小林麻美、ミウラアヤ、安藤文絵、真砂雅喜の、札幌で活動中の4氏が、近く取り壊される予定の建物を舞台に繰り広げる展覧会、というか、プロジェクト。
以下、ちょっとめんどくさい議論になるけれど、がまんして読んでください。
わたしたちは、絵画や美術作品を見る場所としてまず美術館やギャラリーを思い浮かべるのが当たり前になっている。
しかし、それは決して昔から所与だったわけではない。
歴史的に見ると、洋の東西を問わず、美術と建築は切り離せない関係にあった。
欧洲であれば教会の祭壇画や王宮にならんだ先祖代々の肖像画、日本であれば寺のふすまとか民家の床の間に据え付けられた掛け軸や陶器など。
それらは、その「場」を離れては、あらかた意味が失われてしまうものである。
ところが、「美術」が制度になるにつれて、固有の性質を持たない「場」である「ホワイトキューブ」が、特権的な展示場として幅をきかせるようになってしまった。
その結果、わたしたちの生活から美術がすっかり離れてしまったけれど、それでいいのか? という問いかけが、近年なされるようになっている。
彫刻の世界でいわれる「サイトスペシフィック」という概念もそうだし、この「612621」、あるいは、澁谷俊彦さんが来月、南区澄川の茶室で展示するインスタレーションなども、その問いにつながるものだといってよいだろう。
「612621」の会場は、現在は「WanderArchi建築設計事務所」として使われているが、かつては、文具店だったり、喫茶店の時期もあったという。
事務所を使っている菊池さんが近く建て替えを予定しているとのこと。
通りに面しては、大きなガラス窓があり、中で展示を見ていると、道行く人と目が合ってしまう。
最近多い「古い民家のリノベーション」とはちょっと異なる感じだ。
真砂さんのことばに倣うと、アイデンティティがはっきりしない建物ともいえそうだ。
さて、そういう視点から4人の作品を見てみよう(順不同)。
入ってすぐの部屋の、右手の壁を使っているのが小林麻美さん。
制作しているのは具象絵画だが、いわゆるタブローの枠を離れて絵画の可能性を探っている-といえそうだ。temporary space の個展でも、キャンバスを支持体に取り付けないまま天井からつり下げて、曲面にして展示していた。
図柄としては、風景を金網越しに遠くから眺めたようなものが多い。
つぎの作品は「通りすぎるひとつ前」。
壁に直接描いている。
壁は菊池さんが白く塗ったとのことだから、これも一種のホワイトキューブ?
視野をさえぎるように、白い縦の帯が等間隔に続いている。
広がっている風景は、実際のものでもあり、作者の夢のようでもある。
わたしたちが「見る」というのはそもそもどういうことなのかを問う作品ともいえるように、筆者は思った。
こちらは、1階から2階へつづく階段の壁に描かれた「ひととき」。
ベニヤ、白ペンキ、油彩、アクリルなど、画材は多彩だ。表面に生じているひび割れは、わざとこしらえたものだという。
あたかも、長い年月、この建物で息づいてきたかのような錯覚をおぼえてしまう。
つづいて安藤文絵さん。
安藤さんも、小林さんとおなじく「絵画の場合」グループのメンバー。
タブローから離れている度合いはたぶん小林さん以上で、最近は、ニューヨークで「ベッドプロジェクト」に取り組んだり、他人に心を込めてひいてもらった線を素材に作品を展開するなど、そもそも作者とは何か、近代の美術の制度に根本からクエスチョンマークをつけるような活動が目を引く。
まず、1階に入って左側のスペースで展開された「Painting project -washing one's feet」。
一般の人の参加で激しく塗りたくられた壁や床が目に入る。
その中央に置かれているのが金属製のたらい。
これは、ご本人にたしかめたわけではないが、新約聖書のヨハネ福音書の一節をふまえているのではないだろうか。
イエスがペテロの足を洗う有名な場面で、ティントレットなども絵の題材にしている。イエスの愛の深さを示した場面だ。
(話がそれるが、アンドレイ・タルコフスキー監督の映画「惑星ソラリス」で、母親が主人公の手足を水差しの水で洗ってやる場面は、このくだりを踏まえているのではないだろうか)
