・「我々はみんなもうすぐ死ぬ」と言った現代の哲学者トマス・ネーゲルは正しい。
そうだとすると、時間をうまく使うことが人の最重要課題になるはずだ。人生とは時間の使い方そのものだといってもいい。
・ハイデガーは過去の哲学者のなかで誰よりも、有限の生にという問題にこだわっていた。
ただし、ハイデガーには困った点が2つある。
①1933年から10年以上にわたってナチスの党員として活動していたこと
②彼の文章がほとんど解読不可能だということだ。
・人は1日のうちに何百もの小さな選択をする。そのたびに、できるかもしれなかった無数の可能性を永遠に切り捨てている「decide(決める)」の語源となったラテン語のdecidereは、何かを「切り離す」という意味だ。選択肢を捨てるニュアンスだが、同時に「殺人」や「自殺」のような言葉とも近い関係にある。
限りある人生を生きるということは――それがどんなに最高の人生であっても――絶え間なく可能性に別れを告げる過程なのだ。
・タスクを上手に減らす3つの原則
①まず自分の取り分をとっておく
まず自分の取り分を確保しないとどんどん他のことに時間を使ってしまい、本当に大事なことができなくなる。
②「進行中」の仕事を制限する
同時に進行する仕事の数を、削れるところまで削るのだ。
マネジメント専門家のジム・ベンソンとトニアン・デマリア・バリーは、「進行中」の仕事を3つまでに制限することを勧める。
③優先度「中」を捨てる
優先順位が中くらいのタスクは、邪魔になるだけだ。
・完全主義者は身動きできない
・(高野山での)修行生活を終えたあと、ヤングは自分の意識が変化していることに気づいた。
今ここに集中する技術を身につけたおかげで、日常のさまざまな場面で感じる苦痛が明らかに減っていた。以前なら考えるだけで憂鬱になっていた雑用にも、前向きに取り決める。
問題は活動そのものでなく、自分の子事の中の抵抗にあったのだ。
抵抗をやめて、目の前の感覚に注意を向けると、不快感は静かに消えていった。
・なぜ僕たちは、自分が本当にやりたいと思っていることに集中できないのだろう。なぜやりたいことをやらずに、やりたくもない気晴らしに逃げ込んでしまうのだろう?・・・
この不可解な現象の答えは、何を隠そう、僕たちの有限性にある。
僕たちが気晴らしに屈するのは、自分の有限性に直面するのを避けるためだ。つまり、時間が限られているという現実や、限られた時間をコントロールできないという不安を、できるだけ見ないようにしているのだ。
・僕たちにできる最善のことは、不快感をそのまま受け入れることだ。
重要なことをやり遂げるためには、思い通りにならない現実に向き合うしかない。その事実を受け入れ、覚悟を決めるのだ。
解決策がない、という事実こそが、ある意味で解決策だといえるかもしれない。
スティーブ・ヤングが高野山での修行で見いだしたのは、現実から逃げるのをやめれば苦痛がやわらぐという事実だった。現実逃避をやめて、凍てつく水をしっかりとその身に受け止めたとき、それまでの苦痛は消え去った。嫌だという気持ちよりも、今ここで起こっていることに注意を向けることができたからだ。
・自分は万能でない。ただの無力な人間で、それはどうしようもない。
その事実を受け入れたとき、苦しみはふいに軽くなり、地に足のついた解放感が得られるだろう。「現実は思い通りにならない」ということを本当に理解したとき、現実のさまざまな制約は、いつのまにか苦にならなくなっているはずだ。
・「ホフスタッターの法則」認知科学者のダグラス・ホフスタッターが提唱した法則
「どんな仕事であれ、つねに時間は予想以上にかかるものである。――たとてホフスタッターの法則を計算に入れてもだ」
・ハイデガー
「人の存在とは一瞬の時間の連続である」
・『決算のとき』シモーヌ・ド・ボヴォワール著
昼食のあとに仕事部屋で居眠りをすると、子どものような驚きで目を覚ますことある。なぜ、私は私なのか? まるで幼い子供が自分のアイデンティティに初めて気づくように、私は自分がここにいるという事実に驚く。今この瞬間に、他の何ものでもなく私の人生を生きている。これはいったい、どういった偶然の巡り合わせだろうか・・・特定の卵子と特定の精子に侵入されたこと、それに先立つ両親の出会い、さらに両親の誕生と、そこに連なる先祖の誕生。それらが起こるか確率は何億にひとつもなかったはずだ。そして現在の科学では予測のつかないある偶然が、私を女として生まれさせた。それ以降のあらゆる行動は、幾千もの異なる可能性につながっていた。病気になって空間をやめていたかもしれない。サルトルに出会わなかったかもしれない。何が起こってもおかしくはなかったのだ。
・現代の精神的指導者ジッドゥ・クリシェナムルティが言っているのは、悲しみや哀れみや怒りを感じてはいけないということではない。この先悪いことが起こらないように努力することが無意味だと言っているのでもない。
