北海道新聞の「おくやみ」欄によると、札幌の画家、八木保次(やすじ)さんが3月23日に亡くなったそうです。89歳。
おしどり画家として知られた妻の八木伸子さんが亡くなってから、わずか1カ月あまりしかたっていません。
先に病に倒れたのは保次さんのほうであったと聞いております。
八木保次さんは第5回全道展で早くも会員に推挙された大ベテランです。
「白の風景」が道立近代美術館に収蔵されています。
伸子さんとの2人展が、札幌芸術の森美術館で開催されています。
筆者が道内の美術を見始めたころからは、主に水彩で、ポロックばりの熱い抽象画を制作していました。
ポロックが床に支持体を置いてその上から絵の具を垂らしていたのに対し、八木さんは、立てかけた紙に絵の具をぶちまけるようにして制作していたようです。そのためか、作品は大半が縦位置で、絵の具がいくつもの筋になって下方に流れ落ちていました。
伸子さんが春陽会や女流美術でも活躍されていたのに対し、保次さんは、団体公募展は全道展だけでした。
一方で、道内の水彩画の団体公募展「道彩展」では、実質的なリーダー格だったようです。
また、絵画教室で多くの後進を育てました。大城その子さん、中田やよひさんなど、空気感を大切にする画家が育っています。
八木保次さんは、この年代の日本人としては例外的なほど背が高く、すらっとして、ブルージーンズを着こなしていました。
筆者はひそかに「永遠の画学生」と呼んでいました。
ギャラリーまわりでは、伸子さんほどはお会いすることはなかったです。
ある時、筆者が批評めいた文章を書き続けていることを知って、アドバイスしてくれたことがあります。
「個人的に仲のいい人をとりあげればいいんだよ」
意外とも感じられるその言葉の真意を、ずっと探りあぐねています。あまり難しく考えなさんな、という、気配りがこめられた言葉だったのかもしれません。
ご冥福をお祈りします。
■八木伸子さん死去
■さっぽろ・フランスを愛した画友展(2007年)
■八木保次・伸子展 (2006年、画像なし)→□その際のギャラリーどらーるの紹介ページ
■傘寿記念 八木保次展 (2002年)
■八木保次 真夜中の抽象展(2001年、画像なし)
おしどり画家として知られた妻の八木伸子さんが亡くなってから、わずか1カ月あまりしかたっていません。
先に病に倒れたのは保次さんのほうであったと聞いております。
八木保次さんは第5回全道展で早くも会員に推挙された大ベテランです。
「白の風景」が道立近代美術館に収蔵されています。
伸子さんとの2人展が、札幌芸術の森美術館で開催されています。
筆者が道内の美術を見始めたころからは、主に水彩で、ポロックばりの熱い抽象画を制作していました。
ポロックが床に支持体を置いてその上から絵の具を垂らしていたのに対し、八木さんは、立てかけた紙に絵の具をぶちまけるようにして制作していたようです。そのためか、作品は大半が縦位置で、絵の具がいくつもの筋になって下方に流れ落ちていました。
伸子さんが春陽会や女流美術でも活躍されていたのに対し、保次さんは、団体公募展は全道展だけでした。
一方で、道内の水彩画の団体公募展「道彩展」では、実質的なリーダー格だったようです。
また、絵画教室で多くの後進を育てました。大城その子さん、中田やよひさんなど、空気感を大切にする画家が育っています。
八木保次さんは、この年代の日本人としては例外的なほど背が高く、すらっとして、ブルージーンズを着こなしていました。
筆者はひそかに「永遠の画学生」と呼んでいました。
ギャラリーまわりでは、伸子さんほどはお会いすることはなかったです。
ある時、筆者が批評めいた文章を書き続けていることを知って、アドバイスしてくれたことがあります。
「個人的に仲のいい人をとりあげればいいんだよ」
意外とも感じられるその言葉の真意を、ずっと探りあぐねています。あまり難しく考えなさんな、という、気配りがこめられた言葉だったのかもしれません。
ご冥福をお祈りします。
■八木伸子さん死去
■さっぽろ・フランスを愛した画友展(2007年)
■八木保次・伸子展 (2006年、画像なし)→□その際のギャラリーどらーるの紹介ページ
■傘寿記念 八木保次展 (2002年)
■八木保次 真夜中の抽象展(2001年、画像なし)