しかし、そのエピソードを明確に知らなかったとしても、いすの前にたらいがひとつあることで、何か愛情のようなものが伝わってくるからふしぎである。
近づくと、天井から1本、赤い細い糸が垂れ下がっている。
これは何の意味があるのだろう。
ベッドプロジェクトは2階の和室で、ふとんで展開されていた。
ただし、和室のふとんというのは、洋室のベッドが「家具」という意味合いが強いのに比べると、なんだか私生活をのぞき見てしまったような居心地の悪さをおぼえてしまう。
もっとも、そういう湿っぽさを吹き飛ばしてしまう絵の具のあとが部屋全体に散らばっているのも確かなのだが。
(この項続く)
2009年6月12日(金)~21日(日)13:00~19:00
旧Wander Aichi 建築設計事務所(菊池邸設計事務所 東区北11東6)
□公式blog http://612621.blogspot.com/
・地下鉄東豊線「東区役所前」から3分
□http://www.kobayashiasami.com/
□http://ammm.jp/(真砂さん、ミウラさんのサイト)
□http://fumieando.blogspot.com/
■安藤文絵展 Painting project in NY -ニューヨークでの1ヶ月間の軌跡-(2009年4月)
■「分子のかたち」展―サイエンス×アート(2008年)=安藤さん出品
■絵画の場合(2007年)=安藤さん、小林さん出品
■絵画の場合(2005年)=安藤さん、小林さん出品
■SAG INTRODUCTION(2008年12月)
■小林麻美個展「風景が私をみている気がする。」 (2008年5月)
■絵画の場合(07年1月)
■アートあけぼの冬のプログラム(06年)
■札幌の美術2004
■お宝展(わたしのお宝交換プロジェクト)=03年、画像なし
■小林麻美個展(02年、画像なし)
■ふくらめる湿度(01年)
以下、ちょっとめんどくさい議論になるけれど、がまんして読んでください。
わたしたちは、絵画や美術作品を見る場所としてまず美術館やギャラリーを思い浮かべるのが当たり前になっている。
しかし、それは決して昔から所与だったわけではない。
歴史的に見ると、洋の東西を問わず、美術と建築は切り離せない関係にあった。
欧洲であれば教会の祭壇画や王宮にならんだ先祖代々の肖像画、日本であれば寺のふすまとか民家の床の間に据え付けられた掛け軸や陶器など。
それらは、その「場」を離れては、あらかた意味が失われてしまうものである。
ところが、「美術」が制度になるにつれて、固有の性質を持たない「場」である「ホワイトキューブ」が、特権的な展示場として幅をきかせるようになってしまった。
その結果、わたしたちの生活から美術がすっかり離れてしまったけれど、それでいいのか? という問いかけが、近年なされるようになっている。
彫刻の世界でいわれる「サイトスペシフィック」という概念もそうだし、この「612621」、あるいは、澁谷俊彦さんが来月、南区澄川の茶室で展示するインスタレーションなども、その問いにつながるものだといってよいだろう。
「612621」の会場は、現在は「WanderArchi建築設計事務所」として使われているが、かつては、文具店だったり、喫茶店の時期もあったという。
事務所を使っている菊池さんが近く建て替えを予定しているとのこと。
通りに面しては、大きなガラス窓があり、中で展示を見ていると、道行く人と目が合ってしまう。
最近多い「古い民家のリノベーション」とはちょっと異なる感じだ。
真砂さんのことばに倣うと、アイデンティティがはっきりしない建物ともいえそうだ。
さて、そういう視点から4人の作品を見てみよう(順不同)。
入ってすぐの部屋の、右手の壁を使っているのが小林麻美さん。
制作しているのは具象絵画だが、いわゆるタブローの枠を離れて絵画の可能性を探っている-といえそうだ。temporary space の個展でも、キャンバスを支持体に取り付けないまま天井からつり下げて、曲面にして展示していた。
図柄としては、風景を金網越しに遠くから眺めたようなものが多い。
つぎの作品は「通りすぎるひとつ前」。
壁に直接描いている。
壁は菊池さんが白く塗ったとのことだから、これも一種のホワイトキューブ?
