(承前)
「Tunnel of Light(清津峡渓谷トンネル)」の続きです。
トンネルの手前右手に、カフェや土産物を扱うお店があります。
(左手は渓谷)
作者からすれば、トンネルに入る前に立ち寄ってほしいのでしょうが、筆者はトンネルを出てから入ってみました。
2階に足湯があるのです。
ちょうど、狭い階段を女性グループが降りてきたところで、代わってのぼっていくと、大学生らしき男性4人グループが足を浸して、あおむけになっていました。
この4人は、時折小声で会話する程度で、じっと疲れを癒やしているのか、実に静かでした。
まるい天窓が、トンネルの形状を思わせます。
15分以上も両足をひたしていたでしょうか。
片道750メートル歩いた疲れを癒やすという意味では、トンネルを出てから入ったほうが良いように思えます。
もっとも、土日祝日は予約制で、このトンネル目当ての車で渋滞が発生しているそうですから、あずましい気分を味わえた筆者はラッキーだったといえそうです。
階下でソフトクリームを食べました。
お店の女性たちが、駐車場が込みあってきているのに第2駐車場に車を入れたがらない人がいて困る、などと話し合っています。
そろそろ混雑しはじめているのでしょう。
次の目的地は「磯辺行久記念 越後妻有清津倉庫美術館[SoKo]」(N072)。
いま来た道を国道353号に戻って左折すると、すぐです。
施設は、この芸術祭あるあるですが、廃校になった小学校を改修したもの。
ちょうどツアーバスが止まっていましたが、筆者が施設内に入っていくと、そろそろ時間ですよ~というタイミングでした。
筆者は不勉強で知らなかったのですが、磯辺行久(1935~)は、大地の芸術祭を仕切っている北川フラムにとっては非常に重要なアーティストのようです。
芸術祭の第1回から、地元住民の協力を得て、河川の流路の移り変わりなど地球環境に着目した大型の仮設作品を作ってきています。
この「SOKO」は、彼の作品を収蔵し、常設展示する場なのです。
この大作は、地球上の海流などの流れを可視化したものです。
「地球環境に着目したアート」という語にそれほど新味を感じないのは、いまが環境問題が叫ばれる2024年だからであって、磯辺行久はむしろ先駆者だということがわかります。
1970年に米国で第1回の「アースデイ」が開かれますが、ニューヨーク滞在中の彼はその運営委員会にいて、ポスターなども手掛けているのです。
この年は大阪で万国博覧会が開かれた年です。
多くの国が参加し、何千万人もの入場者を集めた大阪万博は、輝かしい文明の未来を提示した一大イベントでした。
もっとも1960年代末は世界的に学生運動や反体制運動が盛り上がるとともに、公害が大きな社会問題となった時代でもあります。大都市の川は洗剤の泡だらけになり、光化学スモッグで人々が倒れるなど、公害は身近で差し迫った問題だったのです。
日本でもさまざまなアーティストが反万博運動に携わっていました。
多少図式的に整理すれば、アースデイは、万博に象徴されるような市場経済(資本主義)の対極に位置するような取り組みだったということができるでしょう。
美術館2階のアーカイブを見ると、磯辺も50年代には当時最先端だったタイプの抽象絵画を制作していたことがわかります。
60年代からのニューヨーク滞在で、エコロジーに興味を抱き「エコロジカル・プランニング研究の第一人者であるイアン・マクハーグのもと(ペンシルバニア)大学院で学」(大地の芸術祭サイトより)んで、そちらに活動をシフトさせていくのでした。
2階には、過去の「越後妻有アートトリエンナーレ大地の芸術祭」で発表した作品の資料も展示されています。
筆者は前回2006年に来た際、こへび隊(ボランティア)の人からツアーバスの車内で「瀬替え」の話を聞いたことを思い出しました。
江戸期の越後妻有の人たちも、蛇行する川をショートカットして水田の面積を増やす土木工事を行っていたのです。
