写真で紹介した「森の雫」のつづきです。
写真を見れば一目瞭然(りょうぜん)ですが、澁谷さんのインスタレーションは、黒い棒と、白い半球を、床面に不規則にならべたものです。黒い棒は、昨年のグループ展「絵画の場合」などにも登場していましたが、白い半球のほうは今回が初登場。いずれも、上の断面に、版画と、絵の具の飛沫(ひまつ)による、澁谷さん得意の抽象画面があります。
芸術を見るのに、カテゴリーをあれこれ追求するのは、それほど意味のあることではないでしょうけど、澁谷さんのインスタレーションは、彫刻よりも絵画に近いことがこれでわかると思います。
作者は、ギャラリーを訪れた或る女性に
「じぶんの森をつくりたかったんです」
と話していました。
空間全体にそびえたつ黒い棒は、たしかに木々を聯想(れんそう)させます。
また、半球形は水を思わせると同時に、宇宙全体を内包するような広がりを感じさせます。
いわば、この世界に、作者の汎神論的な世界観・自然観がコンパクトに表現されているかのようです。
まあ、ふつうに鑑賞するぶんには、そんな感じでかまわないと思います。
ただ、作者は作者なりに、昨年の「絵画の場合」展などを通じて得た考察などを作品に反映させており、ロマン主義的な解釈に作品を収斂(しゅうれん)させておしまい-というのでは、上級鑑賞者の姿勢としてはちょっと物足りないです(なんて、えらそうだけど)。
いうまでもなく、絵画は、平面です。
印象派以前の絵画は、透視図法や遠近法を取り入れることで、平面であることを隠ぺいしてきました。
20世紀の絵画は、「そんなのうそだ」と宣言して、むしろ平面性を強調する方向で進んできました。グリーンバーグの絵画論はその頂点ともいえます。
しかし、絵画の本質が平面であることを強調する方向の延長線上に、絵画の可能性は開けるのでしょうか。
これからの絵画のあり方として、旧来のだまし絵的なものではない奥行き感が求められているというのは、ひとつの考えだと思います(具象の方向に平面性を押し進めるスーパーフラットというのもあるでしょうけど)。
たとえば堀浩哉や、澁谷さんとともに「絵画の場合」メンバーである林亨さんの絵画は、墨などを使うことで、視線を、支持体の手前や奥に揺らがせる性質を持っているのではないでしょうか。
絵を見るとき、人は立つ位置を前後させることで、作品と目の距離を調節し、画面の見え方をいろいろに変えることができます。
全体を一目で見たいときと、微細な部分を注視したいときでは、おのずと距離も変わるはずです。
ところが澁谷さんの今回の絵画の場合、画面と目の距離は、鑑賞者が調節するのではなく、棒の高さや半球の大きさによって、所与というか、与件になっています。作品の中でさまざまにある奥行き感は、平面上の効果によって出されるのではなく、物理的に(豪腕で?)達成されているのです。
(むろん、見る人が立ったりすわったりすることによる、距離の調節は可能ですが)
話はいささかむつかしくなりましたが、澁谷さんの作品は、絵画で距離感、奥行き感を出すにはどうしたらいいか-という難問に対する、ひとつの答えのありかたになっていると思います。
08年3月4日(火)-9日(日)10:00-19:00(最終日-17:00)
ギャラリーエッセ(北区北9西3、地図A)
3月18日(火)-29日(土)11:00-18:00(土曜・祝日-17:00)、乙画廊(大阪市北区西天満2-8-1 大江ビルヂング101)
□Works File(作者のサイト) http://www2.odn.ne.jp/t-shibuya/
■渋谷俊彦個展(07年11月)
■絵画の場合展(07年1月)
■渋谷俊彦展-瞑想の森-(06年9-10月)
■絵画の場合2005
■絵画の場合2004
■渋谷俊彦展-大地の記憶(04年)
■渋谷俊彦展-森の鼓動(03年)
■渋谷俊彦展(02年)
■二人展「交差する座標軸」(02年、画像なし)
写真を見れば一目瞭然(りょうぜん)ですが、澁谷さんのインスタレーションは、黒い棒と、白い半球を、床面に不規則にならべたものです。黒い棒は、昨年のグループ展「絵画の場合」などにも登場していましたが、白い半球のほうは今回が初登場。いずれも、上の断面に、版画と、絵の具の飛沫(ひまつ)による、澁谷さん得意の抽象画面があります。