視野をさえぎるように、白い縦の帯が等間隔に続いている。
広がっている風景は、実際のものでもあり、作者の夢のようでもある。
わたしたちが「見る」というのはそもそもどういうことなのかを問う作品ともいえるように、筆者は思った。
こちらは、1階から2階へつづく階段の壁に描かれた「ひととき」。
ベニヤ、白ペンキ、油彩、アクリルなど、画材は多彩だ。表面に生じているひび割れは、わざとこしらえたものだという。
あたかも、長い年月、この建物で息づいてきたかのような錯覚をおぼえてしまう。
つづいて安藤文絵さん。
安藤さんも、小林さんとおなじく「絵画の場合」グループのメンバー。
タブローから離れている度合いはたぶん小林さん以上で、最近は、ニューヨークで「ベッドプロジェクト」に取り組んだり、他人に心を込めてひいてもらった線を素材に作品を展開するなど、そもそも作者とは何か、近代の美術の制度に根本からクエスチョンマークをつけるような活動が目を引く。
まず、1階に入って左側のスペースで展開された「Painting project -washing one's feet」。
一般の人の参加で激しく塗りたくられた壁や床が目に入る。
その中央に置かれているのが金属製のたらい。
これは、ご本人にたしかめたわけではないが、新約聖書のヨハネ福音書の一節をふまえているのではないだろうか。
イエスがペテロの足を洗う有名な場面で、ティントレットなども絵の題材にしている。イエスの愛の深さを示した場面だ。
(話がそれるが、アンドレイ・タルコフスキー監督の映画「惑星ソラリス」で、母親が主人公の手足を水差しの水で洗ってやる場面は、このくだりを踏まえているのではないだろうか)
しかし、そのエピソードを明確に知らなかったとしても、いすの前にたらいがひとつあることで、何か愛情のようなものが伝わってくるからふしぎである。
近づくと、天井から1本、赤い細い糸が垂れ下がっている。
これは何の意味があるのだろう。
ベッドプロジェクトは2階の和室で、ふとんで展開されていた。
ただし、和室のふとんというのは、洋室のベッドが「家具」という意味合いが強いのに比べると、なんだか私生活をのぞき見てしまったような居心地の悪さをおぼえてしまう。
もっとも、そういう湿っぽさを吹き飛ばしてしまう絵の具のあとが部屋全体に散らばっているのも確かなのだが。
(この項続く)
2009年6月12日(金)~21日(日)13:00~19:00
旧Wander Aichi 建築設計事務所(菊池邸設計事務所 東区北11東6)
□公式blog http://612621.blogspot.com/
・地下鉄東豊線「東区役所前」から3分
□http://www.kobayashiasami.com/
□http://ammm.jp/(真砂さん、ミウラさんのサイト)
□http://fumieando.blogspot.com/
■安藤文絵展 Painting project in NY -ニューヨークでの1ヶ月間の軌跡-(2009年4月)
■「分子のかたち」展―サイエンス×アート(2008年)=安藤さん出品
■絵画の場合(2007年)=安藤さん、小林さん出品
■絵画の場合(2005年)=安藤さん、小林さん出品
■SAG INTRODUCTION(2008年12月)
■小林麻美個展「風景が私をみている気がする。」 (2008年5月)
■絵画の場合(07年1月)
■アートあけぼの冬のプログラム(06年)
■札幌の美術2004
■お宝展(わたしのお宝交換プロジェクト)=03年、画像なし
■小林麻美個展(02年、画像なし)
■ふくらめる湿度(01年)