痢を起こさせる治療行為を指した。アリストテレスは、『詩学』内で悲劇の効用としてカタルシス論を展開し、効果のひとつとしてカタルシスに言及する、、、
近世フランス詩学においては、アリストテレスのカタルシス論は悲劇論の中核をなすものとして理解され、カタルシスは、観者の魂に「怖れと憐れみ」によって浄化を起こすものと理解された。
精神科医のジークムント・フロイトがこの語を採用したことから、カタルシスは代償行為によって得られる満足を指す心理学用語としても用いられるようになった。
==
==
「ホメロスは他の多くの点でも称賛に値するが、とくにほめられてよいのは、詩人たちのなかで彼だけが作品中で作者自身がはたすべき役割」を見落としていない点である。すなわち、詩人は [作品中に顔を出して]自らが語ることをできるだけひかえねばならない。
というのも、自らが語っているかぎり、その詩人は模倣家 [ミーメーテース]ではないからである。
しかるに、他の叙事詩人たちは、徹頭徹尾自分を表面に出しつづけて、ほんの少数のことについて、ほんの少数の機会にしか模倣をおこわない。
これに対してホメロスは、前置きを短くすませておいて、ただちに男や女、あるいは他の役柄の人物を[作品中に]登場させる」
アリストテレス「詩学」24章
==
==
演劇による自己変容のプロセスに関する成人教育学的研究
丸山 里奈 Tohoku University
http://hdl.handle.net/10097/00128187
・・・
・・・
3. 演劇の特徴と理論 (1) 抑圧への抵抗
演劇は芸術分野であるため、情操教育の一環として捉えている人が 多いが、むしろ歴史的にみると、その時代に生きている抑圧された民 衆の心の叫びを発信する社会的活動としてとらえることができる。例 えば、日本では、歌舞伎は庶民のものであり、そこでは社会的地位が高 い権力者の名前に酷似した登場人物を作品に組み入れて、わざとコメ ディータッチに創りあげた社会風刺作品が多かった。民衆の遊び心と 笑いのかげに、権力者への批判と挑戦があったといえる。
社会風刺にとどまらず、社会改革に積極的に演劇を利用した史実は たくさんある。その一つに、ペルーの事例がある。非識字率が高い深刻 な社会問題の改善と民衆の意識改革のためのツールとして「演劇」が 社会的役割を果たした出来事である。これは先の学習理論のところで あげたパウロ・フレイレの業績である識字事業と深く関係があり、ま さに演劇と学習理論の「批判的文化理論」との接点である。
参加型民衆演劇―アウグスト・ボアールの例
1973 年ペルーの革命政府は 1400 万人の国民に対して 300 万-400 万人の非識字者が存在することを問題とし、総合識字計画を発足した。 ブラジルの演出家アウグスト・ボアール(1984、里見ら訳)は「識字 は母国とスペイン語の両方でおこなう。一方のために他方を犠牲にす ることを強制しない」ため、「可能なあらゆる言語を用いて識字を行な う。とくに演劇、写真、人形劇、映画等の芸術的諸言語、新聞などを活 用する」という識字事業の演劇部門にかかわることになった。「“ひと つの言語としての演劇”を、 芸術的な才能をもつかもたぬかには関係なく誰しもがつかうことのできるひとつの言語としての演劇」(ボア ール 1984)を描いていた。ボアールの著書『被抑圧者の演劇』の中 で「私は実践のなかで、演劇が被抑圧者に役立ちうるものであるとい うこと、演劇をとおして被抑圧者たちは自己を表現し、この新しい言 葉をつかいながら、表現すべき新しい内容をも発
見するにいたるもの である」と語っている。
ボアールが非識字率の高い民衆を社会改革に導くことに成功した大 きな要因の一つは、「参加型演劇」を築き上げた点である。この参加型 演劇の基盤は、「演者を観ている人(観客)」を「演じる人(行為者=俳 優)」へと転じるという特徴がある。「観る」という客体から「演じる」 という主体にかわることが何回か繰り返され、演じられているストー リーは次々と変わっていき、変わっていくことで問題の解決を模索し ていく。「演劇は解放の武器である」(ボアール、1984)というように、 解放された観客は、仮構の中で「演じる」ことに身を投げていくことが でき、これをボアールは「革命のリハーサル」と呼んでいた。
