https://news.yahoo.co.jp/articles/a243d189f5a3449c96751bc117d862b5b24ae1fb 3/26(土) 14:51 BBC News
ウクライナのイリーナ・ウェネディクトワ検事総長は、戦闘規則に関する刑法に違反すると思われる数千件の事件を記録している最中だという。
3月24日現在、同検察官事務所が記録した事件は2472件にのぼる。ウェネディクトワ検事総長は23日、集めた事件をどのように扱っているか、概要をメディアに説明した。
「ウクライナの司法権が有効で、犯罪加害者が物理的にウクライナにいる場合、私たちが取る戦略はひとつだ。ウクライナで成功しないとわかれば、国際刑事裁判所(ICC)にリソースを振り向け、特定の人物、個人が処罰されるようにする」
BBCは、戦争犯罪の疑いがあるとして記録されている事件の一つについて、目撃証言などを収集した。
それは、ロシアがウクライナに侵攻して1週間余りの頃に起こった。首都キーウ(キエフ)の西40キロにある小さな村ヤスノホロッカでは、隣人や友人たちか集まる有志グループが、コミュニティーの入り口を守る検問所で配置についていた。
ロシア軍とウクライナ軍の戦闘は、すでに残忍なほど激しくなっていた。ウクライナ全土で、町や村の入り口に検問所が設置され、正式な軍事訓練を受けていない地元の有志が、そのほとんどを守っていた。
3月5日の午後、村の司祭のロスティスラフ・ドゥダレンコさん(45)は、ヤスノホロッカの検問所にいた。ドゥダレンコ司祭の役割は、近づいてくる車をチェックすることだった。しかし、他の従軍司祭と同じように、ドゥダレンコさんも精神的なサポートを提供するためにそこにいた。その時、司祭は私服だった。
何が起こったのか、正確に立証することはできない。しかし、攻撃の生存者の一人、ユヒムさん(仮名)はBBCに、ドゥダレンコさんを含む十数人と検問所を守っていたところ、3台のロシア戦車が村を通過したと知らされたのだと話した。そこで一行は森の中に隠れ、必要なら戦車に立ち向かおうと決めたのだという。
検問所に近づくと、ロシア軍は「四方八方へ発砲」し始めたと、ユヒムさんBBCに語った。「私たちが草むらに隠れているとわかると、戦車で私たちをひき殺すために道路から外れ出した」。
戦車が道路まで戻ってきたとき、ドゥダレンコさんは姿を現そうと決めたのだと、ユヒムさんは話した。
「ロスティスラフが十字架を頭上に掲げ、隠れ場所から立ち上がり、何かを叫びながら戦車に向かって歩いて行くのを見た。ロシア軍を制止したかったのかもしれない。私はロスティスラフに声をかけようとした」
すると、司祭の方向へ発砲があった。ユヒムさんの位置からは、直接ドゥダレンコさんに向かって撃ったように見えたと言う。「それでおしまいだった。彼は2、3歩歩いただけで倒れた」。
ユヒムさんもこの攻撃で撃たれてけがを負った。その時点でウクライナ軍が到着してロシア軍を後退させなければ、その場のにいた全員が殺されていただろうと、ユヒムさんは思っている。
ドゥダレンコさんが所属していた有志グループは、軍とは無関係だった。同じグループのエドゥアルドさん(仮名)によると、軍事訓練を受けていたのは数人で、東部ドンバスでロシアと長年続く紛争で戦闘を経験した人たちだという。グループには、アマチュアの猟師もいた。参加者のほとんどは50歳以上だという。
エドゥアルドさんは当時、別の検問所を担当していた。エドゥアルドさんが到着した時にはロシア軍戦車は撤退した後で、道路には遺体が散らばっていた。その中にはドゥダレンコさんや、やはり丸腰だった輔祭、別の防衛志願者2人、そして見知らぬ人物が1人含まれていた。
ドゥダレンコさんの母ナディイアさんは、一人息子は自分の役割を果たそうとしていたと語った。
「息子はみんなを守れるようになりたいと思っていた」と、ナディイアさんはBBCに話した。
「説得してやめさせようとしたけれど、反論できなかった」
一行は猟銃に加え、少ないながらロシア軍のカラシニコフを所持していた。防弾チョッキはグループ全体に3着だけだった。しかし、ドゥダレンコさんは司祭として武器を持つことを拒否していたと、友人で同じく司祭のセルヒイ・ツォマさんがBBCに語った。
