・社会的人間としてしか生きられない宿命を持つ人間が、他人の、あるいは社会の承認を求める情念を持つのは当然であり、誰もそれを否定することはできません。人間は自分で自分を見ることができないので、他者という鏡に映して自分を見ます。その結果、自分の姿が他者から肯定的に評価されれば、自信が出てやる気も湧くでしょう。「鏡よ鏡! 誰が一番美しい?」ときくと、「あなたが一番美しい」と答えてくれる鏡に喜ぶ王妃のようなものです。他者から承認されることは、自分が客観的に認められていることの証明であり、社会に必要な人間としての普遍性に一歩近づくことにもなります。何よりも、自分が生きていることの意味を自覚させてくれます。
・一国の首相という最高権力者が引き起こした、いわゆる「モリ・カケ・サクラ」事件、さらには安倍晋三首相(当時)お気に入りの東京高検検事長を検事総長に据えようとして、定年退職一週間前に、従来、決められていた定年年齢を延長しようと閣議決定したことなど、権力者が承認しさえすれば、どんなことでもできる社会になりつつあることを私は憂えています。
その反対に、当然承認すべきものを承認しなかった例もあります。心理の追究を業とする学術の世界を政治に従属させようとした例です。
2020年9月、当時の菅義偉首相は、日本学術会議が推薦した105人の会員候補者リストの中から政府に批判的な6人の候補者を任命しませんでした。
・私はかつてドイツに滞在していた折に「私たちは子どもや孫たちからの世代から、一時的に地球環境を預かっているだけだ」というポスターを、街なかのあちこちで見かけました。
・公共的な場で相互性を持った議論が行われることなく、一方的に承認されていく日本社会の危うさは、岸田首相が独断的に決めた安倍元首相の「国葬」にもくっきり現れていました。
・承認とは、その語義のように、その事柄が真実であり、公正であり、妥当性があると認める行為です。
・私たちは、個人間の相互承認によって自己のアイデンティに目覚め、相互承認された社会参加の中で、連帯する経験を積み、社会を変革したり、自己実現を果たしたりしていくのだと思います。
・承認は普通、自分の意志ではコントロールできない、「やる気」の領域にまで影響を与える恐るべき威力をもたらす一方で、承認への執着が、破滅を引き起こすほどの魔力も持っているのです。
・『ダイエット幻想』磯野真穂著
痩せたい女性は、認められるためには栄養失調になったり聖地が止まったり、骨粗鬆症になって健康を犠牲にしてでも、まわりから褒められる承認されることを求めているのでしょう。
・『ひとの目に映る自己』菅原健介編
他人から否定的評価を受けたとき、「称賛獲得欲求」型の人は、悔しい、と怒りの感情で反発し、否定的評価を許せない、否定的評価の原因は自分にはない。という受け止め方をします。それに対して、「拒否回避欲求」型の人は、恥ずかしい、きまりが悪いという恥の感情で受けとめ、否定的評価の原因は自分にある、と考える傾向が強い、という報告を行っています。
・『企業不祥事はなぜ起こるのか』稲葉陽二著
会社の不祥事に次のような共通点が見られると述べています。
①いろいろな決定(最終的承認)が他の組織やグループと隔絶した、タコツボ化(サイロ・エフェクト)した中で行われ、ワンマン的経営トップが長期に居座っている
②公正な判断をする人物よりも、法令の抜け穴をくぐり抜ける技術にたけた人材が重用される
③社長がインナーサークルをつくり企業の権力を少数のメンバーに集中させる
④たこつぼの中には上司と考えを同じくする上司好みの人物が要職に採用され、とり巻きををつくるため、長期に不祥事を隠蔽することが可能である
⑤議長と議事提案者が同類の人物であったい、会議では経営者に追随して、波風を立てず、おかしなことにも目をつぶる人物が採用される
⑥会社の歴史が長く、希望が大きい企業ほど組織上の欠陥が自覚されても改善しにくい など
言い換えれば、会社の承認基準が歪んでおり、承認に至るプロセスが密室で行われ透明化されていない、という特徴がが会社の不祥事に共通に潜在する、と分析しているのです。
・子どもは大人から見守られ、信頼され、ありのままを承認されていると感じると、自己肯定感をを持ち、将来への希望を持つようになります。どの子も自分の能力を発揮して、認められたい、という潜在的な承認欲求を持っているのです。表面では諦めているように思える子どもでも、内心は、自分の、アイデンティティを発揮できる場と承認され合う生きがいを求めているのです。
