(承前)
札幌農学校の教壇に立っていた有島武郎が引っ越し魔であったことについては、札幌芸術の森に残されている彼の旧邸の展示パネルなどで知っている人も少なくないだろう。
札幌芸術の森にある家は、北区にあったもので、今回とりあげる豊平川の岸辺の家は、厚別区の北海道開拓の村に復元されている。
こちらは、札幌芸術の森の家よりも小さい。「邸」というほどの家ではないと思う。
冒頭は、後志管内岩内町の画家木田金次郎との出会いを描いた、有島の代表作の一節。
木田金次郎が有島の家を訪れたのは、1910年(明治43年)のことらしい。当時、このへんは「町はずれ」で、果樹園が広がっていたというから、隔世の感がある。
ちなみに、「生まれ出づる悩み」が発表されるのは1918年(大正7年)、すすきのから遊郭が移転してくるのは1920年(大正9年)だから、有島が住んでいたころの牧歌的な風景はその後、数年しかつづかなかったことになる。
現在は…。
ごらんのとおり。
豊平川の右岸は、豊平橋以南は、川沿いの道路が堤防の上を走っている。
豊平橋と1条大橋の間は、道路が堤防からおり、堤防と道路の間には帯のように細い公園が続いている。
上の看板は、その公園の一角にたっている。道路を挟んで、旧有島邸の向かい側である。
住んでいらっしゃる方には失礼だが、あまり文化の薫りただよう地区とはいえない。
ただ、その後すぐに労働者や比較的貧しい人が住みはじめ、遊郭が建つという一角に有島が住んでいたことには、彼の晩年を思うと、なにか符牒(ふちょう)めいたものを感じてしまう。
彼の行き詰まりは、小説が書けなくなってしまったことが最も大きい要因だろうけど、評論「宣言一つ」にも述べられていたように、労働者階級の擡頭(たいとう)に自らは対応できない-と悩んでいたこともある。もちろん彼は、労働運動などにおびえていたのではなく、貧しい人に対しても誠実に接していたのだが(なにせ息苦しいぐらいにマジメな人ですから)。
豊平橋を渡るとすぐに、札幌農学校の教師や学生が手弁当で貧しい人たちを相手に開いていた「遠友夜学校」があった。
川を渡りながら社会の矛盾に心を痛めていたであろう、将来の文豪の胸中を思ってみた。
堤防の上から。
左側の白い車の上に、冒頭画像の銀色の標柱が見える。
木田金次郎は、黒百合会を見に札幌へ行き、たまたま有島武郎の表札を見て、その翌日家を訪れたという。
紹介状もなしで、大胆だなあ。
最後に、筆者が好きな「生まれ出づる悩み」の末尾を引用しておく。
(この項おわり)
私が君にはじめて会ったのは、私がまだ札幌に住んでいるころだった。私の借りた家は札幌の町はずれを流れる豊平川という川の右岸にあった。その家は堤の下の一町歩ほどもある大きな林檎園の中に建ててあった。
そこにある日の午後君は尋ねてきたのだった。
(有島武郎「生まれ出づる悩み」)
札幌農学校の教壇に立っていた有島武郎が引っ越し魔であったことについては、札幌芸術の森に残されている彼の旧邸の展示パネルなどで知っている人も少なくないだろう。
札幌芸術の森にある家は、北区にあったもので、今回とりあげる豊平川の岸辺の家は、厚別区の北海道開拓の村に復元されている。
こちらは、札幌芸術の森の家よりも小さい。「邸」というほどの家ではないと思う。
冒頭は、後志管内岩内町の画家木田金次郎との出会いを描いた、有島の代表作の一節。
木田金次郎が有島の家を訪れたのは、1910年(明治43年)のことらしい。当時、このへんは「町はずれ」で、果樹園が広がっていたというから、隔世の感がある。
ちなみに、「生まれ出づる悩み」が発表されるのは1918年(大正7年)、すすきのから遊郭が移転してくるのは1920年(大正9年)だから、有島が住んでいたころの牧歌的な風景はその後、数年しかつづかなかったことになる。
現在は…。
ごらんのとおり。
豊平川の右岸は、豊平橋以南は、川沿いの道路が堤防の上を走っている。
豊平橋と1条大橋の間は、道路が堤防からおり、堤防と道路の間には帯のように細い公園が続いている。
上の看板は、その公園の一角にたっている。道路を挟んで、旧有島邸の向かい側である。
住んでいらっしゃる方には失礼だが、あまり文化の薫りただよう地区とはいえない。
ただ、その後すぐに労働者や比較的貧しい人が住みはじめ、遊郭が建つという一角に有島が住んでいたことには、彼の晩年を思うと、なにか符牒(ふちょう)めいたものを感じてしまう。
彼の行き詰まりは、小説が書けなくなってしまったことが最も大きい要因だろうけど、評論「宣言一つ」にも述べられていたように、労働者階級の擡頭(たいとう)に自らは対応できない-と悩んでいたこともある。もちろん彼は、労働運動などにおびえていたのではなく、貧しい人に対しても誠実に接していたのだが(なにせ息苦しいぐらいにマジメな人ですから)。
豊平橋を渡るとすぐに、札幌農学校の教師や学生が手弁当で貧しい人たちを相手に開いていた「遠友夜学校」があった。
川を渡りながら社会の矛盾に心を痛めていたであろう、将来の文豪の胸中を思ってみた。
堤防の上から。
左側の白い車の上に、冒頭画像の銀色の標柱が見える。
木田金次郎は、黒百合会を見に札幌へ行き、たまたま有島武郎の表札を見て、その翌日家を訪れたという。
紹介状もなしで、大胆だなあ。
最後に、筆者が好きな「生まれ出づる悩み」の末尾を引用しておく。
君よ! 今は東京の冬も過ぎて、梅が咲き椿が咲くようになった。太陽の生み出す慈愛の光を、地面は胸を張り拡げて吸い込んでいる。春が来るのだ。君よ、春が来るのだ。冬の後には春が来るのだ。君の上にも確かに、正しく、力強く、永久の春がほほえみよかし……僕はただそう心から祈る。
(この項おわり)
菊水は味わいありますね。普段全くと言っていいほど行かないエリアなので、興味深く読ませていただきました。
札幌にも所々残る古い町並み(歴史的というほどでもない)というのも、消えて行きつつあるんでしょうね。
市域の半分以上はこの20-30年前ほどから開けたところですし。
菊水はそのなかでも裏通りにまだ古い家や建物が残っているほうだと思います。
これが小樽とか旭川とか函館とか室蘭だと
「古い街並みが消えるのは惜しい」
と思うのでしょうが、もう札幌に関してはあきらめの境地です。
「生まれ出づる悩み」は高校時代から
何度も読んだ本です。
「カインの末裔」「或る女」などもすばらしいです。
「惜しみなく愛は奪う」「宣言一つ」などを読むと、ちょっと堅苦しすぎじゃないかとも思うのですが。