それだけに、ドゥダレンコさんがいざ戦車と対決しようと決めた時、撃たれればひとたまりもなかった。しかし、目撃者のユヒムさんによれば、こうした行動がドゥダレンコさんの本質だったという。
「ロスティスラフは親切で楽観的な人だった。だから、ロシア軍を止めようとしたんだと思う」
ツォマさんも、ドゥダレンコさんはヤスノホロッカではいつも人助けをする人物として有名で、日曜日のミサの前には、車で村中を回って年配の信者を集めていたと話した。
ドゥダレンコさんの奉仕活動自体も自己犠牲的なものだったと、常連の信徒の一人、テチャナ・ピリプチャックさんは言う。
ドゥダレンコさんが所属していたウクライナ正教会は、2019年にようやくロシア正教会からの独立が認められた。しかし、ロシアはこれを認めていない。
正式な分裂以前、ウクライナの正教会はモスクワに忠実な支部と、キーウに忠実な支部に分かれていた。ドゥダレンコさんはキーウ寄りの教会に所属していたが、2010年に親ロシア派のヴィクトル・ヤヌコビッチ元大統領がウクライナの政権を握ると、モスクワ総主教庁がキーウ総主教庁の教会を乗っ取り始め、ドゥダレンコさんの教会もその憂き目にあった。
ドゥダレンコさんは自分の信条を裏切らず、教会を出て屋外で、雨の中でも礼拝を行ったと友人たちは言う。その後、寄付を募ってトレーラーに仮設の教会を建てた。
ピリプチャックさんはフェイスブックのドゥダレンコさんの追悼ページに、「あなたがいなければ私たちの教会は路頭に迷っていた」と感謝をつづった。
過去数週間にウクライナ全土で起きた数千件の事件と同様、この殺人事件は警察と地方検察庁、国家検察庁によって速やかに記録され、それぞれのフェイスブックページで詳細が公開された。
また、ウクライナの第438条「戦闘規則の違反」に抵触する疑いがある事件も、政府機関が使用する集約ウェブサイトにアップロードされた。
ウェネディクトワ検事総長は、先週英語で行われた取材でBBCに対し、こうした証拠の記録を残すことが重要なのだと語った。
「検事総長の事務所には戦争特別部門がある(中略)すべての法執行機関が(中略)戦争犯罪を調査するために私たちに協力している。我々の最優先事項だ」
「もちろん、捜査官の数は十分ではない。そのため、warcrimes.gov.uaという共通のウェブサイトを作った」と、ウェネディクトワ検事総長は説明する。
このウェブサイトは検察庁だけでなく、ウクライナの外務省や法務省など他の国家機関も利用しており、すべての証拠が文書化されている。
「我々にとって非常に重要なものだ。(これらの証拠は)ウクライナの裁判所でも、ICCや他の司法管轄区でも受け入れられるべきだ」
キーウ州検察庁は、3月5日のヤスノホロッカの事件については発砲をめぐる捜査が終了し次第、起訴状が出ると述べている。
同庁は声明で、「検察は、あらゆる戦争犯罪と、侵略国の兵士から将軍、軍部と政府の高官に至る加害者一人一人の状況を立証するために全力を尽くしている」と述べた。
また、一部のケースではロシア兵がすでにウクライナの起訴手続きの第一段階に直面していると述べ、「欠席判決の見通しについてだけ話しているのではない。それぞれの具体的なケースについて、戦争犯罪者はウクライナの法律に従って処罰されることになる」と説明した。
取材協力:スワトスラフ・ホメンコ(英語記事 The priest shot at a checkpoint)
感想;
メンゲレ医師が頭に浮かびました。(ウイキペディアよろ)
メンゲレは1940年に武装親衛隊に志願した。 アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所で彼は選別を行い、囚人に対して非人道的な人体実験を行った。
メンゲレ医師は、家庭に戻れば良き夫、良き父親だったそうです。
戦争が人を殺人者にします。
しかし、戦争のせいで罪のない人を殺すことは正当化されません。
勇気を持ってNoと言って、従わないことです。
戦車を阻止しようとして殺害された司祭。
司祭を殺害したロシア兵。
上からの命令であっても、侵略の戦争は、プーチン大統領がいくら理由を並べても、許されるものではありません。
一人でも従わない。
その一人が増えることで戦争を阻止できるのです。
ウクライナのイリーナ・ウェネディクトワ検事総長は、戦闘規則に関する刑法に違反すると思われる数千件の事件を記録している最中だという。
3月24日現在、同検察官事務所が記録した事件は2472件にのぼる。ウェネディクトワ検事総長は23日、集めた事件をどのように扱っているか、概要をメディアに説明した。
「ウクライナの司法権が有効で、犯罪加害者が物理的にウクライナにいる場合、私たちが取る戦略はひとつだ。ウクライナで成功しないとわかれば、国際刑事裁判所(ICC)にリソースを振り向け、特定の人物、個人が処罰されるようにする」
BBCは、戦争犯罪の疑いがあるとして記録されている事件の一つについて、目撃証言などを収集した。
それは、ロシアがウクライナに侵攻して1週間余りの頃に起こった。首都キーウ(キエフ)の西40キロにある小さな村ヤスノホロッカでは、隣人や友人たちか集まる有志グループが、コミュニティーの入り口を守る検問所で配置についていた。
ロシア軍とウクライナ軍の戦闘は、すでに残忍なほど激しくなっていた。ウクライナ全土で、町や村の入り口に検問所が設置され、正式な軍事訓練を受けていない地元の有志が、そのほとんどを守っていた。
3月5日の午後、村の司祭のロスティスラフ・ドゥダレンコさん(45)は、ヤスノホロッカの検問所にいた。ドゥダレンコ司祭の役割は、近づいてくる車をチェックすることだった。しかし、他の従軍司祭と同じように、ドゥダレンコさんも精神的なサポートを提供するためにそこにいた。その時、司祭は私服だった。
何が起こったのか、正確に立証することはできない。しかし、攻撃の生存者の一人、ユヒムさん(仮名)はBBCに、ドゥダレンコさんを含む十数人と検問所を守っていたところ、3台のロシア戦車が村を通過したと知らされたのだと話した。そこで一行は森の中に隠れ、必要なら戦車に立ち向かおうと決めたのだという。
検問所に近づくと、ロシア軍は「四方八方へ発砲」し始めたと、ユヒムさんBBCに語った。「私たちが草むらに隠れているとわかると、戦車で私たちをひき殺すために道路から外れ出した」。
戦車が道路まで戻ってきたとき、ドゥダレンコさんは姿を現そうと決めたのだと、ユヒムさんは話した。
「ロスティスラフが十字架を頭上に掲げ、隠れ場所から立ち上がり、何かを叫びながら戦車に向かって歩いて行くのを見た。ロシア軍を制止したかったのかもしれない。私はロスティスラフに声をかけようとした」
すると、司祭の方向へ発砲があった。ユヒムさんの位置からは、直接ドゥダレンコさんに向かって撃ったように見えたと言う。「それでおしまいだった。彼は2、3歩歩いただけで倒れた」。
ユヒムさんもこの攻撃で撃たれてけがを負った。その時点でウクライナ軍が到着してロシア軍を後退させなければ、その場のにいた全員が殺されていただろうと、ユヒムさんは思っている。
ドゥダレンコさんが所属していた有志グループは、軍とは無関係だった。同じグループのエドゥアルドさん(仮名)によると、軍事訓練を受けていたのは数人で、東部ドンバスでロシアと長年続く紛争で戦闘を経験した人たちだという。グループには、アマチュアの猟師もいた。参加者のほとんどは50歳以上だという。
エドゥアルドさんは当時、別の検問所を担当していた。エドゥアルドさんが到着した時にはロシア軍戦車は撤退した後で、道路には遺体が散らばっていた。その中にはドゥダレンコさんや、やはり丸腰だった輔祭、別の防衛志願者2人、そして見知らぬ人物が1人含まれていた。
ドゥダレンコさんの母ナディイアさんは、一人息子は自分の役割を果たそうとしていたと語った。
「息子はみんなを守れるようになりたいと思っていた」と、ナディイアさんはBBCに話した。
「説得してやめさせようとしたけれど、反論できなかった」
一行は猟銃に加え、少ないながらロシア軍のカラシニコフを所持していた。防弾チョッキはグループ全体に3着だけだった。しかし、ドゥダレンコさんは司祭として武器を持つことを拒否していたと、友人で同じく司祭のセルヒイ・ツォマさんがBBCに語った。
それだけに、ドゥダレンコさんがいざ戦車と対決しようと決めた時、撃たれればひとたまりもなかった。しかし、目撃者のユヒムさんによれば、こうした行動がドゥダレンコさんの本質だったという。
