やなせたかしさん;1919年2月6日~2013年10月13日 ウィキペディアより
1973年(54歳) 「あんぱんまん」の絵本出版
1975年(56歳) 続編「それいけ!アンパンマン」出版 ここでカタカナに
絵本のアンパンマンは当初、貧困に苦しむ人々を助けるという内容であり、未就学児には難解な内容で、編集部や批評家、幼稚園の先生などから酷評された。しかし、次第に子供たちの間で人気を集め、幼稚園や保育園などからの注文が殺到するようになった。読者の中心である子供たち(2・3歳児)に合わせ、アンパンマンの体型も初期作品の8頭身から3頭身へと変わっていった。
1988年(69歳) 「それいけ!アンパンマン」のタイトルで日本テレビで放映開始。当初は関東ローカルのみでの放送で、2クールで終了する予定だったが、好評につき放送期間を延長し、日本テレビ系列局他でも順次放映された。
2018年現在 高知県の香美市立やなせたかし記念館(1996年設立)
全国5か所「アンパンマンこどもミュージアム」
『アンパンマンのマーチ』作詞 やなせたかし 作曲 三木たかし
そうだ うれしいんだ 生きるよろこび たとえ 胸の傷がいたんでも
なんのために生まれて なにをして生きるのか
こたえられないなんて そんなのはいやだ!
今を生きることで熱いこころ燃える だから君はいくんだ ほほえんで
・・・
いけ! みんなの夢守るため
(2番)なにが君の幸せ なにをして喜ぶ
わからないまま終わる そんなのいやだ
わすれないで夢を こぼさないで涙
『手のひらを太陽に』作詞 やなせたかし 作曲 いずみたく
ぼくらはみんな 生きている 生きているから 歌うんだ
ぼくらはみんな 生きている 生きているから かなしいんだ
(2番は うれしいんだ 3番は 愛するんだ)
手のひらを太陽に すかしてみれば まっかに流れる ぼくの血潮(ちしお)
ミミズだって オケラだって アメンボだって(2番、3番で動物が変わる)
みんな みんな生きているんだ 友だちなんだ
1.生い立ち
・高知県香美郡香北町在所村で生誕 「手のひらを太陽に」の詩碑
・父は朝日新聞の特派員として、中国の広東で33歳で客死 4歳、弟2歳
・母と祖母と三人暮らし、弟は柳瀬家(子どもいない)の長男の養子に
・小学校2年生の時に母が再婚し、柳瀬医院(弟養子)にひきとられた。
・弟は奥座敷で義父義母といっしょに寝る。ぼくは書生部屋で叔父と寝た。
2.大学受験
・数学駄目人間 数学と英語が極端に悪い。作文と図画、歴史、国語はいい方
・4年生の時に高知高校を受験したが失敗
・翌年、美術学校師範科と京都高等工芸図案科を受験したが失敗
・次の年、東京高等工芸学校図案科と京都高等工芸図案科の二校に絞った。
「図案なら飯が喰える」と伯父が言ったから。しかし、両校とも数学がある。
図案はよく解らないので、どんな問題でも、黒と黄色だけで描くと決めて、絵の具は二色しかもっていかなかった。「英語五百題」「英作文五百題」「代数五百題」「幾何五百題」の四冊だけを繰返し繰返し一年かけて暗記した。
・東京高等工芸学校(現千葉大)の数学の試験の問題を見て、「あっ!」と叫んだ。全問見覚えがあった。 ⇒1次合格 ⇒2次は作文(得意)と口頭試問⇒合格
・井伏鱒二のファンに。太宰治にも心酔した。
・銀座で映画をよく見た。フランス映画が一番好きだった。
・手当たり次第でB級映画も見た。「キングコング」「フランケンシュタイン」
3.就職
・東京田辺(トップは内藤豊次、一種の天才で、仕事の鬼であった)