なぜ、ボアールは参加型演劇を考えついたのか。彼は演出家として、 ブルジョワ演劇に対抗したブラジル独自の演劇を模索し、最初は「情 緒的記憶」8に注目していたが、次第に「誰のための演劇か」という疑 問にぶつかっていった(高橋&鈴木 2011 : 260)。劇団一座の旅中に 出会った神父が、小作農に対する搾取の実体を彼に伝えたことが大き な転機となる。「『われわれは行動を起こす人間(actors)でなければなら ない。土俵(stage)に上がって戦わなければならない。不正で不平等な 戦いの傍観者(spectators)になることは罪だ!』」(高橋&鈴木 2011: 自伝からの引用)という神父の言葉が響き、行動を起こす観客 (active spectator)の着想が生まれたという。単なる「傍観者」でいられる集団 の「何もしなくなる」心理学的な現象を放置せずに、刺激をつくるチャ ンスにしていくことを彼は考えた。この集団の「無関心になる」現象 は、心理学者ジンバルドーの「ルシファー効果」9の概念や集団心理10 にも関係している。また、オルテガ・イ・ガセット(1995)のいう「自分 自身に特殊な価値を認めようとはせず、自分は『すべての人』と同じであると感じ、そのことに苦痛を覚えるどころか、他の人々と同一であ ると感じることに喜びを見出している」(オルテガ 1995 : 17)という 「大衆」とも共通点があり、社会変革にはこの「傍観者」という「なに もしないでいる集団」の存在にボアールが目をつけ、個人単位だけで はなく「集団の変容」を求めていった点は社会的意義が大きい。
次に参加型演劇がなぜ社会変革に至るのか見直すことにする。
表 1-2 参加型演劇 出典:『被抑圧者の演劇』(ボアール, 1984, 晶文社)
・・・
このようにボアールの参加型演劇は、社会の上部構造を暴きだし、 最後は民衆の現実の要求にこたえるものとなる民衆演劇である。演劇 が観客の悲劇的な感情を浄化するものであることを反対し、問題意識 をもち、その問題は自分達で解決しうるものであるという活力を与え る目的がある。
・・・
・・・
古代ギリシャの五大芸術(詩、音楽、絵画、彫刻、建築)にも演劇と いう分野は存在しなかったが、悲劇と喜劇は叙事詩とともに「詩」に位 置づけられていた。そして近代になってから、舞踏、演劇は芸術分野に 加えられたという歴史がある。
・・・
演劇をとおして「他者とのコミュニケーション力が身につ く」「表現力が豊かになる」などの抽象的な良いイメージはあっても、 なぜそうなるのかという根本的なことを学問として専門にしてきた人 が日本の教育現場には少ない。広瀬(2011)は、シュタイナー(Rudolf Steiner)の教育理論に支えられているオーストリアのヴァルドルフ学校でのリサーチをもとに、日本で演劇教育への期待が高まる一方で演 劇を理論として勉強して指導できる教員養成がともなっていない問題 点を指摘している。
・・・
学校教育での意識の改善も課題であるが、フォーマルな学校教育よ りもインフォーマルな成人学習では、演劇を専門とする研究者・指導 者の導入のチャンスが多いので、学習としての発展の可能性はある。
・ドラマ(劇)的演劇から叙事的演劇へ
