最近、親しくしていた人が癌で亡くなった。癌で夫が亡くなるというのは、どういうことなのか
考えてみようと思って、津村節子「紅梅」を読んだ。
この本は、夫吉村昭の最後を、妻の津村節子が小説風に仕立てたものだが、ほとんどが実録なのであろう。物語は、吉村昭が77歳の2005年の元旦、年賀状の束を解くところから始まっている。2月に入って舌の痛みをおぼえるようになり、精密検査をすると舌癌が判明。その後放射線治療を行う。舌を動かしては行けないので夫婦の会話は筆談で行われた。話の合間に、若いときに夫婦で、東北で行商を重ねた苦労話が出てくる。
放射線治療を行いつつも、舌の痛みに耐えながら2005年が過ぎ、2006年の年が明けた。夫の元旦の日記には、一行だけ「これが最後の日記になるかもしれない」と書いてあった。舌癌の切除手術を行おうとして、PET検査をしたら、今度は膵臓癌が判明。医者は「初期だ」との診断だったが手術をしてみると、癌は膵臓全体に広がっていて、全摘手術となった。
膵臓を全摘すると、インシュリンをコントロールが必要になる。喉が渇いて飴を舐めるだけて血糖値が異常に上がるという状況だ。看病する妻は毎日空腹時に血糖値を測り、インシュリンを調整していかねばならない。夫は「いい死に方はないかな」とつぶやくようになる。
5月1日、夫は79歳の誕生日を迎えた。吉祥寺でデコレーションケーキを買って、妻と息子、娘の4人でケーキを切った。これが最後の誕生祝いとなる。抗癌剤を飲むと吐き気がして、食べた物吐く、体重が減少していく、尿が出ない。些細なことで腹を立て妻に当たるようになるが、それを、娘に叱られると「そうか悪かった」と素直に謝った。息子と娘にいつもやさしくおだやかなのだ。
抗癌剤治療に代えて次は免疫治療法を始める。免疫を身体から取り出し、培養してから身体に戻して免疫力を高めるという治療法だ。抗癌剤を止めると食欲も出てきて、カツオのたたきや好物のカキフライ食べ、日本酒も少し飲むことができるようになる。
7月になると、夫が書いた4通の遺言を見せてもらう。葬儀は家族葬とし、誰にも知らさないこと。死後は一刻も早く遺体を火葬場に運び荼毘に付すこと、無宗教なので法事は一切なし、医療関係者には、「いかなる延命措置もなさらにでください」と書いた。
その後、腹部が異常にふくれ、便も尿も出にくくなってくる。病院から退院して自宅療養となる。夫は、妻の着るものにうるさく、常に身ぎれいにしていないと気に入らなかった。化粧をして夫の気に入りの花柄のワンピースを着て、妻は、夫のベッドの傍らで原稿のゲラなおしをする。「コーヒー」「ビール」というので、吸い呑みに入れて飲ませると「うまいなあ」という夫の満足そうな顔が嬉しかった。
その日も夕食後、ベッドの傍らに布団を敷き始めると、夫がいきなり点滴の管のつなぎ目をはずした。「何をするの」と叫ぶと、娘も、看護師も駆けつけてきたが長く病んでいる人とは思えぬ力で、激しく抵抗した。必死になっている看護師に妻は「もういいです」と涙声でいった。娘も泣きながら「お母さんもういいよね」と言った。息子も駆けつけ3人にみとられて、夫の呼吸が止まった。眼鏡を外した夫は、妻が大学の文芸部に入ったときの夫そのままの顔になった。
あれほど、苦しんだ病気から解放された夫は、穏やかな顔で眠っていた。
親しくしていた人の死は、この話とは、かなり違うのはもちろんだが、この物語に近い情景があったような気がする。
死を迎える前に、夫婦はもう一度今までの人生を振り返るのであろう。夫婦の出会い、若いころの苦労、楽しかったこと、つらかったことなど。苦しくつらい治療、妻や家族の必死の看病。最後に津村節子が、自己を責めるくだりがある。妻なのかもしくは小説家の同士なのか、余人には分からない。遅かれ早かれやってくる人生の締めくくり、これをどう迎えるべきなのか、考えさせられた。