・老婆は力ない声で言った。
「一服でけしん薬が欲しか」
一服で死ねる薬が欲しいという。こんなことを頼まれるのは珍しくない。喜兵衛は落ち着いて聞き返した。
「ないごて、そげん薬が要るとですか」
「体中が痛かで寝たっきりになっちょって、もうないも役にも立ちもはん。息子夫婦には嫌わるっばっかりじゃ。もう生きっちょっ価値もなか」
起きられないほど、あちこちが痛いのなら、骨の病気かもしれん、先は長くはない。
「それなら痛みを和らげる薬を置いていきますから、我慢できないときには飲んでみたもんせ」
だが老婆は首を横に振った。
「値ん張る薬を、いくつも飲んわけにはいかんど。そいより、けしん薬を一服だけでよか」
「お孫さんの顔を見たくはなかですか」
「そりゃあ見たか。しゃっでん、早う、ほかん嫁をもれち、息子に言うちょっと。じゃっどん、だいも、あたいの言うことなんど聞かん」
「そげんでしたか」
喜兵衛は言葉を選びながら話した。
「昨日、ご夫婦に子ができやすくなる薬を渡しもしたから、できるかもしれません。それまで待てもうはんか」
「うんにゃ、今さら、あの嫁に子が授かっはずがなか。それに役立たずの婆は、これ以上、長生きしたくなかど」
喜兵衛は、しばらく考えてから言った。
「ある大きなお寺に、徳の高いお坊さまがおりもした。お坊さまは、若い僧侶や小坊主のためを思って、厳しく育てもした。おかげで皆、立派に成長し、それぞれ別のお寺の住職として巣立っていきもした」
老婆を目をつぶった。寝てしまったのかもしれないが、喜兵衛は、かまわずに話をつづけた。
「でも徳の高いお坊さまも、歳には勝てもはん。いつしか病に倒れ、若い僧侶たちの世話になりもした。そうなっても相変わらず厳しくしていたところ、すっかり嫌われてしまいもした。耄碌したいう陰口も聞こえてきもす。嘆くお坊さまの夢枕に、あるとき仏さまが現れて仰せになりもした。『世話してくれる若い者たちに、まず感謝せよ』と。それから『近頃、どうだ?と聞いてやれ』と。老いたお坊さまが『急に、そんなふうに態度を変えたら、だれでも戸惑うでしょう』と反論すると、仏さまは仰せになりもした。『穏やかに聞き続ければ、いつか相手も心を開く。何か話し始めたら、決して頭ごなしに叱ってはいかん。自分の経験をひけらかしたり、自分の考えを押しつけてもいかん。そうか、そんなことがあったのかと、ただただ聞いてやるだけでよい』と。お坊さんは納得がいきもはん。『でも、それでは愚痴を聞くばかりで、進歩がありません』と、また反論すると、仏さまは『愚痴を聞いてやるうちに、本人が考える。どうすべきか自分で答えを出す。話を聞いてやって、その答えを待つのが、今のおまえの役目だ』仰せになりもうした。お坊さまは、なおも言い返しもした。『若い者の考えが至らぬゆえに、今まで口うるさくしてきました。それが無駄だと仰せですか』と。すると仏さまは微笑まれました。『無駄ではない。お前が口うるさく育てたおかげで、自分で考えられるようになったはずだ。若い者たちを信じてやれ。まずは、そこからだ』と仰せになり、そこで、お坊さまの夢が覚めたそうです。以来、老いたお坊さまは、夢のお告げの通りにしたところ、若い僧侶たちに慕われるようになり、ふたたび尊敬も集め、心穏やかにお浄土に旅立たれたそうです」
喜兵衛は話を締めくくった。
「これで、私の話は終わりです」
すると老婆が目を開けた。下まぶたの際が、にじんで光っている。どおうやら真剣に聞いてくれて、心を動かされたらしい。
・調所は手のひらを、こちらに向けた。
「いや、たとえわしが死んでも、わしの志を継ぐものが、まちがいなく薩摩には残る。かならずや日本は、薩摩藩が変える」
自信に満ちた言葉だった。
・調所は追い詰められたら、あれ(鳥兜)を開けて服用するのは疑いない。寅松が毒をあおったように。
最初から調所は約束した。密貿易が発覚したら、ひとりで罪をかぶって死ぬと。
・「昨日、薩摩藩の江戸屋敷で、調所どのが服毒自殺された。ご老中と島津斉彬さまと、冨田さまと、冨田さまの思惑通りで、これで、一件落着だ」
・「ならば寅松が死んで、松太郎も、おふくろさんも、さぞ驚いただろう」
松太郎は、まだ妻をもらっていない。これから母親とふたり暮らしになる。
「いいえ、さほど驚きはしませんでした。常々、親父は『抜け荷がみつかりそうになったら、俺が命をかけて秘密を守る』と言っていましたから。『それぐらいしか、もう役に立てない』とも」
喜兵衛の喉元に熱いものが込み上げる。
寅松は足を悪くして以来、旅に出られなくなって、人の役に立て亡くなったことを、何よりも苦にしていた。
だからこそ船で移動できる密貿易に、積極的に名乗り出たのだ。
喜兵衛の胸に悔いが湧く。
「あの山津波のときに、いっそ助けなければよかったのか。足の怪我が寅松の生涯に、これほど大きな影を落とすと、わかっていたら」
