昨日から続く「発掘した写真」シリーズ。
江差に住んでいた頃、このブログでも紹介していたと思っていながら、実は紹介していなかったスポットです。


鷗島付近に停泊している一隻の船。
勇壮な雰囲気が感じられます。

「開陽丸」というこの船は、1866年10月にオランダで建造され、翌1867年3月に日本に引き渡され、徳川幕府の旗艦です。
戊辰戦争当時、1868年8月、榎本武揚率いる艦隊8隻が東北へ向けて江戸を出発した(この場所)際、旗艦となったのがこの船で、10月20日、榎本軍はこの船で蝦夷地へ上陸(この場所)。10月25日に箱館を攻撃して五稜郭を占領すると、箱館港に入港して祝砲を撃ったとされています。
11月になり、旧幕府軍が江差へ進軍を開始すると、援護のため、開陽丸も箱館を出港して江差沖へ向かいますが、15日の夜、暴風に見舞われて座礁。救助に向かった船も座礁・沈没するという最悪の状況の中、乗組員は全員脱出して江差に上陸するも、榎本や土方歳三が見守る中、完全に沈没してしまいました。
沈没後、明治初期には多くの武器、弾薬、船具などが引き揚げられるも、いつの間にか発掘調査は打ち切りになってしまいましたが、1975年から文化庁の指導の下で実施された海中発掘調査では32,905点の遺物が引き揚げられました。
そして沈没から122年が経った1990年4月に、現在地において実物大に復元され、江差を代表する観光スポットとなっています。


時代劇でおなじみ、徳川幕府の葵の御紋です。



船上にて。
撮影したのが七年前(昨日の繁次郎像とは違う日)なので、正直あまりよく覚えていませんが、写真で雰囲気を感じていただければと思います。
艦内では、引き揚げられた遺物をはじめとする資料や、沈没の様子を再現したジオラマなどが展示されています。
(開陽丸トップページ)
江差に住んでいた頃、このブログでも紹介していたと思っていながら、実は紹介していなかったスポットです。


鷗島付近に停泊している一隻の船。
勇壮な雰囲気が感じられます。

「開陽丸」というこの船は、1866年10月にオランダで建造され、翌1867年3月に日本に引き渡され、徳川幕府の旗艦です。
戊辰戦争当時、1868年8月、榎本武揚率いる艦隊8隻が東北へ向けて江戸を出発した(この場所)際、旗艦となったのがこの船で、10月20日、榎本軍はこの船で蝦夷地へ上陸(この場所)。10月25日に箱館を攻撃して五稜郭を占領すると、箱館港に入港して祝砲を撃ったとされています。
11月になり、旧幕府軍が江差へ進軍を開始すると、援護のため、開陽丸も箱館を出港して江差沖へ向かいますが、15日の夜、暴風に見舞われて座礁。救助に向かった船も座礁・沈没するという最悪の状況の中、乗組員は全員脱出して江差に上陸するも、榎本や土方歳三が見守る中、完全に沈没してしまいました。
沈没後、明治初期には多くの武器、弾薬、船具などが引き揚げられるも、いつの間にか発掘調査は打ち切りになってしまいましたが、1975年から文化庁の指導の下で実施された海中発掘調査では32,905点の遺物が引き揚げられました。
そして沈没から122年が経った1990年4月に、現在地において実物大に復元され、江差を代表する観光スポットとなっています。


時代劇でおなじみ、徳川幕府の葵の御紋です。



船上にて。
撮影したのが七年前(昨日の繁次郎像とは違う日)なので、正直あまりよく覚えていませんが、写真で雰囲気を感じていただければと思います。
艦内では、引き揚げられた遺物をはじめとする資料や、沈没の様子を再現したジオラマなどが展示されています。
(開陽丸トップページ)