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阿川佐和子さん「サワコの朝 張本勲さん」  ”練習は苦にならなかった”

2017-10-21 08:20:08 | 生き方/考え方
「あっ、喝のおじさんだ」と新幹線でおばさんたちから言われた。
野球選手だったことを知られていない。
来週ドラフト会議。「楽しみです。清宮選手、第一希望でなくても頑張って欲しい」。
「サンデーモーニング」の喝で知られている。
18歳東映フライヤーズ入団。新人王。巨人に移籍し二度のリーグ優勝。ロッテに移り3,000本安打。達成したのはまだ一人。現役時代は苦しいことばかり。生まれ変わっても二度と野球選手になりたくない。

「サンデーモーニング」は始まって30年。張本さんが出るようになって20年。喝は大沢さんが始めたかと。私が入った時には既にあった。自由な発言をさせてもらっている。たくさん苦情が来る。気にしない。
古巣、巨人に、「スカウトが悪い。第一位が活躍していない」。巨人時代は良い思いをした。お給料もたくさんもらった。

1曲目「柔」。ひばり姐さん。東映だったので、ひばり姐さんと呼ばせてもらっていた。
最初の出だし「勝つと思うね、思えば負ける」が心に響き気持ちが楽になった。それまで勝とう勝とうと思っていた。ひばり姐さんが銀座で目の前で歌ってくれた。

小さい時から野球に憧れていた。広島のバラックにいた。両親は韓国から日本に来ていた。5歳の時に被ばくした。山にブロックされて助かった。姉は勤労奉仕で山の上にいて亡くなった。

焚火に右手を突っ込んで大火傷。母が冷たい水に三日三晩浸けていた。右手の指が内側に曲がっていた。右手は誰にも見せなかった。川上監督には見せた。「おまえ、これで頑張っていたのか」と言ってくれた。少年の時、プロの宿舎に見に行った。そこには銀シャリが見えた。プロ野球選手になったら食べられるんだと思った。中学校の時から猛練習。美味しいものを食べたい気持ちと、母親を楽にさせたかった。母親が寝ているのを見たことがなかった。猛練習はそれを思っていたので辛くなかった。父親は早くに亡くなって母が育ててくれた。

18歳で東映フライヤーズに入り、15年いた。試合終わってから素振りを300回やった。2時間ぐらいかかった。最近は皆はやらない。野球を楽しいと思ったことはない。振り返ったら後で悔することがたくさんある。夜遊びをせずにもっと練習しておけばよかった。お袋にも小遣いを渡すことができるようになったのは二十歳くらい。王選手とは同期だった。王選手は今でもビールをついで回る。私は座っているだけ。

巨人に行く予定ではなかった。日ハムの監督と相性が悪かったので出たいと直訴した。阪神の吉田監督に声をかけてもらった。もう阪神に決まって、宝塚に土地も買った。そうしたら、巨人の後援会の有力者の所に行くように言われ、「巨人はどうだ?」と言われ、「行けたら行きたいです」と言ったら「決まった」と言われた。そうしたら隣の部屋から長嶋監督が出てきた。
吉田監督に謝りに行ったら、「はりやん良かったね」と言われた。普通は「契約したのに」と言われるのに、ありがたかった。

長嶋監督に叩かれた。スクイズが出ていた。まさかスクイズのサインが出るとは思わなかった。ヒットを打った。長嶋監督が「スクイズで1点取り、後を王選手に回したいと思った。お前も指導者になったらわかる」と言われ、純粋な人だと思った。ついて行こうと思った。

監督のオファーになるのは3回あった。お袋にすごく反対された。自分にできることが相手ができない。すごく責めるのではないかと思った。

2曲目は霧島昇さんの「誰か故郷を想わざる」。
姉との絆を想う曲。銭湯に行って、10回に1回はお好み焼きをごちそうしてくれた。3歳上の姉だった。結婚するときは泣いた。生き残っているのが姉さんと自分だけ。
プロ野球選手になって嬉しかったことはなかった。娘が生まれた時は嬉しかったとかあるけど。

感想
活躍する選手はやはり練習を一杯されているのでしょう。
張本選手もその一人でした。
どれだけ、練習に時間をかけることができるか。これは全てに通じるように思います。
その人が得意とすることは、ものすごく多くの時間を費やしているのでしょう。
「自分はできない。自分に才能がない」と言っているのは、「自分は練習していない。それに時間をかけていない」と言っているようなものなのでしょう。

諸葛孔明が子孫に残した言葉「学ぶことによって自分の才能を開花させる」







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