4.戦争体験
・第一乙種合格 九州小倉の野戦重砲隊
(通常は高知の聯隊、戸籍は一人で国家のために戦死しても泣く人はいない)
・台湾に上陸(敵の抵抗なし、米軍は台湾を飛ばして沖縄を直接攻撃)
・その後中国へ、軽いマラリヤに感染
・弟は戦死
・日本へ帰国するまで隊内で、壁新聞発行、演劇大会で脚本・演出担当、作詞
5.妻との出逢い
・帰国後、屑屋を手伝い、3か月後肉体労働が嫌になり、高知新聞社入社
(応募者が多かった。『月刊高知』月刊誌創刊することになり、そのスタッフに。その一人が妻になる小松暢)
・二人で共同体験(荷物の整理、後始末、リヤカー引いて歩くなどの雑用)
・小松記者を好きな男性から求愛。「どうしようかしら」小松記者。一緒に歩いていたら、小松記者から「殺し文句を言って」と。思いつかない。「あなたっていい人だけどダメね、さようなら」と。その後また一緒に歩いていたら「やなせさんの赤ちゃんが産みたい」。なるほど、これが殺し文句か。
・小松記者が先に東京へ。その後を追って東京へ。
6.仕事がないので何でも引き受ける⇒困った時のやなせさん
・東京田辺製薬時代の仲間が図案社をやっていて参加。
・日本橋三越の宣伝部入社。店内装飾。ポスター作製。三越の包装紙の一部。
・30歳を越えても完全に無名。手当たり次第に漫画に投書。何度か入選。
・三越でのストライキ契機に退社したが、毎日することがない。
妻から「なんとかなるわ、収入がなければ私が働いて喰べさせてあげる」。
・三流以下ぐらいの漫画家。定期的な仕事はニッポンビールのCMの仕事で、週刊誌に「ビールの王さま」というパントマイム漫画を掲載。
・NHKから漫画学校という番組(クイズ番組)をやるので、司会者として出演依頼。この頃、来る仕事は全部ひきうけた。司会はできないというと、司会は別に立てて、漫画学校の先生ということで。司会は立川談志。
2分間を自由に使わせてもらい、「新絵かき歌」を。いくらか評判になり、しばらく飯のタネになった。3年続いた。
・「まんが入門」単行本を華書房という無名の出版社から出した。出版社の女社長は世にも不思議な人で、後年になって預言者に。
・永六輔(20代)から「大阪のフェスティバルホールで、労音ミュージカル『見あげてごらん夜の星を』をやるので、その舞台装置をお願いしたい」と。
・宮城まり子から「今度はじめてリサイタルやるんやけど、その構成をしてほしいねん」と。おまけに「衣装もついでにデザインしてほしいわ」と。
「不思議の国アリス」を下敷きにした。衣装は映画雑誌を参考に。
・いずみたくと一緒に仕事「手のひらを太陽に」宮城まり子歌
・10チャンネルのニュースショーの構成依頼(ゲストに羽仁進)
・羽仁進から「12チャンネルで1年間連続のテレビ映画のシナリオ依頼」
第一稿は没、第二稿も没、いざ仕事になると羽仁さんの注文はきびしくなり、さっきまでの笑顔はどこへやら、「こんなホンじゃダメだ。セリフじゃなくてシーンで表現しなくちゃ」なんて言っている。だから、はじめにことわったのに、みんなあんたのせいなんだ、と思ってもしようがない。なおしてなおして、やっとパスした時はくたくたであった。テーマソングのハローCQもぼくが作詞して、今陽子(ピンキー)が歌った。まだまったくの無名で、いずみたくの家に下宿して歌の勉強をしていた。「ハローCQ」は、一年続いて終わったが、三分の一ぐらいはぼくがシナリオを書いた。シナリオを一年書いたことで、ぼくは他人のシナリオも読みとることができるようになった。絵が頭の中にうかぶのである。これは後のぼくの仕事にどれだけ役立ったかしれない。