芸術を見るのに、カテゴリーをあれこれ追求するのは、それほど意味のあることではないでしょうけど、澁谷さんのインスタレーションは、彫刻よりも絵画に近いことがこれでわかると思います。
作者は、ギャラリーを訪れた或る女性に
「じぶんの森をつくりたかったんです」
と話していました。
空間全体にそびえたつ黒い棒は、たしかに木々を聯想(れんそう)させます。
また、半球形は水を思わせると同時に、宇宙全体を内包するような広がりを感じさせます。
いわば、この世界に、作者の汎神論的な世界観・自然観がコンパクトに表現されているかのようです。
まあ、ふつうに鑑賞するぶんには、そんな感じでかまわないと思います。
ただ、作者は作者なりに、昨年の「絵画の場合」展などを通じて得た考察などを作品に反映させており、ロマン主義的な解釈に作品を収斂(しゅうれん)させておしまい-というのでは、上級鑑賞者の姿勢としてはちょっと物足りないです(なんて、えらそうだけど)。
いうまでもなく、絵画は、平面です。
印象派以前の絵画は、透視図法や遠近法を取り入れることで、平面であることを隠ぺいしてきました。
20世紀の絵画は、「そんなのうそだ」と宣言して、むしろ平面性を強調する方向で進んできました。グリーンバーグの絵画論はその頂点ともいえます。
しかし、絵画の本質が平面であることを強調する方向の延長線上に、絵画の可能性は開けるのでしょうか。
これからの絵画のあり方として、旧来のだまし絵的なものではない奥行き感が求められているというのは、ひとつの考えだと思います(具象の方向に平面性を押し進めるスーパーフラットというのもあるでしょうけど)。
たとえば堀浩哉や、澁谷さんとともに「絵画の場合」メンバーである林亨さんの絵画は、墨などを使うことで、視線を、支持体の手前や奥に揺らがせる性質を持っているのではないでしょうか。
絵を見るとき、人は立つ位置を前後させることで、作品と目の距離を調節し、画面の見え方をいろいろに変えることができます。
全体を一目で見たいときと、微細な部分を注視したいときでは、おのずと距離も変わるはずです。
ところが澁谷さんの今回の絵画の場合、画面と目の距離は、鑑賞者が調節するのではなく、棒の高さや半球の大きさによって、所与というか、与件になっています。作品の中でさまざまにある奥行き感は、平面上の効果によって出されるのではなく、物理的に(豪腕で?)達成されているのです。
(むろん、見る人が立ったりすわったりすることによる、距離の調節は可能ですが)
話はいささかむつかしくなりましたが、澁谷さんの作品は、絵画で距離感、奥行き感を出すにはどうしたらいいか-という難問に対する、ひとつの答えのありかたになっていると思います。
08年3月4日(火)-9日(日)10:00-19:00(最終日-17:00)
ギャラリーエッセ(北区北9西3、地図A)
3月18日(火)-29日(土)11:00-18:00(土曜・祝日-17:00)、乙画廊(大阪市北区西天満2-8-1 大江ビルヂング101)
□Works File(作者のサイト) http://www2.odn.ne.jp/t-shibuya/
■渋谷俊彦個展(07年11月)
■絵画の場合展(07年1月)
■渋谷俊彦展-瞑想の森-(06年9-10月)
■絵画の場合2005
■絵画の場合2004
■渋谷俊彦展-大地の記憶(04年)
■渋谷俊彦展-森の鼓動(03年)
■渋谷俊彦展(02年)
■二人展「交差する座標軸」(02年、画像なし)
ただ、作者は作者なりに、昨年の「絵画の場合」展などを通じて得た考察などを作品に反映させており、ロマン主義的な解釈に作品を収斂(しゅうれん)させておしまい-というのでは、上級鑑賞者の姿勢としてはちょっと物足りないです(なんて、えらそうだけど)。
そうなんです。一般のお客さんには上級者!向け的説明を怠っていましたね。
普通の鑑賞者にも分かりやすく、絵画の境界線をめぐる実験的試みである旨伝えなくてはいけませんね。
それは至難の業だと思いますので、まあむりはしなくとも…。
それより、ヤナイが書くべき観点というか話題が、もうすこしあったような気がしますが。
↑
ではでは、そこんところをもっと掘り下げていただいて、バァーっと書いて頂きたいです。
よろしくおねがいいたします。
困ったなあ。