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希望と近代

2009年05月18日 23時34分36秒 | つれづれ日録
 経済学者の池田信夫氏による「池田信夫blog」は、読者の非常に多いブログで、筆者もだいたい毎日目を通している。
 率直な物言いに、ときどきカチンとくることもあるが、考えさせられることも多い。

 最近でいちばん話題になったエントリは
希望を捨てる勇気
だろう。
 いま見たらコメントが170もついている。
 でも個人的には、その続編的に書かれた
「メシアニズムなきメシア的なもの」
のほうが、重量級だった。

http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/d03842c8b25388f0d9ab59112996acbd

マルクスは「自由の国」の設計図を描くことを慎重に避けた。それは本源的な市民社会の否定の否定というメシア的なものとして構想されていたからだ。しかしその社会的な生産管理というメシアニズム(千年王国主義)が、社会主義国で「生産手段の国有化」として実行に移されたとき、破滅的な結果をまねいた。メシア的なものは、それがメシアニズムとして実現した瞬間に権力装置となり、みずからを裏切るのだ。


 すこしかみくだいて書きますね。

 「いまの社会はひどい! だからガラガラポンして、すべてをひっくり返して、ユートピアをつくろう!」
という革命待望論が、千年王国主義(メシアニズム)である。
 これはけっこう昔からあったけれど、近代で大きな力を持ったのがマルクス主義だ。
 マルクス主義については、たぶん40歳ぐらいを境として、それより若い人はあまりなじみがないだろうから、ごくごく手短に書いておく。
 筆者なりに要約すれば、工業の進展にともなって社会は、生産手段を持つ者(=ブルジョワジー)と持たざる者(=プロレタリアート)に二分される。ブルジョワジーは生産過程で搾取をするのでますます富み、プロレタリアートは貧しくなる。その矛盾が限界に達すると、主に首都のプロレタリアートがゼネラルストライキなどで団結して立ち上がり(=革命)、労働者が主人公となる政府ができる(=プロレタリアート独裁)。これが歴史の必然である…。

 歴史がその通りにならなかったことは、いうまでもない。

 上で池田氏が書いているのは、マルクスは、生産手段をブルジョワが独占しているのが問題なのだから、その「社会化」を説いたのに、現実の社会主義国家はそれを「国有化」と解釈し、官僚機構の肥大化に代表される悲惨な結果を招いた-ということだ。
 最近の流行は民営化だから、「主要産業の国有化」なんて言うと笑われそうだけど、これは1980年代までは、社会主義陣営ではあたりまえのこととされていた。フランスでミッテラン社会党が政権をとると、まずルノーなど大企業を国営化したものだ。

 人は素朴に思うであろう。
 この世にはムダが多い!
 カネやものは、あるところにはあるのに、貧しい人のところには行き渡っていない!
 毎年ものすごい数の新製品が開発され、大半はすぐに市場から消えていく。
 頭のいい人が計画的にやれば、いまの自由主義経済よりも、分配はもっとうまく合理的にいき、資源の節約にもなるのではないか…。

 しかし、ほんとは、計画経済のほうが、市場経済よりも、非効率的なのである。
 これは実際にやってみてもそうだったし理論的にも証明されているそうだ(池田氏「ハイエク」=PHP新書=を参照。これは名著)。
 もちろん、市場が万能ではないことは当然だが。

 ところで、上でも書いてあるように、マルクスは、労働者が政権をとったユートピアがどんなところなのか、他の多くのユートピア思想家(トマス・カンパネッラ、サン=シモン、ウィリアム・モリスなど)と違って、具体像をほとんど書いていない。
 このことは、昔から、多くの理想主義者やマルクス主義者たちを当惑させてきた。
 人によっては
「固定化した理想郷を実現したら終わり、なのではなく、つねに未来へ改革を続けていくのが真の革命だ」
などと息巻いていた。たしかにこれは、カッコよく聞こえるけれど、よく考えると、問題の解決になっていない。
 だいたい、めざすイメージがはっきりしないのに、革命なんかできるのか!?

 マルクス自身が、ユートピア像をまったく書こうとしなかったわけではない。その数少ない例が「ヴェ・イ・ザスリーチの手紙への回答」(岩波文庫「農業問題」所収)であるが、どうも書こうとして筆が止まってしまった感じである。

 
 しかし、マルクス主義の失墜は、「ここではないどこか」をめざす理想主義者にとっては大きなダメージになっただろう。
 どうやら人は
「いまはこんなだけど、あしたはきっと良くなる」
という状態でこそがんばれるらしい。
 革命もできない、成金にもなれそうもない-という情勢で、人はどうやって夢を見ることができるのだろうか。

 まあ、一発逆転みたいなことは考えず、ボチボチやっていくしかないという、あたりまえの結論しかないんだろう。
 つまらないけれど、世の中はそうそうおもしろいことばかりではないのである。


 池田信夫blog関係では近くもう1本エントリを書く予定。




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2 コメント

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Unknown (taka)
2009-05-19 02:07:22
難しいことはわかりませんが、実はぼちぼちはおもしろいと思います。
貧しい中でも庶民のぼちぼちがあちこちでくりひろげられるようになるとわくわくします。そこからおもしろい文化ができたらいいですねえ。ぼくもぼちぼちやります。
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Unknown (ねむいヤナイ@北海道美術ネット)
2009-05-19 23:19:46
takaさん、ありがとうございます。

「一発逆転」を待ち望むロマン主義ではなく
「ぼちぼちでいいんだ」ということになれば、いいんですよねー。

ただ、わたしたちの心の中に
「大きな夢がないのはさびしい」
という気持ちもあるのは事実で、ここらへんのさじかげんはむつかしいと思います。

まあ、じぶんの夢の正しさを、人に押し付けないことだけは、守っていきたいと思うのです。
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