「何が起ころうと気にしない」生き方とは、未来が自分の思い通りになることを求めず、したがって物事が期待通りに進むかどうかに一喜一憂しない生き方だ。それは未来を良くしようという努力を否定するものではないし、苦しみや不正をあきらめて受け入れろという意味デモもない。そうではなく、未来をコントロールしたいという執着を手放そうということだ。そうすれば不安が解放され、本当に存在する唯一の瞬間を生きられる。つまり、今を生きることが可能になる。
・人生の「本当の意味」が未来にあると信じることで、今この時を生きることから逃げているわけだ。
経済学者のジョン・メイナード・ケインズは、これらすべての根底にある真実を見抜いていた。
ケインズによると、人が未来の目的のために邁進するのは、究極的には「死にたくない」という願望のためだ。
「目的志向の人間は、つねに自身の行動の利害を未来へ先送りすることによって、その行動の不死性という怪しげな幻想にしがみついている。彼は猫を愛するのではなく、その猫が産む子猫を愛する。いや実際には、その子猫よりも子猫の子猫を愛する、というふうに延々と先送りする。彼にとって、ジャムとは明日のジャムであり、けっして今日のジャムではない。ジャムをつねに未来へとおしやることで、かれはジャムをつくるという行動に不死性を与えようとするのである」
・今を生きることは、今ここから逃れられないという事実を、ただ静かに受け入れることなのかもしれない。
・アリストテレスは、真の余暇(それは彼にとって内省と哲学的思考を意味していた)こそが、あらゆる美徳のなかで最高のものだと論じている。なぜなら余暇は、それ自体以外に目的を持たないからだ。戦争で勇敢に戦うことも美徳だが、それは勝利という目的のための手段にすぎない。ラテン語で仕事を意味する「negotium」は、直訳すると「余暇がない」という意味になる。つまり、余暇を楽しむのが人間本来の姿であり、仕事はその例外ということだ。
・余暇を「無駄に」過ごすことこそ、余暇を無駄にしないための唯一の方法なのではないだろうか。
何の役にも立たないことに時間を使い、その体験を純粋に楽しむこと。将来に備えて自分を高めるのではなく、ただ何もしないで休むこと。
・社会心理学者は、そういう状態を「怠惰嫌悪」と呼ぶ。何もしないことが嫌で仕方ないという意味だ。
・「現実を思い通りに動かしたい」という傲慢な態度こそが、苦しみを引き起こす。
『道徳経』
真の賢者とは、風に吹かれても折れずにしなる木や、障害物を避けて流れる水のようなものだ。
・ハーバード大学で美術史を教えるジェニファー・ロバーツは最初の講義で、いつも同じ課題を出す。「美術館に行って絵画か彫刻をひとつ選び、3時間じっと見る」という課題
だ。これは学生を恐怖に陥れる。なぜなら、そのあいだメールやSNSは一切禁止、スタバにコーヒーを買いに行くことされ許されないからだ(さすがにトイレ休憩だけはし低減限認めてくれるけれど)。
ロバーツ自身も同じ課題に取り組んでみた。アメリカの画家ジョン・シンダルトン・コプリーの『少年とリス』を3時間じっと鑑賞した。
「9分間経って初めて、少年の耳の形がリスのおなかの模様と正確に一致することに気づきました。コプリーはリスト少年とのあいだに、何らかのつながりを見ていたんですね、・・・そして45分経ったとき、ふいに見えてきたのが、背景のカーテンの皺です。一見ランダムな皺が、じつは少年の耳と目の形を完全にさい。
・心理療法家のM・スコット・ベッグは、著書『愛すること、生きること』のなかで、現実のペースに身を委ねることの素晴らしさを語っている。
・「すごいですね」とベッグは言った。「そんなものを修理するなんて、僕には絶対無理ですよ」
すると、隣人はこう答えた。「そりゃ、あんたが時間をかけてないからでしょう」
・ベッグの話のポイントは、「わからないという不快感に耐えれば、解決策が見えてくる」ということだ。
・忍耐を身につける3つのルール
①「問題がある」状態を楽しむ
②小さな行動を着実に繰り返す
③オリジナルは模倣から生まれる
・時間は自分のものになりすぎないくらいが、じつはちょうどいいかもしれないのだ。
・自分が無価値であることに気づいたとき、ほっと安心するのも当たり前だ。
今までずっと、達成不可能な基準を自分に課してきたのだから。・・・
どんな仕事であれ、それが誰かの状況を少しでも良くするのであれば、人生を費やす価値はある。あるいはコロナ禍で隣人への配慮をほんの少し取り戻すことができたとしたら、たとえ社会を根本的に変革できなかったとしても、充分に価値のある学びだったといえるはずだ。
・人生を生きはじめるための5つの質問
①生活や仕事のなかで、ちょっとした不快に耐えるのがいやで、楽な方に逃げている部分はないか?
