英の放電日記

将棋、スポーツ、テレビ等、日々感じること。発信というより放電に近い戯言。

『八重の桜』 第16話 「遠ざかる背中」

2013-04-21 21:39:41 | ドラマ・映画
慶喜の出陣中止が京を揺るがしていた。(ナレーション・草笛光子)

田中土佐「ぬしゃが行っては、事が荒立つ!」
佐川官兵衛「荒立てに参るのです」

神保修理「お待ちを! 今、覚馬さんたちが、出陣を促す殿の書状を持って城に向かっています」
佐川官兵衛「それではまた、あの食わせ者に丸め込まれる」

松平容保「朝廷からのお指図を待たねばならぬ。…今は、静まれ」
佐川官兵衛「ははあぁぁっ…」
 泣く泣く引き下がる官兵衛。

結局、覚馬らは門前払い。
しかも、勝に
「幕府はもうダメだ。世界に目を向けてみろ。内乱なんかしていたら西洋列国に食いつぶされるぞ。徳川一家の繁栄と日本国の存亡。どっちが重いかよく考えてみろ」
一括され、返す言葉もなし。

会津は頑固者。義(幕府や朝廷への忠)や面子を重んじ、時代遅れの考え(古い体制)に囚われてしまっていた。

勝海舟・松平春嶽・一橋慶喜会談
 長州との和議を勝に依頼。
 勝と春嶽は、それを条件に、共和制(諸侯会議)を約束させる。

 しかし、勝と春嶽の結託をも裏をかく慶喜の二枚舌。
 (14代)将軍の喪に服すという理由で「兵を引き上げる」と言う勅命を引き出させた。

 この国家の危機に内乱どころではない。幕府はもはや「死に体」、これからは共和制でないとやっていけない。

 慶喜は、長州と戦いたくないという点では勝と春嶽と一致していたが、長州に負けるのは幕府の面目が潰れてしまうという理由だった。
 保身と徳川家のことしか考えない慶喜が、「徳川家は一大名しか過ぎない」と言う二人と袂を分かつのは必然のことだった。

容保・慶喜会談
容保「信義に背いては、幕府から人心が離れまする」
慶喜「構わぬ!太平の世に胡坐をかいた幕府は、一度壊れた方が良い」
容保「何を仰せです」
幕府(徳川家)のため、必死に尽くしてきた会津(容保)は、怒りに震える。
 官兵衛をこの場に連れてくればよかったのにねぇ。官兵衛の怒りの舞踏ぐらいでは、屁とも思わぬ慶喜だった。

一方、会津パート今週はダメダメだった。

会津の大火は、単に今週に引き伸ばしただけの視聴率稼ぎだった。
うらの娘・みねを探して右往左往するさい庄之助が負傷し、そのことで八重の尚之助への思いを再確認させるエピソードだったが、無理やり感がある。(実際、みねは家の中にいた)

 その中で、うらがみねに厳しく当たった真相が八重の母により語られるが、これも取って付けたようなエピソード
 番組サイトの前話のあらすじのページで
「そんな淡い期待を胸に抱くうらですが、待てど暮らせどいい知らせは届かず…。次第に一人娘のみねに厳しく接するようになっていきます。イライラしていくうら、泣いてばかりいるみね」
 とあるのに、「山本家を継ぐことになる娘に敢えて武家の娘として厳しく、自分に厳しくしていた」と語るのは、反則に近い。
 せめて、うらが「武士の娘として厳しくしつけるつもりだったが、どこかでみねに当たっていたのかもしれない」と吐露した方が説得力がある。

「強くとも、鉄砲はただの道具。武士の魂がこもる剣や薙刀とは違います」
中野竹子(黒木メイサ)登場。文武に秀でた女性で八重のライバルとなるのか?
「あの人には、負けたくねえ」(八重)


京では二葉(市川実日子)が出てくると、なぜか和む。
「赤子は命の匂いがする」(覚馬) いい言葉だなあ。


孝明天皇崩御で次週へ

【ストーリー】番組サイトより
 会津の大火のさなか、行方不明になっていたみね(豊嶋花)を三郎(工藤阿須加)が見つけ出した。そして、みねを捜しに火元近くをさまよっていたうら(長谷川京子)を、尚之助(長谷川博己)が救い出す。みねの無事を確認し、涙するうらの姿を見た八重(綾瀬はるか)は、うらがどうしてみねを厳しく叱るようになったのか本当の理由を知る。
 そのころ都では、慶喜(小泉孝太郎)が将軍職を継ぐことが決まり、4年に及ぶ容保(綾野剛)の京都守護職が解かれようとしていた。ようやく願いがかない安堵(あんど)する容保。ところがその直後、喜びを打ち砕く悲報がもたらされる。
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東京紀行 その6「nanapon」

2013-04-21 14:02:36 | 日記
 店に到着。nanaponさんのイメージにピッタリの雰囲気だ。
 ssayさんに続いて中に入る。
 さっと入口に顔を向けた男が約1名。
≪ああ、この人か≫
 初めて見る顔のはずだが、そういう気がしない。≪ああ、イメージ通りだ≫という感覚さえない。
 久しぶりに会った旧友という感じ。この「久しぶり」という感覚も「5年、10年」ではなく「1年ぶり」ぐらいで、「やあやあ」と声を掛けたくなる気分だ。

ここで、待ち焦がれた対面の瞬間を述懐する前に、nanaponさんとの関わりや私のネット歴を少し。
~~~~~~【解説】~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 nanaponさんのブログ『即席の足跡』に初めてコメントしたのは、2007年8月11日なので5年8カ月前。
 えっ、何の記事か気になります?
 これ、実際の会話でも話題に上がったので、ここは勿体ぶることにします(後述します)。

 私がこのブログを始めたのが2008年10月なので、1年以上もnanaponさんのブログを盛り上げた(荒らした)らしい。
 で、これには、補足説明が必要で、私がブログを始める前に、将棋SNSに参加させていただいていて(現在は放置状態)、それを始めたのが2007年4月です。今読み返すと、今より真面目に将棋に向き合っています。
 実は、この将棋SNSでもnanaponさんと交流がありました。ざっと見ただけなので、どれが最初の接近遭遇か正確には分かりませんが、2007年11月18日の「W杯バレーボール②」の記事に11月21日にコメントをいただいています。
 nanaponさんも2007年12月1日「采配」の記事で私のSNSの記事「W杯バレーボール③柳本采配 」(11月20日記事)を紹介くださっています。(しかも全文)
 そんなわけで、一般的?にはnanaponさんのブログに長文のコメントを押し付けていた私に、「鬱陶しいから自分のブログを開いて、そこで吐き出せよ」と追っ払ったというイメージがありますが、私の溜まった電気をSNSで放電していましたし、nanaponさんとも『即席の足跡』以外でもやり取りがあったわけです。nanaponさんも本当はこういう交流があったことは覚えていているのですが、一般的定説に合わせてくれて、「鬱陶しいからブログを勧めたんだよ」と言っているのです(えっ、覚えていない?)。
 そういったやり取りをしているうちに、「将棋SNSでの私の記事があまりに素晴らしいのでSNSに埋もれさせておくのは勿体ない」と思い、ブログ開設を勧めたわけなのです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~【解説・終】~~~~~~~


「お待たせしました」
 聞きようによっては≪何様?≫だが、長い間待たせて申し訳ないという気持ちから発した言葉で、決してレジャー施設の子供向け戦隊ヒーローショーで、引っ張りに引っ張って登場するヒーロー気分ではない。
「よく来たね。やっと逢えたよ」
いや、記念すべきnanaponさんの第一声だが、よく覚えていない。私の創作だ。やはり高揚していたのだろう。(どうせnanaponさんも覚えていないだろう)

 nanaponさん、ssayさんとお互いに一瞥し、ネットでのイメージと照らし合わせる。
 ネットと言っても、私はツイッターもFacebookもしないのでブログだけだが、ブログは自分の考えを表明するのがその目的の一つ(他にはデータの整理や告知)なので、それが100%の本音でなくても、ブログを読めばその人の性格や考え方をある程度は分かる。
 しかも、公衆に発するというブレーキはかかるが、実生活と違い、面と向かって言うのではないので、普段表面に出さない感情や主張が表れることもある。これにより、ブログから二面性を感じることも多い。(リアルでつき合うより、性格をつかめる)
 nanaponさんにも二面性を感じていた。
 ズバッと主張する豪胆さや疑問に思うことに対しては臆せず突き詰め、場合によっては当事者や関係者(役所や施設やメーカーの担当者)に突っ込んだ質問も厭わない猛進性も感じる。しかし、その反面、猛進した行為に対して自分で突っ込みを入れていたり、結論を出すに至るまでもあれこれ可能性を考える緻密さ慎重さを感じる。この記事の前の記事「その5」のコメントで話題になったnanaponシステム(コメントに必ずURLを付ける)は大胆なその場に即したハンドルネームを付ける反面、それが誰が書いたか分かるようにする細やかさと、言ったことに責任を持つという男らしさを感じる。
 一言でいうと、豪胆さと繊細さの二面性を感じていた。それが、この対面の瞬間、ひとつに融合した。つまり「やっぱり、nanaponさんだ」であった。 
コメント (13)
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