芸術として認識される遅れはあったといえども、演劇の分野はすで にいろいろな形で人間の生活に関与している要素があるためか、幅広 く発展していった。その中でも西洋演劇史で大きな貢献をしたのが、 アリストテレスによるギリシャ悲劇の定義である。ドラマ(劇)的演劇 (dramatisches theater)では感情移入が重視され、イリュージョンで 観客を登場人物に同化させるものであった。一方、その後、これに対立 的なものとして「非アリストテレス的ドラマトゥルギー」が現れた。観 客を傍観者とするベルトルト・ブレヒトによって提唱された叙事的演 劇(epische theater)の疑念である。これは、「表象される世界と出来 事を自然なもの、人格や感情に関して不変なものとして見せるのでは なく、矛盾を抱え、議論の余地あるものとして立ち現われるようにす る」(クリスティアンら 2009 :170)ので、ドラマ(劇)的演劇と大き く異なり、観客を同化させるのではなく、異化させることに力を入れ た33。さらに観客だけにとどまらず、演じる側にも登場人物を客観的に とらえる力が要求される。
このブレヒトの概念を、アウグスト・ボアールは発展させ、本研究の 第 1 章-3(1)でとりあげたように、劇の進行中で観客と演者の立場 を入れ替えながら現実社会を理想のものに変えていく民衆演劇を支持 した34。ボアール(1984)は「現実に行動する前に、仮構の行動をして みるわけだ。ぼくはこのテクニックを試みてみたんだよ。それで驚く べき結果をもたらすことが分かったんだ。それはカタルシス効果とは ちがう。・・・(略)
従来の演劇がやっているのはカタルシス35だろう? その浄化作用に訴えて、観客から、よこしまな意識だと、その他もろ もろの不純物をとりのぞくことをやっているわけだよ。それとはちが うんだ」(ボアール 1984:322)とカタルシス効果を不要とし、「観客の 意識を変えることを援けるだけでは駄目なんだ。観客が現実を変えて いくということは、つまりからだで、それを変えていくということな んだよ」(ボアール 1984 :321)と語っている。要するに意識変容に 「演じる=参加するからだ」を重要視している点からも、本章で「演じ る」ことに焦点をあてることに研究として意味がある。
・・・
・・・
成長への意欲が引き出されるには、内側から生じる「面白い」という 感情も必要であるが、外部からの成長への刺激的な誘導も必要な時が ある。例えば、前に述べたボアール(1984)は「舞台でやったことを 現実のなかでやってみたいという欲望を引き起こす目的」により、「現 実の行動によってしかみたすことのできない欲求不満」を引き出した。 これは,「面白い」というプラス方向の感情とは違って、不満というマ イナス方向の感情を引き出すことで、民衆に意欲を燃えさせる結果と なっている。このような視点で事例をみなおすと、そのような意図的 な外部からの刺激はないにしても、人間がもともと持っている「実現 できない悔しさ」で葛藤する意欲の語りは、不満から湧き出る自己成 長(自己改革)意欲として関係があると考える。
・・・
・・・
1. 身体化された学習
2. 批判する力を育む学習
3. 仮想現実を利用した学習
・・・
ゲームに夢中になっている子ども達が多い現代社会と合わ せて考えていきたい。今ゲームに夢中で部屋から出ない子どもたちも、 いずれ成人である。ゲームがなぜそんなに魅力的なのか、なぜ親は反 対するのか、この点も今後の成人学習を考えていくときに無視できない社会現象である。ゲーム世代が親になる時代が来る。ゲームを頭か ら否定するだけでは先に進まない。
・・・
しかし、本研究を通して、創造性・自発性の重要性をあらためて感じたためか、バーチャルリアリティの仮想体験の欠点が見えてきた。本 物の「身体」がないところが大きな弱点である。
・・・
4. ホリスティックな学習
・・・
おわりに
