https://news.yahoo.co.jp/articles/78db7d6a09b3c2def7632f6ab85b86ecf5fecff3 3/26(土) 19:36 with online
村木厚子【運命に翻弄(ほんろう)されない人生を】
◆どんな理不尽に直面しても、人生の主導権は自分で握る
厚生労働省の官僚として、女性や障害者を支援する政策に携わってきた村木厚子さん。長時間の残業が当たり前の環境でも、仕事と子育てを両立させる女性のロールモデルになることを目指し、地道にキャリアを積み重ねていたところで、冤罪(えんざい)による逮捕……。
【元厚生労働事務次官】冤罪(えんざい)による逮捕でも、心が折れなかった理由
もともと大志を抱いて国家公務員になったわけではなく、役所で重職に就く未来なんて思い描いていなかった。それでも、逆境に直面する度に信念を磨き上げていく――。自身を「平凡」と評価する村木さんに、平凡じゃない人生を振り返ってもらった。
女の子でも、必死に働いて自分を養える大人になれることを証明したかった
37年半の国家公務員人生で、いちばん残業時間が長かったのが25歳の頃。当時は旧労働省から外務省に出向したばかりで、手取り足取り仕事を教えてもらえるような環境ではなく、四苦八苦しながら与えられた役割をがむしゃらにこなしていました。
海外とのやりとりも多く、時差の影響もあって仕事が終わるのは午前3時。通勤電車でつり革を握りながら“立ち寝”していたのはあの頃だけです(笑)。
本当に悲惨な日々だったので、どんどんメンタルがすり減ってきて、職場で誰かが後ろを通っただけで動悸がするんですよ。「怒られるかもしれない」という不安でいつもドキドキしていました。
それでも辞めたいと思わなかったのは、しっかり働いて自分で稼ぎ、自分を養える大人になることが、両親への恩返しになると思っていたから。私が中学2年生の頃に父親が失業してしまったこともあり、それこそ実家の家計は火の車だったと思います。
それでも、両親は私の意思を尊重して大学まで行かせてくれました。まだ大卒女性の雇用が少なかった時代ですから、無理してまで女の子の教育費を捻出する家庭は少なかったはず……。
「女の子だから」という理由で進学を諦めずに済んだのだから、社会に出てからも「女の子だから」に甘えるのではなく、意地でも働いて自立したいなと。若い頃は、その思いだけで役所の仕事にしがみついていて、他に大きな志を持っていたわけではありません(笑)。
26歳で結婚した相手は、役所の同期だったので仕事の大変さも分かり合えましたし、私の価値観に共感してくれていたので長女を出産した後も自然と共働きを選びました。当時の男性には珍しく、夫は激務をこなしながらも家事にも育児にも積極的な人で。
理由を聞いたら、「小さい苦労で得られる小さな幸せよりも、大きい苦労で大きな幸せを得たいんだ」と。その言葉は私にとって救いであり、その後のキャリアでも心の支えになっていたと思います。
仕事と育児の両立が辛いなら、職場に借りを作る時期があってもいい
[31歳]娘を連れての単身赴任先・島根県の松江で
すごく楽しい日々を過ごしていたのですが、私が31歳で島根県の労働基準局監督課長に就任したことで、お母さんっ子だった娘を連れて単身赴任することに。私も夫もいつかは管理職として地方へ行かなければならないことは分かっていたのですが、先に私の順番が来たわけです。
子連れで単身赴任する女性は珍しかったので、東京に残った夫は近所で「奥さんと子供に逃げられた」と噂されていたみたいです(笑)。
監督課長のポストに女性が就くのは約20年振りだったらしく、赴任先の島根でもびっくりされた記憶があります。それでも、周りの方々がすごく気にかけてくれましたし、週休二日制導入の推進キャンペーンなどのやりがいのある仕事に取り組むこともできました。
すごく幸せな1年半でしたが、本庁に戻ったら入れ替わりで夫が長野に単身赴任することになり、かつてないほど辛い状況に。本庁の長時間勤務とワンオペの子育てを両立させるのが本当に大変で……。
当時娘が小児てんかんを患っていて、眠る時に痙攣(けいれん)が起きやすかったので目が離せず、発作が起これば救急車で医大に連れて行くことになっていたので、とても仕事に全力を注げる状況ではありませんでした。
新しい役職に就いたばかりなのに、部下のほうが能力もあるし、迷惑をかけてばかりだなと。「もう無理かもしれない」と……初めて仕事を辞める選択が頭をよぎりました。
仕事と育児の両立に悩んでいましたが、やはり母親業を優先しなければならないことは分かっていました。職場に私の代わりはいるけれど、娘にとって母親は私だけですからね。
