・自尊感情が中心にある
私は、これまで健康教育学を専門とする大学教員として、数十年にわたって研究と教育に携わってきました。大学に奉職する前には高等学校教員として高校生と関わり、大学教員となってからも臨床心理士として、中学生や高校生のカウンセリングの実践も行ってきました。
そうした中で、小中学校の教員や子どもと関わる仕事をしている人たちから、子どもたちのやる気や根気のなさが気にかかるとか、すぐに諦めてしまう子どもが多いという声が聞かれるようになって、すでに四半世紀が過ぎようとしています。中には、「どうせ僕なんて」とか「死んでしまいたい」などの言葉を、すぐに口にする子どももいると言います。そして、最近では幼児の段階で、そのような言葉を口にする子もいるというのです。(2022年6月30日初版)
・私は、こうした現状を踏まえつつ各種の調査を実施し考察した結果、自尊感情こそが子どもの心の一番中心に位置づけられる、大切な心の動きだと考える結論に達しました。
自薦感情は、簡単に言ってしまえば、「自分を大切に思う気持ち」ということです。「大切」というのはどういうことなのか、「思う」とはどういうことなのかが大きな問題です。
・「すごい自分」という感情が育まれることで、自分を大切に思う気持ちが確認されます。この、「すごい自分」という感情を、私は社会的自尊感情と名付けました。
ただ、この社会的自尊感情は、一般的に単にいわゆる自尊感情と呼ばれています。そもそもこの自尊感情は、今から130年以上前に米国で定義された概念です。そおでは、自尊感情は、成功に比例するものとされています。ある要求水準を達成し乗り越えることで、自尊感情は保たれたり高まったりするということになります。
・絆という文字には、「きずな」と「ほだし」という二つの読み方と意味があることは、よく知られています。「きずな」は、人と人が結びつき支え合い協力し合う、望ましい人間関係という意味合いがあります。一方、「ほだし」は足かせや手かせの意味があり、自由を束縛するものという意味もあります。
・自尊感情=自分を大切に思う気持ち
①やる気を生み出す感情⇒社会的自尊感情(ほめられて大きくなる心)
②どんな時も支える感情⇒基本的自尊感情(共有体験で大きくなる心)
・子どもの自殺予防教育に取り組んでいる高橋聡美は、自殺の原因・同期を分析することによって、その原因は「すごい自分(社会的自尊感情)」を損なう経験にあるのだと指摘しています。
「親から叱られて自分は価値のない人間だと思ってします、成績が落ちて自分はダメな人間だと思う、希望の進学先に行けず自分は生きている価値がないと思ってしまう。『社会的自尊感情』が損なわれたとき、自分自身に意味や価値を見いだせないのが自殺を選んでしまう子どもたちの自尊感情なのだと思われます。」
・結論的に言えば、自殺予防教育としては基本的自尊感情と社会的自尊感情のバランスを意識しつつ、それらをしっかりと育む関りや教育プログラムの実施が必要だと
いうことになるでしょう。
・社会的自尊感情は褒めたり認めたり出番を作り成功体験を重ねることで、比較的短時間に高めることができるし、教育的介入の効果が出やすくわかりやすいです。それに対して、基本的自尊感情の醸成には時間がかかります。介入プログラムを実施しても、即座に聖歌が得られるものではないのです。
したがって、基本的自尊感情を育むことで自殺予防教育に取り組もうとする場合には、出来る限り早く開始することが重要です。ただ、効果が現れるまでに時間がかかるので、その間をつなぐものとして社会的自尊感情を意識した介入をするということが、実際的なプログラム展開となるでしょう。
・子どもに寄り添う
「子どもと向き合う」という言い方が、しばしば用いられますが、これは社会的自尊感情に働きかける関わり方です。それに対して、「子どもと寄り添う」ことが、基本的自尊感情を育む関りなのです。
傷つき悲しみにくれる子どもにとって、身近な大人が寄り添い感情を共有してくれた時、自分は一人でないのだと確認することになります。しかし、さらに大切なことは、普段の生活のなかで、感情を共有するような関わりを繰り返し続けて、基本的自尊感情をしっかりと育んでおくことです。
「悲しい体験」によって、いわば社会的自尊感情を熱気球が凹んで潰れてしまっている子どもにとって、支えとなるものは分厚く育まれた基本的自尊感情をおいてほかにないからです。
トラウマ(心的外傷)から成長へつながるという発想
・傷ついたやきものが、金継ぎによって新たな景色をまとうゆおに、過酷で辛い体験の記憶も傷痕も消えないまま、それでも人が生き続けて行くとき、それは「成長(growth)」したのではなく、心が別の次元へと移行するような体験なのではないでしょうか。それが「私たちのPTG」あるいは「金継ぎ的PTG」なのではないかと考えるのです。
・金継ぎは、漆を接着剤として欠けたり割れたりした陶磁器を修復し、傷痕に金粉を撒いて仕上げる日本独特の修復方法です。傷跡は厳然と残っています。しかし、傷ついたからといって、器の価値が無に帰すわけではないのです。むしろ、以前よりも深みや味わいと増す場合さえあります。全くことなる存在に姿を変えたわけではありません。大きく成長したわけでもないのです。しかし、以前とは異なる存在になる。これが、私たちにとっての「成長」というかと考えています。
・この本『かかわり連関法』の中で、かかわりをキャッチボールにたとえた記述があります。
・対人関係の二つの基本型:向き合う関係と並ぶ関係
・「成熟した愛は、自分の全体性と個性を保ったままでの結合である。愛は、人間のなかにある能動的な力である。人を他の人々から隔てている壁をぶち破る力であり、人と人を結びつけるちからである。愛によって、人は孤独感・孤立感を克服するが、依然として自分自身のままであり、自分の全体性を失わない。愛においては、二人が一人になり、しかも二人でありつづけるという、パラドックスが起きる」(エーリッヒ・フロム)
これこそが最も大切な部分です。並ぶ関係において人は褒められたり認められた李する「すごい自分」ではなく、そこにいるだけの「ありのままの自分」だからです。繰り返せば、「向き合う」ことは関係を作ることで、「並ぶ」ことが関係を深める関わりだあということです。そのためには、二人が「向き合う」関係でなく、「並ぶ」関係にならざるを得ません。
・私たちは、さまざまな事態や経験を丸ごと受け入れつつ、日々を生きています。新たな経験を取り込みながら、常に新たに物語を改編しつつ、この物語の主人公として、この世界を生きているのだと思うのです。
繰り返しますが、だからと言って、前より強くなったとか大きくなったということではありません。「成長した」ということでもありません。ただ、淡々と粛々と生きているのです。傷は残っている。傷は消えることもないし、なくすこともできない。しかし、傷と持った存在として、心に新たな景色をまとって生きているのです。金継ぎの施された器のように、私たちはその姿のまま堂々と生きていくのです。
感想;
PTSDの言葉はよく聞きましたが、PTGはあまり聞いたことありませんでした。
GはGrowth、過去の傷を乗り越え成長するとの意味です。
著者はこれまでの経験から金継ぎの例えで、著者のPTGを紹介されています。
なるほどと思いました。
傷は残ります。なかったものにはできません。
その傷を生かして新たに学んだり、出逢ったり、新しい世界の広がりから何か得るものがあり、それが新しいものを生み出すのです。
社会的自尊感情と基本自尊感情
弁護士や医師の資格を持っている、有名な学校の卒業、何か賞をもらった、これは社会的自尊感情だと思います。
一方、上記のようなものが何もなくても、「私のままでよい」「私は存在価値がある」というまったく根拠のない自尊感情を持つことができると大きいのでしょう。
なぜなら奪うことは出来ないのですから。
それは人とのつながりで育てられるものとのことです。
誰かのために何かのために何かあると自尊感情を持ちやすいかもしれません。
存在自体が誰かのためになっているのです。
苦しいとき、この苦しさから逃れたい。
そのために家族が悲しむことがあっても、「ごめんなさい」との気持ちを持たれる人も多いかもしれません。
これは言葉を変えると基本的自尊感情が低いのかもしれません。
誰かが何を言おうが、周りに迷惑かけようが、「生きているだけでも意味がある」と思う基本的な考えを持つことなのでしょう。
そのためにはやはり人と人との絆が大きいのでしょう。
統合失調症に効果が高いと言われているオープンダイアローグも人と人との絆を確立しているように思います。
この本は心を癒すのは人との絆だと言われています。
薬でもない、カウンセリングでもない、人と人の絆だと。
その通りだと思います。
この本を読み感動しました。
稲村博先生は、いのちの電話の創立にも関与されました。
熱意のある先生で行きすぎたこともあったようです。
(斎藤環先生は稲村博先生の教え子です)
(米沢宏先生も稲村博先生の教え子です)
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