成人学習は成人の現実の日常生活のなかに学びがある社会的なもの である。人生の意味づけにより自分の人生の振り返りをおこなってい く。「人間はただの空間の中でぽつんと生きているのは耐えがたいもの で、自分の生きていることに対して、自分をとりまく世界から、何かて ごたえを感じないと心身共に健康に生きて行きにくい」(神谷 1985 :15) と感覚遮断の実験から神谷は言っている。このてごたえは、ライフイ ベントが楽しい良いことばかりである必要がないことを意味している。 本研究では、学習理論でも演劇という学問でも「批判する目」を持って 生きていく力が成人には求められていることが明らかになった。成長 にはレジリアンスやエンパワメントが必要であり、そこには「怒り」 「悲しみ」などのマイナスの感情が原動力になっている。演劇のカタ ルシスもそのような感情をもって発展し、やがて身体置き去りの感情 では表現ができないこと、観ている人に伝わらないことを人々は学ん でいる。演劇が民衆の社会への叫びであったように、成人教育の発展 には、学習者の批判や叫びが貴重なものとして必要とされていくとい う課題が見えてきた。
演劇による自己変容のプロセスに関する成人教育学的研究
丸山 里奈 Tohoku University
http://hdl.handle.net/10097/00128187
34 ブラジルの演出家アウグスト・ボアールは,社会変革のため支配階級の手 から演劇を民衆に渡す。1973 年ペルーの改革政府は 1400 万人の国民に対 して 300‾400 万人の非識字者が存在することを問題にし,総合識字計画を 発足した。そこでボアールは演劇を言語とし,参加型演劇を提唱した。
35 カタルシスはアリストテレスが著書『詩学』の悲劇論で「悲劇が観客の心 に怖れ(ポボス)と憐れみ(エレオス)の感情を呼び起こすことで精神を浄 化する効果」として書いている。演劇用語にはなっているが、精神医学でも よく取り入れられ、フロイトが治療にも使っていた。
==
==
「いい蛇紋(じゃもん)岩だね」
サンプルの目利きを頼まれたサイモン・リチャード・ウォリス(59)が頷きながらルーペで覗き込み、その場で簡単な講義が始まると、地質学者の卵たちの目に輝きが宿る。ここは関東から中部地方、紀伊半島、四国を経て九州の佐賀関に及ぶ日本最大の広域変成帯「三波川変成帯」の起点であり、地質研究の聖地だ。巨大なプレート同士がぶつかり合い、一方が沈み込んでもう片方が隆起し、変形する。1億年以上の時間をかけて地中深くから地表へと顔を覗かせた貴重な岩石には、その年月が蓄えた情報が詰まっている。
野外調査で学生や若手研究者を率いるウォリスは東京大学大学院理学系研究科地球惑星科学専攻教授であり、日本地球惑星科学連合で副会長を務める斯界(しかい)の重鎮だ。アルプスやチベット、南米の山々など野外調査の現場は地球規模に及ぶ。しかし、無駄のない足取りで山野を駆ける佇(たたず)まいは、権威とは無縁の冒険家のそれだ。
「簡単に言えばプレートの沈み込んだ深いところで何が起きているのかについて、岩石、構造地質学の観点から世界的な業績を上げている研究者です。だけど本人は『ウォリス』と呼ばれるのは好まなくて、学生も『サイモン先生』と呼びますね。そういえば『西門』という三文判を作ってきて、ペタペタ押して喜んでたな」
https://bit.ly/3zi1BWP
岩石から見る地球の記録に探求心が止まらない 地質学者、柔道家サイモン・ウォリス<現代の肖像>〈AERA〉
地質学者、柔道家サイモン・ウォリス。少年時代の夏休みを英国の美しい森で過ごしたサイモン・ウォリスは、柔道を通して日本に親しみを持った。地質研究をきっかけに来日し、強固な意志で日本語を習得。
==
==
■フォッサマグナを見てしまった
来日してすぐ、浅間山が噴いた。ドイツには活火山はない。多くの外国人が浅間を見に行き、ナウマンも出かけた。ただ、ナウマンはなぜか、同じ道を帰ってこなかった。ちょっと西の平沢村に寄り、遠く南の雲海に富士山がぽっかりと浮かび、西側の切り立った山々の麓は平坦な平野となっているという非常に奇妙な地形を見てしまった。ナウマンはこれをフォッサマグナ(ラテン語でフォッサは溝、マグナは大きいという意味)と名付けた。日本独自の地形で、本州を南北に切り裂くように走る。その成因はいまも謎で論争が続く。ナウマンは地上でそれを見出してしまった。生涯、その成因を追究することになる。
https://bit.ly/3ezPSeo
「見てしまった男」地質学者ナウマンの知られざる一面とは?