と同時に、旧流路を古い地図などで調べているアーティストのようすを見て、なんだか自分と似たようなことをしてるんだなあ~と、おこがましいことを思いついて苦笑したのでした。
体育館には、新作の巨大インスタレーション「驟雨がくる前に 「秋山記行」の自然科学的な視点からの推考の試み」が展開されていました。
「驟雨」の語が意味するところがいまひとつわからないのですが、破局的な気候変動が来るまえに、ということでしょうか。
「秋山記行」というのは、江戸期の越後・魚沼郡の商人にして文人の鈴木牧之(1770~1842)が著した一種のルポルタージュです。あす(9月14日)、筆者も行く予定である秋山郷を彼が訪れた際の記録だそうです。
入り口に書いてある
ほうそうあるもの
これよりうちい
かならずいるべからず
というのは、鈴木牧之の代表作『北越雪譜』にも記されている文言で、秋山郷の人々は天然痘(疱瘡)を非常に恐れ、値域の入り口に結界を張り、感染者が入ってこないようにしていたということをさします。
古文書のような垂れ幕は「秋山記行」を拡大コピーしたものでしょう。
とにかくものすごい山奥なので、いろいろと特殊な風習が残っており、秋山郷を舞台にこの芸術祭に参加して発表をしている深澤孝史さんも、それらを作品に取り込んでいます。
受付の女性に
「(大地の芸術祭は)初めてですか」
と尋ねられたので
「18年ぶりです」
と答えると、さすがに驚いていました。
そこで、2006年以降昨年までに設置されて評判を呼んでいた、近隣のおすすめ作品を教えてもらいました。
カーナビゲーションが教えてくれない抜け道も知らせてくれました。
これはとても役に立ちました。
なお、最後の画像は、この近くの国道沿いに点在する、N012「中里かかしの庭」(クリス・マシューズ)です。
この手前の「瀬戸口」バス停の、電話ボックスから左折すると、次項以降の作品への近道になっているのでした。
「Tunnel of Light(清津峡渓谷トンネル)」の続きです。
トンネルの手前右手に、カフェや土産物を扱うお店があります。
(左手は渓谷)
作者からすれば、トンネルに入る前に立ち寄ってほしいのでしょうが、筆者はトンネルを出てから入ってみました。
2階に足湯があるのです。
ちょうど、狭い階段を女性グループが降りてきたところで、代わってのぼっていくと、大学生らしき男性4人グループが足を浸して、あおむけになっていました。
この4人は、時折小声で会話する程度で、じっと疲れを癒やしているのか、実に静かでした。
まるい天窓が、トンネルの形状を思わせます。
15分以上も両足をひたしていたでしょうか。
片道750メートル歩いた疲れを癒やすという意味では、トンネルを出てから入ったほうが良いように思えます。
もっとも、土日祝日は予約制で、このトンネル目当ての車で渋滞が発生しているそうですから、あずましい気分を味わえた筆者はラッキーだったといえそうです。
階下でソフトクリームを食べました。
お店の女性たちが、駐車場が込みあってきているのに第2駐車場に車を入れたがらない人がいて困る、などと話し合っています。
そろそろ混雑しはじめているのでしょう。
次の目的地は「磯辺行久記念 越後妻有清津倉庫美術館[SoKo]」(N072)。
いま来た道を国道353号に戻って左折すると、すぐです。
施設は、この芸術祭あるあるですが、廃校になった小学校を改修したもの。
ちょうどツアーバスが止まっていましたが、筆者が施設内に入っていくと、そろそろ時間ですよ~というタイミングでした。
筆者は不勉強で知らなかったのですが、磯辺行久(1935~)は、大地の芸術祭を仕切っている北川フラムにとっては非常に重要なアーティストのようです。
芸術祭の第1回から、地元住民の協力を得て、河川の流路の移り変わりなど地球環境に着目した大型の仮設作品を作ってきています。
