年越しまでに2週間もない。月日の目まぐるしさに、付いていけない思いである。朝が迎えられ、一日を無事に過ごせる幸せに、祈り感謝でいる。お正月も、個人的には旧正月でするので、2月になる。来年には節分、立春を過ぎた辺りで、その季節が待たれる。日々の暮らしを大切にして。
この季節には、お飾りを作る準備に追われ、刈り取った藁のお供えも済ませている。お飾りを作るのは父の役目で、祖母の指導よろしく、難しい顔をしてやる。冬休みは24日か25日で、次の日に必ず山に行く。正月用品の調達には、村の何軒かが連れ立って行く。祖母の後をぞろぞろと。
近くの山だが、子ども足では有に1時間は掛かる。獣道を駆け上がって行くが、裏白だの松や榊、万両等を探し、適当な大きさのを、山の神さまに断って持ち帰る。従って三隣亡には絶対に入らない約束がある。千振を見つけるのは祖母だけで、新聞紙を懐から出し包んでいた。今はないが。
昼までには家に帰り、父が仕上げていたお飾りを座敷に持ち込み、橙や昆布も付けていく。家の周りや、苗代、田には、祖母が小さいのを作りおく。甕の回りにはしめ縄を付ける。竈や井戸にも置いていたものだが、田舎でも今日日はしない。伝統行事よりも、クリスマスに転じており寂しい。
勤務も、手抜きをすればいいのだが、それをするとざわつきが止まない。空気を読むというか、風の動きを見ながらの介護で、相手に寄り添う自分で居たいもの。職員同士の連携も大切で、謂わんとすることを察して動きたい。で、その結果、ヘロヘロのヨロヨロになる。気力も身体も衰え。
自分の至らなさを痛感するが、年齢には抵抗できない。無駄なことは止めて、他へ回そうと思うが、これが人間の性なのか、喘ぐばかりである。然し、死への時間は決まっていて、どう抗おうとも必ず訪れるもの。介護の仕事には付きもので、そういう際にじたばたするのも、生き方かもね。
最近は、一日が終えれば佳しで、これ以上の幸せはない。物事も、難しく考えないようにして、命終えるまでを過ごしたいもの。欲も得もなくなれば迎えも来よう。死んだ後の事は関知せずで、一切持ってはいけないのだ。その覚悟が揺れる。それこそ大切にしてきた物、全てを残すことに。
種を植えて、発芽したのを、3年で移植するが、枯れてしまうのもある。鉢植えは水遣りが。