「ロスティスラフは親切で楽観的な人だった。だから、ロシア軍を止めようとしたんだと思う」
ツォマさんも、ドゥダレンコさんはヤスノホロッカではいつも人助けをする人物として有名で、日曜日のミサの前には、車で村中を回って年配の信者を集めていたと話した。
ドゥダレンコさんの奉仕活動自体も自己犠牲的なものだったと、常連の信徒の一人、テチャナ・ピリプチャックさんは言う。
ドゥダレンコさんが所属していたウクライナ正教会は、2019年にようやくロシア正教会からの独立が認められた。しかし、ロシアはこれを認めていない。
正式な分裂以前、ウクライナの正教会はモスクワに忠実な支部と、キーウに忠実な支部に分かれていた。ドゥダレンコさんはキーウ寄りの教会に所属していたが、2010年に親ロシア派のヴィクトル・ヤヌコビッチ元大統領がウクライナの政権を握ると、モスクワ総主教庁がキーウ総主教庁の教会を乗っ取り始め、ドゥダレンコさんの教会もその憂き目にあった。
ドゥダレンコさんは自分の信条を裏切らず、教会を出て屋外で、雨の中でも礼拝を行ったと友人たちは言う。その後、寄付を募ってトレーラーに仮設の教会を建てた。
ピリプチャックさんはフェイスブックのドゥダレンコさんの追悼ページに、「あなたがいなければ私たちの教会は路頭に迷っていた」と感謝をつづった。
過去数週間にウクライナ全土で起きた数千件の事件と同様、この殺人事件は警察と地方検察庁、国家検察庁によって速やかに記録され、それぞれのフェイスブックページで詳細が公開された。
また、ウクライナの第438条「戦闘規則の違反」に抵触する疑いがある事件も、政府機関が使用する集約ウェブサイトにアップロードされた。
ウェネディクトワ検事総長は、先週英語で行われた取材でBBCに対し、こうした証拠の記録を残すことが重要なのだと語った。
「検事総長の事務所には戦争特別部門がある(中略)すべての法執行機関が(中略)戦争犯罪を調査するために私たちに協力している。我々の最優先事項だ」
「もちろん、捜査官の数は十分ではない。そのため、warcrimes.gov.uaという共通のウェブサイトを作った」と、ウェネディクトワ検事総長は説明する。
このウェブサイトは検察庁だけでなく、ウクライナの外務省や法務省など他の国家機関も利用しており、すべての証拠が文書化されている。
「我々にとって非常に重要なものだ。(これらの証拠は)ウクライナの裁判所でも、ICCや他の司法管轄区でも受け入れられるべきだ」
キーウ州検察庁は、3月5日のヤスノホロッカの事件については発砲をめぐる捜査が終了し次第、起訴状が出ると述べている。
同庁は声明で、「検察は、あらゆる戦争犯罪と、侵略国の兵士から将軍、軍部と政府の高官に至る加害者一人一人の状況を立証するために全力を尽くしている」と述べた。
また、一部のケースではロシア兵がすでにウクライナの起訴手続きの第一段階に直面していると述べ、「欠席判決の見通しについてだけ話しているのではない。それぞれの具体的なケースについて、戦争犯罪者はウクライナの法律に従って処罰されることになる」と説明した。
取材協力:スワトスラフ・ホメンコ(英語記事 The priest shot at a checkpoint)
感想;
メンゲレ医師が頭に浮かびました。(ウイキペディアよろ)
メンゲレは1940年に武装親衛隊に志願した。 アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所で彼は選別を行い、囚人に対して非人道的な人体実験を行った。
メンゲレ医師は、家庭に戻れば良き夫、良き父親だったそうです。
戦争が人を殺人者にします。
しかし、戦争のせいで罪のない人を殺すことは正当化されません。
勇気を持ってNoと言って、従わないことです。
戦車を阻止しようとして殺害された司祭。
司祭を殺害したロシア兵。
上からの命令であっても、侵略の戦争は、プーチン大統領がいくら理由を並べても、許されるものではありません。
一人でも従わない。
その一人が増えることで戦争を阻止できるのです。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます