枇杷の葉なし

枇杷の生育や、葉・花芽・種のことを日々の生活のなかで書いていく。

学問に王道なし

2013年12月13日 | Weblog

 その通りである。自分が目的を持って、学んでいけることのワクワク感は、結果がどうであれ、遣り甲斐があるというもの。また、目的が違っても、諦めないことだ。信念を持っていれば、その想いは岩をも砕く。松の根がそれに当る。自然の不思議さに驚く。

 如かして、学ぶことを諦めたら、その価値観が無くなる訳でもない。一心に勉強したことは、必ず残る。覚えたことを生かせばいい。確かに合格点はあるだろう。だが、精魂を籠めて学んだことは、自分に還ってくるもの。真摯に受け止め、新たに挑戦したい。

 資金が乏しい者としては、後がないと思うから、意地も連れて踏ん張る。介護福祉士も、1度で受からなければならなかった。悠長に構えて行けるほど、時間もお金もなかった。何としても受かりたい。そのためには、如何なる努力も惜しまなかった気迫です。

 菅公・菅原道真公に、必死で祈願し、お札を戴き、お参りをした。お礼参りは、リエさんが行ってくれたが、そのお蔭を感謝して励みつつ、今日に至っている。介護の日々には暗雲たる想いがあったり、泣きたいくらいにしょげてしまう自分が居る。努力だけです。

 根気と持続は必須で、それでも体力も必要とする。頑張らない介護をし、ゆとりを持って勤めたい。きれいごとでは決してないが、自分で選んでしまった。この仕事に誇りを持ち、挫折しても這い上がることをしたい。しょげない・めげない・あきらめないの想い。

 介護職をしていて、感謝しています。と言われると、逆に恥ずかしくなる。当たり前の人間の姿ではないか。それなのにお金をもらっている。無駄口をたたく前に体を動かす。優先順位はあるけれど、待たせない。傍に居ると思わせないで寄り添う。至難の業。

 三国志も、諸葛孔明が10万の兵を率いて、魏と決戦を挑むところに差しかかってきた。この平原で病に倒れた諸葛亮は、再び起き上がることができず逝去し、蜀は衰退する。物語を読んで行くに従って、古人の何と大らかな気迫だろう。現代は狭苦しい。

 某新聞の投書欄に、しつけは親がきちんとしよう。と、あったが。それは場所が公共であれば尚、親が注意し叱るものだ。躾は、家庭できちんとやるもの。外に出たら、躾ではない。今日日の洋服は、仕付け糸がかからないから、その意味も知らないのだろう。

 何処の家庭でもではないが、子どもが公共の場で、或いは他人に迷惑をかけた場合の捨て台詞。小母さんが怒るから、運転手さんに、小父さんに怒られたでしょ。違うぞ!親の躾の責任転嫁を他人にするな。親は謝るどころか他人のせいにしている。

 墨田の花火。紫陽花の七変化に惹かれる。雨に打たれて咲くのも好ましい。恥ずかしげにうつむく。

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