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枇杷の葉なし

枇杷の生育や、葉・花芽・種のことを日々の生活のなかで書いていく。

元の木阿弥

2013年01月13日 | Weblog

 嘘ばっかり。初めから沖縄に、オスプレイを配置する目論見であったのだ。民主党であろうが、なかろうが関係なく、上辺だけの政権で、結局アメリカのいいなりである。何にしても、弱い者が我慢を強いられ、強い者らが影で糸を引くのだ。

 尤も、再登場の首相に至っては、失敗を繰り返さないのではなく、更に酷くなっていく感じがする。見せ掛けのことは、早番に綻びる。継ぎ接ぎだらけの服で、何ができるか。かといって、新調するには予算も赤字という有様だ。その付けが庶民とは。

 幾ら元気で働いていても、年齢がくれば辞めざるを得ない。年金だって、安心して暮せる程には遠い金額。電気代も、ガスも、ガソリン、灯油にしても、安くなるあてはなく上昇するばかり。できる限り、体に着て、その体も鍛えてはいるがおっつかない。

 この状態で、病気になったら・・・考える毎に恐ろしい。自然治癒能力を信じて、自分の体を管理しているとはいえ、年齢と共に無理ができなくなっている。最近は、勤務より休みの方が多い。そうしないと疲労困憊で動けない。給料は減るばかり。

 何かが違っている。何処かしらが狂っているのだ。人間は神ではない。だからこそ、霊長類の最高に位置することができるのだ。何かしら愚かしい行動に、絶句するばかり。ここまで魂がなくなってしまったのか。人が人であるためには、相手を愛することなのに。

 それには、自分を知っており、短所も長所も認めること。受容することは、容易いことではない。相手をそのままに受け入れれば、自分も同じようにしてもらえる。いえいえ、行うのは心のままでも見返りは求めるものではない。辛抱というか耐えるのみ。

 私は、クリスチャンではないが、人として生きていこうとすれば、此処に来て必ず想う。苦しみも哀しみも、耐えてこそ。然るに心が晴れないのは、何処かでその想いを感じてほしいから。だがそれは自己満足でしかない。邪まな心ばかりになる。

 昨日、剪定した枝が、部屋のあちこちで匂っている。玄関、寝室、居間、台所、洗面所。部屋中に飾った。

コメント
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