自分の中でその優先順位がクリアになってからは、仕事に関しては諦めの境地に達しまして(笑)。部下に仕事をどんどん任せて、自分は堂々と真っ先に帰れるようになったんです。
状況は何も変わってないのに、急に気持ちが楽になってあらゆる物事がうまく回るようになりました。結局、「敵は己にあり」ということ。「みんなに迷惑かけてる」と思い込み、自分で自分をいじめてパフォーマンスを下げていたんですよね。
かつての私と同じように、今の社会にも、仕事を完璧にこなせない自分を責めてしまうお母さんが多いと思います。でも、子育てが大変な時期はずっと続くわけじゃないし、私は職場に借りを作る時期があっていいと思うんですよ。
怪我や病気、親の介護など、いずれは誰しも借りを作る時期が訪れます。自分の借りは、他の人が困っているときにお返しする。貸し借りの感覚を忘れなければいいんです。一人で悩んで罪悪感を増幅させないで欲しいですね。
裁判を乗り越えられたのは、自分の人生を他の人に委ねたくなかったから
働いて自立することだけを考えて、キャリアに関しては何のビジョンも持っていなかった私も、40代になってからは自分なりの目標ができました。東大卒でもなく、平凡な人間でも、夫婦で子育てをしながら役所務めの人生をやり切れることを証明したかったんです。
課長から審議官になったことで、もう十分だと思っていたのですが、幸運にも上位職である局長に選ばれて。育児・介護休業法の改正に着手するなど、仕事のやりがいもあったし、このまま退官したら新たなひとつのロールモデルになれるような気がしていました。
そんな矢先に、郵便料金制度の不正利用の疑いで逮捕。本当に予想だにしていなかったし、自分の何が疑われたのかも分からなくて。メディアで犯人のように報道されて、有罪になれば職も失うという状況です。怒りや戸惑い、不安に押し潰されそうになりましたが、どんなに悩んでも起こってしまったことは変えられません。
裁判で勝つために、できることを最大限にやらなければならないと、冷静に気持ちを切り替えたんですよね。若い頃から長時間労働で身も心も鍛えられていたので、連日夜遅くまで取り調べが続いてもへっちゃらでした(笑)。
数ヵ月にわたる勾留と裁判を経てようやく無罪となったのですが、その間に自分を見失わなかったのは、人生を他の人に委ねたくなかったから。誰が何と言おうと、「やっていない」という真実は私の中にあるのだから、毅然としていようって思えたんです。
生きているといろんな災難が降ってくるし、理不尽な出来事に巻き込まれることもあるかもしれません。それこそ組織の人事は運やタイミングに左右されるものですから、昇進することに価値を置いていると「こんなはずじゃなかった」と絶望することも多いと思います。
そうやって自分ではどうにもできないことに思い悩むのではなく、置かれた状況の中で、自分が決められることに集中すると人生はすごく楽になるんですよね。仕事と育児の両立に悩んでいたときも、拘置所にいたときも、その思考で私は苦しい局面を切り抜けることができました。自分の好きなところを挙げるとしたら、基本的に前向きなところかもしれません。
2013年には、女性としては2人目となる厚生労働事務次官(国家公務員の最高位)に就任しました。2年後に退官するまで、公務員人生を最後までやり遂げることができて嬉しかったですね。
今もし、何か悩んでいる方にアドバイスするとしたら、ただ悩むのではなく、一つ一つできることをクリアにしてみて、ということ。そうやってマイペースでも長く歩き続けていくと、結構遠くまで行けちゃうんですよ。
Profile
村木厚子/元厚生労働事務次官・津田塾大学客員教授
1955年生まれ。高知県出身。高知大学卒業後、1978年に労働省(現・厚生労働省)入省。女性や障害者政策などを担当。雇用均等・児童家庭局長、内閣府政策統括官(共生社会政策担当)、厚生労働省社会・援護局長を歴任。
2009年、身に覚えのない郵便不正事件で逮捕。2010年、無罪が確定し、復職。2013年には女性としては史上2人目となる厚生労働事務次官に就任。
2015年に退官後は、伊藤忠商事、住友化学等の社外取締役を務めるとともに、2017年から津田塾大学客員教授に就任。著書に『公務員という仕事』などがある。
感想;
「私は負けない 『郵便不正事件』はこうして作られた」村木厚子著 江川紹子(聞き手・構成)”誰でも虚偽の自白調書にサインしてします。実際多くの事例がありました”
村木さんの経験から学ぶことが多いように思います。
それにしても、検察は罪のない村木さんを逮捕しました。
詩織さんを準強姦した山口敬之氏を逮捕直前に上からの指示で逮捕を止めかつ起訴さえしていません。
司法は誰のためにあるか?
逮捕を止めた人は長官に出世しました。
まさに権力者のためにあるのではないかと思ってしまいます。
村木厚子【運命に翻弄(ほんろう)されない人生を】
◆どんな理不尽に直面しても、人生の主導権は自分で握る
厚生労働省の官僚として、女性や障害者を支援する政策に携わってきた村木厚子さん。長時間の残業が当たり前の環境でも、仕事と子育てを両立させる女性のロールモデルになることを目指し、地道にキャリアを積み重ねていたところで、冤罪(えんざい)による逮捕……。
【元厚生労働事務次官】冤罪(えんざい)による逮捕でも、心が折れなかった理由
もともと大志を抱いて国家公務員になったわけではなく、役所で重職に就く未来なんて思い描いていなかった。それでも、逆境に直面する度に信念を磨き上げていく――。自身を「平凡」と評価する村木さんに、平凡じゃない人生を振り返ってもらった。
女の子でも、必死に働いて自分を養える大人になれることを証明したかった
37年半の国家公務員人生で、いちばん残業時間が長かったのが25歳の頃。当時は旧労働省から外務省に出向したばかりで、手取り足取り仕事を教えてもらえるような環境ではなく、四苦八苦しながら与えられた役割をがむしゃらにこなしていました。
海外とのやりとりも多く、時差の影響もあって仕事が終わるのは午前3時。通勤電車でつり革を握りながら“立ち寝”していたのはあの頃だけです(笑)。
本当に悲惨な日々だったので、どんどんメンタルがすり減ってきて、職場で誰かが後ろを通っただけで動悸がするんですよ。「怒られるかもしれない」という不安でいつもドキドキしていました。
それでも辞めたいと思わなかったのは、しっかり働いて自分で稼ぎ、自分を養える大人になることが、両親への恩返しになると思っていたから。私が中学2年生の頃に父親が失業してしまったこともあり、それこそ実家の家計は火の車だったと思います。
それでも、両親は私の意思を尊重して大学まで行かせてくれました。まだ大卒女性の雇用が少なかった時代ですから、無理してまで女の子の教育費を捻出する家庭は少なかったはず……。
「女の子だから」という理由で進学を諦めずに済んだのだから、社会に出てからも「女の子だから」に甘えるのではなく、意地でも働いて自立したいなと。若い頃は、その思いだけで役所の仕事にしがみついていて、他に大きな志を持っていたわけではありません(笑)。
26歳で結婚した相手は、役所の同期だったので仕事の大変さも分かり合えましたし、私の価値観に共感してくれていたので長女を出産した後も自然と共働きを選びました。当時の男性には珍しく、夫は激務をこなしながらも家事にも育児にも積極的な人で。
理由を聞いたら、「小さい苦労で得られる小さな幸せよりも、大きい苦労で大きな幸せを得たいんだ」と。その言葉は私にとって救いであり、その後のキャリアでも心の支えになっていたと思います。
仕事と育児の両立が辛いなら、職場に借りを作る時期があってもいい
[31歳]娘を連れての単身赴任先・島根県の松江で
すごく楽しい日々を過ごしていたのですが、私が31歳で島根県の労働基準局監督課長に就任したことで、お母さんっ子だった娘を連れて単身赴任することに。私も夫もいつかは管理職として地方へ行かなければならないことは分かっていたのですが、先に私の順番が来たわけです。
子連れで単身赴任する女性は珍しかったので、東京に残った夫は近所で「奥さんと子供に逃げられた」と噂されていたみたいです(笑)。
監督課長のポストに女性が就くのは約20年振りだったらしく、赴任先の島根でもびっくりされた記憶があります。それでも、周りの方々がすごく気にかけてくれましたし、週休二日制導入の推進キャンペーンなどのやりがいのある仕事に取り組むこともできました。
すごく幸せな1年半でしたが、本庁に戻ったら入れ替わりで夫が長野に単身赴任することになり、かつてないほど辛い状況に。本庁の長時間勤務とワンオペの子育てを両立させるのが本当に大変で……。
当時娘が小児てんかんを患っていて、眠る時に痙攣(けいれん)が起きやすかったので目が離せず、発作が起これば救急車で医大に連れて行くことになっていたので、とても仕事に全力を注げる状況ではありませんでした。
新しい役職に就いたばかりなのに、部下のほうが能力もあるし、迷惑をかけてばかりだなと。「もう無理かもしれない」と……初めて仕事を辞める選択が頭をよぎりました。
仕事と育児の両立に悩んでいましたが、やはり母親業を優先しなければならないことは分かっていました。職場に私の代わりはいるけれど、娘にとって母親は私だけですからね。
自分の中でその優先順位がクリアになってからは、仕事に関しては諦めの境地に達しまして(笑)。部下に仕事をどんどん任せて、自分は堂々と真っ先に帰れるようになったんです。
状況は何も変わってないのに、急に気持ちが楽になってあらゆる物事がうまく回るようになりました。結局、「敵は己にあり」ということ。「みんなに迷惑かけてる」と思い込み、自分で自分をいじめてパフォーマンスを下げていたんですよね。
かつての私と同じように、今の社会にも、仕事を完璧にこなせない自分を責めてしまうお母さんが多いと思います。でも、子育てが大変な時期はずっと続くわけじゃないし、私は職場に借りを作る時期があっていいと思うんですよ。
怪我や病気、親の介護など、いずれは誰しも借りを作る時期が訪れます。自分の借りは、他の人が困っているときにお返しする。貸し借りの感覚を忘れなければいいんです。一人で悩んで罪悪感を増幅させないで欲しいですね。
裁判を乗り越えられたのは、自分の人生を他の人に委ねたくなかったから
働いて自立することだけを考えて、キャリアに関しては何のビジョンも持っていなかった私も、40代になってからは自分なりの目標ができました。東大卒でもなく、平凡な人間でも、夫婦で子育てをしながら役所務めの人生をやり切れることを証明したかったんです。
課長から審議官になったことで、もう十分だと思っていたのですが、幸運にも上位職である局長に選ばれて。育児・介護休業法の改正に着手するなど、仕事のやりがいもあったし、このまま退官したら新たなひとつのロールモデルになれるような気がしていました。
そんな矢先に、郵便料金制度の不正利用の疑いで逮捕。本当に予想だにしていなかったし、自分の何が疑われたのかも分からなくて。メディアで犯人のように報道されて、有罪になれば職も失うという状況です。怒りや戸惑い、不安に押し潰されそうになりましたが、どんなに悩んでも起こってしまったことは変えられません。
裁判で勝つために、できることを最大限にやらなければならないと、冷静に気持ちを切り替えたんですよね。若い頃から長時間労働で身も心も鍛えられていたので、連日夜遅くまで取り調べが続いてもへっちゃらでした(笑)。
数ヵ月にわたる勾留と裁判を経てようやく無罪となったのですが、その間に自分を見失わなかったのは、人生を他の人に委ねたくなかったから。誰が何と言おうと、「やっていない」という真実は私の中にあるのだから、毅然としていようって思えたんです。
生きているといろんな災難が降ってくるし、理不尽な出来事に巻き込まれることもあるかもしれません。それこそ組織の人事は運やタイミングに左右されるものですから、昇進することに価値を置いていると「こんなはずじゃなかった」と絶望することも多いと思います。
そうやって自分ではどうにもできないことに思い悩むのではなく、置かれた状況の中で、自分が決められることに集中すると人生はすごく楽になるんですよね。仕事と育児の両立に悩んでいたときも、拘置所にいたときも、その思考で私は苦しい局面を切り抜けることができました。自分の好きなところを挙げるとしたら、基本的に前向きなところかもしれません。
2013年には、女性としては2人目となる厚生労働事務次官(国家公務員の最高位)に就任しました。2年後に退官するまで、公務員人生を最後までやり遂げることができて嬉しかったですね。
今もし、何か悩んでいる方にアドバイスするとしたら、ただ悩むのではなく、一つ一つできることをクリアにしてみて、ということ。そうやってマイペースでも長く歩き続けていくと、結構遠くまで行けちゃうんですよ。
Profile
村木厚子/元厚生労働事務次官・津田塾大学客員教授
1955年生まれ。高知県出身。高知大学卒業後、1978年に労働省(現・厚生労働省)入省。女性や障害者政策などを担当。雇用均等・児童家庭局長、内閣府政策統括官(共生社会政策担当)、厚生労働省社会・援護局長を歴任。
2009年、身に覚えのない郵便不正事件で逮捕。2010年、無罪が確定し、復職。2013年には女性としては史上2人目となる厚生労働事務次官に就任。
2015年に退官後は、伊藤忠商事、住友化学等の社外取締役を務めるとともに、2017年から津田塾大学客員教授に就任。著書に『公務員という仕事』などがある。
感想;
「私は負けない 『郵便不正事件』はこうして作られた」村木厚子著 江川紹子(聞き手・構成)”誰でも虚偽の自白調書にサインしてします。実際多くの事例がありました”
村木さんの経験から学ぶことが多いように思います。
それにしても、検察は罪のない村木さんを逮捕しました。
詩織さんを準強姦した山口敬之氏を逮捕直前に上からの指示で逮捕を止めかつ起訴さえしていません。
司法は誰のためにあるか?
逮捕を止めた人は長官に出世しました。
まさに権力者のためにあるのではないかと思ってしまいます。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます