・人間存在は精神分析の手にかかると頭から、「衝動に駆られた存在」として解釈されてしまうのである。
・心的装置の自動作用のかわりに、実存分析が見るのは精神的実存の自浄作用なのである。
・大切なことはただ、このような答えがいつも「実際に(行動において)」与えられるような答えであるということである。行為においてのみ、「生の問い」は真実の答えを与えられる。この返答はそのつどわれわれ自身の現存在の答えの行為としての責任においてこそ生じてくるものなのである。実に、現存在が「われわれの」ものでありうるのは、ただそれが責任を負うた現存在である限りにおいてのみである。
・われわれにとって現存在の責任とは、つねに「人についての」責任であり、更に、状況についての責任である。
・衝撃的なものばかりでなく精神的なものもやはり無意識的でありうること、あるいは精神的なものが意識されることも、意識されないこともありうる。
・本来的な人間存在とは、エスが人間を衝動的に駆りたてるのではなくて、自我がみずから決断する時にはじめて与えられるのです。
・精神分析は、人間の存在をエス化し、非自我化するものであると主張せねばなるまい。
・良心に対して開かれているものは、存在者でなく、むしろ、まだ存在していないもの、これから存在すべきものだ、ということである。
・良心とは本質的に直感的な一つの機能であることが明らかになった。実現すべきものを先取するために、良心はそれをまず直感しなければならないのである。
・良心と愛との両者はともに絶対的な存在にかかわるものだ、ということである。
・良心に導かれた生活とはつねに、絶対的に具体的な状況へと剥けられた絶対的に人格的個人的な生活である。換言すれば、それは、そのつどわれわれ自身のものである一回限りの唯一無二な現存在において、そのつど問題となって来るものへと向けられた生活である。
・愛にのおいては自我は決してエスによって駆りたてられるものではない。愛においては自我は汝のために「決断する」のである。
・人間の意志の自由とは衝動「から」責任「に向かって」の、つまり良心の所有「に向かって」の自由なのである。
・「汝の意志の主たれ・・・」
・良心それ自身が声-超越の声-「である」のだから、その理由からもすでに良心が「声をもつ」ことはできないだろう。人間はこの声をただ聴き取るだけのものであって、この声は人間から発せられるものではないのである。むしろ逆に、良心の超越的性格がはじめて、われわれに人間というものを理解させてくれるのであり、とりわけ人間のもつ人格性一般をいっそう深い意味において理解させてくれるのである。すなわち、「人格」という表現は、良心の超越的性格の光に照らされるとき、一つの新しい意味を与えられるのであろう。というのは、われわれは今や、人間の人格の有する良心を通じて人間の外にある一つの審判者の声が響き渡るのだとういうことができるのである。
・人間の自由な存在を解明するには実存性で十分間にあうが、人間の責任ある存在を解明するには、人間が良心を所有するということの超越性にまでだかのぼって考えなければならないのです。
・良心は超越の声であり、その限りにおいてそれ自体超越的なのである。非宗教的な人間とは、この良心の超越ということを認めることのできない人のことにほかならない。
・衝動から意志(自我)を導くことができないのと同じように、意欲から当為(超自我)を導き出すこともできないのである。「なぜならば」-ここでわれわれはゲーテのあの美しい言葉を憶い出そう-
「われわれはまさになすべきであったのだから、あらゆる意欲はつまるところただ一つの意欲にすぎない。」
・衝動的無意識としてのエスに、精神的無意識が、新たに見出されたものとしてつけ加えられた。
・実存分析はこの精神的無意識を発見したことにより、精神分析に付着していた危険を逃れた。
・自我が「無意識であるもの」であることがわかり、無意識が「精神的でもあるもの」であることがわかった上に、さらに今度はこの精神的無意識が「超越的でもあるもの」として開示されたわけである。
・「超越的無意識」の概念のなかでともに与えられ、それとともに識られることによって-みずからを露わにするところの人間の無意識的な信仰とは、神がわれわれによって無意識のうちにつねにすでに志向されているということ、あるいはわれわれが神に対して無意識にであれ志向的な関係をつねに有しているということを意味しているのであろう。そしてこのような意識されざる神(無意識の神)となづけるのである。
・フロイト
「宗教はあまねく人間たるものの有している脅迫神経症である。子供の強迫神経症と同様にそれはエディプス・コンプレックスから、つまり父親との関係から生じるものである」
・神は「復讐の神」である、と。なぜならば、神経症的な実存にあっては、この実存についての超越の欠如がこの実存自体に対して復讐するものであるから。
・真正の宗教性に達するためには、人間はエスによって駆りたてられてもいけないし、医師によってせきたてられてもいけないのである。
・宗教が心の健康や心の平衡のような事柄に二次的にいかに量おうな影響を及ぼすものであっても、宗教の目的は心の治療にあるのではなく、心の浄福にあるのである。
・劫罪(ごうざい);永遠に続く罪
・「集団的罪責」
1) 集団引責。ある特定の集合体の構成員が、その集合体そのものによって犯された事件の結果に対して、全体として、つまり集団的に、責を負わされえるという意味において理解することができます。
2) ある集合体への加入に関する罪責
3) 集団的責任;自分以外のすべての人に対してなんらかの形で責任を共有していると意味での集団的責任を考えることができます。
・片方の手が、腫瘍にかかったのは自分でなくてもう一方の手だ、などと自惚れることはできません。病気にかかっているのは常に生体の全体なのだからです。
・ヤスパースは人間の存在を「決断する存在」、つまりただ単にあるというだけでなく、むしろつねにみずからが何であるかを決断しているところの存在であるとしていますが、人間の存在を本質的に衝動に駆りたてられた存在とみなす精神分析の見解に、このヤスパースによって示された見解を対置しようと思います。
・自由と責任との関係は、自由が単に「・・・からの自由」であるだけでなく、同時に「・・・に向かっての自由」であって、そして人間が「それに向かって」自由であるという場合のまさに「それ」が責任を引き受けることの内容をなすという事実に明らかに示されます。
・このような人間の存在様式、つまりその最終的な根拠を責任ある存在という現象に有しているような存在様式は、実存とよばれます。
・自由
1) 完全なもの
2) 自由は分割不可能なもの
3) アプリオリ(先駆的)なもの
・人間も、日常性の「外観」に眼がくらんで、自分が「誰の前で」みずからの現存在の責任を(俳優がみずからの役割を引き受けているように)「引き受けて」いるのかを知りえないのです。
・人格についての十題
1) ひとりの個人、分割不可能
2) 分割不可能でありかつ綜合不可能なもの
3) 個々の人格はすべて絶対的に新たなもの
4) 精神的なもの
5) 実存的なもの
6) 自我性をもったもの
7) 統一体であり全体である
8) 力動的なもの;人格が心身から距離を保ち、心身からみずから引き離しうる
9) 動物は人格ではありません
10) 人格は神の似姿としてのみ理解しうるものです。人間はみずからをただ超越者からのみ理解することができます。
・精神分析と個人心理学とは互いに相い対立しています。前者が人間の現存在のなかに主として衝動性を見ていたのに対して、個人心理学はなによりも社会的連帯性を見ている、ということがいえるのだからです。
・二千年前の昔のタルムードの言葉
「たった一人の心を破壊した人でも、全世界を破壊した人とひとしなみに看倣さるべきであろう。またたった一人の心を救った人でも、全世界を救った人にひとしいとみなさるべきであろう」
感想;
本の帯の言葉
人間が人間であるということは?
無意識の宗教性を鍵に人間存在の本質に眼を向け、実存分析による精神療法を豊かにする。
講演集「ロゴスと実存」を併収。
無意識にも精神性が存在する。
”良心”とは。
”超越”とは。
人は何のために生きているのか。
そして自分は何のために生きているのか。
というより、どう生きたいかを考え行動することなのでしょう。
そこには”良心””超越”がキーのように思いました。
http://inorinohinshitu.sakura.ne.jp/logo.html
人が創る品質 -ロゴセラピー(ヴィクトール・フランクル「夜と霧」)-
・心的装置の自動作用のかわりに、実存分析が見るのは精神的実存の自浄作用なのである。
・大切なことはただ、このような答えがいつも「実際に(行動において)」与えられるような答えであるということである。行為においてのみ、「生の問い」は真実の答えを与えられる。この返答はそのつどわれわれ自身の現存在の答えの行為としての責任においてこそ生じてくるものなのである。実に、現存在が「われわれの」ものでありうるのは、ただそれが責任を負うた現存在である限りにおいてのみである。
・われわれにとって現存在の責任とは、つねに「人についての」責任であり、更に、状況についての責任である。
・衝撃的なものばかりでなく精神的なものもやはり無意識的でありうること、あるいは精神的なものが意識されることも、意識されないこともありうる。
・本来的な人間存在とは、エスが人間を衝動的に駆りたてるのではなくて、自我がみずから決断する時にはじめて与えられるのです。
・精神分析は、人間の存在をエス化し、非自我化するものであると主張せねばなるまい。
・良心に対して開かれているものは、存在者でなく、むしろ、まだ存在していないもの、これから存在すべきものだ、ということである。
・良心とは本質的に直感的な一つの機能であることが明らかになった。実現すべきものを先取するために、良心はそれをまず直感しなければならないのである。
・良心と愛との両者はともに絶対的な存在にかかわるものだ、ということである。
・良心に導かれた生活とはつねに、絶対的に具体的な状況へと剥けられた絶対的に人格的個人的な生活である。換言すれば、それは、そのつどわれわれ自身のものである一回限りの唯一無二な現存在において、そのつど問題となって来るものへと向けられた生活である。
・愛にのおいては自我は決してエスによって駆りたてられるものではない。愛においては自我は汝のために「決断する」のである。
・人間の意志の自由とは衝動「から」責任「に向かって」の、つまり良心の所有「に向かって」の自由なのである。
・「汝の意志の主たれ・・・」
・良心それ自身が声-超越の声-「である」のだから、その理由からもすでに良心が「声をもつ」ことはできないだろう。人間はこの声をただ聴き取るだけのものであって、この声は人間から発せられるものではないのである。むしろ逆に、良心の超越的性格がはじめて、われわれに人間というものを理解させてくれるのであり、とりわけ人間のもつ人格性一般をいっそう深い意味において理解させてくれるのである。すなわち、「人格」という表現は、良心の超越的性格の光に照らされるとき、一つの新しい意味を与えられるのであろう。というのは、われわれは今や、人間の人格の有する良心を通じて人間の外にある一つの審判者の声が響き渡るのだとういうことができるのである。
・人間の自由な存在を解明するには実存性で十分間にあうが、人間の責任ある存在を解明するには、人間が良心を所有するということの超越性にまでだかのぼって考えなければならないのです。
・良心は超越の声であり、その限りにおいてそれ自体超越的なのである。非宗教的な人間とは、この良心の超越ということを認めることのできない人のことにほかならない。
・衝動から意志(自我)を導くことができないのと同じように、意欲から当為(超自我)を導き出すこともできないのである。「なぜならば」-ここでわれわれはゲーテのあの美しい言葉を憶い出そう-
「われわれはまさになすべきであったのだから、あらゆる意欲はつまるところただ一つの意欲にすぎない。」
・衝動的無意識としてのエスに、精神的無意識が、新たに見出されたものとしてつけ加えられた。
・実存分析はこの精神的無意識を発見したことにより、精神分析に付着していた危険を逃れた。
・自我が「無意識であるもの」であることがわかり、無意識が「精神的でもあるもの」であることがわかった上に、さらに今度はこの精神的無意識が「超越的でもあるもの」として開示されたわけである。
・「超越的無意識」の概念のなかでともに与えられ、それとともに識られることによって-みずからを露わにするところの人間の無意識的な信仰とは、神がわれわれによって無意識のうちにつねにすでに志向されているということ、あるいはわれわれが神に対して無意識にであれ志向的な関係をつねに有しているということを意味しているのであろう。そしてこのような意識されざる神(無意識の神)となづけるのである。
・フロイト
「宗教はあまねく人間たるものの有している脅迫神経症である。子供の強迫神経症と同様にそれはエディプス・コンプレックスから、つまり父親との関係から生じるものである」
・神は「復讐の神」である、と。なぜならば、神経症的な実存にあっては、この実存についての超越の欠如がこの実存自体に対して復讐するものであるから。
・真正の宗教性に達するためには、人間はエスによって駆りたてられてもいけないし、医師によってせきたてられてもいけないのである。
・宗教が心の健康や心の平衡のような事柄に二次的にいかに量おうな影響を及ぼすものであっても、宗教の目的は心の治療にあるのではなく、心の浄福にあるのである。
・劫罪(ごうざい);永遠に続く罪
・「集団的罪責」
1) 集団引責。ある特定の集合体の構成員が、その集合体そのものによって犯された事件の結果に対して、全体として、つまり集団的に、責を負わされえるという意味において理解することができます。
2) ある集合体への加入に関する罪責
3) 集団的責任;自分以外のすべての人に対してなんらかの形で責任を共有していると意味での集団的責任を考えることができます。
・片方の手が、腫瘍にかかったのは自分でなくてもう一方の手だ、などと自惚れることはできません。病気にかかっているのは常に生体の全体なのだからです。
・ヤスパースは人間の存在を「決断する存在」、つまりただ単にあるというだけでなく、むしろつねにみずからが何であるかを決断しているところの存在であるとしていますが、人間の存在を本質的に衝動に駆りたてられた存在とみなす精神分析の見解に、このヤスパースによって示された見解を対置しようと思います。
・自由と責任との関係は、自由が単に「・・・からの自由」であるだけでなく、同時に「・・・に向かっての自由」であって、そして人間が「それに向かって」自由であるという場合のまさに「それ」が責任を引き受けることの内容をなすという事実に明らかに示されます。
・このような人間の存在様式、つまりその最終的な根拠を責任ある存在という現象に有しているような存在様式は、実存とよばれます。
・自由
1) 完全なもの
2) 自由は分割不可能なもの
3) アプリオリ(先駆的)なもの
・人間も、日常性の「外観」に眼がくらんで、自分が「誰の前で」みずからの現存在の責任を(俳優がみずからの役割を引き受けているように)「引き受けて」いるのかを知りえないのです。
・人格についての十題
1) ひとりの個人、分割不可能
2) 分割不可能でありかつ綜合不可能なもの
3) 個々の人格はすべて絶対的に新たなもの
4) 精神的なもの
5) 実存的なもの
6) 自我性をもったもの
7) 統一体であり全体である
8) 力動的なもの;人格が心身から距離を保ち、心身からみずから引き離しうる
9) 動物は人格ではありません
10) 人格は神の似姿としてのみ理解しうるものです。人間はみずからをただ超越者からのみ理解することができます。
・精神分析と個人心理学とは互いに相い対立しています。前者が人間の現存在のなかに主として衝動性を見ていたのに対して、個人心理学はなによりも社会的連帯性を見ている、ということがいえるのだからです。
・二千年前の昔のタルムードの言葉
「たった一人の心を破壊した人でも、全世界を破壊した人とひとしなみに看倣さるべきであろう。またたった一人の心を救った人でも、全世界を救った人にひとしいとみなさるべきであろう」
感想;
本の帯の言葉
人間が人間であるということは?
無意識の宗教性を鍵に人間存在の本質に眼を向け、実存分析による精神療法を豊かにする。
講演集「ロゴスと実存」を併収。
無意識にも精神性が存在する。
”良心”とは。
”超越”とは。
人は何のために生きているのか。
そして自分は何のために生きているのか。
というより、どう生きたいかを考え行動することなのでしょう。
そこには”良心””超越”がキーのように思いました。
http://inorinohinshitu.sakura.ne.jp/logo.html
人が創る品質 -ロゴセラピー(ヴィクトール・フランクル「夜と霧」)-
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