・自己嫌悪なんかについて考えて、それでどうにかなるのか、と思われるかもしれません。
かくいう私自身、自己嫌悪に半世紀以上にわたって苦しめられました。・・・
私は十数年前から、この問題に正面切って取り組みました。とはいえ、考えるしか能がない人間なので、自己嫌悪について徹底的に考えたのです。
そしたら、あら不思議、
自己嫌悪が消えました。
完全に消えはしなくとも、とても楽になったのです。
もちろんそれには長い年月がかかり、単に考えを変えただけでは収まらず、最終的に男性の姿を捨てて、女性の姿をするようになることにまで発展しました。
しかし、思考は決定的に重要です。
・もともと自己嫌悪があるから、自己嫌悪を感じてしまう。
・実は今の日本社会に生きている多くの人が、「自己嫌悪の罠」とも言うべき悪循環にはまっていると、私は考えています。
『星の王子さま』の星めぐりの場面で、ある小惑星に住む酔っ払いとのこんな会話があります。
「どうしてお酒を飲むの?」と王子は尋ねた。
「忘れたいからさ」と酔っ払いは応えた。
「何を忘れたいの?」と、王子は気のどくに思って重ねて聞いた。
「恥ずかしいのを忘れたいのさ」と酔っ払いはうつむいて吐露した。
「何が恥ずかしいの?」と、王子は助けになりたいと思い、尋ねてみた。
「酒をのむのが恥ずかしいんだよ!」酔っ払いはそう言うと、とうとう黙り込んでしまった。
酔っぱらいは、実は自己嫌悪に苦しんでいるのです。それを紛らわすために酒をのみ続けているのですが、彼の中では「酒を飲む⇒恥ずかしい⇒酒を飲む」という悪循環になっています。
この状態を「酒にのまれる」といいます。このゆおに悪循環の罠にかかり自己嫌悪に飲まれている状態が、自己嫌悪の正体です。
・物おもへば 沢の蛍も 我が身より あくが(あこが)れいづる 魂かとぞみる
「自己愛」は、「自己嫌悪」の裏返しです。自愛できず、自己嫌悪に苦しむ人が、自分のよい所を懸命に探して、急に自信満々になると「自己愛」になるわけです。もちろん、それは、つねに誰かの承認を必要とし続け、少しでもそれが満たされないと、ガラガラと崩れてしまう、実に不安定な自信です。
一方、自愛の人は、ありのままの自分を愛しています。そして、我と我が身とを大切にする。ということは、自分につながる人々をも大切にすることに結びつきます。
ありのままの自分で、ありのままの相手を受け入れているのであれば、心は平穏に保たれます。
・本物の恋愛とは?
一緒にいて楽しい。居心地がいい。ほっとする。
・ランクが上の恋人を見つけた人が勝ち?
しかし、ランキングという考えそのものが「自己嫌悪モード」の最たるものです。
・おしゃれするのはいけないこと?
違いは、人からよく見えるものを着たいか、自分が楽しくなるものを着たいか、です。
・誤解してほしくないのは、自己嫌悪がある人はダメな奴だ、と言っているのではない、ということです。そもそも、自己嫌悪がまったくない人は、多分いないと思います。
・自己嫌悪の人が、身の丈を越えた背伸びを延々と続けるのに対して、自愛の人は身の丈にあったことを粛々とやっています。
・自己嫌悪からの脱出を目指さない
1) 自分の工藤が自己嫌悪から来ていることに気づく
2) 自己嫌悪に依拠しない行動、自分自身の能力、自分と他人との関係を増やす
・「自愛」へと近づくには?
感情を身体に接続させることです。
・自分の地平を生きるためにはどうしたらいい?
ついつい他人の目が気になってしまう。
周りの評価にふり回されてしまう。
そういうふるまいを私は、「他人の地平を生きている」と表現しています。
・自分の中にある「親の視点」に気づく
しかし「親の視点」に気づくのはなかなか難しいのです。親の視線の中をずっと生きて来た人は、その視点で物事を見ていることに、気づかないからです。
そして、本当はわかっている自分の視点・自分の感情を、「悪いこと」「いけないこと」と感じて必死で押し殺す。ここから、自己嫌悪が始まります。
・自分の地平で生きられると、何が変わるのか?
まず、息をするのが楽になる。
自分の能力を自然に発揮できるようになる。
無理をすることがもたらす、「ゆがみ」が消え、柔らかく生きられる。
・結果を追求しないことによって、望んでいた結果は後からついてきます。
・自分の地平で生きると、すべては変わる。
・親が「本来の子どもの魂の作動」を否定してしまうわけです。
これが「自己嫌悪が生まれる構造」です。
親の「あなたのために」によって、子どもは壊されていく。
・自分の欲望を満たすために、親は子どもを無意識にコントロールする。
・親が、子どもと共に育つ、というのが、正常な関係性であるはずです。
親が育ち、子が育つ。それが自愛への道です。
・束縛する親には「衝撃」を与える
私の場合は、親が離婚に反対したときに連絡を絶ちました、
もう10年以上、会っていません。
・『マイケル・ジャクソンの思想』
彼の作品は、まさに、この自己嫌悪まみれの世界を生き抜いて、変革するための思想を表現したものです。
・魔法を起こすにはどうしたらいいの?
他人の顔色をみて「こうしたほうがいい」と思ってやるのではなく、「今、これをやりたい」という直観を信じて動いてみる。
それがたとえば周りの常識とズレていても、とりあえず動いてみて、そこから生まれる相互作用(衝突も含めた)を楽しんでみる。
・したいことを実際にしてみる。
そこから始まる流れに身をまかせ、渦をつくりながら拡大していく。
それがイノベーションの本質です。
・魔法を起こすコツって?
一番たいせつなのは「わからないところ」「違和感を覚えるところ」をスルーしないで、いったん立ち止まることです。
・自分の手に舵があるからこそ、流れに身をまかせることができます。
・『参加型開発-貧しい人々が主役となる開発へ向けて』中村尚司著
「自立とは、依存する相手が増えることである」
・「自分が困ったときに助けてもらえる関係性をマネジメントすること」が自立なのです。
・正しい依存とは?
依存したことで、結果的に相互の関係性が深まるような依存です。
・信頼に足る相手を見抜くためには、自分の感覚にしたがうしかないのです。
感想;
あのとき、ああすればよかった。
あの発言と行動は相手や周りを傷つけなかっただろうか。
なぜあれをしてしまったんだろうか。
などなど悔やみ、それで自己嫌悪になってしまうことがあります。
それがひどくなると、自分を責めてしまうこともあります。
そうすると自分がさらに嫌になって行きます。
そして自分が苦しくなります。
それは周りの目をとても気にしているからです。
自分が良いと思ったことをしたのですから、それがその時出来る精一杯のことだったと思えるかどうか。
評価の視点を周りの目ではなく、自分の心の目に置くことなのでしょう。
周りの目を気にするのは、自信がない場合もあるのでしょう。
そのためには信念というか、自分で自分の物差しを持っていないと周りに影響されますね。
ただ、自分の心の目や物差しが歪んでいると苦しみは残ります。
臨済宗の本に”人惑”という言葉がありました。
自分の考えだと思っていることが、実は親や先生から言われたことで、それに自分が惑わされている。
その人惑から離れて自らの考えを持つことを言っています。
人は自分の人生を歩んでいるのです。
周りの人のために人生を歩んでいるのではないということに、気づいたとき、ほっとしました。
「ゲシュタルトの祈り」 フレデリック・パールズ
「ゲシュタルトの祈り」に出会って、気持ちが楽になったのを覚えています。
この本に書いてあることも参考にして、少しでも自分で自分を苦しめない生き方をしたいです。
かくいう私自身、自己嫌悪に半世紀以上にわたって苦しめられました。・・・
私は十数年前から、この問題に正面切って取り組みました。とはいえ、考えるしか能がない人間なので、自己嫌悪について徹底的に考えたのです。
そしたら、あら不思議、
自己嫌悪が消えました。
完全に消えはしなくとも、とても楽になったのです。
もちろんそれには長い年月がかかり、単に考えを変えただけでは収まらず、最終的に男性の姿を捨てて、女性の姿をするようになることにまで発展しました。
しかし、思考は決定的に重要です。
・もともと自己嫌悪があるから、自己嫌悪を感じてしまう。
・実は今の日本社会に生きている多くの人が、「自己嫌悪の罠」とも言うべき悪循環にはまっていると、私は考えています。
『星の王子さま』の星めぐりの場面で、ある小惑星に住む酔っ払いとのこんな会話があります。
「どうしてお酒を飲むの?」と王子は尋ねた。
「忘れたいからさ」と酔っ払いは応えた。
「何を忘れたいの?」と、王子は気のどくに思って重ねて聞いた。
「恥ずかしいのを忘れたいのさ」と酔っ払いはうつむいて吐露した。
「何が恥ずかしいの?」と、王子は助けになりたいと思い、尋ねてみた。
「酒をのむのが恥ずかしいんだよ!」酔っ払いはそう言うと、とうとう黙り込んでしまった。
酔っぱらいは、実は自己嫌悪に苦しんでいるのです。それを紛らわすために酒をのみ続けているのですが、彼の中では「酒を飲む⇒恥ずかしい⇒酒を飲む」という悪循環になっています。
この状態を「酒にのまれる」といいます。このゆおに悪循環の罠にかかり自己嫌悪に飲まれている状態が、自己嫌悪の正体です。
・物おもへば 沢の蛍も 我が身より あくが(あこが)れいづる 魂かとぞみる
「自己愛」は、「自己嫌悪」の裏返しです。自愛できず、自己嫌悪に苦しむ人が、自分のよい所を懸命に探して、急に自信満々になると「自己愛」になるわけです。もちろん、それは、つねに誰かの承認を必要とし続け、少しでもそれが満たされないと、ガラガラと崩れてしまう、実に不安定な自信です。
一方、自愛の人は、ありのままの自分を愛しています。そして、我と我が身とを大切にする。ということは、自分につながる人々をも大切にすることに結びつきます。
ありのままの自分で、ありのままの相手を受け入れているのであれば、心は平穏に保たれます。
・本物の恋愛とは?
一緒にいて楽しい。居心地がいい。ほっとする。
・ランクが上の恋人を見つけた人が勝ち?
しかし、ランキングという考えそのものが「自己嫌悪モード」の最たるものです。
・おしゃれするのはいけないこと?
違いは、人からよく見えるものを着たいか、自分が楽しくなるものを着たいか、です。
・誤解してほしくないのは、自己嫌悪がある人はダメな奴だ、と言っているのではない、ということです。そもそも、自己嫌悪がまったくない人は、多分いないと思います。
・自己嫌悪の人が、身の丈を越えた背伸びを延々と続けるのに対して、自愛の人は身の丈にあったことを粛々とやっています。
・自己嫌悪からの脱出を目指さない
1) 自分の工藤が自己嫌悪から来ていることに気づく
2) 自己嫌悪に依拠しない行動、自分自身の能力、自分と他人との関係を増やす
・「自愛」へと近づくには?
感情を身体に接続させることです。
・自分の地平を生きるためにはどうしたらいい?
ついつい他人の目が気になってしまう。
周りの評価にふり回されてしまう。
そういうふるまいを私は、「他人の地平を生きている」と表現しています。
・自分の中にある「親の視点」に気づく
しかし「親の視点」に気づくのはなかなか難しいのです。親の視線の中をずっと生きて来た人は、その視点で物事を見ていることに、気づかないからです。
そして、本当はわかっている自分の視点・自分の感情を、「悪いこと」「いけないこと」と感じて必死で押し殺す。ここから、自己嫌悪が始まります。
・自分の地平で生きられると、何が変わるのか?
まず、息をするのが楽になる。
自分の能力を自然に発揮できるようになる。
無理をすることがもたらす、「ゆがみ」が消え、柔らかく生きられる。
・結果を追求しないことによって、望んでいた結果は後からついてきます。
・自分の地平で生きると、すべては変わる。
・親が「本来の子どもの魂の作動」を否定してしまうわけです。
これが「自己嫌悪が生まれる構造」です。
親の「あなたのために」によって、子どもは壊されていく。
・自分の欲望を満たすために、親は子どもを無意識にコントロールする。
・親が、子どもと共に育つ、というのが、正常な関係性であるはずです。
親が育ち、子が育つ。それが自愛への道です。
・束縛する親には「衝撃」を与える
私の場合は、親が離婚に反対したときに連絡を絶ちました、
もう10年以上、会っていません。
・『マイケル・ジャクソンの思想』
彼の作品は、まさに、この自己嫌悪まみれの世界を生き抜いて、変革するための思想を表現したものです。
・魔法を起こすにはどうしたらいいの?
他人の顔色をみて「こうしたほうがいい」と思ってやるのではなく、「今、これをやりたい」という直観を信じて動いてみる。
それがたとえば周りの常識とズレていても、とりあえず動いてみて、そこから生まれる相互作用(衝突も含めた)を楽しんでみる。
・したいことを実際にしてみる。
そこから始まる流れに身をまかせ、渦をつくりながら拡大していく。
それがイノベーションの本質です。
・魔法を起こすコツって?
一番たいせつなのは「わからないところ」「違和感を覚えるところ」をスルーしないで、いったん立ち止まることです。
・自分の手に舵があるからこそ、流れに身をまかせることができます。
・『参加型開発-貧しい人々が主役となる開発へ向けて』中村尚司著
「自立とは、依存する相手が増えることである」
・「自分が困ったときに助けてもらえる関係性をマネジメントすること」が自立なのです。
・正しい依存とは?
依存したことで、結果的に相互の関係性が深まるような依存です。
・信頼に足る相手を見抜くためには、自分の感覚にしたがうしかないのです。
感想;
あのとき、ああすればよかった。
あの発言と行動は相手や周りを傷つけなかっただろうか。
なぜあれをしてしまったんだろうか。
などなど悔やみ、それで自己嫌悪になってしまうことがあります。
それがひどくなると、自分を責めてしまうこともあります。
そうすると自分がさらに嫌になって行きます。
そして自分が苦しくなります。
それは周りの目をとても気にしているからです。
自分が良いと思ったことをしたのですから、それがその時出来る精一杯のことだったと思えるかどうか。
評価の視点を周りの目ではなく、自分の心の目に置くことなのでしょう。
周りの目を気にするのは、自信がない場合もあるのでしょう。
そのためには信念というか、自分で自分の物差しを持っていないと周りに影響されますね。
ただ、自分の心の目や物差しが歪んでいると苦しみは残ります。
臨済宗の本に”人惑”という言葉がありました。
自分の考えだと思っていることが、実は親や先生から言われたことで、それに自分が惑わされている。
その人惑から離れて自らの考えを持つことを言っています。
人は自分の人生を歩んでいるのです。
周りの人のために人生を歩んでいるのではないということに、気づいたとき、ほっとしました。
「ゲシュタルトの祈り」 フレデリック・パールズ
「ゲシュタルトの祈り」に出会って、気持ちが楽になったのを覚えています。
この本に書いてあることも参考にして、少しでも自分で自分を苦しめない生き方をしたいです。
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