すると松太郎が、また激しく首を横に振った。
「そんなことはありません。なぜ親父が、ここを死に場所として選んだのか。それは旦那に対して、心底、ありがたく思っていたからです。そrを示したかったからです」
松太郎はすがるようにして言った。
「どうか悔いたりしないでください。それよりも親父を褒めてやってください。よくぞ秘密を守りとおしたと」・・・
「寅松、よくやった。おまえは冨山だけでなく、薩摩の人たちも救った。それも、とてつもない買うの人間を助けたんだ。偉かったぞ。偉かった」
語尾は涙で潤んで、大声にならない。
・人は誰でも死ぬ。でも自分の死さえも、人のために生かす者がいる。調所広郷しかり、寅松しかり、そして冨田兵部しかり。
彼らの命を救うことは、とうてい不可能だ。でも彼らにとっては、死にゆく姿こそが大事なのだということを、喜兵衛は知っている。
冨田の死からほどなくして、富山藩が加賀藩に吸収された。不安定な時節柄、加賀藩前田家は支藩を信用できなくなったのだ。
感想;
薩摩藩の調所広郷は薩摩藩の500万両の借金を200万両の蓄財まで建て直しました。
それが明治維新で薩摩が行動できた軍資金になったのでした。
富山藩の売薬薩摩組の死を覚悟した働きがなければ、薩摩藩にお金がなく最新鋭の軍備を揃えることが不可能で、薩長連合もなく、明治維新は無かったか、違う形の結果になっていたかもしれません。
調所は立て直しは”密貿易”しかないと判断し、禁止の密貿易に手を出し、富山藩を通して、売薬の薩摩組に依頼したのです。
密貿易は薩摩藩から船を造るお金をもらい、冨山で船を造って北海道の昆布を買い、それを薩摩に売る。薩摩はそれを中国に売り利益を得る。富山の薩摩組は薩摩を通して得た漢方を手に入れることと、禁止されていた薩摩での売薬商いの再開を認めることでした。
頼む側の調所広郷、受ける側の薩摩組も死を覚悟した行動でした。
徳川幕府に見つかると、薩摩藩、富山藩にも影響するので、藩主は知らずに勝手に自分たちが行ったことにして、死を覚悟した企てでした。
実際、調所広郷は鳥兜を服毒し自殺、薩摩組にも自殺してすべてを自分が責任を負った寅松、こういった人がいたからできたのでしょう。
密貿易を密告したのが、島津久光と跡目争いをしていた島津斉彬グループだったそうです。
老中阿部正弘と島津斉彬は手を結び、島津久光との世襲競争に勝ったのだそうです。
島津斉彬は名君となっていますが、いろいろな側面があることを知りました。
富山の方には必読の一冊のように思いました。
売薬(配置薬)はお薬を置いて、使った分だけお金をもらう(「先用後利」;お薬は高いので事前に多くのお薬を買えなかった。そこで、使ったお薬だけを払う仕組みにして、お金のない人もお薬を利用できた)。
この先用後利は冨山藩主前田正甫公が多くの貧しい人にもお薬を使って欲しいとの願いで生まれた考えです。
江戸城腹痛事件がきっかけでした。
売薬さんはその思いを持って薩摩にもお薬を届けたいとの思いもあったようです。
お薬が薩摩の人々に役立っていたエピソードも盛り込まれています。
越中反魂丹は元々冨山のお薬ではなく、富山藩で効き目を高めたお薬です。
そして、お客さんの話を聴くことも売薬の大切な行為だったようです。
かつ病の症状などを聞いて、ふさわしいお薬の説明をしていたようです。
子ども時代に配置薬の人が来て、紙風船をもらったのが嬉しかったです。
遊びのボランティア(入院している子どもと遊ぶ)仲間が米国の病院に視察に行く時に、「紙風船が手に入らないか?」と頼まれました。
仕事とボランティアを混同することは避けたかったのですが、ある富山の会社、配置薬をされているのを知っていたので、「紙風船を欲しい。手に入りますか? お金は払います」と頼んだところ、無料でいただきました。
公私混同になるので、お金を払いますと言ったのですが、固辞されました。
米国の子ども病院視察した仲間が、入院している子どもたちに紙風船を渡して遊んでもらったそうです。楽しんでいたと聞きました。
社会貢献したので、この程度の公私混同は良いか。いや会社も社会貢献の一端をに担ったから「良し」と思うようにしました。
紙風船を分けてくださったその会社の取締役の方に米国の病院で子どもたちが喜んでいたことを伝え、改めてお礼を伝えました。
冨山の医薬品の資材メーカーを訪問したとき、紙風船を分けてもらった話をしたら、そのメーカーで作っていると言われ、実物を見せてもらいました。それを内職の手仕事で糊を付けて紙風船を作るのだと教えてもらいました。
紙風船にする前の実物を見て感動しました。
小さい頃、紙風船で遊んだ記憶がよみがえり、今も紙風船の需要があることが、なんか嬉しかったです。
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