・「映画芸術」の記者から2頁好きなことを書いてくれと
⇒三冊の映画雑誌に頁を。
・向田邦子から「『父の詫び状』というエッセー連載するから挿絵を」
・週刊朝日で半年掲載の百万円懸賞漫画募集。プロアマ不問。当時はプロは応募しなかった。応募したらグランプリ。仲間から「やなせさんは立派なプロの漫画家なのに、投書漫画に応募する勇気がある。僕は感動してしまった」。
実際にはいつまでたっても、うだつのあがらない三流漫画家の破れかぶれの行動にすぎなかったから、ぼくは苦笑するより他なかった。
・文化放送のディレクターから「『現代劇場』のホンがまにあわなくて穴があきそうなんですよ。何でもいいから大至急一本書いて下さい」。その夜のうちに書き上げた。⇒これが後年、代表作のひとつになる「やさしいライオン」
・子どもに読ませる「バッハ伝」を書いて欲しい。
7.詩集発行
・ラジオのコントでつかった歌がたまったので自費出版を考えていたら、山梨シルクセンター(金になるなら何でもやる会社)の社長が「うちで出版しましょう!」。6人のくらいの社員。⇒詩集「愛する歌」やなせたかし著
・店(銀座)で著者サイン会 ⇒生涯であんな恥ずかしいことはなかった。
・三愛の婦人下着売場に詩集を置いてサイン会
「愛する歌」はよく売れて第五集まで続刊し初版三千部だったが総計10万部以上はいったと思う。今までの仕事ではまったくなかったファンレターがたくさんとどくようになった。中味は大体こんな風なのが多かった。「詩集『愛する歌』読みました。私は今まで詩はむつかしくて嫌でしたが、やなせさんの詩を読むと、この程度なら私でもつくれると思ってうれしくなりました」。褒められてるのかけなされているのかわからない。
・漫画の方はますます仕事が少なくなり、ぼくの詩集を買っていた人たちは、ぼくが漫画家であることを知らない人が多かった。
・漫画集団世界旅行というのにもさそいの声さえかからなかった。
・サンリオ(元山梨シルクセンター)から「詩の本」を作らせてほしい。⇒「詩とメルヘン」月刊誌に。
「詩とメルヘン」を出している会社ということで、学生達に人気が出て優秀な学生が応募してきた。
・「漫画家の絵本の会」を設立。
8.手塚治虫さんからのキャラクタ作成依頼と初めてアニメ挑戦
・長編アニメを作ることになったのでキャラクター・デザインをお願いしたい。
・ヒットのお礼に「何かアニメーションの短編を自由につくってください」手塚のポケットマネーで。⇒「やさしいライオン」のアニメを制作。この短編映画は、その歳の毎日映画コンクールでアニメ部門で大藤賞を受賞し、最優秀動画賞、教育映画賞とかいろいろもらうことになるのだから解らない。
・「金瓶梅」の挿絵依頼される。
9.アンパンマンが人気に
「あんぱんまん」のあとがき
子どもたちとおなじに、ぼくもスーパーマンや仮面ものが大好きなのですが、いつもふしぎにおもうのは、大格闘しても着ているものが破れないし汚れない、だれのためにたたかっているのかわからないということです。
ほんとうの正義というものは、けっしてかっこうのいいものではないし、そして、そのためにかならず自分も深く傷つくものです。そしてそういう捨身、献身の心なくしては正義は行なえませんし、また、私たちが現在、ほんとうに困っていることといえば物価高や、公害、飢えということで、正義の超人はそのためにこそ、たたかわねばならないのです。あんぱんまんは、やけこげたボロボロの、こげ茶色のマントを着て、ひっそりと、はすかしそうに登場します。自分を食べさせることによって、飢える人を救います。それでも顔は、気楽そうに笑っているのです。
10.妻との別れ
・アンパンマンのTV化の話が進んでいた頃、妻がガンに「奥様の生命は長く保ってあと三カ月です」。
・仲間の会でうつむいていたら、里中満智子から「何かあったら私に話してみて」と言われ、カミさんが入院して手術したこと、生命があと三カ月と宣告されたことを話した。「私も癌だったの」「丸山ワクチン打ち続けて七年目に完治したの。やなせさんも試してみませんか」。丸山ワクチン投与。
・1994年 75歳で妻逝去 余命三カ月が六年生き延びた。その六年は充実していたように思う。それがせめてもの心の救いだ。
11.アンパンマン未来図・
「やなせさんはずーっと順調にきていて一度も挫折したことがありませんね」というわれる事がある。とんでもない。挫折というのは途中で駄目になることだが、ぼくは四十歳を越えてもまだ自分の方向がまったくわからず、五里霧中で、挫折どころか、出発していなかった。
・永ちゃんとの交友を通じて知り合った青島幸男、前田武彦も、あっという間に売り出していった。
・後輩の漫画家には追い越されていった。
・1990年 日本漫画家協会対象受賞
・1991年 勳四等瑞宝章受賞 カミさんと一緒に受賞式
・故郷の香北町に美術館を建てることにした。目標ができた。夫婦の墓標に!
感想;
「仕事がなく、依頼されていた仕事を引き受けた。初めてやることの連続だった」。
それが、アンパンマンに集結したようです。
仕事の依頼、人生が自分に問いかけてきたことなのでしょう。
自分はできないと限界を設けずに精一杯取り組まれました。
それが将来どうなるかはその時はわからなかったそうです。
結局、引き受けた仕事の経験が全てアンパンマンのシナリオ、キャラクター、歌などにつながりました。
それとアンパンマンに込めた正義、自分も深く傷つきながらでもやり続ける、それがアンパンマンのやさしさであり正義なのでしょう。
退職する半年ほど前に読み、「そうだ、自分の可能性に天井を設けずに、やってみよう。その時、意味を十分感じなくてもきっと後でわかるだろう!」と背中を強く押してくれた本でした。
1973年(54歳) 「あんぱんまん」の絵本出版
1975年(56歳) 続編「それいけ!アンパンマン」出版 ここでカタカナに
絵本のアンパンマンは当初、貧困に苦しむ人々を助けるという内容であり、未就学児には難解な内容で、編集部や批評家、幼稚園の先生などから酷評された。しかし、次第に子供たちの間で人気を集め、幼稚園や保育園などからの注文が殺到するようになった。読者の中心である子供たち(2・3歳児)に合わせ、アンパンマンの体型も初期作品の8頭身から3頭身へと変わっていった。
1988年(69歳) 「それいけ!アンパンマン」のタイトルで日本テレビで放映開始。当初は関東ローカルのみでの放送で、2クールで終了する予定だったが、好評につき放送期間を延長し、日本テレビ系列局他でも順次放映された。
2018年現在 高知県の香美市立やなせたかし記念館(1996年設立)
全国5か所「アンパンマンこどもミュージアム」
『アンパンマンのマーチ』作詞 やなせたかし 作曲 三木たかし
そうだ うれしいんだ 生きるよろこび たとえ 胸の傷がいたんでも
なんのために生まれて なにをして生きるのか
こたえられないなんて そんなのはいやだ!