いくつか重なった偶然により、人生が大きく左右されることがある。明治の初めに来日し、10年ほどの間に東大教授として地質学を教えたエドムント・ナウマンもそうだったのかもしれない。
==
==
中島 健FB「週刊金曜日」読者会 7月15日 4:32
対中国侵略戦争の準備を隠すための東京オリンピックは、1936年のナチスがやった「ベルリン・オリンピック」と同様に断罪すべきだ。ベルリン・オリンピックは世界から「ボイコットせよ」の声が上がったが、IOCがユダヤ人が一名ドイツ代表で出場するからとして宥和策に転じたために開催を許した。その結果が、1939年のポーランド侵略=第二次世界大戦への突入だった。過ちを繰り返してはならない。
==
==
【カイロ=蜘手美鶴】ナイル川上流のエチオピア北西部に建設中の巨大ダムへの注水を巡り、エチオピアと下流2カ国との緊張が高まっている。ナイル川の水量減少を懸念するエジプトとスーダンは、注水ペースや貯水量についての合意を求めるが、エチオピアが拒否。今月初旬に一方的に2回目の注水を始めたことで、下流2カ国が国連安全保障理事会に紛争解決を求める事態に発展している。
グランド・エチオピア・ルネサンス・ダム 高さ155メートル、長さ1.8キロ、総貯水量740億立方メートルの水力発電ダムで、アフリカ最大規模。総工費は48億ドル(約5100億円)で発電量は6450メガワット。2011年、貧困を脱する目的で建設を始め、当時の公務員は建設のため給与1カ月分を拠出。政府は小口のダム債券を発行し、国を挙げて建設を進めてきた。
https://bit.ly/3Bh1Sv8
==
==
Ct値が重要です!
感染拡大を抑え込むためのキーワードとして「スーパースプレッダー」をなくすことが大切だと話す。直訳すると「超拡散」つまり、1人が多くの人に感染させることを指す。
武市医師は、若者が感染していることを知らず、街を歩いてスーパースプレッダーになっていると話す。なぜ、若者がスーパースプレッダーになりやすいかというと、若者は体力があるため、ウイルスを持っていても無症状の人が多いからだという。感染していてもその自覚がないから、いろいろな人に感染させてしまう。若者を対象にした接種は、順次始まる。武市医師は、多くの若者が接種することが集団免疫をつくる鍵になると話している。
https://bit.ly/3wPONpc
==
==
演劇を「手法」と捉える際、本プロジェクトが足がかりにしているのが、ブラジル出身の活動家である Augusto Boal の演劇への接近法とその意図である。Boalは、Bertolt Brecht や Paulo Freire の影響を受けながら、応用演劇を生み出した人物とされ、演劇を、問題の意識化や人々の解放、社会変革の道具として用いた人物である。このBoalの「演劇」を「道具」とする捉え方は 、本プロジェクトが「演劇」を「手法」と捉える際の指針とした。また、Boalの目指した人々の「意識化」という考えは、本プロジェクトの学びの目的である「意識化」と直接つながりを持ち、その 学びの目的へのアプローチ法として位置づけている。
https://bit.ly/3wTxGCK
==
==
ブレヒトは自身の演劇を「叙事的演劇」と呼び、従来の演劇「劇的演劇」と自身のそれとを区別した。ブレヒトによれば「劇的演劇」は、観客を役に感情移入させつつ出来事を舞台上で再現(リプレゼンテーション)することによって観客に様々な感情を呼び起こすものであり、それに対して「叙事的演劇」は役者が舞台を通して出来事を説明(デモンストレーション)し、観客に批判的な思考を促して事件の本質に迫らせようとするものである。ブレヒトはこのような「叙事的演劇」を、悲劇を観客にカタルシスを起こさせるものとして定義したアリストテレスに対して「非アリストテレス的」と呼び、一方「劇的演劇」を現実から目を背ける「美食的」なものだとして批判した。
https://bit.ly/3eBoJI8