この「SOKO」は、彼の作品を収蔵し、常設展示する場なのです。
この大作は、地球上の海流などの流れを可視化したものです。
「地球環境に着目したアート」という語にそれほど新味を感じないのは、いまが環境問題が叫ばれる2024年だからであって、磯辺行久はむしろ先駆者だということがわかります。
1970年に米国で第1回の「アースデイ」が開かれますが、ニューヨーク滞在中の彼はその運営委員会にいて、ポスターなども手掛けているのです。
この年は大阪で万国博覧会が開かれた年です。
多くの国が参加し、何千万人もの入場者を集めた大阪万博は、輝かしい文明の未来を提示した一大イベントでした。
もっとも1960年代末は世界的に学生運動や反体制運動が盛り上がるとともに、公害が大きな社会問題となった時代でもあります。大都市の川は洗剤の泡だらけになり、光化学スモッグで人々が倒れるなど、公害は身近で差し迫った問題だったのです。
日本でもさまざまなアーティストが反万博運動に携わっていました。
多少図式的に整理すれば、アースデイは、万博に象徴されるような市場経済(資本主義)の対極に位置するような取り組みだったということができるでしょう。
美術館2階のアーカイブを見ると、磯辺も50年代には当時最先端だったタイプの抽象絵画を制作していたことがわかります。
60年代からのニューヨーク滞在で、エコロジーに興味を抱き「エコロジカル・プランニング研究の第一人者であるイアン・マクハーグのもと(ペンシルバニア)大学院で学」(大地の芸術祭サイトより)んで、そちらに活動をシフトさせていくのでした。
2階には、過去の「越後妻有アートトリエンナーレ大地の芸術祭」で発表した作品の資料も展示されています。
筆者は前回2006年に来た際、こへび隊(ボランティア)の人からツアーバスの車内で「瀬替え」の話を聞いたことを思い出しました。
江戸期の越後妻有の人たちも、蛇行する川をショートカットして水田の面積を増やす土木工事を行っていたのです。
と同時に、旧流路を古い地図などで調べているアーティストのようすを見て、なんだか自分と似たようなことをしてるんだなあ~と、おこがましいことを思いついて苦笑したのでした。
体育館には、新作の巨大インスタレーション「驟雨がくる前に 「秋山記行」の自然科学的な視点からの推考の試み」が展開されていました。
「驟雨」の語が意味するところがいまひとつわからないのですが、破局的な気候変動が来るまえに、ということでしょうか。
「秋山記行」というのは、江戸期の越後・魚沼郡の商人にして文人の鈴木牧之(1770~1842)が著した一種のルポルタージュです。あす(9月14日)、筆者も行く予定である秋山郷を彼が訪れた際の記録だそうです。
入り口に書いてある
ほうそうあるもの
これよりうちい
かならずいるべからず
というのは、鈴木牧之の代表作『北越雪譜』にも記されている文言で、秋山郷の人々は天然痘(疱瘡)を非常に恐れ、値域の入り口に結界を張り、感染者が入ってこないようにしていたということをさします。
古文書のような垂れ幕は「秋山記行」を拡大コピーしたものでしょう。
とにかくものすごい山奥なので、いろいろと特殊な風習が残っており、秋山郷を舞台にこの芸術祭に参加して発表をしている深澤孝史さんも、それらを作品に取り込んでいます。
受付の女性に
「(大地の芸術祭は)初めてですか」
と尋ねられたので
「18年ぶりです」
と答えると、さすがに驚いていました。
そこで、2006年以降昨年までに設置されて評判を呼んでいた、近隣のおすすめ作品を教えてもらいました。
カーナビゲーションが教えてくれない抜け道も知らせてくれました。
これはとても役に立ちました。
なお、最後の画像は、この近くの国道沿いに点在する、N012「中里かかしの庭」(クリス・マシューズ)です。
この手前の「瀬戸口」バス停の、電話ボックスから左折すると、次項以降の作品への近道になっているのでした。
(この項続く)