枇杷の葉なし

枇杷の生育や、葉・花芽・種のことを日々の生活のなかで書いていく。

心中・・・

2013年01月26日 | Weblog

 一夜明けた陽射しを、大石内蔵助は如何なる想いで見たことだろう。主君のあだ討ちは出来はしたが、赤穂・浅野家の再興が残っている。自分一人の処罰なら、即刻打ち首も覚悟の上。46人の慈悲を願わねばならず、晴れ上がった空とは異なり、思案していたことか。

 元禄の時代。忠臣を貫くには、様々な障害があった。況してや、人の心の行方など、命令して動かせるものではない。生きることは、食べること。浪人になれば凌げない。1人・2人と次第に離れていく中で、その思い足るや意かばかりであったろう。

 中村勘三郎の、大石内蔵助は、ある意味適役であり、見事な演じ方でもあった。昼行灯、と陰口を叩かれる、何処といって捉えどころのない、それでいて財政面にはきっちりしており、赤穂藩・浅野家のことは、人知れず考えていたのであろう。

 赤穂藩は、塩の売買で財政を築いていたが、それには満潮・干潮に加えて、月の満ち欠けが重要なことも知っていた。あだ討ちを決行するのも、表門と裏門とに分かれて討ち入ったのは、潮の流れも変わる事がわかっていたのではないか。

 吉良上野介は、頭脳明晰ではあったが、潮の流れや満干潮には疎く、月には風流を思うのみではなかったのだろうか。然るに、日にちがずれていたら、あだ討ちは叶わず、浅野家の再興はない。一瞬の一致が、生命を分けたものだ。

 旧暦の暦に依れば、山眠り浅し春遠く、とあるのも、気象士の予報より確実に当る。自然を知ることは、牽いては己を諌め、相手の気持ちを汲み、自分の持っている力を、神に問うことである。それ故に、自然治癒能力は生かしてくれる。

 神とは、宇宙のこと。森羅万象の存在だ。信仰の自由でもあり、束縛されない自由でもある。だがそれには、責任がついてくる。昨年までは、わからないまでに夢中でやってきたが、少し休みつつ、エネルギーの補充をしよう。と想っている。

 春になったら、浅草に行きたい。リエさんの、父上さまのご実家があった場所。何より、隅田川の桜を愛でたい思いもある。滝廉太郎の曲に心が逸る。中断している原稿にも手直しをしたいし、父母が亡くなった今は、書き止めていたい。

 煌く木星。現時点では、午後8時頃が最適。(和名)昴・プレアデス星団、ヒアデス星団のある、おうし座の近くで光っていますよ。

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