今を生きることで熱いこころ燃える だから君はいくんだ ほほえんで
・・・
いけ! みんなの夢守るため
(2番)なにが君の幸せ なにをして喜ぶ
わからないまま終わる そんなのいやだ
わすれないで夢を こぼさないで涙
『手のひらを太陽に』作詞 やなせたかし 作曲 いずみたく
ぼくらはみんな 生きている 生きているから 歌うんだ
ぼくらはみんな 生きている 生きているから かなしいんだ
(2番は うれしいんだ 3番は 愛するんだ)
手のひらを太陽に すかしてみれば まっかに流れる ぼくの血潮(ちしお)
ミミズだって オケラだって アメンボだって(2番、3番で動物が変わる)
みんな みんな生きているんだ 友だちなんだ
1.生い立ち
・高知県香美郡香北町在所村で生誕 「手のひらを太陽に」の詩碑
・父は朝日新聞の特派員として、中国の広東で33歳で客死 4歳、弟2歳
・母と祖母と三人暮らし、弟は柳瀬家(子どもいない)の長男の養子に
・小学校2年生の時に母が再婚し、柳瀬医院(弟養子)にひきとられた。
・弟は奥座敷で義父義母といっしょに寝る。ぼくは書生部屋で叔父と寝た。
2.大学受験
・数学駄目人間 数学と英語が極端に悪い。作文と図画、歴史、国語はいい方
・4年生の時に高知高校を受験したが失敗
・翌年、美術学校師範科と京都高等工芸図案科を受験したが失敗
・次の年、東京高等工芸学校図案科と京都高等工芸図案科の二校に絞った。
「図案なら飯が喰える」と伯父が言ったから。しかし、両校とも数学がある。
図案はよく解らないので、どんな問題でも、黒と黄色だけで描くと決めて、絵の具は二色しかもっていかなかった。「英語五百題」「英作文五百題」「代数五百題」「幾何五百題」の四冊だけを繰返し繰返し一年かけて暗記した。
・東京高等工芸学校(現千葉大)の数学の試験の問題を見て、「あっ!」と叫んだ。全問見覚えがあった。 ⇒1次合格 ⇒2次は作文(得意)と口頭試問⇒合格
・井伏鱒二のファンに。太宰治にも心酔した。
・銀座で映画をよく見た。フランス映画が一番好きだった。
・手当たり次第でB級映画も見た。「キングコング」「フランケンシュタイン」
3.就職
・東京田辺(トップは内藤豊次、一種の天才で、仕事の鬼であった)
4.戦争体験
・第一乙種合格 九州小倉の野戦重砲隊
(通常は高知の聯隊、戸籍は一人で国家のために戦死しても泣く人はいない)
・台湾に上陸(敵の抵抗なし、米軍は台湾を飛ばして沖縄を直接攻撃)
・その後中国へ、軽いマラリヤに感染
・弟は戦死
・日本へ帰国するまで隊内で、壁新聞発行、演劇大会で脚本・演出担当、作詞
5.妻との出逢い
・帰国後、屑屋を手伝い、3か月後肉体労働が嫌になり、高知新聞社入社
(応募者が多かった。『月刊高知』月刊誌創刊することになり、そのスタッフに。その一人が妻になる小松暢)
・二人で共同体験(荷物の整理、後始末、リヤカー引いて歩くなどの雑用)
・小松記者を好きな男性から求愛。「どうしようかしら」小松記者。一緒に歩いていたら、小松記者から「殺し文句を言って」と。思いつかない。「あなたっていい人だけどダメね、さようなら」と。その後また一緒に歩いていたら「やなせさんの赤ちゃんが産みたい」。なるほど、これが殺し文句か。
・小松記者が先に東京へ。その後を追って東京へ。
6.仕事がないので何でも引き受ける⇒困った時のやなせさん
・東京田辺製薬時代の仲間が図案社をやっていて参加。
・日本橋三越の宣伝部入社。店内装飾。ポスター作製。三越の包装紙の一部。
・30歳を越えても完全に無名。手当たり次第に漫画に投書。何度か入選。
・三越でのストライキ契機に退社したが、毎日することがない。
妻から「なんとかなるわ、収入がなければ私が働いて喰べさせてあげる」。
・三流以下ぐらいの漫画家。定期的な仕事はニッポンビールのCMの仕事で、週刊誌に「ビールの王さま」というパントマイム漫画を掲載。
・NHKから漫画学校という番組(クイズ番組)をやるので、司会者として出演依頼。この頃、来る仕事は全部ひきうけた。司会はできないというと、司会は別に立てて、漫画学校の先生ということで。司会は立川談志。
2分間を自由に使わせてもらい、「新絵かき歌」を。いくらか評判になり、しばらく飯のタネになった。3年続いた。
・「まんが入門」単行本を華書房という無名の出版社から出した。出版社の女社長は世にも不思議な人で、後年になって預言者に。
・永六輔(20代)から「大阪のフェスティバルホールで、労音ミュージカル『見あげてごらん夜の星を』をやるので、その舞台装置をお願いしたい」と。
・宮城まり子から「今度はじめてリサイタルやるんやけど、その構成をしてほしいねん」と。おまけに「衣装もついでにデザインしてほしいわ」と。
「不思議の国アリス」を下敷きにした。衣装は映画雑誌を参考に。
・いずみたくと一緒に仕事「手のひらを太陽に」宮城まり子歌
・10チャンネルのニュースショーの構成依頼(ゲストに羽仁進)
・羽仁進から「12チャンネルで1年間連続のテレビ映画のシナリオ依頼」
第一稿は没、第二稿も没、いざ仕事になると羽仁さんの注文はきびしくなり、さっきまでの笑顔はどこへやら、「こんなホンじゃダメだ。セリフじゃなくてシーンで表現しなくちゃ」なんて言っている。だから、はじめにことわったのに、みんなあんたのせいなんだ、と思ってもしようがない。なおしてなおして、やっとパスした時はくたくたであった。テーマソングのハローCQもぼくが作詞して、今陽子(ピンキー)が歌った。まだまったくの無名で、いずみたくの家に下宿して歌の勉強をしていた。「ハローCQ」は、一年続いて終わったが、三分の一ぐらいはぼくがシナリオを書いた。シナリオを一年書いたことで、ぼくは他人のシナリオも読みとることができるようになった。絵が頭の中にうかぶのである。これは後のぼくの仕事にどれだけ役立ったかしれない。
・「映画芸術」の記者から2頁好きなことを書いてくれと
⇒三冊の映画雑誌に頁を。
・向田邦子から「『父の詫び状』というエッセー連載するから挿絵を」
・週刊朝日で半年掲載の百万円懸賞漫画募集。プロアマ不問。当時はプロは応募しなかった。応募したらグランプリ。仲間から「やなせさんは立派なプロの漫画家なのに、投書漫画に応募する勇気がある。僕は感動してしまった」。
実際にはいつまでたっても、うだつのあがらない三流漫画家の破れかぶれの行動にすぎなかったから、ぼくは苦笑するより他なかった。
・文化放送のディレクターから「『現代劇場』のホンがまにあわなくて穴があきそうなんですよ。何でもいいから大至急一本書いて下さい」。その夜のうちに書き上げた。⇒これが後年、代表作のひとつになる「やさしいライオン」
・子どもに読ませる「バッハ伝」を書いて欲しい。
7.詩集発行
・ラジオのコントでつかった歌がたまったので自費出版を考えていたら、山梨シルクセンター(金になるなら何でもやる会社)の社長が「うちで出版しましょう!」。6人のくらいの社員。⇒詩集「愛する歌」やなせたかし著
・店(銀座)で著者サイン会 ⇒生涯であんな恥ずかしいことはなかった。
・三愛の婦人下着売場に詩集を置いてサイン会
「愛する歌」はよく売れて第五集まで続刊し初版三千部だったが総計10万部以上はいったと思う。今までの仕事ではまったくなかったファンレターがたくさんとどくようになった。中味は大体こんな風なのが多かった。「詩集『愛する歌』読みました。私は今まで詩はむつかしくて嫌でしたが、やなせさんの詩を読むと、この程度なら私でもつくれると思ってうれしくなりました」。褒められてるのかけなされているのかわからない。
・漫画の方はますます仕事が少なくなり、ぼくの詩集を買っていた人たちは、ぼくが漫画家であることを知らない人が多かった。
・漫画集団世界旅行というのにもさそいの声さえかからなかった。
