閻魔さまも今日だけは休む。ということで、奉公人や嫁にとっては、実家に行ける日であった。江戸時代というか、昭和の時代にも、1年365日。休むことは考えてもみず、田畑に出ていたお百姓さん。自然からの声を聴き、農作業を営んでいた。
日本にある各地のお祭りや、神々への供物、御仏への信心は、そういった者にとって、より代でもあり、生き方にもなっていたのだろう。祖母も年中、田畑に居ており、何が愉しかったのか、と不思議でならなかった。今も、疑問が生じる。
空を見て、雨が降る。というのも、子ども心にはわからない。指を舐めて立てれば、湿った空気を感じる。と教えられたが、首を傾げるばかりであった。雨の降る前には、鳶が低空飛行するのは、餌の虫が、低い所にいるからだ。
蝙蝠が、夕方の空を飛んで来るのも、それらしい理由があった。不気味であるし、耳に厭な音波には歯軋りがした。自然の成り立ちには、自然のことを学ばねばわからない。どんな小さな事も、地球にとっては掛替えのない物ばかりだ。
神に与えられたことも、人間がしてはならないことを、きちんと守れるからだった。してみると現状では、正しいことがわからない。従って、悪しき物も定かではない。価値観の違いはあって当然だが、一線を規する理性はどこだろう。
原発の事故が、今尚、人々の心の中にあり、放射線への恐怖に苛まれている事実があるのに、新しい基準なら造ろう。とは、開いた口が塞がらぬ。言い逃れだとしか思えない。どういった基準であろうとも、プルトニュームは溜まる一方だ。
旧暦の行事に遭わせてみて、心の平静を保てたらいい。何を急ぐのか?何を決めるのか?自民党になった、といっても、元々は、自民党が無茶苦茶なことをしてきたからだ。原発推進も借金も、アメリカと結託してやってきたこと。
名まえは忘れました。繁殖力が旺盛なので植えた。駐車場の方へ伸ばしています。