枇杷の葉なし

枇杷の生育や、葉・花芽・種のことを日々の生活のなかで書いていく。

心の居場所

2010年08月14日 | Weblog
 高齢者は、できない事や、理解し難くなっていてわからない。と言うが、全くわからないのでも、感情が消えてしまったのでもない。そこで携わる人間は、高齢者も人間であり、自分の先輩である認識が要る。体の不自由な方に、移動してもらうのは難儀だが、できる限りは自分で動けるようにしてあげたい。危ないから車椅子ではなく、危ないけれども、声かけや心を和ませてあげてから、立ってもらったり、歩いてもらえれば、本人の意思があるから容易にできるのではないかしら。

 無理やりにされるのは、自分が一番厭であるのに、何故、思い通りにいう事を効かそうとするのだろう。高齢者の人権は愚か、虐待に値することに想いが至らないのだろうか。そんなことを平気でできる人の、心の在り方がわからない。そのくせ、不健康を極度に恐れ、不平不満を言い立てる。介護って自分一人ではできないでしょう。自分のやり方を認めてもらうためには、先ず相手のやり方を観察して、取り入れられるところを見つけなくちゃ。揚げ足ばかり取っていて、進歩の欠片もないように思えます。

 心が寒くなる。哀しいし、逃げたくなるよ。誰もが相手にするのが厭になる。どうだっていいわ。と無視しちゃう。そうすると余計に喚くんだけど、知らん顔を決め込むよ。職種が介護っていうのはね。言葉が大事なら、態度も大切なんだよ。何時、如何なる時にも、心が一緒でなくてはやっていけれません。そのための対価は、とても金銭でだけではありませんよ。年齢を重ねればわかるのでも、若いから理解できないのでもなく、その人の人間性。心が澄んでいるかどうかです。

 枇杷葉を見ていると、心が安定していくよ。ざわついていた心が、轍を消していく。小波が立つのは、水面に風が踊った時だけ。和かな陽射しが差し、温かで爽やかな風が渡る。小鳥が歌い、蝶が飛び交い、動物が群れている。其処に居る生き物には、上下も年齢もない。生きるために繰り返される、自然の営みだけですね。無闇には殺さない。掟の中で暮らすには、それなりの理由があるのです。

 飢えた獅子の谷に、我が身を投げ出したお釈迦さま。ユダの密告を知りながら、十字架にかかったイエス・キリスト。何故、そうされたのか。自己犠牲の心には、私は足が竦む。とてものことに近づけない。介護の仕事をしていると日々落ち込む。答えが見つからなくて、宇宙を仰ぐ。人間は弱い生き物。だからこそ強がってみせるんだろうな。私には、手が足があり、目も見えるし、声も聴こえる。言葉もしゃべれる。これほどありがたいことはない。

 茂木の赤枇杷に、朝顔が蔓を伸ばして登ってきた。枝に巻き付いて花を咲かせている。ひと夏を楽しませてくれるのです。枇杷葉は、挫けそうだったり、悩んでいたりすると、黙って傍に居てくれる。その眼差しは、祖母のようです。そういうことってあるんだね。私にとっての心の居場所は、枇杷葉の傍なんだろうな。と思えるようになりました。

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