・サンリオ(元山梨シルクセンター)から「詩の本」を作らせてほしい。⇒「詩とメルヘン」月刊誌に。
「詩とメルヘン」を出している会社ということで、学生達に人気が出て優秀な学生が応募してきた。
・「漫画家の絵本の会」を設立。
8.手塚治虫さんからのキャラクタ作成依頼と初めてアニメ挑戦
・長編アニメを作ることになったのでキャラクター・デザインをお願いしたい。
・ヒットのお礼に「何かアニメーションの短編を自由につくってください」手塚のポケットマネーで。⇒「やさしいライオン」のアニメを制作。この短編映画は、その歳の毎日映画コンクールでアニメ部門で大藤賞を受賞し、最優秀動画賞、教育映画賞とかいろいろもらうことになるのだから解らない。
・「金瓶梅」の挿絵依頼される。
9.アンパンマンが人気に
「あんぱんまん」のあとがき
子どもたちとおなじに、ぼくもスーパーマンや仮面ものが大好きなのですが、いつもふしぎにおもうのは、大格闘しても着ているものが破れないし汚れない、だれのためにたたかっているのかわからないということです。
ほんとうの正義というものは、けっしてかっこうのいいものではないし、そして、そのためにかならず自分も深く傷つくものです。そしてそういう捨身、献身の心なくしては正義は行なえませんし、また、私たちが現在、ほんとうに困っていることといえば物価高や、公害、飢えということで、正義の超人はそのためにこそ、たたかわねばならないのです。あんぱんまんは、やけこげたボロボロの、こげ茶色のマントを着て、ひっそりと、はすかしそうに登場します。自分を食べさせることによって、飢える人を救います。それでも顔は、気楽そうに笑っているのです。
10.妻との別れ
・アンパンマンのTV化の話が進んでいた頃、妻がガンに「奥様の生命は長く保ってあと三カ月です」。
・仲間の会でうつむいていたら、里中満智子から「何かあったら私に話してみて」と言われ、カミさんが入院して手術したこと、生命があと三カ月と宣告されたことを話した。「私も癌だったの」「丸山ワクチン打ち続けて七年目に完治したの。やなせさんも試してみませんか」。丸山ワクチン投与。
・1994年 75歳で妻逝去 余命三カ月が六年生き延びた。その六年は充実していたように思う。それがせめてもの心の救いだ。
11.アンパンマン未来図・
「やなせさんはずーっと順調にきていて一度も挫折したことがありませんね」というわれる事がある。とんでもない。挫折というのは途中で駄目になることだが、ぼくは四十歳を越えてもまだ自分の方向がまったくわからず、五里霧中で、挫折どころか、出発していなかった。
・永ちゃんとの交友を通じて知り合った青島幸男、前田武彦も、あっという間に売り出していった。
・後輩の漫画家には追い越されていった。
・1990年 日本漫画家協会対象受賞
・1991年 勳四等瑞宝章受賞 カミさんと一緒に受賞式
・故郷の香北町に美術館を建てることにした。目標ができた。夫婦の墓標に!
感想;
「仕事がなく、依頼されていた仕事を引き受けた。初めてやることの連続だった」。
それが、アンパンマンに集結したようです。
仕事の依頼、人生が自分に問いかけてきたことなのでしょう。
自分はできないと限界を設けずに精一杯取り組まれました。
それが将来どうなるかはその時はわからなかったそうです。
結局、引き受けた仕事の経験が全てアンパンマンのシナリオ、キャラクター、歌などにつながりました。
それとアンパンマンに込めた正義、自分も深く傷つきながらでもやり続ける、それがアンパンマンのやさしさであり正義なのでしょう。
退職する半年ほど前に読み、「そうだ、自分の可能性に天井を設けずに、やってみよう。その時、意味を十分感じなくてもきっと後でわかるだろう!」と背中を強く押してくれた本でした。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます