第五回 人知を超える究極の意味「何か」に支えられて
人間に元々備わっている「意味への意志」
「究極の意味」を知りたい。
すべての人間にそれがあるとヴィクトールフランクルは信じている。
強制収容所は私への卒業試験だったかもしれない。
自己超越、自己距離化、フランクルはロゴセラピーを実践した。
しかし、自分だけの力で助かったと思っていない。
危機のとき、何度も不思議なことが起きた。
超意味、究極の意味、人に起こることにはすべて超意味がある。
しかし、人はそれを知ることはできない。信じるしかない。
今回は「究極の意味」について話をしたい。
研究家の人の中でも意見が分かれている。
なぜならフランクルもそのことについて詳しくは述べていない。
そのために自分が考えていくしかない。
超越したもの、それへの眼差しがないと精神次元に移れない。
瞬間瞬間最善だと思う選択を人は行う。
その背景に究極の意味を考える必要がある。
強制収容所に行く前から解放されるまで、自分がどうして生き残ったか分からない。何か意味があったのではないか。
自分の人生を振り返ると、不思議なことがあるので、自分の意志だけでなく、何かに導かれているのではないかと。
最初の奇跡は、収容所に送られる前に起きた。
アメリカへのビザを申請した。
しかし、ビザが降りたのは自分だけ。両親には降りなかった。
フランクルは病院勤務だったので、両親も守られていた。
自分だけ亡命すると両親はすぐに強制収容所に送られる。
彼はどうするか迷った。祈るしかなかった。
ウィーンのキリスト教の大聖堂がある。
ユダヤ人なのでユダヤ人のバッチを付けているのでそこには入れないが、隠して入って祈った。
家に帰ると石がある。父がこれは壊されたシナゴーグの石の破片だと。
モーズの十戒の一つにしか使われていない言葉だった。
それが汝の父母を敬えだった。
偶然だったけど、そこに意味を感じた。
彼はロゴセラピーの入門書を書きはじめた。
その石の言葉が与えられる前は迷っていた。
彼はその記(しるし)で迷いが消えた。
1949年てレージェンシュッタトに家族四人、2年後ビルケナウへ。
そこで不思議な出来事。男女に分けられ、さらに二つに分けられた。
行先は知らされていなかった。
頑強な人は強制労働へ、ダメな人はガス室へ。
その判断をしたのがメンデル博士が判断した。
メンデル博士は左へと指示した。左はガス室行きだった。
右に知った人がいたので、メンデル博士の背後を回ってふらふらと右へ行った。
誰かが見ていたら左へ行かされていた。メンゲル博士は何度考えても左を指さしていた。
フランクルはなぜ自分が生き残ったのか?
不思議な出来事があったから。
自分が能力があったからではなく、大きなミッションがあったから生きられたと考えた。
ロゴセラピーの原稿を隠し持っていたのを奪われた。
もう一つはアルプス山岳会の会員バッチも取られた。
この2つはとてもショックだった。
彼にとって山は特別だった。
厳しい岩壁を登っていた。80歳までやっていた。
奪われた時はショックを受けた。だけど、それはもしかしたら、これまで理論でやってきたのを実践で試せ!と思うようになった。
そのきっかけになったのが与えられた囚人服(きっとガス室で殺された)にポケットに紙きれがあり、そこに祈祷書から祈りの言葉があった。
あなたは心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主を愛しなさい。
この偶然をどう解釈すれば良いか。自分がこれから考えを示せと解釈するしかなかった。
フランクルはずーっとの紙切れを大切にしていた。
解放されたとき、どういうわけかその紙切れが亡くなっていた。
彼は超越的なつながりを常に意識していた。
どこからか聞こえてくるものがあったのではないか。
人間がどう生きるか、まさに生きること、それが全うできるか。
人生を諦めるということは、ロゴセラピーを諦めることになる。
常に状況によって、フランクルは迷いなくと見えるが、フランクルはその都度その都度揺れている、迷っている。
でも徹底的に考えているから、何かあったときに自分が見つけられる。
他のセラピーは原因を探る作業に明け暮れ谷底へ歩いていく。
ロゴセラピーはそのとき頂上を目指す。
目の前に手をかける岩があるので手をかける。
なぜそこにたまたま岩があるのかはわからない。
次にカウフェリング 収容所に移された。
他の収容所へ移動、過酷な労働から解放されると期待していた。
しかし別の人が行くことになり、トラックに乗った人は全員ガス室へ、フランクルは助かった。
フランクルは発疹チフスのかかった。