心理療法家ジェイムズ・ホリスは、人生の重要な決断をするとき、「この選択は自分を地策するか、それとも大きくするか?」と問うことを勧める
②達成不可能なほど高い基準で自分の生産性やパーフォーマンスを判断していないか?
無茶な喜寿運など、ぜんぶ地面に投げ捨ててしまおう。
③ありのままの自分ではなく、「あるべき自分」に縛られているのはどんな部分だろうか?
「こうあるべき」というプレッシャーから自由になれば、今ここにいる自分と向き合うことができる。
④まだ自信がないからと、尻込みしている分野は何か?
ボクは思うのだけれども、大人になるということは、「誰もがすべて手探りでやっている」という事実を徐々に理解するプロセスではないだおうか。
⑤もしも行動の結果を気にしなくて良かったら、どんなふうに日々を過ごしたいか?
僕たちはみんな、中世の石工のようなものだ。完成を見ることができないとわかっている大聖堂のために、いくつかの意思をそっと追加する。
たとえ完成形が見られなくても、大聖堂を建てる価値があることには変わりはない。
・1933年12月15日、カール・グスタフ・ユングは文通相手のV婦人に宛てて、「正しい生き方とは何か」という問いに答える返事を書いた。その答えとは、本書の最後を飾るにふさわしいものだと思う。
「どう生きるべきかという質問には、答えがありません」とユングは伐り出した。「人はただ、自分にできるように生きるだけです。唯一の正しい生き方などありません。お望みならカトリック教会に入るといいでしょう、彼らは正解を教えるのが好きですから」
ユングにいわせれば、個人の人生とは「みずから切り拓いていく道であり、誰も通ったことのない道」である。
「前もって知ることはできません。あなたが一歩踏みだしたとき、そこに未知ができるのです。・・・ただ静かに、目の前のやるべきことをやりなさい。やるべきことがわからないなら、きっと余計なことを考えすぎるほどにお金がありあまっているせいでしょう。しかし次にすべきこと、もっとも必要なことを確信を持って実行するば、それはいつでも意味のあることであり、運命に意図された行動なのです」
・大事なのは、あなただけの一歩を踏みだすことだ。
・「希望などいらない。やることをやるだけだ。鮭が生きられるようにする。プレーリードッグが生きられるようにする。ハイイロマグロが生きられるようにする。状況が自然に良くなるという望みなど捨ててしまえ。これ以上悪化しないという望みを捨てるんだ。そうすれば我々は自由になれる。解決のために動きだすことが可能になる」
希望を捨てたとき、あなたは自分の力で歩みだすことができる。
自分の限界を認めるとは、すなわち希望を捨てることだ。正しいやり方を身につければ、あるいはもっと頑張れば、どんな無謀なこともない遂げられるという希望。そうした数々の希望の根底にある、いつか本当の人生が始まるんだという希望。今はまだリハーサルで、そのうち自信満々で人生本番を生きられるにちがいないという、途方もない希望。
そんなものは、今すぐ捨てたほうがいいい。
・付録 有限性を受け入れるための10のツール
①「開放」と「固定」のリストをつくる
②先延ばし状態に耐える
③失敗すべきことを決める
④できなかったことではなく、できたことを意識する
⑤配慮の対象を絞り込む
⑥退屈で、機能の少ないデバイスを使う
⑦ありふれたもに新しさを見出す
⑧人間関係に好奇心を取り入れる
⑨親切の反射神経を身につける
⑩何もしない練習をする
感想;
仏教的な視点が入った時間に対する考え方のように思いました。
何かに縛られて時間を使っていることが多いように思います。
「希望を捨てる」は誤解のある言葉ですが、ここでの希望は「これができなければ」との希望のようです。それができないと何もできないと思い込んでいることが問題なのでしょう。そのために今目の前の出来ることを何もしないでいる。
自分の思い込みが自分を苦しめたり、行動を束縛しているのでしょう。
臨済宗でそれを「人惑(にんわく)」と。
あたかも自分の考えのようですが、それは親や先生や周りから刷り込まれた結果なのです。
社会学者のワッソはそれを「社会的催眠」と呼んでいます。
その催眠から抜け出すことなのです。
この本は、時間に関する「人惑」からの脱出のヒントを与えているように思いました。
時間は有限です。
この時間を大切にすることなのでしょう。
お釈迦様も過去も未来もない。あるのは今だけだと。
ところがどうしても過去を悔やみ、未来を心配し、今の時間をそのことに使っています。肝心な今に使う時間を減らしていることになるのですが、それに気がつかない、あるいは気がついてもどうしても過去と未来に心が拘束されているのでしょう。
イエス・キリストが「明日のことを思い煩うな。今日一日のことで十分。明日のことは明日思い煩えばよい」と。
マホメットは「全てアラーの思し召しに」と神様に任せています。
今、ここで、自分にできることをする。
その時、少しでも意味がある、価値があることを判断して行うことなのでしょう。