・褒められて有頂天になるような人は、他人が見ていないところでは、あるいは悪事がバレないと分かれば、平気でルール違反をする人間になるのではないかと思います。公文書の改竄・廃棄も。会社の中のコンプライアンス違反も、検査結果のデータ改竄も、良心といわれるような自分自身の内的価値基準がないところからおこるのではないでしょうか。
・精神医学の専門家である斎藤環はアキハバラ事件を次のように分析しています。『承認をめぐる病』
現代の若者は「承認」のために働く。それは仕事仲間からの承認、ということだけではない。・・・就労していないことで仲間から承認が得られず。むしろ異星からも受け入れられなくなってしまうことがヤバいのだ。逆に、たとえニートであっても、仲間さえいれば幸せに生きていける。・・・現代の若者にとって重要な価値を帯びているのは「コミュニケーション」と「承認」である。
・私はかつてドイツの小学校の若い先生に出会って「あなたの教育の目的は何ですか」と聞いたことを思い出しました。彼女は何のためらいもなく、「それぞれの子どもが自分の価値に目覚めることです」と答えたのです。
・荒川区で、一人暮らしの78歳の老女が、無理に生活保護を打ち切られて、自死しました。その遺書には福祉事務所の担当職員に対する大きな恨みが述べられていました。
あなたが死んでもかまわないと申された通り、私は死を選びました。満足でしょう。自分のお金でも下さるように福祉を断るなら今すぐ断りなさい。福祉は人を助けるのですか殺すのですか忘れられませんでした。・・・生と死の岐路に立ちましたが二度も生きて福祉を受けたくありません。町田区長にも責任があると思います。部下のおーへいな態度、・・・もはや目が暗くなりました。
当時、私が荒川区の担当課長にそのいきさつを質問したことろ、彼は淡々と「生活保護を受けるような人間なんて人間のクズですよ。あんな人が荒川区に住んでいたことが荒川区の不幸でした」と言って私を驚かせました。そしてさらに驚いたことに、この事件は、老女が生活保護を廃止されたために自死をしたのではなく、動脈硬化による病死だったということで処理されていたのです。そのことに対して、人権の立場から真実を求める市民(私もその一人)の真摯な調査と抗議が行われた結果、四年後には真実が明らかにされ、厚生大臣が病死として誤りを謝って決着したのでした。
・ホネットは承認が社会的に持っている意味を、以下のように整理しています。
①承認は社会の規範意識であり、あらゆる社会統合は承認の仕方に依存している。
②承認とは市民が社会に参加する中で、価値観をもう一度問い直す理念である。目先の判断ではなく、長い将来への視点で普遍性と照らし合わせて価値観を問い直す行為である。
③社会の変化・展開に目を配りながら社会的承認の妥当性を問い直すことで、社会的統合の質を向上させる役割も果たしてきた。
④人は承認されることで自己実現を果たし、自分の人格のアイデンティティを成就させることができる。
・ドイツ人たちが、自分で戦犯をさばいているということは、何が「善か、悪か」、何が「人間的か、非人間的か」について、みずから判断しうるだけの文化水準に達していることを示している。日本もみずからの戦犯裁判をすぐ行うべきである、と私は信じる。
・承認の本質は相互承認にあります。平等な市民関係の中で行われる相互承認は、個人のアイデンティティをの確立を助け、自己実現の成就を助けます。さらに民主主義と連帯にもつながり、よりよい社会に向けての改革や紛争の予防にも役立ちます。
けれども、権力を持つ者と持たない者とのタテの関係の中での相互勝因については、今日でもまだ、権力を持つ者の一方的な承認が当然と意識されているためか、承認/不承認をめぐるさまざまな紛争が起こっています。
・憲法学者の石川健治は、「公的承認などの国家権力の行使にさいしては、必ず公共性の回路をくぐらなければ正当性は得られない」と述べています(『承認と自己拘束』)。
・権力を持つ者が、自由に、恣意的に、法を無視して、承認や不承認を行うことが常態化したその実例が、「モリ・カケ・サクラ」事件や「はじめに」触れた黒川弘務検事長の定年延長や、元フランス大使である小松一郎の内閣法制局長官への人事や、日本学術会議での任命拒否事件でした。
感想;
「承認/不承認」という鏡を通すと社会や個人の行動がよりよく理解できるように思いました。
モリ・カケ・サクラは正しい承認のプロセスを得ていなかったので、そのため不適切な「承認」になっていたので、問題になったのです。
荒川区の生活保護停止による自死を病死として扱った件、知りませんでした。
真実とするとひどすぎます。
マスコミは報道したのでしょうか?
ネットで検索しましたが見つかりませんでした。