連合軍が迫ってきたので、ナチスは囚人を死の行軍に行かせた。
しかしフランクは発疹チフス感染してたのでその行軍から逃れた。
人が自分の力だけでなく、何かに支えれていると感じる。
自分が偶然いろいろなことで命が助かる。
究極の意味は宗教で言えば神様になる。
フランクルはロゴセラピーに宗教は入れなかった。
彼は敬虔なユダヤ教信者だったが。
セラピストが自分の信仰をクライエントに押し付けることはしない。
フランクルは相手の宗教にも柔軟に対応した。
寛容性が他の人より広かった。
開放後、知り合った女性はカソリック教徒。
ユダヤ教は他の宗派の人の結婚しないが、フランクルには寛容性が大きかった。
フランクルはどんな人でも普遍的な次元の何かを持っていると考えた。
なので、宗教の違いは関係なかった。
「テフィリン」聖句箱を常に身につけていた。
ユダヤ教が自分を導くすべてだとは考えていた。
再婚したエリ―はカソリック教徒。全ての宗教は平等。
フランクルは宗教は言語だと考えていた。悪用することもかつようすることもできる。
人間の存在はなにか。
すべての人をささえているものを究極の意味と考えていた。
どんな時に言える。
心の底から出てきた願望です。究極の意味が存在するに違いないと。
心と身体の次元だけでは超えることができない。
精神次元が必要。
普遍性、どんな人間にも共有できる。宗教が違っても。
究極の意味、宗教や哲学的でもある。
理論的な考えでは把握できない。説明できない。理解できないものがある。
そういうものがあるからそこに眼差しを向ける。
シニカル態度ではなく、謙虚に。
人間は自分と距離を空けて自分を見ることが大切。
距離とは究極の意味で、そこから見ることができるか。
悩んだり悲しんだりしてるときは、その感情に飲み込まれている。
そこから離れて究極の意味の視点から考える。
それができると、まわりが見えてくる。
他にも道がある。悲観することがある。
小野さんの故郷浦江は海しか見えない。
でも山から見ると別の港も見えてくる。
宗教も人がよりよく生きるための指針を与えるとすると、ロゴセラピーはより普遍的な言葉で一緒に考えましょうと。
人間は互いに理解できるはず。
人間性によってしかわけることはできない。
この地上には二種類の人間がいる。
品格のあるしっかりした人間とそうでない人間。
この二種類の人間がどこにもいる。
どこにも両方がいる。
フランクルは人を分けるなら、品格のあるまともな人がどうか。
宗教や国などで分けるものではない。一つの人類主義、フランクルの造語。
同じ精神次元を持っている。
ユダヤ人を迫害したドイツ人だと避けるのではなく、その人が品格があるかどうか。
戦後、ナチス党員と一緒に山に登ったこともあるが、その人はひどく後悔していた。なんでそんな党に入ったのか。
同じユダヤ人仲間ははフランクルのその態度を非難した。
フランクルは一人ひとりを見た。
ヨーロッパ議会で起きているのはフランクルでいう”一人類主義”とまったく違うことをやっている。
太古の昔には国境がなかった。
今はそれぞれが自分たちの利益だけを考えている。
フランクルが今いれば、どんなときにも悲観するこはない。
人に対する思い、社会に対する思い。
良きものが社会を支えている。
この世界に意味があると考えられないでしょうか。
究極の意味の存在を信じようと決断すると結果が生まれる。
信じることがそれを真実にするのです。
可能性を実現するのです。
感想;
究極の意味
今起きていることに意味があるかないか。
それはわかりません。
しかし、何か意味があるはずだと信じて一歩一歩前を向いて歩いて行くと意味が生まれてくるのだと、フランクルは私たちに言いたのだと思います。
究極の意味を考えながら生きることが、「意味への意志」なのでしょう。
そしてそれを持ちながら生きることが、自分の人生を意味あるものに高めていくのだと思います。
意味を判断時の視点に加えると、意味ある選択肢が増えるように思います。
意味への意志は時により、自己超越の場合もあるのでしょう。
自分はしんどいけど、いまこれを行うことにはしんどいけどそれをやる意味があると信じて行う。
自己距離は、自分から距離を持ち自分が今どうしようとしているか、それが意味のあることなのか、感情に支配されての行動なのか、それを冷静に見て判断するためには、自己距離化は必要なのでしょう。
ロゴセラピーの学びは、まさに自分の人生のより良くしていくツールというか、考え方のようです。
そのため、ロゴセラピーとセラピーよりもロゴエデュケーション(ロゴ教育)の方が適切だと言われています。